「椎名あああああああっっっ!!!」
光の檻から解放された俺は体が自由になったのを感じながら、心の中が空っぽになるような、そんな想いでただただ虚空を見つめていた。
「……なんだよ……これ」
体は広場をすごいスピードで離れていく。
右手にはアイツが肌身離さず持っていてくれたであろうユニコーンナックルが握られていた。
最後の瞬間、俺はアイツにこのナックルで吹き飛ばされたのだ。
殴られたような衝撃に体は痛みを訴えたけど、正直そんなこと、どうでも良かった。
悲しみよりも自分が情けなくて。何でこんな事になっちまったんだろう。
俺がこうして敵に捕まっちまったから。
迂闊で楽観的な自分に嫌気がさしてくる。
何であの時俺は一人で突っ走っちまったんだ。
もう少し冷静になればこんな結果にならずに済んだかもしれないのに。
周りの景色が鮮明に見え始める。
ユニコーンナックルに取り付けた魔石の輝きが少しずつ失われていくことにより眩しさから解放されて視界が開けたのだ。
それはまるで椎名に宿る命の輝きそのものが失われていくかのようだった。
俺は……守られてしまったのだ。
「……なんなんだよ……くそ……」
虚空を見つめながら再び呟く。そして思う。
また俺は――まだ俺は、守られる側なのか。
最初からずっとそうだった。
俺はこの世界に来てからというもの、誰かに守られることはあっても、誰かを守れたことなんて一度もない。
どんなに守りたいと願っても、その想いが成就したことはない。
今だってそうだ。
俺は誰よりも、何よりもアイツを守りたいんだ。
いつも明るく振る舞ってるけど、意外に寂しがり屋で。
誰よりも友達想いで、自分が傷つくことも厭わない。
自分よりも周りのことばっかり考えてやがる。
本当は苦しいはずなのに。本当は泣き叫びたいはずなのに。
そんな危なっかしいアイツを誰よりも守りたい。そう、思っているのに。
なのに。
なのに何で俺が守られてんだよ。
誰よりも、何よりも、こんな無力な自分を許せない。
こんな自分に、吐き気がする。
「――くそがあああああああああああああっっっ!!!!」
俺は断末魔の叫びにも似た慟哭を星がキラキラと輝く夜空へと向けて放った。
石畳に寝転がり空を見上げる。
血を流しすぎたのか、朦朧とする意識の中で背中に当たる床はひんやりと冷たくて心地よかった。
……ああ……星が……きれいだなあ。
夜空に瞬く満天の星空の下で人生の最後を迎える。
そう考えたら、そんなに悪くないような気がしてきた。
私は光球の中で、自分の中の全ての欠片をむしり取られるような感覚を味わいながら、それでも心は晴れやかだった。
助けたい人を助けられたのだ。もう思い残すことはない。
光球の輝きは明らかにさっきよりも弱々しくなり、いよいよ自分の中にはもう何も残っていないような、空っぽな入れ物の容器のような心持ちとなった。
程なくして目の前の光も消え去り、そうしたら魔族の出現は治まってくれるだろうか。
どちらにせよもう打てる策は何一つ無い。このまま流れに身を任せるたまけなのだけれど――。
「最後……か」
「何が最後だっ! ふざけるな!」
不意に口から漏れ出た私の呟きに否定を被せてくる声があった。
一瞬アイツが戻って来てしまったのかと嬉しいような、焦ったような気持ちになりながら、そうではなかったことに安堵と寂しさと驚きの感情が入り乱れた。
「あなた……たち!?」
どうやら声の主は先程逃がした騎士団の人たちだ。
数人だけで引き返してきたのか再びレッサーデーモンと斬り結んでいる。
けれどあまりにも多勢に無勢。
かなりの劣勢だということは見なくても分かる。
「どうし……て……」
「どうしてではない! 貴様! 我々に死ぬなと言っておいて何だこの様はっ!」
そう声を発しているのは先程の隊長だ。
けれど彼ら騎士達の姿は一瞬見えただけ。
それ以降は魔族の体に阻まれて見えない。
「そんな……」
まだ彼らは広場の入り口付近で戦っている。
今引き返せばまだ助かるはずだ。
「だめっ……逃げてっ」
「断るっ!!」
「っ!?」
「ふざけるなっ!! この馬鹿者がっ!!」
「ギャアオウッ……!」
「――っ!!」
隊長の大声が広場に響き渡る。
それと同時に上がるレッサーデーモンたった一体の断末魔の声。
言いたいことは分かる。けれどこんなのはダメだ。
彼らが戻ってきても、この現状を打破することなど土台無理な話なのだから。
物量に呑まれて、ものの数分と持たずに命尽き果てるのが関の山。それほどに魔族の数は多い。
私はというと、さっきからもう動きたくても全く身動きが取れない。
マインドもいよいよ枯渇して、今の私にはもうどうすることもできない。
いや、マインドが完全に枯渇すれば少なくともレッサーデーモンの出現は抑えられるかもしれない。
その証拠に工藤くんが私に変わった事でレッサーデーモンの出現速度が明らかに鈍化している。
それでもレッサーデーモンの数はもはや絶望的なほどに多い。
余りにも飽和しすぎて何体かは町中へと繰り出していってしまっているだろう。
私は歯噛みする。
せっかく助けた命なのに。戻って来てしまうなんて。
「シルフッ……! どうにかできないっ……?」
私は藁をも掴む気持ちで先ほどまで一緒に戦ってきた相棒に意見を求める。
「…………? シル……フ?」
そこで初めて違和感に気づいた。
いつものように帰ってくる声はなかった。
「――そん……な……」
不意に心の中が空っぽになったような寂しさを実感する。
自分の中にあるべきはずの風の力の存在が、消失してしまっていることに気がついたのだ。
「シルフ……?」
いない――どこにも――。
私は自分の中に確かにいたはずの彼の存在を胸の中に見つけ出すことはできなくて。
もしかして……いなくなってしまったの?
