今日は図書館に本を返しに行く日だ。だから、私はいつものように借りた3冊の本をカウンターで返した。そして、見慣れた棚を眺めながら、また小説を3冊選び、それをカウンターに持っていった。

 いつものように外に出ようとしたら、こないだ、10日前と同じように湊くんと入口でばったり会った。

「佳奈じゃん」
「ど、どうも――」と言って、私はその場を立ち去ろうとした。だけど、湊くんは簡単に私の左腕をつかんできた。その瞬間、また胸が締め付けられる感覚がじんわりと、胸に広がり始めた。よく、ハートを矢で射抜くアニメーションがあるけど、きっと、こういう感覚を表現してるんだって、妙に自分の中で説得力が生まれてきた。

「なあ、こないだのお礼させてよ」
「い、いいよ」
 もちろん、私は断ったつもりだった。
 だけど、湊くんは私がそう言った瞬間、にっこりと微笑んで、じゃあ、行こうかと言われて、私は10日前みたいにそのまま、手を繋がれて、湊くんに引っ張られるようにどこかに連れて行かれることになってしまった。


「ということで、マジで助かったわ。ありがとう」
 そう言って、湊くんは美味しそうに期間限定のフラペチーノを一口飲んだ。だから、私も湊くんの真似をして、フラペチーノを一口飲んだ。口に含むと、口のなかいっぱいにチョコレートとマロンの風味が広がった。
 決して安くはないフラペチーノを湊くんは簡単に私に奢ってくれた。

 それも、限定のフラペチーノでいいと聞かれて、うんと頷いたら、しっかり2つ頼んでくれた。さらに先に席座ってて、いいよって言われたけど、どこに座ればいいのかわからず、困っていたら、湊くんが私の手を引いて、二階の一番端っこの席まで連れて行ってくれた。
 そして、そこで待ってて、と言い残して、1階のカウンターからフラペチーノを2つ運んできてくれた。私は友達にもこんなに行き届いたことはされたことがなかったし、もちろん、家族にもそんなことされたことはなかった。そう、湊くんは私にとって、初めて見る人種に見えた。
 なんでこんなに気を使えて、こんな、どんくさい私に優しくしてくれるんだろう――。

「――お礼にしては、重すぎるよ」
「え、引いた?」と言われて、私は慌てて横に首を小刻みに振ると、よかったと言って、湊くんは優しく笑ってくれた。

「だよね。よかった。遅くなってごめんな」
「遅くなんかないよ。――まさか、誘われるなんて思ってなかったし」
「そう? 俺は義理固いからね」
「そうなんだ」
「あぁ。あの日から篠山にストーキングされることもなくなったし、マジで佳奈に助けられたよ。ありがとう」
「――お礼、二回目だよ」
 あ、お礼しなくちゃ。私は緊張して、いちばん大事なことを忘れるところだった。

「この間……」
「この間?」
「その……シャーペン」
「あー、あれね。どじっ子だよな。意外に佳奈は」
「――あ、ありがとう」
「いいんだよ。あれくらい。それにこれ、デートだし」
「……で、デートなの?」
「うん、そうでしょ。俺と佳奈の初デート。読書が好きで、陰キャでコミュ障の俺たちにとって、ぴったりの場所でしょ。スタバ」
「――男の子とスタバなんて」
「初めて?」と言われたから、うんと小さく頷いた。

「俺は女の子と来るの初めてじゃないけど、もし、タイムスリップして、初めて俺とスタバ行く女の子選べるなら、佳奈がよかったなー」
 そんな軽いこと言えるんだ。って思ったけど、そんなこと、湊くんに言われて、私は間に受けてしまいそうになる。――私たちって、本当に偽装なんだよね? って聞きたくなっちゃうけど、偽装でもいいから、少しでも長く湊くんと一緒にいて、話がしたいなって思った。それになぜかわからないけど、湊くんとなら、なぜかいつもより、自然に話せている気がした。

「顔、赤くなってるじゃん。かわいい」と穏やかに笑いながら、湊くんはプラスチックのカップを手に取り、もう一口フラペチーノを飲んだ。私はさらに恥ずかしくなり、思わず、右手で口元を覆った。

「なあ」
「――な、なに?」
「あれだけじゃないから」
「……えっ?」
 湊くんが、いったい何のことを言っているのかさっぱりわからなかった。
「ちゃんと、守ってあげたい。佳奈のこと」
「――ど、どういう。……ふ、ふうに」
 あ、間違った。どういう”こと”と聞きたかったのに、”ふうに”にしたら、余計、話がわからなくなりそうだ。
「佳奈って、意外と察しが悪いんだね。本たくさん読んでるのに。そのままの意味だよ。少し考えてごらん」と湊くんはそう言って、また、意味があり気な雰囲気で微笑んだ。


 なかなか眠れない――。今日が週末でよかった。
『考えてごらん』っていたずらに言われたけど、これって、本気にしていいってこと――?

