「くっ……!」
私はレッサーデーモンが放つヒートブレスを避けつつも、その熱風に目を背けて後退ってしまう。
いくら自身の周りの環境を精密に把握していても、やはり多勢に無勢。更に私の動きがまだまだ粗いというのも手伝って、先ほどから少しずつ隙を晒して攻撃を受け始めていた。
それでも真後ろから忍び寄るレッサーデーモンをユニコーンナックルの一突きで消滅させる。
今ので私が倒したレッサーデーモンの数は八。
もう少しで隼人くんと合わせて半数近く魔族を減らせたことになる。
だけど問題は私のマインドが大分消耗してしまっていること。
更に厄介なのは木の四級魔族の存在だ。
木の魔族は戦いが始まると自身の体である枝葉を網目状に伸ばし、投網のように私の動きを制限しようとしてくるのだ。
私の攻撃はそもそもが弱い。
魔族相手には致命傷となる攻撃を中々与えられないでいた。
そんなだから一体倒すのにもそれなりに打撃を何発もクリーンヒットさせなければならない。
そんな中木の魔族の攻撃を避けつつ、捕まらない進路を取りながら、目の前に立ち塞がるレッサーデーモンを叩く。そんな戦い方しかさせてもらえないでいたのだ。
それによって私は徐々に行き場を失いつつあった。
更にディバイン・テリトリーを張り巡らせ続けるのもきつくなってきて。正直このままでは詰みだ。
「そろそろ弱ってきたんじゃねーか?」
「!!」
今まで黙って戦いを見ていた狼の四級魔族が、スピードに乗って一気に私の目と鼻の先まで近づいてきた。
――速い。
顔には余裕の笑みを浮かべている。それがイライラを募らせる。
両肩を掴まれた。大きな顎で首筋に牙を立てるつもりだ。ヤバい。
「くっ! このおっ!!」
私は咄嗟に左手に付与した暴風で往なそうとするけれど、強靭なその肉体はびくともしなかった。
「くううっ……」
顎で噛みつかれる瞬間、私は何とか身を捻り、空へと逃れることには成功した。
けれど完全には避わしきれず、左手に傷を負ってしまう。
痛みが全身にまで駆け抜け、左手からは真っ赤な鮮血が吹き出す。
「へへへ……新鮮な人間の血は久しぶりだぜ」
そう言って狼の魔族は下卑た笑みを浮かべながら、牙に付着した私の血を舌舐めずりで飲み込む。
「――っ!?」
怖気が立って気持ち悪くなる。
けれどそんな私の反応すらコイツは戦いに利用するのだ。
一瞬の隙が出来た私に狼の魔族は中空に漂う私目掛けてジャンプしてきた。
「このっ! 変態狼!!」
咄嗟に牽制の風の刃を放つけれど、それを強靭な肉体の力だけで消滅させられて、更に追いすがってくる。
一瞬にして彼我の距離を詰められて、拳を振りかぶってきた。
「終わりだ! 女!」
両手でクロスガードしたというのに、とてつもない膂力だ。
息が止まって意識が飛ぶかと思った。
私はゴムボールのように彼方へと吹き飛ばされた。
「――ああっ……!」
数メートル先にレンガ造りの外壁が迫る。
私はたった一撃で大きなダメージを受けたのを自覚しながらも、ぎりぎりの所で踏ん張った。
既の所で何とか暴風を割り込ませ壁への激突を防ぐ。
壁に着地しながらも膝がかくんと折れて笑っている。口の中に鉄の味が広がっていく。
ガード越しでこの威力。まともに受けたらきっと一発でアウト。
私は壁に横向きに着地した状態のまま、狼の魔族を見据えた。
獲物を捉えんとする狡猾な笑みに私の心はうち震える。
こうやって人をいたぶったり、人を傷つけることに喜びを感じてきたのかと。
私と狼の魔族との間には、さらに三体のレッサーデーモンが立ち塞がり、一斉にヒートブレスを放ってきた。
三条の灼熱の奔流が私を飲み込まんと太い炎の柱へとその形状を変え迸る。
いよいよマインドも底をつきそうで、もう何度も技を繰り出せない。
おまけにこの熱量の攻撃。
こんなものを逸らそうとすればあっという間にすっからかんになる。
私は迫り来る魔族の凄まじい攻撃を目の前に、いよいよ覚悟を決めたのだ。
「はあああっ……! エンチャント・ストーム!」
私はこの瞬間ディバインテリトリーを解除。
ユニコーンナックルに暴風を宿す。
私のマインドのありったけを込めて。とは言っても、もはやほんの残りカスでしか無いのだけれど。
今の私に出来得る最強の攻撃で、一体でも多く数を減らすのだ。ただ、この攻撃を放てばこれ以上魔族を倒すことは厳しくなる。せいぜい弾除け程度の仕事しかできなくなるだろうか。
でも今の私の力では魔族に通用する攻撃を放てるのはここらが限界だ。あとは――。
私は隼人くんの方をちらりと見る。
こんな状況なのに奇しくも目が合った。そんな余裕なんてお互いに無いはずなのに。
「ごめん、隼人くん。――あとは頼んだ」
彼には到底届かない声音でそう告げた。
隼人くんの顔はもう見れなかった。
すぐに魔族へと視線を移し、私は両足に力を込めて跳躍。
そのまま風を噴射し、魔族へ向けて自身の体を一条の矢と化す。
「はあああっ!!」
放たれたヒートブレスを四方へと撒き散らし、回りのレッサーデーモン数匹を焼き払う。
熱風に髪を焼かれながら、三体のレッサーデーモンを貫いた。
ボボボンッと霧散するように消滅し、そのままの勢いで本命である狼の魔族の核へとユニコーンナックルを構えて自身を照射。
ものの見事に私の攻撃は狼の魔族の核を貫き、打ち砕き、その体を灰へと化すことに成功する――はずだった。
「残念だったなあ!」
私の渾身の一撃は狼の魔族の左腕の一部を吹き飛ばし、既の所で避わされてしまう。
レッサーデーモンを経由したのがまずかった。
狙いも加速も逸れ、奪われ、四級魔族の命を刈り取るには至らなかったのだ。
完全に欲張りすぎた。
魔族は腕を飛ばされながらも獲物を捉えることに喜びを感じているのか、痛がる様子もなく残った右手で後方へと突き進もうとする私の足首を掴んだ。
「――っ!?」