――死んでしまったということだろうか。
そんなの考えたくないっ。
精霊におよそ死というものが存在しているのかはわからない。
だけど確実に言えることは、シルフは今ここにはいないということだ。
私が……やったんだ。
取り返しのつかないことをしてしまったという絶望感が胸に湧き起こる。
私は……私のせいでこんな……シルフを消失させてしまった。
何で気づかなかったんだろう。
何で予想しなかったんだろう。
こうなる可能性を考えずに自分勝手な行動で、結果たくさんの人たちを傷つける羽目になってしまったじゃないか。
こんなのただの独りよがりのわがままだ。
「ぐあーーーーーっ!」
「!!?」
騎士の人たちの声が広場に響き渡る。いよいよ最悪の展開になろうとしている。
皆を守ろうとしたら結局守られて。こんな私のために命を落としてしまうとか。
守るだなんて、自分はなんておこがましかったのか。
私は最初から守ったつもりになって、本当は守りきれてなんていないのだ。
そもそもここで私が負けるということは、一万にも上る魔族をこの町のど真ん中に野放しにしてしまうということ。
そうなればこの国の人々は傷ついて、きっとたくさんの命が失われる。
このまま国は滅びの一途を辿る可能性だって大いにある。
私は結局自分自身には背負い切れない問題を途中で放棄して、投げ出して逃げようとしただけなんだ。
私がどうしようもなく弱いから。
どうしようもなく無力だから。
私の行動はただのわがままでしかなかった。
こんな中途半端な形で周りの人たちの命を繋いだつもりになって、本来は無意味なことだったのだ。
だけど……。
「こんなの無理だよ……」
視界がぼやけて頬に涙が伝う。
こんなの絶対に敵いっこない。
苦しいよ。苦し過ぎて吐きそうだよ。
強大すぎる。強大すぎるよ。
こんなの、誰だって投げ出したくなるよ。
私一人の力じゃ……どうにもできない。
「ごめん……なさい」
紡ぎ出された声は嗚咽混じりでうまく言葉にならなかった。
私には……どうすることもできない。
悔しくて、情けなくて、怖くて。
後から後から涙が溢れて止まらない。
「ギャハァッ!」
「――ひっ!?」
光の壁を叩く音に向こう側の視界が不意に鮮明になった。
そこでは魔族が私を見て笑っていた。
とっても嬉しそうに。まるで至福の瞬間を噛みしめるように。
それにより自身の数秒先の未来が思い起こされて恐怖に凍りつきそうになる。
この光が完全に消え去った後、私はどんな無惨な最期を遂げるのか。
「い……嫌だ……嫌だよう……」
弱まる光にどうしようもないほどの恐怖心が煽られる。
恐い……恐い……恐い……。
「あああああ……」
私は必死で腕で顔を隠しながら、真っ黒になった視界の中で発狂しそうになった。
やっぱりこんな……嫌だ。こんなまま終わりたくない。死にたくなんかない。
恐くて。恐くてどうしようもない。
嫌だよ。このまま死んでいくなんて。
嫌――だよ。
「……たす……けて」
助けなんて来ない。来るはずもない。
分かっているけど、私は弱いから。他の誰かにすがることしかできない。
「たすけて」
ボロボロになった体が悲鳴を上げて、口の中には喋る度に血の味が広がる。
朦朧とする意識の中で、涙を流しながら慟哭する。
「――助けてっ……」
振り絞るように掠れた声は風に流されて。
――不意に。
私の右側の景色が明るくなり、少しだけ温かな風が吹いてきたような気がした。
私は動かない体で、目だけを横に向けた。
するとどうしたことか。そこにいるはずの魔族が一体もいない。
「???」
私をニヤニヤと見つめていた魔族は消え去っていて、何もない空間が広がっていたのだ。
その向こう側、一つの人影が視界の端に見えた。
そこで気づいた。
私はもう一つ大きな考え違いをしてしまっていたことに。
彼がそのまま逃げていくわけなんてないじゃないか。
すんなりはいそうですかと私の提案を受け入れてくれるはずなどないのだ。
「……なんでよ」
理由なんて聞かなくても分かってる。
けれどそんな言葉が口をついて出てしまう。
本当にコイツは大バカ野郎だ。
もう救いようがない。
そんなことを思いながらも、私もコイツに負けないくらい大バカなんだと自覚する。
「椎名! 待ってろ、今助ける!」
ホントはこんな顔見せたくなかったけれど、体はもう指一つ動かせないから仕方ない。
私はというとたくさんの涙でボヤけてアイツの顔が良く見えない。
ちゃんと見えないからやっぱり夢なんじゃないかとすら思う。
実は私はもう死んで、走馬灯のようにただただ私の願望を、都合のいい景色を最後の瞬間脳が見せてくれてるだけなんじゃないかって。
「工藤くん……」
搾り出す声はやっぱり掠れていた。
多くの絶望を背負いながらも、今この時に一番会いたくて、だけど一番戻って来てほしくない人がそこにいた。
時間は工藤が広場に舞い戻るほんの数分前に巻き戻る。
「!!?」
工藤は一体自分の身に何が起こったのか理解出来ないでいた。
