――更に二日間が経過し、その日の午後。
本日中には確実にピスタの街に着ける所まで辿り着いた。
現在右に岩山がそびえ立つ街道をひた走っている。
いよいよここを越えればピスタの街だ。
流石に皆、まともな宿に泊まっていない事もあり、疲労もある。
だがそれでも異世界に来て初めてのきちんとした街という事で、車内は比較的明るかった。
それに数日の旅で皆気心が知れた。
皆歳が近い事もあってか、初めの頃の緊張感のある空気は消え、時折車内から賑やかな笑い声がこの御者台の方まで聞こえてきていた。

「いよいよだね」

少しだけ振り向くと美奈が車内から御者台の方へと移動してきていた。

「危ないぞ」

「ん、ありがと」

私は馬車を走りながらで彼女が心配になり思わず手を差しのべる。
彼女は私の手を取り、そのままちょこんと左隣に腰を下ろした。
先日はアリーシャがそこに座ったが、小柄で軽装な美奈が座ると二人でもより広いスペースに感じられる。

「何事もなく事が運べばいいのだがな……」

ピスタの街が近づく程に、先日からあった不安は広がるばかりだ。
その想いは今やピークと言ってもいいだろう。
その時、私の太腿に美奈の小さな手が触れた。

「隼人くん」

美奈は安心しきったように御者台から流れる景色を見ていた。
彼女の触れた部分が熱を帯びているように感じる。

「美奈」

私は彼女の名前を呼んで、左手の手綱から手を離し、そっと彼女の手の上に自分の手を重ねた。
それだけで私の心は温かな火が灯ったようになる。まるで穏やかな陽光が射し込むように。

「ねえ、この世界ってさ、すっごく綺麗だよね?」

「ん――」

美奈の突然の問い掛け。
その言い様はすごく曖昧だ。だが何となく彼女の言いたい事は理解出来る。
それはただ単にこの世界が空気が澄んでいるとか、環境が汚染されていないとかそういう類いのものでは無い。
私も同じような事を思った時があった。

「ああ、確かにな。この世界には争いは絶えないのかもしれない。だが、目に映る景色や、空気の匂い。ここで暮らす人々。まだまだほんの少ししか目の当たりにしていないのかもしれないが、私達がいた世界よりも、もっと純粋で、もっと輝いているように感じてしまうのだ。――うむ、この世界はとても美しい」

私が感じていたままを、想いを美奈に打ち明けてみた。
すると彼女は驚いたように目を見開いた。

「そうっ、私もそう思ってたのっ。まだ来て間もないけど私、この世界がすごく好き。私たちがいた世界が嫌いってことじゃなくて、ここにある世界を、世界が壊れてしまうなんて、すごく悲しいって思ったの。だから、出来る限り守りたい。守っていきたい」

「――ああ。私もそのつもりだ」

ほんの少し上気したように見える美奈の頬。
私もそう思っているし、美奈がそう思っているのならば応えたい。そうも思っている。
だが少し引っ掛かるのだ。
何故か美奈は少し伏し目がちだ。
それに私には分かる。分かってしまう。
彼女の胸の内に渦巻く負の感情。
それがどういったことなのかまでは確信を得ることはできないが。

「あのさ、隼人くん」

そう言う美奈は何か逡巡しているように思える。
何か言いたそうだが言い難そうにしている雰囲気だ。

「どうした? さっきから少し変ではないか? 何か気になる事があるなら言ってくれ」

そう言うとしばらく彼女は黙り込み、やがて私の瞳を見つめた。
何か思い詰めたような、決意を秘めた瞳だ。

「あのさ、ごめんね?」

それは謝罪の言葉だった。
まるで懺悔するように。何かを悔いているように。切なく、ほんの少しの哀しみが混じっていると感じさせた。

「……何故謝るのだ?」

「この前、ネムルさんからこの世界を救ってほしいって話を聞いた時の事、私ずっと気になってたんだ」

「――あ」

予想しなかった言葉が美奈から紡がれた。
まさか今更その時の事を話されるとは思いもしていなかった。
確かにあの時は私だけが世界を救うという事に反対だった。
だが皆から話を聞いて、私の中では気持ちの整理はついたつもりだった。
だが美奈はそうではなかったのだ。
逆に私の考えをねじ曲げたように感じ、後々悔いていたのかもしれない。

「私が……当初反対していたからか?」

恐る恐るそう訊ねると、彼女はこくんと頷いた。

「うん。あの時どうして私は隼人くんの味方をしなかったんだろうって」

やはりそうだ。彼女はあの時のやり取りを悔いているのだ。
私の意見が皆と食い違い、一人取り残されたようになった。そう言いたいのだろう。

「美奈、違うのだ。そんなことはない。美奈はあの時正しい事を言って私に気づかせてくれたのだ。自身の私欲のために、それ以外の事を考えられない私の心を導いてくれた。だから何も気にすることはないのだ」

精一杯の柔らかな否定をする。
彼女にそのことで責任を感じてほしくはない。
だが依然として彼女の表情は明るくはない。

「……うん。でも、それでも私達のことを第一に考えてくれることは決して悪いことじゃない。それに、誰だって自分の身を守ろうとするのは当たり前のことなのに。結局私は隼人くんを悩ませただけなんじゃないかって、後からそう思うと、何だか申し訳なくて……」

美奈の長い睫毛が揺れる。
そういう風に思ってくれることが私はとても嬉しい。
私は彼女の手を少しだけ強く握る。

「美奈、私は今まで美奈に言われて心が温かくなる事はあっても、美奈の発言で心を痛めたり、嫌な気持ちになった事など一度もない」

「……隼人くん」

「だからそんなに自分を責めないでくれ。もう私も決めた事だ。それに、美奈にそんな顔をされてしまうと、私にとってはその方が辛いのだ」

私は馬車を運転している手前、美奈の方を向く事が出来なかったが、代わりに美奈と重ねた手を更に力強くきゅっと握った。
そこから美奈の温もりが伝わってくる。
それだけで私はとても穏やかな気持ちになれた。
美奈もそうであってくれると嬉しいのだが。

「……うんわかった。……隼人くん。変なこと言ってごめんね? あと、ありがとう」

その言葉を聞いて、美奈の心が少し落ち着いてくれたように感じられた。今となれば目覚めた自身の能力を使って彼女の暗くなった気持ちを取り除き、そうした解決をする事も出来なくはない。
だが、この時ばかりは流石に違うと思った。
今のやり取りで美奈の心はさざ波のように落ち着いていってくれたようだ。
申し訳ない気持ちも少しあったが、それだけは能力で確認しておいた。
ふと視界に白い花が映り、ふわりと揺れる。
それに気持ちが優しく引っ張られる。
思えば美奈とこうして落ち着いて話すのはこちらに来て初めてではないだろうか。
時には互いの想いをさらけ出し、打ち明け合うのも大切な事だ。
それが恋人というのならば尚更だ。

「美奈、私達の旅はまだ始まったばかりだ。これから多くの困難が待ち受けているだろうが、皆で力を合わせて乗り越えていこう」

「そして私は美奈の可愛らしい唇にキスをしたのだった」

突然背後から見知った声がする。
振り向くとそこにはジト目で腕を組む椎名の姿。

「――し、椎名! 何を言っている!?」

見れば他の面々も色々様々な表情を浮かべながらこちらを伺い見ているではないか。
私達は途端に恥ずかしくなり顔に熱を帯びていくのを止められなかった。