私が工藤の元へ駆けつけると、村人達は教会とも礼拝堂とも言えるような村の大きな建物の中に避難したようであった。
工藤の目の前には、先程の魔族、グリアモールの姿が。
奴は私達とは少し離れた場所に置物か石像かというように無機質に佇ずんでいる。
二度目とはいえ、やはり何度見ても慣れない。
相変わらず気持ち悪い様相をしている。
「工藤、大丈夫か?」
「おせえよっ!」
工藤はグリアモールを睨みつけたままぶっきらぼうに答える。
どうやらまだ戦いが始まったわけではないようだ。
それに私はほんの少し安堵する。
だが工藤の肩は少し震えているように見える。
つい先程の戦いは記憶にまだ新しい。恐れを抱いているのも無理はない。
「フフフ……待っていたヨ。しかし中々早かったねエ。ここまではあの洞窟カラかなりの距離があると思ったんだケド。ちょっとばかり驚いたよ」
「貴様は遅かったのだな。もうとっくに村に着いているものと思っていたが?」
グリアモールの物言いに違和感を覚えつつ、探るような言葉を返してみる。
「フフフ……。まあいいじゃないか。その方が助かっただろう? フフフ……」
けれど奴は不敵に笑うだけ。
相変わらず不気味な奴だ。
本当のところは分からないがその物言いから何かあるのではと思わせてくる。
人の心理を利用するのが上手いのか、何を考えているのか分かりづらい。
だが先程のような恐怖心はすっかり失せていた。妙に落ち着いているのだ。
「貴様の目的は何なのだ。なぜこんな事をする?」
「フフフ……」
「何がおかしい?」
「おかしいのは君達の方サ。なぜこんなコトをするのかだって? 楽しいからに決まっているじゃナイカ。我々魔族ガ人間ごときと関わるのに、そんな大層な理由などナイよ。君達はサ、おもちゃで遊ぶのにいちいち理由を求メルのかい? 敢えて言うなら暇潰しとカ、そんな所カナ?」
「くっ! てめえ! いい加減にしやがれってんだ! 俺達を何だと思ってやがる!」
工藤が叫ぶがそれは逆効果だ。
奴はきっとそうやって私達が恐れたり、戦いたりする様を楽しんでいるのだ。
そんな掠れた声で叫んだりするなど、私は怖がっていますと相手に示すようなものだ。
「フフフ……、だからおもちゃだって言ってるダロう? 本当に君は馬鹿なんダねえ」
「なっ、何おうっ!?」
「やめろ工藤、奴の話に耳を傾けるな」
「くっ……隼人……」
ヒートアップする工藤を私は一旦手で制する。
渋々ながらも工藤は一度口をつくんだ。
「グリアモールとやら。貴様の目的がどこにあるのか、その全容は分からない。だが今、貴様は私達を覚醒させ、私達全員の能力を確認しているのだと推測するが、それについてはどうだ?」
グリアモールがどこまで話せる相手なのかは分からない。
だがこのまま真っ向から戦っても勝機が無い事は先程の戦いで身を以て実感している。
私は思いきって一度、冷静にこの魔族と会話をしてみる事にしたのだ。
「フフフ……そうダヨ。だから君の能力と、もう一人いるだロウ? その子の能力を見せてもらってもいいカナ? まだ覚醒していないのナラそうなるように手伝ってあげるケド?」
グリアモールは自分の腹の内を案外あっさりと吐露した。
それが何処まで信用出来るのかは分からない。
だがおおよそ予想通りの返答であったのだ。
ならば交渉の余地はあると私は確信する。
「そうか、了解した。その心配はいらん。もう一人もじきに覚醒してここへやって来るのだ。待っている間に、どうだ。まずは私の能力を見せようと思うのだが、構わないか?」
「――ナンダ。随分素直じゃないカ」
「…………」
若干の間。そこから放たれた言葉に凄みを感じる。
口の中が渇いて心臓がドクドクと脈打っていた。
私の言葉に少し意表を突かれたか、こちらを警戒したかもしれない。
だが今更引き下がるつもりはない。
それに警戒された所でそれは些末なことだ。
この魔族は自分に相当の自信を持っている。
結局のところ私達を嘲っているのだ。
警戒を強めるとはいっても所詮気には留めないだろう。
私はそれを確信していたのだ。
「貴様とまともにやりあってもどうしようもないのは先程の戦いで分かっている。なので一つ、ゲームをしてはくれまいか?」
「――ゲーム? ナンダソレハ」
「遊戯だ。遊びということだ」
グリアモールは相変わらずの無表情。だがかなり訝しんでいる。
意味不明な言葉が飛び出し、意表をつけたといったところか。
少しだが、こちらのペースに上手く嵌まったのではないだろうか。
「グリアモールよ。貴様にとって我々人間は大した相手ではないのだろう? ならばそう構える必要などないはずだ。私とのやり取りなど、ただの遊戯だ。そうではないか?」
「…………」
グリアモールが初めて押し黙った。
私の思考が読めないのか、戸惑っているのか。
「何をそんなに警戒することがある?」
「警戒などシていない。たダ――」
その先の言葉は紡がない。いや、紡げなかったの方が正しいか。
もう一押しだ。
「所詮私達にはどうすることも出来ない。そう思っているのだろう?」
「……」
逡巡している。
迷っているという程ではないが、確実に訝しんでいる。
だがそこに魔族としてのプライドが邪魔してノイズとなっているのだ。
この流れの中でグリアモールが断るなどあり得ない。
「……何をスルんダ、言ってミロ」
予想通りの回答。