 私はますます湊くんのことがよくわからなくなった。ただ、私に声をかけただけなのか、それとも、本気で湊くんは私のことを考えてくれてるのだろうか。

 ――いや、たぶん、ないと思う。
 ないに決まってる。

 だけど、『ちゃんと、守ってあげたい』ってどういうことなんだろう。
 私は弄(もてあそ)ばれているだけかもしれない。
 だけど、もし、それが本当の気持ちだったら、私はいったい、この気持ちをどうすればいいんだろう――。
 


「ありがとう。助かったよ」
「ううん。いいよ。――だけど、どうしてあんなことしたの?」
 私はまた、聞いてはいけない会話を聞いてしまっているみたいだ。私はその場に立ち止まり、誰の声なのか耳をすました。またこの間と同じ、廊下の曲がり角だ。日直だったから、日誌を書ききったあと、職員室に行き、担任の机の上に日誌を置いてきた。そして、あとは帰るだけだと思っていたのに、今日も、こんな横を通りづらいシチュエーションに遭遇してしまった。

「俺は――」
 あ、と声を出しそうになったけど、ここで出したら、いけないと本能的にわかったから、私はじっとすることにした。
「そんなにストーカーされてるの、きつかった?」
「――逃れたかった」

「へえ。私と別れなければよかったのにね」
「――そうかもな」
「ふふ、冗談だよ」
「萌夏のはマジっぽくて反応に困るよ」
「だけど、よかったじゃん。結果」
「あぁ。ありがとう」
「だけど、あの行動はいらなかったんじゃない?」
「あの行動?」
「うん。柊と手、繋いでた。付き合ってるんでしょ」
「――いや、あれはただ、利用しただけだよ」
 利用――。
 待って、じゃあ、スタバで言ってくれたことは――。

「ふっ、最低だね」
「――そうだな。だけど」
 もう聞いていられないと思い、私はそっと、その場から逃げ出した。反対方向へ歩みを進めるたびにこないだまで感じた痛いとは違う痛みが胸を占めていく。気がついたら、両目から、涙が溢れていた。一歩踏み出すたび、一滴ずつ、涙が頬を伝う感触がした。


 また、あれから1週間、前に本を借りてから10日が経ったから、私はいつも通り、図書館で本を返し、本を借りた。そして、いつものように図書館を出ようとしたら、やっぱり湊くんがいた。湊くんは小さく手を振ってきたけど、私はそれを無視して、下を向いた。

「佳奈じゃん」
「――私のことストーカーしないでよ」
「してないよ。ただ、佳奈が几帳面なだけだよ。だって、こないだも、その前も時間ぴったりなんだもん」
 私は顔を上げて、湊くんのことを見た。湊くんはいつものように優しく微笑みかけてくれた。だけど、この微笑みはきっと、嘘だろうし、私を利用するための微笑みなんだ。
 最初に会ったとき、私と同じで陰キャで、コミュ障だったって言ってたけど、結局、それもきっと私を利用するための嘘だったんだろうって思うと、どんどん悲しくなってきた。だから、私はもう嫌になって、再び歩き始めた。
 だけど、湊くんはこないだと、全く同じように私の左腕をつかんできた。

「――は、離してよ」
「離さないよ」
 私は何度か力強く左腕を振り払おうとしたけど、湊くんは私のことを離してくれなかった。
「佳奈、どうしたんだよ。今日」
「――い、いそいでる……から」
 私は動揺して、上手く話せない。いつもより言葉に詰まるし、いつもより気持ちが乱されている。そう言ったあと、左腕を大きく上げて、そのあと、力強く振り下ろした。それとあわせて、湊くんは私の腕をすっと離した。だから、私はそのまま、走り始めた。

「――佳奈!」と後ろから大きな声が聞こえたけど、私はそれを無視して、走り続けた。
 
 ――もう、いいよ。
 湊くんのその優しさがつらいんだよ。私はそのまま駅まで走り続けて、駅前のロータリーで思いっきり息が切れた。


 11月になり、急に冬が本気を出した結果、私はすでにブレザーの上にマフラーをまとって登校している。家から駅まで黙々と歩き続けている。外の空気は先月、湊くんに初めて図書館の前で話しかけられたときから比べると、嘘みたいに冷たくなっていた。息を吸うと、冷たい空気と、冬が始まりそうな新鮮な香りがした。
 あれから、10日が経った。
 あれから、湊くんとは話していない。