空を滑空していた筈の体は地に足を着き、気づけばただ茫然と目の前の景色を見つめていたのだ。
「――ここは……?」
目の前に広がるのはグレイの世界。そうだ。あの時の牢獄の世界にも似た世界だった。
もちろん全く同じ場所では無いがこの色の無さが自分がいる世界があの時と全く同じ世界なのだと思わせる。
それはそれとして。にしても工藤は何故急に、再びこんな所へと来てしまったのか。
周りを見渡せど視界に入り込む景色は何も無い。
ただただグレイな空間が果てしなく広がっているだけだ。
だがそれでも工藤はここが妙に温かい空間のような気がしていた。
傷んだ彼の心をゆったりと優しく包み込んでくれるような。そんな心持ちがするのだ。
「??」
そんな折、ふと足に生温かい物が触れた。
足元を見やるとそこには犬のような動物がいた。
それには見覚えがある。工藤があの牢獄にいた時、共に時間を過ごしたその犬だ。
「犬っころ! 無事だったのか!」
「……クウン……」
犬は弱っているようだった。
「おい!? 大丈夫かよ!?」
犬を工藤は優しく抱き上げた。
あの時あった枷はもう無い。けれど酷く弱々しい。
そんな事を考えていた矢先の出来事であった。
「え? なんだこりゃっ!?」
突如として犬の体から光が放たれる。
その瞬間、工藤は自身の胸の中に光が灯ったようになった感覚を受けた。
そのままドクンドクンと鼓動が脈打ち、頭の中にその犬の正体が、情報が流れ込んできた。
まるで昔からその事を知っていたかのように、工藤はその犬の事を理解したのであった。
「――お前……だったんだな。ずっと俺に力を貸してくれていたのは」
「クゥンッ!!」
「地の精霊、ノームッ」
犬っころが、いや、地の精霊ノームが嬉しそうに尻尾を振って工藤の頬を舐める。
弱々しかったノームはすでに元気を取り戻していた。
そして工藤の中には地属性の能力が以前とは比べものにならないくらいに溢れている。
改めて自身の体をまじまじと見つめる工藤。
「……すげえ。これが本来の精霊の力か」
「クゥンッ!」
「キーッ!」
「!?」
暫しの感動を味わっているのも束の間に、工藤の呟きに呼応したノームに続き、もう一匹の獣の声が応えた。
振り返るとそこには見た事の無い獣の姿。
一見すると蜥蜴の生き物。
だが蜥蜴と違う点は、体から炎が立ち上ぼり、尻尾の先が炎のように揺らめき輝きを放っているという事だ。
その蜥蜴の生き物は工藤の目を見つめながらのそのそと彼に近づく。
「――お前も……精霊なのか?」
「キイーーッ!」
工藤の言葉に呼応するように生き物は声を上げた。
そしてのそのそと工藤の足元まで辿り着く。
「……お前も俺に力を貸してくれるってのか?」
「キーッ!」
声と共に生き物が工藤の足に頬ずりをした。
その瞬間に生き物の思考が流れ込んでくる。
「サラ……マンダー?」
「キイッ!」
精霊は嬉しそうな声を上げた。
そしてサラマンダーの体からも光が発せられ始めた。
「お前も初めから俺の中にいたんだな」
「キイッ」
「火の精霊、サラマンダー」
「キイッ!」
言われなくとも感じる。
存在を工藤は感じていたのだ。
だだサラマンダーはノームよりも更に工藤の心の奥深くにいたため、その力の断片すら行使出来なかった。
工藤はそう理解した。
ここで改めて、火の精霊サラマンダーに工藤は語り掛ける。
「サラマンダー。俺を……助けてくれ。守りたいやつがいるんだ。この俺に大切なものを守る強さを与えてくれ!」
「キーッ!」
サラマンダーは工藤に飛び掛かるように抱きついた。
それを受け入れる工藤。
やがて彼らの体は交錯し、重なり、眩い光に包まれながら、一つとなる――。
一度見れた椎名の顔は、増え続ける魔族によってあっという間に埋もれてしまった。
けれど工藤はそれだけで心を撃ち抜かれたように苦しくなった。
椎名はぐしゃぐしゃで。今まで工藤が見た事も無いほどボロボロで疲れきっていたのだ。
涙とか血とか汗とか、それら全部がごちゃ混ぜになり、尚且つ力の消耗も激しい。
まるでボロ雑巾のようで。いつもの元気で明るい、輝いた笑顔の彼女は何処にもいない。
「――お前ら……」
工藤の体が打ち震えた。
怒りと悲しみと、ぐちゃぐちゃな感情の波が押し寄せて、どうにかなってしまいそうだった。
「ブォッハァッッ!!!」
そんな工藤に対し、レッサーデーモンの群れが新たに現れた獲物目掛けて一斉に飛び掛かった。
「――お前らああああっっっ!!!!」
その瞬間工藤は吼えた。
自身の中の激情の全てを解放し、それが炎という形となりその奔流が迸る。
それはそのままオーラのように彼の体に纏わりついたのだ。
結果的にはそれが灼熱の鎧と化し、近づく者全てを灰に帰した。
「ギャアアアァァッッ…………!!」
断末魔の叫びを上げながら炎に焼かれ、消失していく魔族達。
その炎から辛うじて逃れたレッサーデーモンは工藤の放つ圧に後退った。
「――よくも……よくもっ!! 椎名をこんなにしてくれたなあっ!!」