この答えは私の中では最早必然だった。
頭の中がクリアで妙に落ち着いている。
ふむ、こんな状況だというのに心地好いとすら感じている。
これが、覚醒の力か。
「簡単な事だ。私が今から貴様に攻撃を仕掛ける。それを受けて、私がダメージを与える事が出来れば私の勝ち。先程の戦いのようにダメージを与えられなければ貴様の勝ちだ」
「……何だか僕が全面的に不利な条件のような気がするんだけどねエ」
「貴様に取ってゴミに過ぎない程度の価値しか持たない相手に、それぐらいのハンデがあってもいいのではないか? 貴様は先程椎名と工藤の攻撃をどれだけその身に受けても全くダメージを受けなかった。貴様が今さら私一人の攻撃でダメージを与えられるのか? あれを見せられて、私の方が不利な条件だと考えるのはおかしいか?」
一気にそこまで捲し立てる。
グリアモールはため息のような短い息を吐いた。
「ふん、言うじゃないカ。ゴミが魔族に向かってネエ。それで、私が勝ったらドウスル?」
「うむ。貴様が勝てば私達はそちらに全面的に協力しよう。ゴミはゴミらしく貴様の道具に成り下がろうではないか。だがもし私が勝つことが出来れば……金輪際私達に関わるな」
グリアモールの表情は依然として変わらない。コイツの性質上そういうものなのだろうということはここまでの観察で知れている。
思考まで読めればよいのだが、そこまで上手くはいかない。
だが上出来だ。
私自身、ここまでのやり取りに及第点をつける。
姿形も違えば価値観も違う。
そんな相手にここまで話を持っていけてしまっている自分自身の変化に驚きつつも、それを第三者のように俯瞰して見れている自分もいるのだ。
このまままともにやりあっても勝ち目は限りなく薄い。
私はそう見立て、ある種の賭けに出たというのに、まるでこうなる事が必然であるかのような心持ちを実感していたのだ。
「ふーん、協力か。デハその保証は何で証明するんだい? 後になって口約束なんでやっぱりナシ、なんて茶番は無いよねエ?」
「それはお互い様だろう。ゲーム――遊戯だと言ったはずだ」
「……。中々屁理屈が好キナやつだねえ。ならコウしよう」
グリアモールは私の目の前に突如として直径50センチ程のリングを出現させた。
ふと見るとグリアモールも同じ物を手にしている。
「そのリングは嘘発見器みたいなものサ。お互いに、嘘をツイたり騙したりした時に反応シて対象者の命を奪う仕組みになってイル。それを首につけてもらおうカ。私もつけてやるカラサ」
――これは少々予想外だ。
ふむ、――どうしたものか。
「なるほど。しかし、その効果も公平か判断しかねるが」
「君にそんな事言う権利はナイ」
そこで明らかな奴からの圧が掛かる。
確かにグリアモールがその気になれば私達の命は一瞬で無きものにされるだろう。
それでもゲームに興じてやると言っている。
譲歩してやったと言うのだろうが、これが保険で罠だとしたら。
そこまでは看破出来ない。
所詮グリアモールとの間に始めから公平な取り引きなどありはしない。
ここはグリアモールをこちらの土俵に立たせる事に成功しただけでも良しとするべきか。
「――分かったのだ」
「おい隼人っ!」
ここまで黙って成り行きを見守っていた工藤が叫ぶ。
「大丈夫だ」
全く根拠のない言葉だが、私はリングを手に取るとそのまま首に装着した。
リングはシュルッと小さくなり、首にしっかりとフィットした。
グリアモールの首にもいつの間にか同じように装着されている。
「隼人……お前……」
「工藤よ、心配するな。何ともないのだ」
「おいっ、でもよっ! お前さっき俺たちに言ってたことと違うじゃねえかっ。こんな首輪までしてよおっ。四人で協力して奴を倒すんじゃなかったのかよっ!?」
工藤は私の行動に流石に焦り声を上げたが、もう遅い。
今更後戻りなど出来ないのだ。
確かに当初の予定では時間を稼ぎつつその間に美奈を覚醒させ、四人揃ったところで全面対決。とそんなビジョンを描いていると椎名を含め伝えていた。
だがそれは私の中では始めから第二案。
本当の狙いは私との一対一で決着をつけることだ。
美奈をあんな相手と戦わせるなどしたくはなかった。
病み上がりでいきなり危険な目に合わせるなど絶対に嫌だ。
これは私のわがまま。
だが責任は取るつもりだ。こうして一人で奴に立ち向かう。
だから許してほしい。
そんな免罪符を心に思いながら、工藤を見る。
「何て顔をしている工藤よ。私は命を捨てようという訳ではない」
「あ、当たり前だろっ! そんな事になったらブッ飛ばすぞっ!」
死んだ後にブッ飛ばされるのかと思うが、こんな状況でその突っ込みは場違いだ。
けれどそれが工藤らしい。
何故かフッと頬が弛む。
「工藤、とにかく私を信じて今は黙って見ているのだ」
「――っ!? くそっ……」
そう言うと彼も観念したのか、項垂れ力無く俯いた。
彼の心境を思うと些か胸が痛んだ。
「気に入らないなら全てが終わった後で幾らでも殴られてやる」
「……ちっ、勝手にしろ……」
半ば諦めたようにそう呟いた。
「……ありがとう、工藤」
本気で怒る彼の思いやりに、私は心からの感謝を述べた。
「フフフ……最後にもう一つ確認シてもいいかねえ」
「……何だ?」
「私が負けとなるのハ、私がダメージを受けた時でいいんだネ?」
嬉しそうな声音に私の産毛がゾワリと総毛立つ。
何だ、これは?