 私はいつもどおり帰りに図書館に寄る日だから、背負うリュックは借りた本の分だけ重かった。いつものように地元の駅に着き、モバイルSuicaの定期が入っているiPhoneをタッチした。

 階段を降り、ホームに着くとちょうど反対方向の電車が発車していった。反対方向の電車はすでに人がたくさん乗っていた。だから、ホームはいつものようにガランとしていた。私が乗る方向の電車を待つ人はまばらだった。
 ホームの端の方まで歩き、いつもの乗車口に立った。ブレザーのポケットからレモン味のハイチューを取り出し、そして、包み紙をあけて、口の中に入れた。急に口の中がさっきまで冬の空気で満たされていたのに、一気に夏みたいな爽やかさになった。

「へぇ。朝からハイチュー食べるんだ」
 聞き覚えがある女の声がして、びっくりして、声がした右側を向くと、津久井萌夏が立っていた。私は驚きすぎて、なにを話せばいいのかわからなくなった。元々、人と話すときは頭が真っ白になるけど、今の状況が上手く飲み込めず、余計に頭の中が真っ白になった。

「無視しないでよ」
「……お、おはよう」
「あ、そうだね。おはよう。湊の彼女」
「……べ、べつに。ち、違うんだけど」
「違わなくないでしょ。元カノとして、湊から彼女だって聞いたんだけどなぁ。おかしいね」
「おかしく……ないよ」
「動揺しすぎでしょ」
 津久井萌夏はそんな私に半ば呆れているようにそう言った。津久井萌夏の、その整った小さな顔でつんとした不機嫌な表情しているのも思わず見惚れるくらい絵になっていた。美人のボブ姿は無敵だなって余計なことばかり考えてしまう――。
 てか、やっぱり、1軍女子のなかでは穏やかそうな性格に見える津久井萌夏もこうして二人っきりで話すと、性格がきつく感じた。私に敵意を向けているのか、なにがしたいのか私にはさっぱりわからなかった。

「ねえ」
「……な、なんですか」
「なにその急な敬語。まあいいや。私だって頑張って柊の行動パターン分析して、せっかく二人きりになれたんだから、手短にいくよ」
 なんで、私なんかと二人っきりになる必要があるんだろう――。

「柊佳奈、湊のこと、どう思ってるの?」
 どう思ってるって言われても、私は湊くんに利用されたんだ。だから、恋以前の話だし、なんで津久井萌夏なんかに話さなくちゃならないんだろう――。だから、私は困って、小さく横に首を振った。

「なにそれ。湊は本気で柊のこと心配してるのに」
「……えっ」
 心配? 湊くんが私のことを?

「――ど、どなんして?」
 あ、ダメだ。”どうして”と”なんで”が混じっちゃった。
「どうしてもなにも、私だって知りたいよ」
 私がよくわからないことを言ったのに、津久井萌夏は私の変な話し方なんてどうでもいいみたいだった。じっと、隣で見つめてくる津久井萌夏の大きな瞳に吸い込まれそうになるくらいだった。
 だけど、もしかしたら、それだけ本気で何かを私に伝えたいのかも――。

「てか、普通にまだ別れたばかりでこっちは気持ち引きずってるのに、どうしても何もないでしょ。だけど、”友達”の湊が本気で悩んでるから、助けたくなってこうやって柊なんかに話しかけてるんだよ。私も」
 ”柊なんかに”って、ところに毒を感じて、少し私は怖くなった。

「――悩んでるって。……ストーカーのこと?」
「あー、そうなるんだ。心晴のことなんて、もう、解決してるよ」
「えっ、違うんだ」
「そう。とにかく、湊に会ってくれない? 今日、図書館行くんでしょ」
「な、なんで……知ってるの?」
 なんで、私の行動を津久井萌夏は普通に知っているんだろう。そこが怖くて、私は思わず、引いてしまった。
「私は湊と親友だから、なんでも知ってるんだよ。柊って普段、無口だから、常識人なのかと思ってたけど、ホントに鈍いんだね」と言って、急に津久井萌夏の口元がほころんだかと思ったら、そっと微笑んできた。
 これはからかわれているのか、それとも、単純に私がおかしい反応を返したのか――。私はなんで、津久井萌夏が笑ったのかよくわからなかった。