そのまま私の体はいくらかの浮遊感の後、もの凄い勢いで地面に叩きつけられた。
「がっ……はっ……!!」
背中にあり得ないくらいの衝撃が走り、息が詰まる。
そんな瞬間も束の間。すぐに狼の拳が私のお腹にめり込んできた。
「……っっ!!」
声も出ない、出せない。
内臓がぐちゃぐちゃになったんじゃないかってくらい痛くて、気が遠くなりそうになりながら、けれど下から湧き上がってくる嗚咽の不快感で意識を失うには至らなかった。
そのまま立て続けに数発殴られた、と思う。
その一撃だけで私の体力は底をついたようになって何も考えられなくなった。
「おっと、まだ寝るなよ?」
気がつけば前髪を掴まれて、ぺしぺしと頬を叩かれていた。
意識を失ったのかどうかさえ分からない。ただ気分は死ぬほど最悪だ。
「ほらよっ!」
「がっ……!」
またまた膝がお腹に入って、今度は地面に倒れ伏した。
もう感覚は麻痺して痛いのかどうかさえも分からない。
頭がぐらぐらして、身体は動いてはくれない。
ふと、死ぬんだと思った。
死というものがすぐそこに、身近に。現実のものとして迫っているんだって。
そんな状態の中、魔族はというと今も周りにいるはずなのに、動こうとしない。
ただ笑い声が遠くで聞こえてくる。
私のことを弄んでいるんだ。
遠退いていく意識の中でそんな思考が頭を過る。
本当に、魔族っていう種族は最低だ。
それでも頭の中は曖昧で、はっきりとした思考ももはやできないでいた。
考えることをやめたくなってしまっているのかもしれない。
いつもあんなに近くに感じていた風さえも今は凪いでいる。
隼人くんは大丈夫だろうか。
美奈は泣いてないかな。
工藤くん。――バカ工藤。
ごめん。
ごめんなさい、って何に謝っているの私。バカじゃないの。
私の近くに一つの陰を感じる。きっとあの魔族だ。
別に見なくとも、ニヤニヤとさも愉しそうに私を除き込む狼の魔族の顔が容易に想像できた。
もう耳も聞こえない。身体中が痛い。息をするのも苦しい。
私……負けちゃったんだ。こんなあっさりと。
その時すぐ側で気配を感じた。
狼の魔族が私に向かって爪を振り下ろして来たのだろう。止めを刺すために。
痛そう。嫌だ。嫌だよ。やめてよ。そんなことしないでよお。
ここにきて恐怖の感情が湧き上がってきた。
死ぬのが恐い。どうしようもなく恐い。
やけに時間がスローモーションに感じられて、でも体は1ミリも動かせなくて。体が勝手に小刻みに震えていた。
――ああ、もうダメだ。
――もうどうしようもない。
――私は――死ぬんだ。
そう思った時。私は薄れ行く意識の中で誰かの声を聞いた気がした。
ツーハンデッドソードを大上段から袈裟懸けに振り下ろす。その質量の剣の前にレッサーデーモンは大裂傷を作り、そのまま事切れて灰となる。
「はあっ! はあっ! はあっ……!」
これで倒した魔族は十二体に及んだ。だが、私の体にもそれと同じか或いはそれ以上の裂傷が生まれていた。
ドクドクと血が滴り、体の至る所がズキズキと脈打っているように私に苦痛を味合わせる。
息遣いも荒くなり、顔から血なのか汗なのか自分では判別のつかないものが噴き出しては伝う。
意識が朦朧としてきて本当は立っているのも辛かったのだが、私が倒れたら次は美奈やアリーシャが蹂躙されてしまうという使命感や強迫観念にも駆られたような感情だけが私を繋ぎ止めていた。
「この腐れ人間風情があっ! そろそろくたばりやがれいっ!」
私の死角から突然鉤爪の蹴りが襲ってきた。鷲の魔族だ。先程から厄介な事この上無い。度々私の隙をついては有効な攻撃を繰り出してくる。
後ろ斜め上からの蹴りに対応出来ず今回もまともに攻撃を食らう。数メートル吹き飛ばされ、たたらを踏んでしまう。それでも倒れはしない。両足が力を失う事を激しく拒否しているように持ちこたえる。最早ただの意地を張り通しているだけなのではないか。
その先には亀の魔族。太短い俵のような腕による横殴りの攻撃。今の私にそれを避ける術は無い。
「がっ……!!」
口の中が切れて血を吹いたようになるが、今更こんな傷は誤差の範囲だ。それでも本来なら首の骨でも折れてもよさそうなくらいの攻撃に歯を食い縛り堪えられているのだから、改めて覚醒の能力向上の凄さに感嘆する。
だがそれでも敵の攻撃を受け過ぎた。
膝が震えて崩折れそうだ。それと同時に精神にも限界が近いている。いや、そんな事は断じて無い。まだやれる。私はまだ戦える。
「ゴハアアァァッッ!!!」
声に目を向けるとレッサーデーモン二体が同時にヒートブレスを放つ瞬間だった。
頭では避けようと必死にもがくが身体が言う事を利かない。足が、動かない。
私は咄嗟にツーハンデッドソードの腹を盾の様にして構え、せめてダメージを減らそうと試みた。
その瞬間。
一陣の風が吹いてヒートブレスは私の横へと逸れていった。
ふと風が吹いた方を見ると、壁に着地し自身の武器へと力を込める椎名の姿。一瞬の煌めきのような強烈な光を放ち、私は目が眩みそうになった。
それでも目を瞑るまいと目を開いた瞬間、奇しくも彼女と目が合った。
その刹那、彼女は建物の壁から大きく跳躍。まるでロケットのようなスピードでレッサーデーモンのヒートブレスを跳ね返し、その衝撃で周りにいた四体に飛び火。燃えてのたうち回るレッサーデーモン。更にその勢いのままに三体の体を貫き吹き飛ばした。
鬼気迫るとはこの事だ。凄まじいまでの威力に仲間の私ですらも戦慄する。
更にその先にいる狼の魔族へと肉薄。恐らく本命はこいつなのだろう。だがレッサーデーモンを吹き飛ばした勢いで方向と勢いは完全に削がれてしまっていた。それでも結果、左腕を吹き飛ばした事は称賛に値する。
狼の魔族は特に痛がるでも無く、残った方の手で椎名の足首を掴み、そのまま地面に叩きつけた。そして直ぐ様地に仰向けになった彼女に向けて、無情な魔族の拳が腹部にめり込んだ。鈍い音を立てながら大きく九の字に曲がる体。直ぐに同じ箇所に一発二発と拳が放たれ、椎名は手足を痙攣させながら遂には動かなくなってしまった。