私は何か間違えたか?
「……そうだ。そういう事だ」
「ククク、いいだロウ。いつでもどうゾ。君の攻撃とやら、受けてあげルヨ」
グリアモールの不敵な笑いに逡巡するがもう遅い。
流石にここからは後戻りなど出来ないのだ。
「サア……来るがイイ」
グリアモールの笑い声を耳に響かせながら私は奴とと対峙する。
ゲームは始まったのだ。
私は覚悟を決めて、ただの置物のように無防備に佇むグリアモールへと歩を進めていった。
「美奈! 美奈! 起きて!」
薬が効いて安らかに寝息を立て始めた美奈を、揺すって無理やり起こそうとする。
毒との戦いで、きっと彼女はかなりの体力を消耗している。
このまま休ませてあげたいのは山々なのだけれど、そういうわけにもいかないのだ。
今は一刻を争う。
私たちの代わりに美奈を看病していてくれていた村長さんとメリーさんは、先程村の皆と共に教会の方へと避難してもらっていた。
何かあった時に一ヶ所にいてくれた方が守りやすいから。
今この場所には私と美奈の二人きり。
胸の焦燥とは裏腹に、部屋の中はやけに静かだ。
「う……う……ん」
「美奈……」
未だ額に汗を滲ませつつ、彼女の目がようやく開かれた。
視点は定まらず、ぼんやりと天井を見つめている。
そんな彼女の顔には赤みが差して、最早毒の後遺症はほとんど無さそうに見えた。
私は安堵の息を漏らしながらも、彼女の視線を遮るように顔を覗きこんだ。
「起きた? 美奈」
「――めぐみ……ちゃん? ……ここは?」
「――美奈! ……よかった!」
私はそれだけで胸が苦しくて涙が出そうになる。
そんな自分を見られたくなくて、無理矢理彼女を抱きしめた。
もちろん力は入れすぎないように。
「……私、確か変な獣に噛まれて……それで」
少しずつ記憶の断片が掘り起こされて繋がっていく。
彼女の頭の中に、うっすらと今の状況が思い出されていっているようだ。
私は彼女に気づかれないように目尻の涙を拭い向かい合った。
「うん。――美奈、あの時は私を庇ってくれて本当にありがとう。信じられないかもしれないけど、ちゃんと聞いてほしい。今から私が言うことは、嘘じゃないから」
「え? ……う、うん」
感動の再会はこのくらいにして、私は美奈をベッドに起き上がらせ、座らせる。
まだクラクラするのだろう。ふらついて倒れそうになるのを優しく手で受け止めて、支えて。
彼女の背中をさすりながら柔らかな感触と温もりに胸がいっぱいになる。
彼女に微笑もうとするけれど、上手く笑顔が作れなかった。
――――本当に、助かったんだ。
「めぐみちゃん?」
「――あ」
いぶかしむ美奈の表情に、私はまた涙が溢れてしまっていることに気づく。
「私ったら、こんな場合じゃないのにっ」
乱暴に目尻や頬を拭うけれど、手が濡れていくばかりで、全然止められない。
その度にどんどんと募っていく焦り。こんな場合じゃないのにっ。
焦燥に駆られる私の肩に、そっと温かい手が乗せられて。
顔を上げると涙でぼんやりと輪郭の薄れた美奈の顔があった。
「めぐみちゃん、大丈夫だから。焦らないで?」
「――ごめん美奈。ちょっと、泣く」
「ん、いいよ」
そうして美奈は私の背中に手を回し、優しく包み込むように抱きしめてくれた。
急がなきゃいけないのにどうしても気持ちが切り替えられない。
私はほんとダメだ。
「めぐみちゃん。きっとすごく頑張ったんだね」
「――!! ……そんな言葉……反則じゃん……」
美奈の優しい声音に堪らず嗚咽が口から漏れ出た。
堪えきれそうになくて、彼女を強く抱きしめる。
覚醒した私の力でどうにかしてしまうんじゃないかと思ったけれど、今は細かいことが考えられない。
これまでの様々な記憶が、もうそれは走馬灯みたいによみがえってきて。すごく苦しくて、色々限界だったみたいだ。
「うっ……うっ……美奈……美奈……。良かった。本当に良かった……おかえり、美奈」
「うん、ただいま。めぐみちゃん」
彼女はそんな私の背中に手をやり、幼な子をあやすみたいにぽんぽんと叩いては撫でてくれる。
もう無理、とてもじゃないけど止められそうもない。
「うっ……わああああああああっ!!」
そこからはしばらく嗚咽が止められなかった。
美奈は泣き続ける私のことを、何も言わずに温かく抱きしめてくれていた。
彼女の匂いに包まれて、涙は後から後から流れ続けている。
「――えっと……色々ごめん、美奈」
――数分後。
何とか平静を取り戻した私はめちゃくちゃ猛省した。
美奈の前に俯いて向かい合うけれど、流石に恥ずかしすぎて顔が見れない。
本当に、時は一刻を争うというのに私ってばなんという体たらく。
もうバカバカッ。早く話さなきゃいけないのに何やってんのっ。
救いと言えば外が思ったよりも静かだということだった。まだきっと事は起こっていないと思うから。
ただ、静かすぎるのも逆に大丈夫だろうかと心配にはなるけれど。
とにかく外では未だ派手にドンパチやりあっているという様子はないのだろうとは思える。
色々自虐的な思考が止まらない私の膝の上に置いた手に、不意に美奈の手が重なる。
顔を上げると彼女は優しく私に微笑んでいた。
「めぐみちゃん。ゆっくりでいいよ? 急がば回れ、だからね?」
「あ、うん――」
