「ねえ、お客さん」
 「ん?」
 「俺、家に母親がいるんですよ」

 どうしてだろうか。言葉は、意識の外からやってくるように、自然に口から出た。冷静に考えると、年の瀬に妖怪を自称して他人の家に乗り込もうとするこのおっさんは怪しいはずなのに、俺はこのおっさんなら自分の悩みを聞いてくれる気がしたのだ。

 「おお、そうか。それやったらはよう家に帰ったらなあかんな。今日くらいはちゃっちゃと・・・・・・」
 「家に帰るの、嫌なんですよ」
 「・・・・・・なんでや。年の瀬に息子が母親のところに帰る。世の道理やろうがい」
 「認知症で、しかも寝たきりで。もう五年になります」
 「それやったら、余計にはよう帰らなあかんやろ」
 「・・・・・・」

 さっきから胸ポケットの中で震える携帯電話は、おそらく同居している姉からの電話だ。出ないわけにもいかなかったが、仕事中だからと自分に言い訳し、画面すら見ていない。
 帰るのが怖い。毎日タクシーを運転し客を乗せ、家に帰ると息子の名前すら思い出せない寝たきりの母と、介護と仕事に疲れた姉がいる。毎日この繰り返しだ。この現実を見るのが嫌でたまらない。
 逃げているのだ。それは分かっている。姉よりも多くの介護費を出していることを言い訳に、姉に介護を押し付けて、小さくなってゆく母親から目をそらし続けているのだ。父が病気で他界し、七十を過ぎて認知症が進んだ母を、俺は重荷に感じているのだ。

 「それやったら、絶対に帰らないかんなあ。にいちゃんの事情はあんまり分かったれへんけどな、でも帰らないかんいうのは分かるわ」

 俺は黙った。何を言うべきか、分からない。

 「わしも妖怪や。寿命は人間の比やあらへん。せやからいろんな親子見てきたわ。もちろん、認知症の親持った子供もな。顔が分からん、名前が思い出せん。子供からしたらショックやろ。せやけど、いくら呆けても、一番大事なことは忘れられへん。頭やのうて、心のどっかで覚えとるもんなんや。お腹痛めて生んだ母親やったらなおさらやで。生んだことないから、そこらへんよう分からんけどな。でもたぶん、そうや」

 そういえば母親は、俺が帰宅すると必ず体を起こしている。俺の名前もどうせ分からないのに、いちいち起きてきて面倒だと思っていたが、ひょっとして出迎えてくれていたのだろうか。唐突に昔の話をすることがある。脈絡がなく、うるさいと思っていたらが、ひょっとして子供たちが小さい頃を必死で思い出そうとしているのではないだろうか。姉は、気付いているのだろうか。
 俺も、おそらく姉も、認知症の母親を重荷に感じている。子供たちの名前を忘れてしまった母親を、どこか他人行儀で眺めている。母親を、邪魔だと感じている。