「何で!? 完全に撒いたはずなのにっ!?」

眠りこけていた椎名が気配を察知してなのか、驚愕の色をその表情に浮かびあがらせながら飛び起きた。

「よう、取り込み中悪いがアリーシャに話をしに来たぜ」

アリーシャは彼の顔を見て目を見開く。

「ベルクート!」

突然の闖入者は、先程私達に襲い掛かって来たヒストリア王国騎士団長、ベルクートであったのだ。

「――どうしてここがわかったの? ……完全に撒いたと思ったのに……」

椎名は空へと逃れた後、地上から見えなくなる程の高度にまで浮上していた。
更にそこから教会の真上に移動し、そこから下降するというかなり回りくどい進路を取ったのだ。
そして恐らく感知能力も駆使し、地上の敵には細心の注意を払っていただろう。
まさかここがこんなに簡単に見つかるとは夢にも思っていなかったのだ。それは彼女の挙動から容易に伺い知れた。
ベルクートは私達と一定の距離を保ったままフッとと笑みを作る。豪快に笑む口元からは白い歯を覗かせてクックックと楽しそうだ。

「嬢ちゃん。あんた精霊の能力に頼りすぎなんだよ。あんまり警戒してくるもんだからちょっと気配を消させてもらったら簡単に引っかかるんだもんな」

「!? まさか……そんなっ……!?」

驚愕の表情を浮かべる椎名。彼女がこんな顔をするなど珍しい。だがそれも頷けるのだ。
一言で気配を消すとは言ってもこれは容易な事ではない。
椎名の風の感知から逃れる事は不可能とすら思えるからだ。
自身が動いている限り、空気の流れや存在を完全に絶ち切るなどという芸当をこの男はやってのけたというのだろうか。
一体どういう原理なのかは解らないがそれを平然とやってのけたと言うこの男は、紛れもなく強敵と言えよう。
それに彼の内に秘めたる闘志だろうか。燦然たるその輝きが私の目にとても眩しく映っていた。

「――とにかくだ。やっと会えたなアリーシャ」

そんな私達の警戒とは裏腹にベルクートは世間話でもするかのようにリラックスした立ち振舞いだ。
視線をアリーシャの方へと移した彼は身構えている私達を全く気にする様子がない。一見隙だらけのように見えてしまう。
それだけ私達など取るに足らない相手だと認識されているのだろうか。

「ベルクート。ここへ私を捕らえに来たのか? 王国の裏切り者として」

アリーシャは身構えこそしなかったが確かな緊張感を伴ってベルクートに語り掛けた。そんなアリーシャをベルクートはまたも一笑に付した。

「はっ、国はお前が裏切り者だって言っているんだが――そうなのかよアリーシャ」

顔には変わらず笑顔を張り付かせてはいるが彼を見つめる私の鼓動はどくんと高鳴った。
彼の発する空気がびりびりと圧力をかけてくるような。強すぎるプレッシャー。
なまじ相手の心の強さを読む能力が備わっているだけに、これは辛い。
ただそこにいるだけで私は完全にベルクートに萎縮させられてしまっている。
私は強い危機感を抱きつつも、何も出来ずにその場にただ固まるだけしか出来ずにいた。
まるで蛇に睨まれた蛙の如くその場から動けない。
そんな中アリーシャは私の横を通り過ぎ、ベルクートの前に立つ。
実際の距離は数メートル離れてはいるものの、その気になればこれは彼の間合いの内なのだろう。一瞬で斬り捨てられてもおかしくはなさそうである。
そのプレッシャーを跳ね退けて前に出ただけで最早賞賛に値する所業だ。
それとも昔からの馴染みであるが故の確かな信頼だけで動けているのか。
このタイミングでベルクートがアリーシャを絶対に斬り伏せるはずがないという予測だけで。

「ベルクート、私は生まれてこの方一度たりともこの国を裏切ったことは無いっ。それは騎士の誇りに懸けて誓う」

アリーシャは毅然とした態度で堂々と言い放った。
凛として美しく、神々しいとさえ思える。
アリーシャの答えにベルクートは一瞬だけ満足気な表情を見せたように思えた。
それと同時に張り詰めた空気がほんの一瞬だけ緩和されたように感じられた。
だがその直後の事だ。
その熊のような巨躯から突如として嵐のような圧が迸った。

「――ぐっ……!」「きゃっ!?」

そのプレッシャーが物理的な風を伴って私達を吹き飛ばそうかという風力を体に叩き付けてくる。
体験してみて今までのものがいかに生易しいものだったのかがわかる。
私も椎名も美奈も。全員が完全に気圧された。
剣気、などというものは体感した事はなかったのだが、これがそうなのだろう。
魔力でもマインドでもない。ただただ純粋な力の奔流が私達の全身を包み込んだのだ。
ビリビリと肌に触れる硬く重い鉛のような空気が、私の鼓動を早め、背中に冷ややかな汗を伝わせてゆく。

「アリーシャ、お前が言いたい事ぁ分かった。だがな、言葉だけじゃ俺も立場上退けねえんだ。もしその言葉が本当だってんなら、今からこの場で俺にそれを証明してみせろ」

ベルクートはゆっくりと腰を落とし、抜刀の構えを取った。

「――っ!? 皆、下がるのだ!」

気付けば叫んでいた。
瞬間私の体に戦慄が走り抜け、ぞわりと背中が怖気立つ。
そしてベルクートとこの距離にいてはいけないと、そんな事を思う。
それ程にこの男の放つプレッシャーは凄まじかった。
椎名やアリーシャも美奈やマルスさんを連れ、大きく後ろに下がった。
この場にいる全員が彼の剣気に圧倒され、室内の奥の壁際にまで下がらされた。

「ヒストリア流剣技――山」

静かにベルクートがそう呟くと、彼を中心にして水面に水滴が揺らめきその波紋を広げるように。私の目にはっきりと可視化された剣気のドームが映し出された。
ベルクートは静かにその場に佇み目を瞑る。
ともすれば一見隙だらけのようにも見える。だが実際そんな事をすれば細切れにされて終わり。
そんな未来を容易に予見してしまえる程に彼から確かな凄みを感じる。

「――アリーシャ?」

彼女はゆっくりと私達の前へと歩を進めた。
そしてこの技のギリギリ射程の外、という場所に立ち止まり、腰に携えた剣に手を掛ける。

「私に任せてくれ。いや、ベルクート相手に正直任される程の自信がある訳では無い。けれど私の覚悟を彼に示さねばならない。ヒストリアの姫であり、そして騎士であるこの私自身が!」

アリーシャも剣の柄に手を掛けて、抜刀の構えを取る。
腰を落とし低く構え、蒼黒の瞳が強く輝きその眼差しをベルクートへと向けたのだ。