そんな美奈の優しさに、再び涙腺が崩壊しそうになるのを既のところで堪え、私は大きく深呼吸するのだ。
「オッケー。だいぶ落ち着いた。話、続けてい?」
「うん、いいよ」
美奈の優しい微笑みはマジで破壊力が半端ない。
その事実を確認しつつ、私は頬をぱんと張り、瞬時に気持ちを切り替えた。
「――よしっ」
やっぱり吐き出すと人間頭の中がスッキリするものだ。
そこからは今まであった出来事を順を追って話していった。
丁寧に、できるだけ簡潔に。
――ここは異世界だということ。
――皆が美奈の毒を治すために頑張ったこと。
――皆が覚醒して信じられない力を得たこと。
――魔族が来て、今隼人くんと工藤くんが戦っていること。
「――そんな……そんなことって……」
一通り話して私はふうと短い息を吐く。
話を聞き終えた美奈は、酷く青ざめた顔をしていた。まるで再び毒に冒されたみたいだ。
流石に無理もないと思う。
私だって、冷静になると未だに信じられない。いや、信じたくなんかないもん。
異世界で魔物や魔族と戦う現実なんて、簡単には受け入れられないよ。
けれど今はそんな弱音をいつまでもぐちぐちと吐いている場合じゃない。
私は美奈の肩をしっかりと掴んでその憂いを帯びた瞳を見据えた。
「急にそんなこと言われても混乱するよね。私たちも訳わかんないよ。だけどね。これは現実に起こっていることなの」
コクコクと一つ一つの私の言葉を咀嚼するように、美奈は私の話に聞き入っていた。
そんな姿はとても愛らしく、いつも通りの彼女に私はどこかホッとしていた。
「今ね、隼人くんと工藤くんが戦っている相手は本当にヤバすぎる化け物で、早く私たちも合流しないと2人の命が危ないかもしれない。ううん。私たちが合流した所で事態は何も変わらないかもしれない。だけどね。だからって、放っておけるわけないよね?」
じっと私の瞳を見つめる美奈。
やがて彼女は口の端を緩め、にっこりと微笑んだ。
「うん、わかったよめぐみちゃん。それで、私はどうすればいいの? 私も皆の役に立ちたい」
「――っ」
この切り替えの早さ。美奈のこの芯の強さには時々驚かされる。
同時に少しだけ悔しい気持ちなんかも溢れてきて、でも嬉しい気持ちの方がそれに勝る。
美奈も不安だろうに。
まるでそんな事、無かったかのように。
動揺も不安も焦りも、全部どこかに置いてきてしまったんじゃないかっていうくらい、まっすぐな瞳の輝きを私に見せつけてくれるのだ。
私はきゅっとほんの少しだけ、唇の端を噛む。
「うん、それでね? あの魔族は物凄く強いけど、私たちを殺すことはしなかった。結局のところ、それは別に目的があるからなんだと思うの」
「別の……目的」
美奈の呟きに私は深く頷く。
そして美奈の顔の前にぴんと人差し指をおっ立てた。
「恐らくそれは、私たちを覚醒させることと、その能力を見ることよ」
「――覚醒――ん、分かった。じゃあどうすれば覚醒できるのかな?」
覚醒という言葉の響きに眉根を寄せながらもしっかりと心は前を向いている。
これこそが彼女の強さなんだと思う。
自然と口元が綻んでしまう。
「うん。実はもう私たち3人は覚醒してる。だから分かった。覚醒にはある共通する条件があるってこと」
「うん」
私は彼女の肩に手を置き、少しの間を置き息を吸い込みこう告げた。
「――自分の大切な仲間を想う気持ちが強くなった時だよ」
美奈はどうすべきか考えこんでいるのか、少し困ったように眉根を潜めた。
それも当然だ。大切な仲間を思う。それは簡単なようでけっこう難しい。言葉に具体性がなさすぎるから、いきなりそんな事を言われても誰だって困るだろう。
――けれどそれは想定内。
「美奈、聞いて――」
ここから彼女を覚醒へと導くために、今私はここにいるのだから。
「私たちはお互いを想い合ってる。こんなこと美奈にしか言えないかもしれないけど、私は美奈のことが自分と同じか、それ以上に大切だって思ってる」
私たちは互いに真摯な瞳で見つめ合う。
これは私の告白。自分にそう言い聞かせる。
とてもとても、命を睹しても守りたい、大切な存在へと向けた愛の告白なのだ。
「あなたは私のかけがえのない親友。私を庇って毒に侵されて苦しんで、こんなことをしてくれる友達他にいないよ。あの時私を助けてくれて、本当に感謝してもしきれないくらいだよ。私は美奈のこと、心から大好きって思える。何があっても守りたい、大切な大切な存在――」
どさくさに紛れて臭いセリフだなって自分でも思う。
けれど、これは私の本心。心からの気持ちだ。
こんなこと、きっと美奈にしか言えないんだと思う。
素直でまっすぐな美奈だから、私も彼女に誰よりも素直になれる。
そんな彼女は当然のように私の想いに応えてくれるんだ。
「――うん。めぐみちゃん、私もだよ? 私もめぐみちゃんや隼人くんや工藤くんの力になりたい。皆が苦しんでるなら一緒に――一緒に乗り越えたいっ!」
突如として美奈の体が光り輝いた。
「――っ! ……あつ……い……?」
彼女の体から煙が立ち上っている。
想像はしていたけれどマジか。
私は半ば呆れたように、けれどものすごく嬉しくて破顔してしまうのだ。
思っていた通りだ。
私の親友は、彼女の心はこんなにも強くて尊いのだ。