「湊、この10日間、ずっと恋の病に悩んでるの。だから、会ってあげて。柊は何か、勘違いしてるみたいだけど、湊はきっと、柊が変わってくれないと平行線のまま終わっちゃうと思う。――ったく、もし、結婚したら、婚姻届の証人、私が書かなくちゃならないじゃん」
 ――本当だったんだ。だけど、なんで。
「あーあ。私はできなかったけど、湊のこと、幸せにしてあげて。たぶん、私より湊と合いそうな気がする。柊」
 そう津久井萌夏が言っている途中で、ちょうど電車がホームに到着した。


 私はいつも通り、図書館で本を返し、本を借りた。そして、いつものように図書館を出ようとしたら、やっぱり湊くんがいた。だから、私は思わずその場に立ち止まった。

「――佳奈」
「み、湊くん――」と私が言い終わると、湊くんはふふっと笑い始めた。私はただ、名前を呼んだだけなのに――。
「初めて名前、呼んでくれたな」
 私は自分の中では湊くんのこと、名前で呼んでいたつもりだったから、驚いた。というより、心のなかではずっと、湊くんって呼んでたけど、湊くんの前では呼んだことがなかったんだ。

「顔、赤くなってる」
「――ど、どうも」
「困るとすぐにそう言うよな」
 私の左腕はいつものように湊くんに掴まれた。だけど、10日前よりは弱くて、優しい触り方だった。

「自販機で飲み物買って、少し外のベンチで話そうよ」
「――いいよ」と私がそう返すと、湊くんはしっかりとした微笑みを返して、そっとだけど、しっかり手を握ってくれた。



 10月に初めて話しかけられたときと同じように私と湊くんは公園のベンチに座った。ベンチは11月の冷気にしっかりと包まれていた所為ですごく冷たく感じた。だけど、適度に心臓はしっかりと一定のペースでドキドキしていたから、身体はどんどん温まっているように感じた。

「まず、話し始める前に、とりあえず、乾杯」
 そう言って、湊くんは缶コーヒーを開けたから、私も慌てて、カフェオレの缶を開けた。そして、私からそっと、缶を当てた。湊くんは少し驚いた表情をしていたけど、私はそれを気にせず、カフェオレを一口飲んだ。

「俺より、積極的じゃん」
「た、たまにはいいでしょ?」
「いいかも」と湊くんはそう言ったあと、微笑んでくれた。そして、缶に唇をつけ、コーヒーを飲み始めた。

「ねえ。湊くん」
「なに?」
「今日はストーカーはいないの?」
「――もう、いないよ」
「そうなんだ」
 湊くんは不意打ちされたかのような、少し戸惑っている表情をしていた。今まで、余裕そうな雰囲気を出していた湊くんのこんな表情を見るのは初めてだった。

「佳奈。俺――。最初は本当に軽い気持ちだったんだ。だけど、このベンチでなぜか自然に佳奈にいろんなこと話してることに気がついたんだ。なんでだろうって思ったけど、たぶん、これが相性なんだろうなって思ったんだよ。ここでしゃべりながらね」
 私は小さく頷いた。すると、湊くんは最初、このベンチで話したときみたいに、私の左手の上に右手を重ねたあと、私の手を繋いだ。

「だから、あのとき"偽装"って言ったのすごい後悔した」
「――そ、そうなんだ。……でも、私、聞いちゃったんだ。……湊くんと津久井萌夏が話してるところ」
「あー、それかー」と悪気がなさそうなトーンで湊くんは返してきたから、私は少しだけ腹が立ってきた。だけど、きっと違うんだろう――。津久井萌夏があんなに言うなら。

「……私のこと。――り、利用したんじゃないの?」
「ごめん。あのときは萌夏の前だったから、思わずそう言っちゃったんだ。別れたばかりの萌夏にそんなこと言うのはそのとき、ためらったんだよ。反射的に。――たぶん、そのときのやり取り聞いてたんだな」
 私はもう一度頷くと、あー、最低だな、俺と言って、湊くんはコーヒーをもう一口飲んだ。

「あのあと、すぐに萌夏に最初は利用するつもりだったって、言ったんだよ。マジでストーカーに悩んでたから。だけど、それは図書館で最初に話しかけたあの瞬間だけだったんだ。話してみたら、マジで気があったんだよ。マジで」
 そうなんだ。やっぱり、湊くんが10月、私に優しくしてくれていたのは本当に気持ちがあったからだったんだ――。

「ねえ」
「――なに?」
「彼女になってあげてもいいよ――。本物の」
「えっ」
「――私なりに考えた結果だよ」
「ありがとう。――やっぱり、察しがいいね」
 湊くんはそう言って、今までで一番柔らかくてきれいな微笑みを返してきたから、私も目一杯、そっと口角を上げた。