それと同時に、今まで戦闘の最中に私の回りに有った濃密な空気の流れのようなものも消え失せる。
恐らく椎名の能力だったのだろう。先程吹かせた風のように、自身も魔族と戦いつつも、私達にまで意識を飛ばし守られていたのかもしれない。
椎名を助けに行きたいが、体が最早思うようには動いてくれなかった。
例え全快の状態であっても一瞬では辿り着けない距離にいる椎名を、見ている事しか出来ない。
それに、こうしている間にも次々とレッサーデーモンの攻撃が椎名との間を阻むように覆い被さってくるのだ。
椎名のあの攻撃を目の当たりにした事で、自身に大きな隙を作ってしまった。私の周りにはいつの間にか十体近いレッサーデーモンが周囲を取り囲むように位置していたのだ。
そんな中でも私は椎名から目が離せない。ゆっくりと狼の魔族が彼女の方へ歩いていくのが見えた。
椎名が殺られる。
私は必死に目の前のレッサーデーモンへと剣を振り回すが、そんな闇雲な攻撃が当たる筈も無い。逆に体の各所から血を吹き出し、動きを更に鈍らせる結果を招いてしまう。
そんな隙を四級魔族が逃す筈もなく。
「おめえも早くくたばりなっ!」
鷲の魔族の低空飛行からの蹴りをまともに食らってしまう。
「がっはっ……!!」
私は数メートル吹き飛び建物の壁に激突する。
壁を破壊しないまでも、亀裂が入り、背骨が軋みを上げて、電撃が走ったような苦痛を伴わせる。いっその事壁を貫いた方が衝撃が拡散されて小さいダメージで済んだかもしれない。
私もこの一撃で善戦虚しく地に倒れ伏した。
倒れる瞬間視界の端に椎名が映り、そのすぐ横には拳を振り上げる狼の魔族が見えた。
駄目だ。待て……。
「止め……ろ……」
振り絞るように声を上げて体を起き上がらせようとするが、最早首を持ち上げるので精一杯であった。再び椎名がいる場所に何とか視線を這わせる。そんな事をしても無駄なのは分かっている。けれど見届けなくてはならないと、そう思ったのだ。
「……? ……しい……な?」
ふと彼女の名前を呟いてしまう。そこには彼女の最後の瞬間が広がっているのかもしれなかった。それとも奇跡的に何とか起き上がり、果敢に再び魔族に向かっていく椎名の姿が映るのかと。
だが結果、そのどちらでも無かった。
私の視線の先、狼の魔族の前にはもう椎名の姿は無かったのだ。
私は目の前の惨状が信じられなくて、きっとこれは夢なんだろうって思った。
だけど私の頬を一筋の涙が伝って、目を覚まさないアリーシャの温もりが感じられて。
こんな夢が存在しないなんてことは初めから分かっていた。
ただこの現実を頭が受け入れられないのだ。
こんなのって無いよ。めぐみちゃんが、めぐみちゃんが消滅してしまった。
それをただ私は黙って端から見ていることしか出来なくて――。
最後に狼の魔族が拳を振り降ろして。振り下ろした拳は何故か虚しく空を切った。
それを最期にめぐみちゃんは消えた。
私は思う。この世界では魔物も魔族も死と同時に消滅していた。
それは人であっても例外ではないのだと。
そしてこれだけはどうあっても覆せない事実だ。
――私の大切な、大切な存在がいなくなってしまった。
「めぐみちゃあああああああんっっっっ!!! ……ああああああああっ!!!」
今さらになって声の限りに叫んだ。
叫んだってどうにもならないことは解っている。
だけどどうしようもなかった。
もう止めどなく涙が溢れてきてどうしようもなかった。
ガキンッ!
耳を劈(つんざ)く音に私はふっと我に帰った。
まだ戦いは終わっていないのだ。
目を向けると身体中ボロボロになりながら、血だらけになりながらも必死に剣を振るう人影があった。
一度は倒れたけれど、そこから何とか起き上がり、再び戦いを開始したのだ。
その動作はぎこちなく、フラフラで今にも倒れてしまいそうだ。
そんなの当たり前だ。たぶん再び立ち上がっったことだけでも奇跡と呼べる。
最初40ほどいた魔族は半数以下にまで数を減らしていたけれど、それでも15対1。
めぐみちゃんがいなくなって、数の上での不利は殆ど変わらないようなものだ。
しかも体力も気力も共に失われつつあって、この戦いの結末は誰から見ても明らかだった。
「――だめ……いや……」
隼人くんが振るった剣は散々空を切り、レッサーデーモンにもう何度も滅多殴りにされていた。
その度に血飛沫が空を舞い、それでも彼は倒れない。
その行動はもはや理解の範疇を越えるものだ。
ここまでされて未だに倒れずにいることができるなんて。どうしてそこまで出来るんだろう。
そう思いつつも理由なんて解ってる。
私たちを守るためだ。もしこのまま自分が倒れてしまったら。次に魔族が狙うのは私と未だ意識を取り戻さないアリーシャだ。
そんなことは意地でもさせないと、そんな気迫がひしひしと伝わってくる。
「もう……やめて……」
悲痛な声は彼には届きはしない。届くはずなんてない。
それに、ここで私がいくら願った所で考えを曲げるような人じゃないことは私が一番よく分かっている。
私のことをとても大切に想ってくれてるって理解しているから。
それが彼の足枷になっているんだ。
「――だあっ!!」
渾身の力を込めるように振るわれた剣は一体のレッサーデーモンを斬り伏せた。
倒しはしたけれど、それによって剣を覆っていた光はその輝きを失った。
彼のマインドもいよいよ底をついたのだ。
その直後再びレッサーデーモン数体が彼に群がる。
彼の顔や腹、太ももなどが殴られ蹴られ、数メートル吹き飛ばされる。
それでも彼は倒れない。
魔族は彼を弄んでいるのかもしれない。
明らかに初めと比べて攻撃が単調に思える。