私は思わず彼女をもう一度その腕の中に抱きしめた。
もちろんすごく熱かったけれど、これが彼女の身体の奥底から発せられる温もりなんだと思ったら、なんていうことはなかったのだ。
「さすが私の親友! もう覚醒しちゃうなんてっ」
「あ……うう」
「頑張れ――美奈。すぐ終わるからさ」
美奈の柔らかい背中に手を回し、ぽんぽんとあやすように叩いてやる。
しばらく光に包まれていたけれど、やがてそれは私たちの時と同様、程なくして収まりを見せた。
「――これって……」
程なくして落ち着いた彼女は、不思議そうに自分自身を見つめながら立ち上がった。
そのままその場でくるくると回ったり、手を広げたり閉じたり。
そんな姿がとても愛らしくて可愛い。食べちゃいたい、――てそんな場合じゃないけど。
「……何これ? ……すごいよ? めぐみちゃん」
「うん、おめでとう美奈。そしてようこそこっち側へ! ――というか美奈は髪、白くなるんだね」
「え、そうなの!? あ、ほんとだ! あ、そう言えばめぐみちゃんもなんか雰囲気変わった? あっ、髪の色、緑色になってる?」
「――いや、気づくの遅すぎっ」
突然早口で捲し立てる美奈。
そのちょっぴり抜けている部分にズッコケそうになりながら私は苦笑する。
というか、私の髪の色の変化に気づくのが今さらな所とか反則でしょ。可愛いすぎ。
「あれ? ……あと」
「ん? 他にも何か?」
「目がよく見える……」
「あっ! そう言えば眼鏡失くしちゃってたよねっ。目も良くなったんだ」
美奈は元々目が悪く、眼鏡かコンタクトをしていたのだけれど、今は裸眼だ。
たぶんあっちの世界に置いてきちゃったんだと思う。
だから起きてからぼーっとしていたように見えたのかなと、今さらながらに思った。
「美奈。じゃあ魔族のいる場所に行こうと思うんだけど」
「あ、うん。――でもさ、ちょっといいかな、めぐみちゃん」
「ん?」
いよいよこれから戦いに身を投じようという時になって、美奈が不意に私の頬に手を添えた。
「――怪我してる」
心配そうに眉根を寄せる美奈。
「あ~、まあけっこう激戦を繰り広げてきたからね。まあ、勲章ってやつ?」
そう言いにへりと笑う。
私は戦いの中でかなりボロボロになっていた。
擦り傷はもちろん、頭を締めつけられた時に血が出たりしたのもあって、とにかく乙女らしくない姿ではある。
けれど戦いなのだから仕方ない。
幸い出血などは治りが早い分すぐに止まるし、生傷が絶えないけれど今は我慢するしかないのだ。
目が良くなったことにより、こんな心配をかけてしまうとは。
「別に大した傷じゃないわよ」
私はいらぬ心配をさせぬよう手をぱたぱた振りながらもう一度笑顔を向ける。
「――ちょっといいかな」
そんな私に美奈は、私の頭を両手で包み込みそのままふっと目を閉じた。
「――――え」
変な声が漏れた。
というのも、突然温かな光が手から発せられ煌めいたのだ。
「あつっ!?」
「めぐみちゃん、大丈夫だから、じっとしてて?」
直後、急に体の中が熱くなっていく。
私は驚き、一瞬ぴくんと体を跳ねさせたけれど、美奈の言葉に従いその場に止まり目を閉じる。
その熱は一度受け入れてみれば、熱いというよりは温かくてすごく心地の良いものだった。
まるでお母さんの温もりにでも当てられて、安らぐ気持ちが溢れてくるような、そんな心持ちになった。
離れた母親のことが急に思い出されて、ちょっぴりおセンチな気分になる。
しばらくするとそんな苦い心地よさは消え、同時に光も消え去った。
「――どうかな?」
手を引っ込めた美奈の言葉に、私は閉じていた目を開いた。
そこで私は目をみはる。
自身の体にあった傷が消えていたのだ。
もちろん痛みもきれいさっぱりなくなって、ほんの少しの気だるさだけが残っていた。
「美奈……これって?」
「うん。なんか出来るような気がして」
もじもじしながら照れくさそうにしている。そんな彼女はまたまた可愛い。
「これが美奈が目覚めた能力なのね? 美奈らしいわね。人を癒やす力なんて」
「――えへへ……なんか不思議だけどね」
ほんの少しの逡巡のあと、美奈はもじもじしながらはにかんで笑顔を見せる。
何それ可愛い。
女の子の私でも可愛いと思うのだから、隼人くんがメロメロの骨抜きの首ったけというのも頷ける。
本当に、隼人くんの幸せ者め。
「めぐみちゃん、じゃあ、行こっか」
「――うん。のんびりしてる場合じゃなかったわよね」
改めて美奈に促され、私はサムズアップを決める。
とにかく今は男の子チーム二人が心配なのだ。
私はすっくと立ち上がり、いよいよ外に出て戦う気持ちを作っていく。
「うん! 行こう!」
美奈の快い返事を受けた私は心強いことこの上ない。
胸の中はじんわりと熱く、外界に意識を向ければ今は思いの他静かだった。
焦燥に駆られるのは確かだけれど、私たちならきっとどうにかできる。
そんな確信めいた想いも、今はもうはっきりとした形となって胸にあるのだ。
ゆっくりとグリアモールの方へと歩を進めていく。
風が吹いても置物のように何もかもが動かない。相変わらずこの世界の物理法則を無視したように無機質で、その佇まいには違和感しかない。
悠然と佇む姿からは自身の敗北など微塵も感じてはいないのだろう。
それだけの自信を持っているのだ。