工藤の怒りは青天井に高まっていく。
それに呼応するように炎はうねり吹き上がっていった。
中空に漂うそれはまるで意思を持った生き物のようにとぐろを巻き、その力をぶつける対象を模索しているようだ。
工藤は自身の周りを取り囲むその力を、ある生き物として形容した。
「――ドラゴン」
これは、全てを灰塵に帰す竜。
彼の心の中に湧き上がる情動が、そのまま体の外へと溢れ出て、一体の竜となってその鰓をその対象へと向ける。
工藤は列泊の気合いと共にその情動を吐き出した。
「はあはあああっ!! 炎の奔流よ! 全てを呑み込めえっ! ドラゴニックブレイズッッ!!!」
「ギャアアアアアアアアアアッッッ!!!!」
うねる炎はまさしく炎竜と化し、轟音と地響きを上げながら広場にいる魔族全てを呑み尽くした。
およそ百数十体にも及ぶレッサーデーモンの群れはほんの数秒の内に灰燼と帰し、跡形も残らなかった。
「何という力だ……」
騎士の一人がポツリと呟いた。
それで完全に決着は着いたかに見えた。
「――工藤くん……ダメ」
「?? 椎名?」
だが何も無くなった広場に響いたのは椎名の弱々しい呟き。
未だ彼女の周りには光のドームが形成されている。
それはホプキンスの掛けた術が解けていないという証でもあった。
「バフォアッ!」
次の瞬間、椎名の言葉を裏付けるように新たに数十体のレッサーデーモンが広場に出現。
「ボッハアアッッ!!」
「うおっ!?」
そこに木霊する絶望を告げる咆哮。
精神世界にはいまだ多くのレッサーデーモンがいる。
それらを全て倒さない限り終わりは来ないのだ。
だが工藤はそんな事で絶望などしない。
意思を込めた瞳で倒すべき相手を見据え続ける。
「全部ぶっ倒しゃいーんだろーが!」
「……無理よ……数が……多すぎる」
工藤の意思を尊重したい。
だが椎名は知っている。
どれ程多くのレッサーデーモンが精神世界に滞在しているのかを。
それと工藤の力を天秤に掛けて、彼がやろうとしている事が無茶で無謀であると否定しているのだ。
「あっ……かっ、……は……」
「椎名っ!?」
椎名が一層苦しみ始めた。
この術がレッサーデーモンをこの世界に排出すればする程、彼女の生命力をより強く蝕むという仕組みなのだ。
工藤もそれは承知していた。
「急がねえと……」
ここで彼にも若干の焦りが生まれる。
早くレッサーデーモンを倒しきってしまわないと椎名が危ないのだ。
「ノーム! 力を貸せ!」
『クゥン!』
工藤は次にもう一体の精霊、ノームの力を解放した。
使った力は感知能力だ。
精神世界に一体どれ程の数のレッサーデーモンが存在しているかを探るためだ。
本来感知は精神世界までには及ばない。
だが今はホプキンスの術により精神世界へと通ずる歪みが生まれている。繋がっているのだ。
なら向こうの状況を知る事も不可能ではない。
そこまでの事を考えての行動では無かったが、結果として工藤の思惑通りの情報が得られた。
「――1万……か」
工藤の呟きに椎名の体がぴくんと動いた。
それから程なくして彼女の顔が歪み、涙が零れ落ちる。
「うっ……うっ……だから言ったでしょ……無理なのよ……こんな数の敵……とてもじゃないけど太刀打ちできないよ……」
「椎名……」
椎名の涙に工藤の胸にはやり切れない感情が溢れていた。
けど今は、工藤はニヤリと笑ってみせた。
「大丈夫だ椎名。心配すんな」
「な……何言ってるの? バカ……早く逃げてよ」
「うるせえよっ! バカはどっちだ! 俺がこんなことされて喜ぶとでも思ってんのかっ!」
「――っ。 ……だって……」
工藤の怒りに椎名の表情は強張った。
けれどそれは一瞬だけ。すぐに工藤は微笑んだ。
胸の痛みは見せないように。
「だから大丈夫だって、心配すんな。今俺が助けてやる」
「……え?」
「はああああっっ!!!」
工藤が気合いを込めると、先ほどの比ではない程の炎の奔流が迸った。
轟音を響かせて炎は尚も肥大していく。
「……ウソ……でしょ?」
これを見て椎名は思い知る。
工藤が先程放った炎は、全く以て手加減されていたのだと。
そして理解する。この戦いはとっくに詰んでいたのだと。
彼が精霊の力を得てこの場所に現れた時点で。
「ドラゴニックブレイズ!!」
その炎竜はまず先程と同じように、広場に出てきた魔族を全て呑み込んだ。
「まだまだあっ!!」
更にその後、炎は止まる事なく加速していき、広場を畝り、やがてある一点へと注ぎ込まれていったのだ。
魔族が出てきているゲートの入り口へと。
「そこだああああっっっ!!!」
炎の奔流は中空で欠き消えたように消失していくが、言うまでもなくその力は精神世界へと注ぎ込まれていっているのだ。
すなわち炎竜は今、精神世界の中を縦横無尽に蹂躙しているという事。
ほんの数刻の後、決着は成った。
一万の魔族は工藤の放った炎の一撃によって完全に焼き払われたのだった。
「――こんな……ことって……」
椎名は信じられないといった表情でぽそりと呟きを漏らした。