結果的に彼の命はつなぎ止められているのかもしれないけれど、そんな彼を見て楽しんでいるのではないだろうか。
それを自覚した途端に胸に哀しみの渦が大きくうねり広がっていく。
「やめ……て……」
その場に立ち竦む彼に三体のレッサーデーモンがヒートブレスを放った。
その軌道が見えているのかもよく分からなかったけれど、ゆらりと動かした剣に当たり、その衝撃と熱風に吹き飛ばされ、剣は手から転げ落ちた。
それでも彼はやっぱり倒れなかった。
ゆらゆらと、水の中を漂う海藻のように、重力など無いかのように地に足をつけて立ち続けているのだ。
やがてレッサーデーモンは彼を追うのを止めて、代わりに四体の四級魔族たちが前に出てきた。
木の魔族が枝を針状に幾百と伸ばし、亀の魔族が丸太のような腕を振りかぶり、狼の魔族が鋭い爪で彼の頭を引き裂こうと拳を振るい、鷲の魔族が息の根を完全に止めるために心臓を貫こうと空中から嘴で狙いを定めた。
「よくここまで耐えられたものだな……ククク……これで終わりにしてやろう」
四級魔族は下卑た笑みを浮かべて隼人くんを見つめている。
「やめ……て……」
私は何を見ているのだろう。
身体中がガクガクと震え恐怖なのか憎悪なのか、嫌悪なのか悪寒なのかよく分からない感情が胸の中を駆け巡っている。
そしてもうどうにもならないと理解しつつも私の頭の中で何かがぱちんと弾けた。
「やめてっ!!! これ以上彼を傷つけないでえええええええええっっっ!!!」
こんな願い私のわがままだって分かってる!
だけどお願い神様っ……。どうかお願いだから、これ以上私から奪わないで!
必死な願いは胸の中に熱い熱を帯びて広がっていった――――。
「……み……な……?」
その瞬間私の腕の中に温もりが生まれた。
今ここに在るはずのない温もり。
届かないはずの、届かなかったはずの隼人くんの温もりが腕の中に確かにあって、四級魔族たちの攻撃全てを後ろに置き去りにしていたのだ。
訳はわからない。
だけど確かにここには今隼人くんの温もりがあって。それだけは確かな現実だった。
私はすぐさまありったけのマインドを込めて隼人くんを光で包み込んだ。
「隼人くんっ……ごめんっ!」
声がかすれて涙が溢れて。雫が何滴も彼の頬にぽたぽたと落ちていく。
私の能力でみるみるうちに隼人くんの傷は癒えていった。
だけど私の力で彼の傷は塞げても、体力までは回復できない。
所詮は付け焼き刃の癒しでしかない。その証拠に彼の顔は血を流しすぎて青白いままだ。
「美奈、助かった。ありがとう」
それでも彼は満面の笑顔でそれだけ言うと、立ち上がりしゃがみ込む私の頭にぽんと手を乗せた。
二歩、三歩と歩を進め、落ちていた剣を拾い上げ、そのまま再び魔族へと向かっていってしまう。
「……どうして?」
かすれた声が漏れ出た。
私は再び絶望の中へ突き落とされる。
これでは時間が少し引き延ばされただけではないか。
彼の苦しみの時間をほんの少し増やしてしまっただけではないか。
お願い、お願いだからもう行かないで。
心の中で泣き叫ぶ私はそれを言葉には出来ずに涙を流して俯くことしか出来なかった。
そこからはもう顔を上げていられなかった。
大切な人を苦しめることしか出来ない自分には絶望の気持ちしか湧いてきてはくれないのだ。
朦朧とする意識の中で、私は何者かの声を聞いた気がした。
最後に見ていた景色は、四級魔族がいよいよ私の息の根を完全に止めようと一斉に攻撃してくるというものだったが。
一瞬気を失っていたのだろう。
気付けば私は愛しい温もりに包まれていて。光が私の体を修復し意識がはっきりとしてくる。
目を開くとそこには何故か美奈の顔があった。
愛しい彼女の哀しみに染められた表情を見ながら、私は彼女に助けられたのだと理解した。
いよいよ私のマインドも底をついた。傷は治っても頭はクラクラして、魔族もまだ十数体残っている。しかも四級魔族は四体いた筈だ。
このままではいずれ私は倒れ、美奈もアリーシャも殺されてしまうだろう。
私はふと美奈にアリーシャを連れて逃げる事を提案しようと思った。
私と椎名の二人で魔族を打ち倒せないならばそうしようと初めから思っていた事だ。
美奈の力では四級魔族に太刀打ちは出来ないが、この後傷が癒えたアリーシャの力を得られれば話は変わってくる。
アリーシャであればこの戦力差でも十分に勝算はあるだろう。
そのために二人が逃げる時間稼ぎをするのだ。
私が今思いつける策は正直もうそれぐらいしかない。
『せめて美奈だけでも生きてほしい――』
彼女にとってはただ残酷な決断なのかもしれないが、美奈を生かせると思えるなら再び私の枯れ果てた体にも力が漲ってくるような気がするのだ。
私は意を決し、その事を美奈に伝えることを決める。
「――――?」
だがそこで私は沈黙し、周りの景色に意識を這わせる。
「……」
何か違和感を感じるのだ。
何かが先程とは違う。私を取り巻く空気というのか、肌に纏わりつくような感じがある。
はっきりとは解らない。
これという確信も無い。
だが明らかに今、この戦場を覆う空気が変わった。気のせいでは無い、今もそれは続いている。少しずつ、少しずつ、靄が辺りへ広がっていくように。
だがこの変化には私以外気づいてはいないようだった。いや、私だから気づけたということなのかもしれない。
このままでは全滅は免れない。
ならば限りなく薄い望みでも、限りなく弱い光でも、それに賭けてみようと思った。
諦めない。最後の最後まで最善と呼べる選択をし続けるのだ。
私は再び体に力を込める。
「美奈、助かった。ありがとう」
私は一度彼女の頭に手を置く。
美奈はびくんとして、何とも悲しみを帯びた表情を作った。
だがつい先程とは違い、今の私はまだ希望を捨ててはいないのだ。まだ、皆が助かる可能性があると思っている。
だからもう一度彼女の潤んだ瞳を見つめ、新たな決意を胸に剣を拾い上げ魔族へと向かっていった。