何故それ程までに強い自信を抱かせるのか。その回答は至って単純だ。人間に対しての嘲りの気持ちが強いからに他ならない。
だが、それが命取りだ。確実に大きな隙を作っている。私は拳を強く握りしめた。
今はこの遊戯に私自身全力を尽くすのみ。
グリアモールが私の提案を鵜呑みにし、これを遊戯と定めた。その気持ちを逆手に取り早期に決着を着けるのだ。
先の戦い、グリアモールには椎名と工藤の一切の攻撃が効かなかった。
その事から私の攻撃も、一ミリたりともダメージは与えられないのかもしれない。
だが私は今この時、そうはならないのではないかという想いがあった。
覚醒したからこそ、そう思えた。
私の覚醒により目覚めた能力ならば必ず奴を倒せるのではと、そう結論づけたからこんな茶番を持ちかけたのだ。
グリアモールは椎名と工藤が繰り出す攻撃のその全てを物理攻撃だと言った。
さて、ここで彼の言う物理攻撃とは一体何なのか。
その事について私は深く思案してみた。
私の認識に当てはめると、武器や格闘による物理的な攻撃の事だとまず最初に思った。
椎名が繰り出す風や、工藤の岩での攻撃などもそうだ。
そういった攻撃は奴には一切通用しない。それは既に実証済みだ。
次に考えられるのは魔法だ。だがこれについては早々却下だ。
理由は二つある。
一つは誰も魔法の使用が出来ず、知識も全く無いこと。よって実戦では使いようがない。
もう一つは前回の戦いの際、グリアモール自身が使用を求めてきたことだ。
恐らくグリアモール自身も魔法に対する耐性があるのだろう。だからそんな提案を持ち掛けた。
だからどちらにせよ魔法による攻撃など無意味だと結論づける。
結局のところ、グリアモールにとっての物理攻撃とは。
魔法だろうが自然現象であろうが物理的個体に有効な攻撃でしかないものはすべからく物理攻撃となるのだと私は結論づけることにしたのだ。
――さて、つまるところ結局グリアモールにダメージを与えられる攻撃方法とは一体何なのか――――。
私は表情一つ変える事無く醜悪なフォルムを抱くこの魔族の前にひたと歩を進め、彼我の距離約一メートルの所で立ち止まった。
グリアモールは相変わらず表情の見えない無機質な状態で私を見つめている。
目線などもないのでそれすらも分かり得ないが。
「フフフ……」
「隼人っ!!」
この状況が恐ろしいのか、堪らず工藤が叫んだ。
彼からしたら、この無防備極まりない私の状況に気が気ではないといったところか。
無理もない。私の今のこの状況、端から見ればいつ殺されてもおかしくはない。そんな風に見えるだろうから。
だがこの瞬間、私は絶対にそうはならないと確信していた。
この魔族がそんな馬鹿げた行動を起こすはずがない。いや、実はグリアモールは今そんな事は微塵も思ってなどいないのだ。
グリアモールは今、この遊戯に興じている。
ただのおもちゃに何も出来るはずは無いとたかを括っているのだから。
だから今も余裕の表情で私の挙動を眺めるに徹している。まあ実際表情などないので表情からはそれは読み取れないのだが。とにかく何かしてくる気は無いのだ。
私は小さく深呼吸し、ゆっくりと右手を上げグリアモールの目の前に翳した。
「――はあっ……」
翳した右の掌に気合いを込めると、そこに拳程の大きさの光の球が出現した。
「――ほう……? それが君の能力かい? さあ、私に効くか、やってごらんよ」
あくまでも余裕な雰囲気は崩さないグリアモール。
この球体を光の魔法か何かだとでも思っているのだろうか。私は更に力を込める。
「……くっ!」
光の球はバスケットボール程の大きさになった。そこでとてつもない疲労感が急激に私の身体を蝕む。
「うぐ――――」
目の前が霞み、足に力が入らず膝が笑う。木々がざわめいているように風に揺られてカサカサと音を立てた。
思っていた通りだ。この力は加減が難しい。
しかもこの力を使うのは今が初めてなのだ。
大した練習もなしにぶっつけ本番でやっている。
それだけが気がかりではあった。
だが練習は危険だと判断したのだ。
出来る事ならこの力を使うのは今が最初としたかったのだ。
それ程この力は危険だと判断していたから。
この力に逆に浸食されたように気でも狂ってしまわないかと懸念したのだ。
――案の定私のその判断は正しかったのだ。
「ぐっ……が……」
「フフフ……。頑張ってるネえ。確かに生半可な威力じゃあ意味がナサそうだものねえ。無理しすギテ死んだりしないでクレよ? 死んだら君をこの先利用できなくナル。ソレは私も困るんだヨ」
「……がっ……ぐうぅ!」
やけに饒舌なグリアモールだが、その言葉を一切聞き入れられない程に私は余裕を無くしていた。
想像以上にこの力は私を蝕んでいるのだ。
それでも私はふらつく体を引きずるように一歩二歩と歩みを進めていく。
そうしながらも、光の球に込められるだけの力を込めた。
「――うあああああっ!!! くっ……くらええっ! 魔族があああっ!!」
自分の口から思ったよりも乱暴な言葉が口をついて出た。――理性が飛びそうだ。
やがて光の球はグリアモールに当たると、スッと体の中へと消えるようになくなった。
「――がはあっ! はあっ……!」
私はそのまま力尽きるように地面へと倒れ伏す。