ゲートはというと、排出する対象を全て失い止まった。
広場は光を失い、静寂が空間を支配する。
「椎名っ」
工藤はすぐに彼女の元へと駆けつけ、傷だらけの彼女を抱き上げ自身の腕の中に収めた。
「――あっ」
女の子らしい声を上げ抱き止められる椎名は妙に弱々しくて可愛いらしい。
工藤はそんな彼女を目の前に何故だか酷く緊張してしまっていた。
そもそも久しぶりの再会なのだ。照れ臭くもなってしまうというものだ。
「よお……その……大丈夫か?」
椎名は茫然と彼の腕の中で沈黙していた。
互いに見つめ合い、頬を赤らめているのは工藤だけだ。
それが少し憎らしかったが今は彼女を責める気になは一切なれない。
「――椎名、ごめん」
結局工藤の口から絞り出された言葉は謝罪だった。
椎名の行動はもちろん褒められたものじゃなかった。
けれど何はともあれ、この結果は工藤の迂闊さ、弱さが招いた結果だったのだから。
椎名はその言葉に一瞬驚いたような表情を見せた。
直後少しだけ複雑な表情をし、最後には大粒の涙を溢れさせた。
「――ばかっ……ばかあっ!」
そこからは歯止めを失くしたように嗚咽を漏らしながら彼女は泣いたのだ。
工藤の胸に顔を埋め、泣き続ける椎名は、か弱い一人の女の子だった。
「これで少しはましだろう」
「……ありがと」
椎名の傷は騎士団の部隊長であるアーバンが治療を施してくれた。
この男、騎士でありながら回復魔法も嗜む。
そういったプラスアルファの能力がある事も買われ部隊長に任命されたのかもしれない。
治療後、椎名の怪我は痕すら残らぬ程にまで回復していた。
後は体力面が心配だろうか。
相当動きっぱなしで疲労の色が濃く見える。
そこで役に立ったのが、ピスタの街で購入したポーションであった。
椎名、工藤、アーバン、そしてもう一人アーバンと同行した騎士の四人でそれぞれ回し飲みをし、皆全快とは行かないまでも充足な回復は得られたようである。
「しかし本当にお前の行動はどうかしているな。私達を戦線から離脱させておきながら結局何だこのザマはっ」
不意にアーバンが未だ俯きしゃがみ込んでいる椎名へと苦言の言葉を放つ。
それには椎名も苦い顔をするしか無い。
「……ごめんなさい」
素直に謝罪の言葉を述べる椎名にアーバンは尚も追い討ちを掛けた。
「更に自分一人では許容しきれないと分かった途端あっさり諦めてしまうとはな。お前のような者が戦いの場に於いて一番質が悪いのだ」
「……ごめんなさい」
「何だ、謝ってばかりだな。あの時の威勢の良さはどうした? びびって怖じ気づいたか?」
「……」
アーバンの言葉に、椎名は何も言えずただただ謝るばかり。
椎名からすれば本当の事だから受け入れるしか無いのだ。
だがそんなアーバンの言葉に対し、工藤が苦言を呈する。
「おい、いい加減……」
「まあ……何だ。それでも、騎士でも無い者に我々が助けられた事は紛れもない事実。実際今命があるのもお前のお陰だと思っている。……その、そんなに気を落とさないでほしい」
「え? ……」
工藤が文句を言い始める直前、間髪入れず今度は謝辞を述べ始める。
そんなだから工藤は勿論、椎名も顔を上げてアーバンを見つめている。
当のアーバンはというと椎名からは目を逸らし、明後日の方向を向いていた。
「隊長~、ホント素直じゃないッスね~。ここに来る前は必死に彼女を助けなければとか何とか言って一人で突っ走っていくもんだから、オイラもめちゃめちゃ慌てたんスよ~? このお嬢さんがえらく気に入っちゃって、助けずにはいられなかった、ってはっきり言ってもらわないと振り回されたオイラの溜飲が下がらないっス」
横から割り込んできたのは駆けつけたもう一人の騎士。
顔にはニヤニヤとした笑みを張り付けて、おおよそ騎士という雰囲気からはかけ離れているように見えた。
「――は!? リット貴様っ!? ふ、ふざけたことを言うな! 斬り伏せるぞ!?」
「えっ!? 剣抜きます!? 隊長マジすぎっス!!」
アーバンのこの姿を見て、工藤も流石に椎名には深く感謝しているのだと気づいた。
それと同時に椎名のあの行動はとても褒められたものではなかったけれど、騎士達の心を動かしたのだと誇らしくも思う。
「椎名、良かったな」
安堵の息を漏らしつつ、椎名の肩をぽんと叩く工藤。
だが未だ椎名の表情は暗いままだ。
その場に座り込んだまま俯き、明らかに沈んでいた。
いつもの彼女とは全く異なる。
「……ふむ」
これまでの椎名との付き合いの中で、こんな彼女を見るのは初めての事だった。
工藤の中の椎名は、どんな時でも明るく元気で笑顔を絶やさない。
皆の事をよく見ていて、いつだって前を向く勇気をくれる。そんなだったのだ。
だから今の彼女にはすごく違和感を覚えたが、工藤の中の椎名はどんな時でも諦めたりするような奴ではない。
仮に今は落ち込んでいるのだとしても、きっとまた直ぐに立ち上がり、自分達の前を颯爽と歩き始めるに違いない。