「ちっ、死に損ないがっ……!」
再びレッサーデーモンの群れが私へと迫ってくる。
幸いなのは、美奈がアリーシャから離れてしまい、いつでも彼女に攻撃出来てしまう距離にいるというのに、魔族の注意が私にしか向いていない事だ。
だとしても私が倒れればその矛先は美奈に向くことは明らか。
簡単に負けるわけにはいかない。
私は自分を奮い立たせ、もう一度剣を強く握りしめる。
レッサーデーモンの拳や爪を掻い潜り、或いは剣で受け止めたり捌いたりして、何とか致命傷を受けないよう立ち回る。
美奈が回復してくれた。
まだ動ける。
そう言い聞かせるが側から足が悲鳴を上げる。太腿がガクガクして立っているのもやっとだ。
更にマインドも底を尽き、今の私に魔族を倒す力は最早全く残ってはいない。
だが、それでも構わない。
今の私の目的は先ほどとは違い、時間を稼ぐ事なのだ。
魔族を倒せなくとも、魔族の攻撃を受け続けないという事だけを意識するならばまだ何とかなる。
倍以上に重く感じる身体に鞭打って敵の攻撃を避わす、往なす、弾く。
しばらくそれの繰り返し。
やってやる。やってやるぞ。
私はこの状況を打破する未来だけに想いを馳せ、もう少しだけ体よ動けと迫り来る魔族と戯れのように立ち回りながらただただ時が経つのを待った。
――――今どのくらいの時間が経った?
一分か、五分か、実は十秒程なのか。
時間の流れの感覚すらなくなって、意識があるのかの確証すら持てなくなってくる。
視界もどんどん狭くなっていき、まるで夢の中の出来事のようにすら感じる。
先程から血も流しすぎているせいもあり、頭がクラクラしてくる。鼓動も速い。
息も絶え絶えで、周りの音も入ってこない。
もう限界なんかとっくに越えていた。
倒れてしまいたい。倒れて楽になってしまいたい。
終わりの来ない戦いに折れてしまいそうになる。
だがまだだ。まだ倒れない。
そう自分に言い聞かせ、既のところで踏みとどまる。
「――くっ……!」
レッサーデーモンの爪が腕を掠ってじわりと鮮血が流れ出す。
――もう少し、もう少しだけ時間が欲しいのだ。
動かなくなっていく体とは裏腹に、私の心には最初は朧げだった小さな希望が、少しずつ形を成して大きくなっていっていた。
今やその希望は確かなものに変わりつつあったのだ。
解る……解るぞ。
これはきっと。
――もう少しだ……もう少しで――――。
「しぶとい奴だっ!」
鷲の魔族が痺れを切らし空に飛び上がった。
数メートル舞い上がると、そこから勢いをつけて急降下してきたのだ。
私は咄嗟に身を捻るが、凄まじいスピードに対応しきれない。
上手く避わしきれず、胸部を抉り取られるような衝撃が走った。
だが、吹き飛んだのは胸当てだ。体の傷は少し。
不意にこの装備をくれたネストの村の人達に対する感謝の念が込み上げる。
それでも衝撃で数メートル吹き飛びいよいよ倒れそうになる。
私は地に手をつき、踏ん張り、足に力を込める。
最早力が入れられているのかどうかも分からない。
ただ結果的に倒れてはいないので、何とか踏ん張れているのだと理解出来るだけだ。
顔を上げると鷲の魔族は再び空に上昇し、私の体を串刺しにすべく獰猛な嘴を槍のようにして一直線に私に向かって急降下してきた。
私は避けようとするが、いよいよ体がその場を動かない。
もう自分の意思が体にうまく伝達できないほどに深刻なダメージを受けていた。
膝が震えて体が思うように動かない。
「クソッ……!」
私は今日何度目かの窮地に立たされ、せめてダメージを減らそうと急所を腕や剣で庇う。
だが攻撃が当たる、と予期していたタイミングに鷲の魔族からの攻撃は来なかった。
視界を塞いでいる腕を退けると、すぐ目の前の中空に鷲の魔族がいて留まっていたのだ。
「な……何だこれはあぁぁアア……」
目の前で細切れになって消失していく鷲の魔族。散々私を苦しめたが最期は何とも呆気なかった。
「なっ!? 何だと!? お前は消滅したはずじゃ!?」
狼の魔族の慌てふためく様子に少しだけ胸がスッとした。
遅れて一陣の風が吹き抜けてきた。
そこで私は自分が賭けに勝ったのだと理解した。
目の前に私のよく見知った人物が立っていたのだ。
「間に合った?」
彼女も決して五体満足とはいかないまでも、その横顔は笑みが浮かび、凛々しく美しく、とても頼もしいものに見えた。
私は彼女にフッと微笑みを返す。
「……ああ、何とかな」
それだけでも色々なところに激痛が走るが、今はそんな事、どうでも良かった。
再び彼女の横顔を見れて、私は心底安堵した。
「めぐみちゃんっ……!」
後ろで美奈が叫び声が聞こえた。
その声色には堪らない程の嬉しさも含まれていて、ほんの少しだけ妬けてしまう私は、本当に小さい男だ。
「……ッ!」
――私の頭の中で声がする。
「……ッ!!」
目を閉じて横たわる私に何度も何度も呼びかけてくる。
誰かは分からない。ここは、どこなんだろう。
ふと記憶を呼び起こす。ついさっきまでの私の記憶。
私は魔族との戦いに身を投じ、その先に力を使い果たした。
最後に覚えている景色。それは狼の魔族が自分に向けて拳を繰り出してきたというもの。それが私の体に撃ちすえられたという記憶はないけれど。
朧気な記憶をたぐり寄せながら、そこで私は一つの結論へとたどり着いた。
――そうか。
――私、死んじゃったんだ。
魔族にめった撃ちにされて。殺されちゃったんだ。
あっけないものだ。
人間てこんな簡単に死ねちゃうんだ。
いざ死んでみると思いの外苦しみはなかったように思う。
痛かった記憶はあるけれど、死ぬくらいの苦しみだったのかと言われると正直よく分からない。
それとも打ち所が悪かったのだろうか。
あ、殴られて死んだから殴られ所か。ってそんなの別にどうでもいいのだけれど。
「シーナッ!」