思っていたよりも自身に与える影響は大きいものだった。
そんな私を変わらぬ立ち姿で見下ろすグリアモール。
「――……フフフ……。何だい今のハ? 魔法カい? 当たったと思ったらスグに消えてしまったヨウダが。まさかコレで力尽キタのかい? こんナンじゃあ後ろの少年やさっきの女の子の方がまだマシじゃないカ……どうやらこのゲームはあっさり僕の勝ちのようダネえ……」
「……う……く……」
体に力が入らない。
喉がひきつって声も出せない。
グリアモールの姿は視界には入らず、顔を上げることは出来そうになかった。
「隼人! 何だよ!? いきなり倒れてわけわかんねえよっ! そんなんじゃ結局俺たちの時と同じじゃねえか!」
工藤の声が先程よりも遠くに聞こえる。
もしかするとこのまま気を失ってしまうのかもしれない。
意識が朦朧として思考力が低下していく。
――――何も抗えない。
「フフフ……。その男の言う通リダヨ。こんな攻撃で力尽きたのカイ? フフフ……脆弱だねえ。期待外れだヨ。私達魔族は精神世界の生き物。この世界とは別次元の高次元生物なんダよ。だからこの世界の物理的干渉を一切受けツケない。もちろん魔法もネ」
朧気な意識の中でグリアモールの声が頭に響いた。
その言葉を聞いてようやく私は安堵する。
――――勝ったのだと。
「だから最初から君に勝ち目なんてなかったワケ――グ……フ!?」
そこまで言って、グリアモールの身に異変が起こった。
とさりと目の前にグリアモールの腕が落ちてきたのだ。
私が覚醒により得た能力。それは精神を操る能力だ。
グリアモールの方からピシリと乾いた音が響く。
目の前に倒れた腕はやがて灰となり、風に飛ばされるようにして消えた。
「ご――ア――何だ……と?」
顔を上げた瞬間グリアモールの足が破裂して肉片が回りに散らばり、グシャリと後ろに倒れる。
「……まさ……か――おまエのノウリョクハ……」
体中に亀裂が走り、サラサラと風に吹かれて黒い塵が飛んでいった。
「……く……ソ……予想ガイだっタが……このままではオワラナ……」
最後には砂のように崩れてグリアモールは完全に霧散してしまったのだ。
首につけていたリングが首から外れてトシャリと地に落ち灰色になる。
――――私の勝ちだ。
「な……まじかよっ……」
工藤が後ろで呆然と呟いた。
「お、おい隼人、大丈夫か!? どうなってんだよ!? あんな――」
「――ううううるさいいいいいっ! 今私に話しかけるなあああっ!!!!」
グリアモールを倒した喜びなど露知らず。突然訪れた凄まじい情動に私は声を荒げてしまっていた。
私の心の中に深い闇が渦巻き始めていたのだ。
「……隼人?」
呆然と私の名前を呼ぶ工藤。
その音がどうしようもないほどにむしゃくしゃするノイズに聞こえる。気分は最悪だ。
自分の回りの全てに対する憎悪の感情が心の全てを支配していく。
これは、流石に誤算だった。
私の心がここまで蝕まれようとは。
「隼人くん!」
そこへ私を呼ぶ声は椎名だ。
その声音にどうしようもなく胸がムカムカして吐き気がした。
「おうおまえら! 高野も無事だったんだなっ、て髪白っ!」
「あ、うん。私も覚醒できたよ。皆ありがとう。工藤くんと隼人くんも無事で良かった」
何を一体呑気に話しているのだコイツらは。
私が今こんなに苦しんでいるというのに。
「このっ――クソがああああああああああっ!!!」
気づけば私はあらん限りの声を振り絞って立ち上がり、がなり叫んでいたのだ。
「――ぐ……あ……」
まるで自分のものでは無いような呻き声が漏れ出た。
「隼人……くん?」
「隼人くんどうしちゃったの!?」
普段は心地好いはずの木々の揺らめき。葉がかさかさと鳴る音さえも、今は気持ち悪くて。
愛しいはずの彼女の声が一層苛立ちを募らせるのだ。
心の中がどす黒い憎悪で塗り染められていく。
周りの視線に胸が詰まり、だが湧き起こる感情は憎悪だった。
私を見つめる者全てを壊したいという情動を沸々と溢れさせるのだ。
こんなどうしようもない衝動をうまく抑えきれずに私は恐怖した。
激しい破壊衝動は収まるどころか次々に心の内から溢れてはその勢いを増していく。
――嫌だ。――駄目だ。
心が何かに浸食されていく。このまま魔物にでも堕ちていくのではないかとすら思う。
自分がこんなにもおぞましく、恐ろしい感情を抱ける生き物だったのだと、こんな状況下で初めて気づいた。
「――があああああああっ!!」
「隼人くんっ!」
激しい罪悪感と哀しみ、そこに怒りと憎悪の感情がない交ぜにされていく。
駆け寄る彼女の手が私の肩に添えられる。
それがどうしようもなく苛立たしくて、うざったくて。
――壊してしまいそうだ。
体を一心不乱に動かしながら少しでも距離を取る置ので精一杯だった。
彼女はそんな私の挙動に触れた手を強ばらせ、哀しげに見つめていた。
「隼人……くん」
なぜなのだ。
私を呼ぶ愛しいはずの彼女の声が。緩やかな風に乗り耳朶に届く度、胸をかきむしりたくなるのだ。
最早私が聞く世界の全ての音が、悪意に満ちた悪魔の囁きのようにしか聞こえない。
私は一体なぜこんな事をしているのか。
こんなところにいたくない。今すぐ逃げ出してしまいたい。いや、壊したい。
壊したい?