だからそんな時、自分が彼女の横に立っていられるように。彼女が前を向いて走れる場所を失くさないように精一杯今自分が出来る事をしようと、そんな風な決意を密かに胸に灯した。
さらりと一陣の風が吹き、ふと視界の中にヒストリア城のフォルムが浮かび上がる。
城は暗闇の中で星の薄明かりに照らされて不気味な程に荘厳な雰囲気を漂わせていた。
「……うしっ」
工藤は決意の眼差しを向けつつ、拳をぎゅっと握り締めたのだった。
「椎名。隼人や高野、それにアリーシャやフィリアさんはどうしたよ? まさか今お前一人で戦ってるってわけじゃないよな?」
工藤は改めて現状についての説明を求めた。
ずっと捕まっていたものだから情報がかなり遅れているのだ。
「……そうね。時間に余裕があるわけじゃないけど、工藤くんの力はこれから頼りになるし。できるだけかいつまんで話すわ」
工藤の問いに彼をちらとだけ見やり、これまでの経緯を話し始めようとする椎名。
いまだ俯くその表情の疲労の色は濃かった。
そんな折、騎士達が手を上げる。
「シーナ、といったか。その話、私達も聞かせてはくれないだろうか?」
彼は騎士の部隊長アーバン。
傍らには隊員のリットもいた。
「ええ。いいわ」
椎名は二人を見やり、ここまでの顛末を話して聞かせた。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「……まあ大体こんなところよ」
「まさかそんな……。ライラ様とホプキンス様が裏切り者で魔族だと……?」
アーバンとリットは大きく動揺していた。
それもそうだろう。
自分達が仕えている主が裏切り者で、そのせいで危うく命を落としかけたのだ。
更にその者達が自国の平和を脅かそうとしているなどと、俄には信じ難い。
「とにかく今はまずアリーシャと合流したいわ。多分ライラと戦ってるはず。ホプキンスも気づいたらいないし。アリーシャの強さは認めるけど、流石に一人は危険よ」
いつの間にかライラとホプキンスの姿はない。
自分達がレッサーデーモンの群れと必死に戦っている間に何処かへ行ってしまったのだ。
「けどよ、一体アリーシャはどこにいっちまったんだ?」
「……分からない。無事ならいいんだけど」
「あのう……。その事なんスけど」
「ん? えっと……リットくん、だっけ?」
「そうっス」
おずおずと手を上げたのは騎士の隊員リットだ。
彼の瞳は半開きのような状態で、その表情からやる気のなさが伺える。
「オイラ、アリーシャ様を見たッス」
「本当か!?」
アーバンはリットの発言に詰め寄るように彼へと近づいていく。
その行動に若干辟易した様子で後退るリット。
「ちょっとアーバンさん近いッス……」
「む……」
リットにそう言われ、アーバンは一歩だけその体を引いた。
それに満足したような表情のリットは改めて椎名に向き直る。
「最初にライラ様とアリーシャ様が剣を交えた時に、何やらぶつふつ話してたんス。内容まではよく聞き取れなかったんすけど、一頻り話をしたあと、アリーシャ様が頷いて、その直後に二人共どこかへ姿を消しちゃったんスよね」
「それって虚空に欠き消えたってこと?」
「あー……そうッスね。ちょっとびびったッスけど、今思えばそうッス」
「……まずいわね。それじゃあ精神世界で戦ってるってことかも。助けに行けないわ」
椎名は表情を曇らせる。
アリーシャは強い。ライラに重傷を負わせられたとはいえ、それは彼女が油断していたからだ。
油断のない彼女がそう簡単にやられるとは思えないが、流石に一人で魔族の渦中に紛れ込んではひとたまりもないだろう。
「助けに行けないもんなのか? 俺さっきもそこにいたぜ? 精霊たちと一緒だった」
「――ああ……あれね。無理よ。あれは契約の時だけなの。精霊と契約を結んでしまうと行くことができなくなるわ」
椎名は工藤の言葉から彼が言いたい事を大体察した。
彼女の言葉に工藤は首を傾げた。
「ん~? そんなもんなのか?」
「……そうね」
工藤はそれ以上何も言わなかった。
椎名が無理と言えば無理なんだろうと思うからだ。
彼女の頭の良さは彼も重々理解している。
自分では到底理解し得ない事も、彼女ならば簡単に理解していると思っているのだ。
「工藤くん」
「???」
「一度周辺を感知してくれない? 精神世界も含めて」
「ん? ああ。いいけどそんなら俺じゃなくても椎名の方が得意じゃね?」
椎名の申し出に工藤は得心がいかなかった。
感知ならどう考えても椎名の方が得意なのだ。
工藤の感知は基本地続きの場所に限られる。
例えば地面を通して地に立つ生き物や何処に何かがいる、というような事だ。
その精度もそれが誰なのか。どう言ったフォルムをしているのか、などといった詳細所までは分からないのだ。
先程広場のレッサーデーモンを感知した際も単純に数を把握できただけだ。
それに対し椎名の感知は風の能力。空気の流れなどから把握する力だ。
彼女の力ならば大きさや形、生き物なのかというような事まで把握出来てしまうはずだ。