頭の中の声が突然鮮明に聞こえた。
その声に私は目を開いた。
起き上がって立ち上がり、身構えながら辺りを見回す。次に自分自身にも目を向ける。
どういう事かはさっぱり分からないけれど、もしかして私、いやもしかしなくても。
「……生きてるの?」
そこは色のない世界だった。
全てがモノクロで、それは私自身もそうだ。靄(もや)のようなものが回りを覆い尽くしていて、けれど視界ははっきりとしている。
すごく不思議な空間だった。
先ほどまであったはずの体の怪我も消えている。
それを確認してやっぱり私は死んでいるんじゃないかと再び思い直した。
けれどそれを自覚した途端、体がどうしようもないくらいの倦怠感に襲われ、今さらながらに強い疲労感を覚えた。
逆にその感覚が、自分がまだ生きているんだ、死んでないんだと思わせた。
まあ実際死んだ経験がないので人が死ねばこういうものなのかもしれないけれど。
「シーナってばっ!」
「!!?」
私の耳にはっきりと飛び込んできた声。
確かに今私の名前を呼んだ。
慌てて振り向いて、視線を向けるけれど、そこには灰色の空間が広がっているだけだった。
「……何なの?」
「違う違う! こっち! もっと下だよっ!」
声は下の方から聞こえていたみたいだ。
今度は視線を足元へと向ける。すると――――。
「えっ!? な、何この変な生き物!?」
「変な生き物で悪かったね……」
ようやく存在に気づいて驚く私にジト目を向けるその生き物。それは体調30センチくらいの人型をしていた。
緑のポンチョのような服を着てとんがり帽子を被り、さらには背中から小さな羽が生えてふわふわと浮遊しているのだ。
まるでおとぎ話に出てくる妖精みたいだ。ちょっとかわいい。
「――あなたは、誰?」
「ボクはシルフ、精霊だよ」
「精霊?」
シルフと名乗る精霊は、満足そうに腕を組み、上目遣いで私を見上げる。
ふわふわと揺れる様がやっぱりかわいい。
「そう、風の精霊。君がこの世界に来て、今の能力が使えるようになったのも、実際のところはボクの力のお陰ってわけさ」
得意気に、いたずらっ子のように鼻を擦り答えるシルフ。
要するに私が風を操れるようになったのは、このシルフお陰なのだ。
でも、だったらどうして――。
私の頭の中に次なる疑問が浮かんだ。
「どうして今まで姿を現さなかったの?」
私の問いに今度は彼は少し困ったような顔をした。
「うーん。まあ現さなかったというか、現すことが出来なかったんだよね」
「???」
そこから淡々とシルフは語り始めた。
彼の話をまとめるとこうだ。
まず精霊というのは精神世界に生きる者たちで、基本的に私たちがいる世界に顕現する力を有していないらしい。
けれどその方法が1つある。
それは精霊魔法の使い手によって現実世界に召喚してもらうこと。
シルフはある日突然、私の力によって召喚された。
おそらく私が覚醒した時のことだと思うんだけど、その時何故か私の内に閉じ込められて、私の中から出られなかったらしい。
私に呼び掛けても声は届かないし、勝手に力は使われるし、散々な目に合っていたのだが、今回あることがきっかけで、外に出られたのだ。
そのあることとは、私のマインドが枯渇したこと。
それにより今まで檻のように存在していた私の内なる壁が崩壊し、外に出ることが出来た。
そしてその瞬間こちらの世界に私とシルフ二人して移動したと、そんな感じだ。
シルフも人とこういう関係性になるのは初めてのことらしく、細かい勝手は分からないらしい。
私はとりあえず一通りのいきさつを聞いてふんふんと頷いた。
「なるほど、大体のことは分かったわ。とにかく助かった、ありがと」
「うん。ボクも外に出られたと思ったらいきなり君が死んだりしたら寝覚めが悪いからね。偶然とはいえこうして魔族の手から逃れられて良かったよ」
そのシルフの言葉で私は不意に現実に引き戻される。
「あ、魔族! そうだ! 魔族はどうなったの!?」
何を悠長に話し込んでしまっていたのか。正直のんびりしている暇なんてないのだ。
あのまま戦いが続いていれば結果は目に見えている。
残された三人が今どうなっているのか。正直最悪の状況も考えられるのだ。
「ん? まだ戦っているはずだよ?」
そんな私の焦りを何ら気にとめることなく、平然とした様子でシルフは答える。
「はずって……そんな悠長なっ! シルフ、私ってけっこう気絶したりしてたのかなあ!? 場合によっては手遅れになっちゃうかも!」
「ああ、そこは安心して? 精神世界と現実世界では時間の流れが違うからね。こっちで数分いたとしても向こうでは数秒しか経っていないはずさ。今から戻っても充分間に合うはずだよ」
「え? そうなの?」
何かのマスコットキャラみたいにこくんと頷くシルフ。
彼の言葉を聞いて、私はホッと胸を撫で下ろす。
そんな不思議な現象が起こり得るのかと半信半疑な気持ちもなくはないけれど、とりあえずまだ最悪の事態にはなっていないみたいだ。
「そっか。じゃあシルフ。お願い。私、もう一度あっちの世界に戻りたいの」
「うんうん分かってる。そう言うだろうことは。でもね、もう少し話しておくことがあるんだ」
シルフは待って待ってと言いつつ、私の顔の前まで浮き上がってきた。
ぱたぱたとはためく羽の動きが小刻みで、やっぱりかわいいなと思う。
「分かった。でも手短にね。私、正直ちょっと焦ってるの」
いくらあっちの世界と時間の流れが違うって言ったって、隼人くんたちが切羽詰まった状況だということに変わりはないだろう。
少しでも早く戻るに越したことはないはずだ。
「うん、分かるよ? けどね、これからボクは君と精霊の契約を交わすつもりなんだ。適当にするわけにはいかない。だから始めにきちんと話しておきたくてね」
「え、何? 契約って、何か特別なことが必要なの? てゆうかもうとっくに私たち、契約を結んでいるものとばかり思ってたんだけど?」