そうだ。全てを、全てを壊したい。
――――ドクンッ!!!
「がっ……はっ……」
鼓動が脈打ち、ついには私の頭の中の全てがおぞましいまでの破壊衝動だけが満たした。
――ああ……憎い……憎いっ!!
「――ああああああああああああああああああっっ!!!!!!」
自分の中だけに留めきれない感情を吐き出すように。聞いたこともないような叫び声を上げて、私は半狂乱でその場に転げのたうちまわった。
鼻をくすぐる土や草花の匂いが胸くそが悪くて吐きそうだ。
頬に触れる土の感触が鋭利な刃をそこに突き刺したような痛みを連れてくる。
「ぐっ……、がああああああああっっ!!!」
「隼人くん!」
「俺の……俺の名前を呼ぶなあああああああああっ!!!」
もう駄目だ。
私はきっとこのまま私ではなくなる。
どす黒い感情が
苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい!
何故こんな目に合わなければならないのだ!
こんな世界など滅んでしまえ! 消えてしまえ消えてしまえ消えてしまえ消えてしまえ!
何もかもこの世から消えて無くなってしまえ!!!!!!!!!!
ああ!!!
全てが!!!
全てがあっ!!!
憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い!!!!!!!!!!!!!!
私は今果てぬとも知れぬ底知れぬ深い闇の中にいる。
今は誰にも近づいてきてほしくない。
私はもう、きっと私ではなくなる。
「今……私に近づくなあっっ……!」
絞り出すように声を出す。私はそう叫ぶので精一杯だった。
「ごばあああっ……」
その拍子に胸が張り裂けんばかりに苦しくなる。
前につんのめった私は、耐えきれずに地面に盛大に吐いた。
吐瀉物(としゃぶつ)の臭いに目眩(めまい)がする。
「一体どういうこと!?」
「わかんねえっ! わかんねえけどさっきの魔族に攻撃したらこうなった!」
「隼人くん! しっかりして! 今度は私が助けるからっ!」
誰が、何を言っているのかも最早理解出来ない。気持ち悪くて考える余裕が無いのだ。
言葉が言葉では無いように感じ、くらくらする意識の中、最早心は砕け散っているのではないだろうか。
――何も考えられない。
そんな最中、誰かが私の体を包んで強く強く抱き締めてきた。
その温かさが更に心を逆撫でする。
「あああああああっ……!!!」
苛立ちで、自身の叫びで心がざわめいて、それがどんどん膨らんで、歯止めが利かない。
何もかもを壊してしまいたくてもう自分ではどうしようもなかった。
こんな苦しみ、とてもではないが耐えられない。
駄目だ……もう……壊れる……。
「…………っ! …………っ!!」
――何も聞こえない。
深い闇の中に横たわり、深淵の中にただ一人取り残されたようだ。
意識があるのか無いのか、今この時、私は思考しているのか。何の判別もつけられない。つけたくない。
ただ何も無い、無の空間に私自身溶け込んでしまっている。もう何もかもが嫌だ。
――このまま――堕ちたい。
「…………っ! …………っ!」
――遠くで何かが、聞こえる。
――私は……。
「隼人くんっ!」
「っ!!! ……がっ……がはあっ!!」
私は肩で荒い息をしながらぜえぜえと呼吸を繰り返した。
無理矢理現実に引き戻されたかのような感覚。そして再びの苦しみ。
もしかしたら束の間、息すらしていなかったのかもしれない。
ぼやけた視界が段々とその鮮明さを取り戻していき、その先に椎名と工藤の青ざめた顔があった。
そして次に私を包み込む温かな温もりに気づく。
甘い匂いが鼻腔をくすぐり、その柔らかさに妙な安堵感を覚える。
それと同時に、どす黒い悪意がぶしゅぶしゅと醜悪な音を立てながら潰れていっているような感覚があった。
――温かい。
やがて少しずつではあるが確かに闇はその大きさを、領域を狭められるように縮小されていく。
心に温かな火が灯っていくように、少しずつ楽になっていく。
「隼人くん! ごめんね! 側にいられなくて! ……隼人くん! 私も、あなたを守ってみせるから!」
懐かしい声が耳に届いて、この温もりが美奈なのだということを理解する。
彼女の想いが、叫びが。黒く染まった心を白く染め上げていくように、本来の私をこの世界に呼び戻したのだ。
「……み……な……」
「隼人くんっ!?」
名前を呼ばれたことで美奈が私の顔を仰ぎ見る。
そこで私が正気に戻ったのを悟ったようだった。
「良かった……私……」
その表情は涙でぐしゃぐしゃで、笑おうとしたようだったがうまく笑えず、更に大粒の涙がぼろぼろと溢れた。
「隼人くんっ!!」
美奈はそのか細い腕で力一杯私を抱き締めた。
震える肩を私も両腕で包み込む。
「美奈……ありがとう」
「ううん……私こそ……守ってくれて……ありがとう」
私を胸に抱きながら何度も頷く美奈。
今更ながらようやく彼女を救い出せたのだと思う。
安堵の気持ちが胸に去来して、大きなため息が溢れた。