人の形容までは分からなくとも剣を交えて戦っている者達を探せばいいのだ。
圧倒的に椎名の方が見つけられる確率が高いと工藤は考える。
「……できないのよ」
「え?」
「私、精霊の力がなくなっちゃったみたいなの」
「は!? まじかよ!?」
「……こんなの嘘ついてもしょうがない」
椎名は苦い顔でそう答える。
それには工藤も驚きを隠せなかった。
「それで……」
そこで流石の工藤も察する。
終始伏し目がちな椎名。彼女が元気が無いのはそういった理由があったのかと。
「うっし分かった! 俺に任しとけ! それに俺が精霊と契約を正式に結んでまだちょっとだからな。どの程度能力が変わったかとか知っときたいしな!」
「……そうね」
「はああ……」
工藤は精霊の力を解放。
ノームの力によりこのヒストリア王国の中を探り始めた。
広場の周辺から始まり町の中、地下水路など。正直町の中は人が多過ぎて分かりようがなかった。
「工藤くん。町や地下水路はいい。見てほしいのは城とその周辺よ。そこで戦ってるような動きの二つの陰を探してほしいの」
「ん? そうなのか?」
「ええ」
工藤の思考を読むように椎名がそう告げた。
今一得心がいかずとも工藤は黙ってこくりと頷いた。
「――ここかな?」
ヒストリア城の中はそんなに人が多くないように思えた。
今はその殆どが出払っているのだろうか。
城の中心辺りに何人かいて、他は城の居住区だろうか。
「……う~む……」
整然と並んだ部屋の中には結構な人がいた。
そうしているうちにやがて城の中心に向かっていく陰が三つ見えた。
「これか……?」
「見つかった?」
それらは移動しているだけで戦っている気配は無かった。
それに椎名の言う対象とは外れている。
「う~ん……わかんねえ……」
「――あっ、思い出したッス!!」
「んおっ!?」
その時急に大声を上げたのはリットだ。
皆が一度彼に注目する。工藤も一旦感知の手を止め彼を見つめた。
「何? リットくん。言ってみて」
「ライラ様とアリーシャ様の会話の中で、一つだけ聞き取れたことがあったんスよ!」
「分かったから早く要件を言えリット! 今は一刻を争うのだ!」
「む? ……言われなくても分かってるッスよ。訓練場ッス」
訓練場。
アーバンの言葉をめんどくさそうに受けるリットが言った場所はそこだった。
「訓練場? どこにあるの?」
「ヒストリア城の脇にドーム状の建物がある。それだ」
アーバンがリットの言葉を引き継いで代わりに答える。
「うしっ。了解」
それを聞いて工藤は感知を再開させた。
暫く目を瞑り様子を探る事数十秒――。
「……いたぞ! 陰が2つ、戦ってるっぽい!」
「っ。それよっ!」
訓練場内にある二つの陰。
間違い無い。アリーシャとライラだ。
時間は少し遡る。
ヒストリア王国の城下町、西の広場にてレッサーデーモンの精神世界からの転移の儀式が始まった頃。
アリーシャはそこでかつての師、ライラと剣を斬り結んでいた。
「はっ!」
ライラは流麗な動きでアリーシャの剣を受け止め、受け流し、全くつけ入る隙を与えない。
アリーシャもまた、その実力は達人の域であるというのに。
「この短期間で中々腕を上げたわね、アリーシャ」
涼し気な表情からは余裕が伺える。
アリーシャはライラのその余裕の笑みが気に入らない。
「ライラ、私と一騎討ちの勝負をしろ! 私が裏切り者の貴様に引導を渡してやる!」
「あら。おかしなことを言うわね。私は裏切ったのではないわ。最初から敵だったのよ」
「――!? ……くっ……おのれっ……戯れ言をっ!!」
「ふふ……」
ライラは悪戯っぽい笑みを浮かべつつアリーシャの様子を見て楽しんでいるように見えた。
そんなライラの挙動がアリーシャの心を益々逆撫でていく。
だがアリーシャにとっても簡単に心を翻弄されてしまう程にライラの存在は大きかったのだ。
アリーシャは余計な事を考えすぎぬよう、剣を強く握りしめ一層力を込めた。
「ヒストリア流――」
「バフォアッ!!」
ヒストリア流剣技の態勢に入った瞬間。
その剣がライラへと届く前に横からレッサーデーモンが襲い掛かってきた。
現場はかなりの混戦を極めていた。
アリーシャはまんまとその勢いを削がれてしまう。
「くっ……邪魔をっ……するなっ!」
力任せに横凪ぎの一閃を放ち、レッサーデーモンを吹き飛ばす。
ダメージこそ少ないが、衝撃を与え距離を取るには充分な一撃であった。
だがその瞬間、アリーシャはライラの姿を見失ってしまう。
「フフフ……ほ~ら死んだ」
「!!?」
アリーシャは戦慄した。
すぐ耳元でライラの囁くような声。
レッサーデーモンに気を取られた一瞬の隙に、完全に後ろを取られた。
その気になればアリーシャの命はまんまと刈り取られていただろう。
だがライラはそうしなかった。
もちろんライラ自身、こんな形での決着を望んではいないからだ。
「ここだと邪魔が入るわね。場所を変えない?」
涼しげな表情でそう告げる。
アリーシャは手に握る剣に力を込めた。