私はこれまで風の力を存分に使ってきた。
これが契約という形を成していないと言うのなら、この先どうなるというのか。
「え? もしかしてこれから何かを試されるとか、仰々しい儀式が必要とか、そういうこと!?」
焦る私にけれどシルフは両手を振り否定してきた。
「まさか! 契約は簡単なものさっ。今からボクと握手を交わす、それだけだからね」
シルフの言葉に私はほうと胸を撫で下ろす。
色々ややこしいことを求められたらどうしようかと思ったわよ。
「なんだ……ちょっと色々考えちゃったじゃない」
「ふふ……問題はそこじゃないんだ。伝えておきたいのは、君がボクと契約してどうなるかの心構えを持っておいてもらいたくてね」
「心構え?」
私の言葉にシルフは何だか得意げに微笑み腕を組み、ウインク1つにさらにおまけに小さな指をおっ立てた。
「それはね? ボクの力を自由に使えるようになるってことさ」
「……はあ」
私は彼の意図が読みきれず、間抜けな声を漏らす。
頭の上にクエスチョンマークが浮かんできてしまう。
「それだけ? ていうか今までだってけっこう使いこなせてたと思うんだけど?」
そんな私にシルフはチッチッチッと指を振り子のように動かしニヤリと笑う。
だから何でそんな得意げなの。
「ふふふ、違うんだなあ……。今までの君はボクの力のほんの一部を使っていたにすぎなかったんだよ。借り物の力みたいなものだったから燃費も悪かっただろうしね。だけどこれからはボクも完全に起きてる状態の中で、君の中に融合するような形になるから、ダイレクトにボクの力が使えるようになるっていうわけなのさっ」
シルフは私に説明するのが嬉しいのか、どうだろうっ、すごいだろうっ、とわくわくしっぱなしという感じだった。
それはそれですごくかわいいし、応えてあげたい気持ちもやぶさかではなくあるんだけど、いまいちそれがピンとこなかった。
「あの、でもさ? その力って結局魔族には通用しないんじゃないの?」
結局のところそれに尽きる。
先ほど散々魔族と戦ったけれど、魔族に風の力は効かないのだ。
物理的な攻撃方法では、奴らに有効なダメージは与えられない。
いくらシルフの力を燃費よく使えて風の力が上がったところで、その結果には大きな影響は及ぼさないのではないか。
それが私の懸念するところだった。
けれど、私のその質問に対しても、彼は得意げな表情を崩さない。
それどころかより一層深い笑みを浮かべたのだ。
「ふふふ……、それも問題ない。ボクは精神世界の住人だよ? ボクの力は魔族にだって通用する」
「えっ、そうなの!? 今まではダメだったのに!?」
流石にそれには私も驚いた。
テンションも上がって明らかに目がキラキラしてしまっているんじゃなかろうか。
シルフも私の勢いに気圧されたのか、笑みが消えて、目を丸くしている。
「だ、だから借り物の力みたいなものって言ったじゃないか。君が使っていた力は、現実世界の風を少し動かしていた程度の力だったんだよ。これからはそんな次元の話じゃなくなる」
「……ふむ、なるほど。とにかくっ、やってみないと何とも言えない。分かったからそれじゃあ行きましょ!」
結局のところ能力を口で説明されても今一ピンと来ないというのが正直なところ。
ならば早く現実世界に戻って、力を使ってみた方がいいに決まっている。
「あっ……あともう一つ言っておくことがっ……!!」
シルフの手を取ろうと伸ばした私の指先を、けれど彼はすり抜けたのだ。
そんな彼の行動に、私はちょっとやきもきしてしまう。
「え、何よ!? もういいわよっ! 別に今さ、暇じゃないんだからっ! 早くしましょうよっ! 何か段々焦ってきちゃってるのっ!」
いくらこっちと向こうで時間の流れが違うとはいえ、相当話し込んでいる気がして。
焦って手足をバタつかせる私を、シルフはジト目で見つめていた。
「シーナってせっかちだよね……ボク、初めての契約で緊張してるんだけど……」
「は!? 緊張って……そんなのお互い様でしょうに! とにかく分かったから、もういいよね!? シルフ、触るわよ!?」
「ちょっ!? 待って!」
必死に私の手から逃れるシルフに私はため息をついた。
「はあ……何なのよ」
「あの……契約すると、ボクは君の中に入ることになる。ボクの宿主になる感じかな。だから君の考えや感覚は全てボクは感じ取れるようになってしまうってこと、それを予め了承しておいてもらわないと……」
何だか指を身体の前でつんつんやりながら照れ臭そうにしているシルフ。
私はもう一度大げさにため息をついた。
「はあ……何かと思えばそんな事……どうぞ、ご勝手に」
「え!? いいの!?」
私のあっさりとした反応にシルフは驚きを隠せないようだ。
というかこの子、さっきから何で頬が赤いの。
「てゆーか今さらそんな事かまってらんないわよ。しょうがないじゃない」
「あ、うん……そうなんだけどサ……」
尚も渋るシルフに私はまたまたため息一つ。
「もうっ! 男らしく覚悟を決めなさいっ!」
そう言って右手をシルフの目の前に差し出す私。
ぴくんと震えるシルフの小さな肩。
まあこういうのってお互いの同意あってのものだというのは分からなくはない。
しゃーなしにそのまま彼が行動に移すのを待つことにした。
私が良くてもシルフ自身もしっかりその気になっての契約じゃないとフェアじゃないと、そうは思うから。
急ぎたい気持ちはあるけれど、一旦彼の行動に委ねることにした。
「……何だかおばちゃんが言ってたのと違うなー。まあいいって言ってるんだから大丈夫か……」
尚もぶつぶつと一人呟きながら、目が泳いでいるシルフ。
そんな彼の動作は子供みたいで。ほんの少し微笑ましくはある。
やがて、意を決したようにシルフが私の目を見た。
しばらく見つめ合う二人。こんな小さな生き物とこうして長々と話しているこの状況は滑稽だなどとふと思う。
それからシルフの視線は、遂に私の掌へと注がれた。
「――シーナ、じゃあ……行くよ」
「――だからいいってさっきから言ってるでしょ? いつでもどうぞ、シルフ」
互いに言葉を交わした直後。
シルフはようやく私の掌に、その小さな掌を重ねた。
二つの掌が重なりあった瞬間。眩い光が私たちの体を包み込んだ。
「――っ!!」
たちまち目の前が白く輝き、私の意識はふっとどこかへと飛んでいくように高く高く舞い上がっていったのだ。
椎名は突然私の目の前に現れたかと思うと、笑んで魔族との間に立ち塞がった。
そこには消える前の彼女からは想像もつかないほどに確かな自信が見て取れる。
だがそれでも、ダメージも疲労も回復したわけではない。体の傷は消えてはいない。限界はとうに越えている。それは確かなのではないだろうか。
ただ、今の彼女にそれを毛ほども感じさせない充足感を感じるのは何故だろうか。
「おまえ!? さっき消滅したはずじゃ!?」
狼の魔族が驚きの声を上げる。それに椎名は大袈裟にため息をつく。
「あのねえ、私を勝手にこの世から消さないでくれる? そんな簡単にやられてたまるもんですか。まだまだこの先やりたいことはたっくさんあるんだから」
椎名の挑発な笑み。こういう彼女の素振りを見ていると、それでこそ椎名と思わなくもない。
からかい半分で目の前の者を相手取るような。いつだって余裕を持ち、相手を翻弄する。
「……けっ、まあいい。どのみちお前らはもうここまでだよ。ククク……」
狼の魔族は下卑た笑みを張り付けて、その突き出た顎先から涎を滴らせる。
まるで逃がした獲物が自分の元へと帰って来て喜んでいるようにすら思える。それだけ自分の力に自信があるのだろう。
それに、結局のところ魔族の言うとおりだ。
私と椎名は満身創痍。かくいう私は最早まともに戦えるだけの力を残していない。というか立っているのもやっとなのだ。
対する魔族はというとまだその数を半数近く残している。
鷲の魔族を一瞬で細切れにした事で、何かしらのパワーアップは出来たのかもしれないが、この後実質コイツらを椎名が一人で退けられなければ状況の打破は難しいのだ。
「――それはどうかしらね。とにかくかかってきなさいよ」
そんな私の思惑とは裏腹に、椎名は相変わらず余裕な態度を示し続ける。
更に指先をクイクイと自分の方へ向けて、あくまで挑発的な姿勢を取ったのだ。
何か策でもあるというのか。
今ここで相手を逆上させても火に油を注ぐだけ。メリットは全くなさそうに思えるのだが。
そうこうしている内に案の定、動揺を見せない椎名の態度に狼の魔族は苛立ちを覚えたようであった。
「ククク……いいぜ。このクソアマが……もっかい死んどけやあっ!!」
狼の魔族の叫びと共に一斉に残りのレッサーデーモンがヒートブレスを放つ。
十数匹のヒートブレスの一斉照射。
熱線の帯は幾重にも重なり合い、これまでの比ではない熱量を帯びる。
こんなもの、どうしようも無いではないか。二人とも、露と消える。
私は逃げる事も忘れ、目の前の光を立ち竦んで眺めてしまっていた。
というかもう、逃げる力すら残されていないのだ。
まるでこの世の終わりとも思える一瞬の煌めきに、もう恐れを抱くどころか美しさすら感じてしまっていたのかもしれない。
私達に光が降り注ぐ直前。
椎名はというと徐に、ゆっくりとした動きで手を前にかざした。
――――ドンッ!!
するとどうだろう。ヒートブレスの光の帯は彼女の目の前で豪快な爆発音を立て、見えない壁に阻まれたように破裂した。
――いや、違う。
椎名が放った風のエネルギーでブレスの流れは畝りを加え、その場に揺蕩うように止まった。
直進するブレスのエネルギーを流動的に回転させ、往なしているのだ。
やがてブレスは流されるままに、巨大な回転する炎の塊を形成した。
「なっ!? ……何だこれはっ」
狼の魔族が瞳孔を大きく見開き、震えながら後退っていく。
「返すわね」
椎名が手を前に突き出すと、火球はレッサーデーモンの群れの中へと放たれた。
直撃と共に火柱が立ち上り、残っていた全てのレッサーデーモンを消滅させてしまったのだ。
「なんだとっ!?」
驚愕する四級魔族達。
私自身もこれには驚きを隠せなかった。
あれ程の熱量の光線を全て往なして返してしまうなど。風の扱いが今までとは比べ物にならない。段違いだ。
「おおおおぉ……ん」
木の魔族が動いた。
自身の枝を無数に伸ばし、椎名の回りを取り囲むように檻を形成する。
中に閉じ込めて動きを封じるつもりだろう。
だがそんな事は椎名も承知しているはずだ。
それが分かっていながらも、彼女はその場から動くことはない。
「確かにさっきまでだったらあっさりと捕まってたでしょうけどね」
静かにそう呟きながら椎名は両手を左右に開いた。
「かまいたちっ!」
椎名がそう言葉を発した瞬間、彼女の指から無数の風の刃が生み出された。
先程鷲の魔族をやった時もこの技だったのだろう。全ての枝が細切れになり、カラカラと乾いた音を立てながら地に落ちる。
「今までの私だったら風を練って刃を造り出すのは難しくて、せいぜい一つが限界だったんだけどね」
椎名は枝が落ちて丸裸になった木の魔族に両手をかざした。
「何せ今の私は風を操れるだけじゃなくて――」
翳した手から再び無数の風の刃が出現する。
「う……おおおぉぉぉ……ん……」
あっという間に木の魔族の本体も細切れになり、消滅してしまったのだ。
「風を生み出せるのよね。それも対魔族の風を」
一部始終を目の当たりにして、残った亀と狼の魔族はわなわなと震えている。
ここまで来れば最早形勢は逆転したと言っていいだろう。
予想以上だ。まさかここまでとは。
圧倒的な力の差をまざまざと見せつけられて、味方である私ですらも戦慄を覚えたほどであった。