「いいだろう。……どこに行くのだ」
「……そうねえ。訓練場なんてどうかしら?」
愉しげにゆったりと言葉を紡ぐライラ。
髪をかき上げ遠くを見る。
「……訓練場か」
「いつもあそこでよく稽古したわよね。割と最近のことなのにすごく昔に感じるわね。私たちが決着をつけるなら、やっぱりあそこが一番じゃないかしら。思い出の場所だもの」
ライラはアリーシャの反応を楽しんでいるのか、うっすらとした笑みを絶やさない。
アリーシャはそれがどうしようもなく気に入らない。
アリーシャにとっても場所を変えるという提案は望むべく事だ。
先程のように横槍が入る事も無い。
ライラとの戦いに集中出来るし、騎士として正々堂々と戦って勝ちたいという気持ちもある。
だが気がかりなのは椎名の存在だ。
彼女を一人ここに残し、自分だけ何処かへ行ってしまうなど。彼女が一人でこの状況を切り抜けられるのか。
椎名をちらと見やればレッサーデーモンとの戦いに身を投じている。
とてもではないが悠長に話している暇など無い。
「…………」
「どうするの? アリーシャ」
アリーシャは逡巡しつつも覚悟を決めた。
いや、元より覚悟を決めてここにライラとの決着をつけに来たのだ。迷う道理は無い。
「……分かった。行こう」
「じゃあ決まりね」
「なっ!?」
その瞬間ライラの腕が伸びてきてアリーシャの体を鷲掴みにした。
引きずり込まれるように体が移動し視界が反転。町の景色から周り全てがグレイな世界へと変わる。
こんな細腕のどこにこんな力があるのか。
そのまま凄まじい膂力でライラに引っ張られながら、その世界を移動していく。
「うっ、くっ……!」
「心配しないで? こんな流れで殺したりなんかしないわ。ちょっと手っ取り早く移動するだけ」
身を捻ろうとするアリーシャの先手を打つようにそんな言葉が掛けられる。
確かにあのような提案をしておいてこのまま自分を殺すなどあり得ないとアリーシャも感じる。
彼女の性格からしてもそんな卑怯な手は使わないとも思えた。
最もそれは、アリーシャの知る中でのライラの性格でしかないが。
それでもアリーシャは今は一切もがくのを止め、彼女の意思に従う事にしたのだ。
――数刻の後、不意に視界に色が戻り二人はヒストリア城近くの訓練場へと身を移していた。
「着いたわよ」
「……こんな」
一瞬呆気に取られ訓練場を見ていたアリーシャだったが、ライラの手が離され再び気づいたようにすぐ様ライラと距離を取った。
「何だか緊張感が足りないわね」
「う、煩い! それは貴様の方だろうっ」
アリーシャの心を見透かすようにそんな言葉が投げられる。
アリーシャは半分図星ながらライラに毒づき腰を落とした。
対峙する二人。
満天の星空の下、薄暗いはずの訓練場は思った以上に明るく星々の輝きが二つの影を形作った。
このドーム状の建物の中、今ここにいるのはアリーシャとライラだけ。
アリーシャは頬に流れる冷や汗を、背中に走る冷たい怖気を感じずにはいられなかった。
改めて対峙してみてすぐに分かる。
やはりライラはとんでもなく強い。
私は本当にこの者に勝てるのだろうか?
そんな思考がアリーシャの脳裏を過る。
それほどまでにライラの身のこなし、動きの一つ一つが洗練されており、彼女がその気になれば 自分などいつでも殺せるのだろうと考えてしまうのだ。
そもそもここに至るまで完全にライラにペースを掴まれてしまっている。
アリーシャは不安を感じずにはいられなかった。
だが勿論アリーシャも負ける訳にはいかない。
勝てる勝てないの問題では無いのだ。
絶対にこの勝負、負ける訳にはいかない。
それはアリーシャの誇りの問題だ。
彼女の王女としての、騎士としての、そしてアリーシャ自身の誇りに懸けて絶対に負ける訳にはいかない。死んでも負けたくは無かったのだ。
アリーシャはこの戦いのためにヒストリアに戻ってきたと言える。
絶対に彼女を止めてみせるのだと。
自分のこの剣で彼女の信念ごと砕くつもりで。
だから物怖じしている場合ではないのだ。
アリーシャはライラを見据え、コクリと唾を飲み込みながら屯田に力を込め今一度自分を奮い立たせた。
「フフ……じゃあ、そろそろ始めましょうか」
アリーシャの覚悟の準備を待っていたかのようにそう告げるライラ。
二人はそのままゆっくりと互いの剣を引き抜き構えた。
アリーシャの脳裏には、何故か走馬灯のようにライラと剣を交えた日々が甦る。
迷いは無い。
後はこのままこの滾りに任せて自身の剣を思い切りライラにぶつけるだけ。
自分の全てを懸けて想いを貫くだけだ。
ふと夜の静寂を切り裂くように一陣の風が吹いた。
アリーシャの頬を柔らかな風が凪ぐ。
風の勢いに木の葉が空へと舞い上がり、ひらひらと回転しながら重力に従いゆっくりと落ちていく。
速度を上げる事も無く、ゆっくりと、秒速五センチメートルの勢いで。
やがて木の葉と地面が交わる。
それと同時に二つの影は陽炎のように消え去った。
命を賭した剣の師弟対決の火蓋が切って落とされた。