「ストームプレス!!」
ケルベロスの真上に跳び上がった私は、そこから暴風を地上へと向けて放つ。
ケルベロスは体全体を覆い尽くす量の暴風にガクッとお座りのような形となって動きを止めた。
それでもやっぱり大したダメージにはなっていないらしく、低い唸り声を上げるだけでその場に止まっているのみ。
現在私は絶賛ケルベロスを足止め中だ。
か弱い女の子一人にこんな大きな魔物の気を引く役目を与えるのだからどんだけドMなのよ隼人くんと思わくもなかったけれど、私もこれがベストだと思うから仕方ない。
隼人くんの思考と私の思考は似ている。
いつも考えが到達する場所が同じというか、言葉少なくとも互いの思考が読めるからやりやすいのだ。
ケルベロスはかなりタフな魔物だ。
中途半端なダメージを与えてもすぐに回復してしまう。
そこで、倒すならばやっぱり一気に大ダメージを与えて押し切るしかないというのが私と隼人くんの見解だ。
けれどその大ダメージを与える役目は私じゃない。
能力の汎用性を考えても私は引きつけ役ってこと。
風の能力は総じて威力が弱い。
精霊と契約を交わしてからは、四級魔族を一撃で倒すほどの力は得た。
あれだけ最初苦戦していたのだからそれはそれですごいことのように思うけれど、実は本当はそうでもない。
彼らを倒す事は精神世界に影響を及ぼせる精霊の力を得た今となっては赤子の手を捻るようなもの。
彼らは思ったよりも脆いのだ。
精霊の力を得る以前はそもそも彼らに触れることすらままならなかったというか。そもそも存在している世界線がこちらと精神世界で異なっていたのだから、彼らに私たちが影響を及ぼすこと自体が無理な話だっただけで。
それが叶う力を手に入れた今となっては、四級魔族はそこら辺の雑魚の魔物と同様、大した相手ではなくなったのだ。
けれどこのケルベロスは違う。
この現実世界で物理的に硬い皮膚を持つ生き物なのだ。
圧縮した空気や真空波程度では傷一つつけられない。
風の能力は空を飛行したり、風の流れから周りの動きを察知したりと利便性はかなり高い。
けれど硬度の高い敵を倒すということには向いていないのだ。
硬度の高い魔物に傷をつけるだけなら攻撃力の高い武器で物理的に攻撃した方がよっぽど効果が得られる。
隼人くんの剣の攻撃に改めてそれを思い知らされた。
この辺は私のこれからの課題として心に止めておくことにする。
そんなこんなで私はケルベロスを打ち倒すための攻撃をするための囮となり時間を稼いでいるというわけだ。
けれどそんな最中。私は徐々にケルベロスの攻撃を見切り始めていた。
最初こそケルベロスの動きの速さや光線の威力には冷や冷やさせられたけれど、そのスピードにも次第に慣れたのだ。
1対1の勝負なら、私を捉えることは最早到底叶わないだろう。それ程の余裕が生まれ始めていた。
私はケルベロスの攻撃を避わしつつ、動きを翻弄しつつ、周りの風の動きを感じながら、この戦いの終わりを予見していた。
ようやく準備が整ったのか、私の元に頼れる仲間が近づいてくるのを察知する。
「そろそろかしら? アリーシャ」
「ああ、待たせたな」
「――??」
その気配を読んで彼女に声をかける。
するとどうだろう。私はそこで不可思議な状況に遭遇していた。
アリーシャがこちらへと近づいてきているのを察知したから今私は声を掛けた。
けれど振り向いた先に彼女の姿はどこにも見受けられない。
「え? アリーシャ、どこ!?」
確かにすぐ側にアリーシャの存在を感じる。
感じはするのだけれど視認することが出来ない。
それでも私はここだと思う場所を目を凝らして見つめ続けてみた。
「――あ」
するとどうだろう。うっすらと彼女の姿が空間に浮かび上がったのだ。
それはまるで不透明な幽霊のようだった。
ケルベロスはというと獣の嗅覚の鋭さからなのか、アリーシャの存在に最初から気づいているようで、そこ目がけて前足を振りかぶる。
「アリーシャ!?」
「――大丈夫だ」
アリーシャの元へ寸分違わず打ち据えられたその爪牙は、不思議と彼女の体をすり抜けた。
ケルベロスは勢い余って前につんのめりそうになり、それを既の所で堪える。
続けて今度は左の頭を伸ばし、アリーシャをその獰猛な顎で噛み砕こうとした。
「ヒストリア流剣技、林」
アリーシャは爪牙には目もくれず、力ある言葉と共に自身の剣を振り下ろした。
撫でるように。緩やかな速度で音も無く、剣がケルベロスの右側の首筋を通過していく。
「――ぎゅわうっ!?」
「――まじっ!?」
まるで手品でも見させられているみたいだった。
私がこれまでどんな攻撃を浴びせても、かすり傷程度しか負わせられなかったケルベロスの首。
それがアリーシャのたったそれだけの挙動でなんとかくりと折れ曲がり、ぐったりとした状態になってしまったのだ。
「……アリーシャさん、やっぱりすごい」
アリーシャの不思議且つ面妖な剣技を目の当たりにして、美奈は思わず感嘆の声を漏らしてしまう。
いなくなったと思っていたアリーシャが、いきなりケルベロスの前に現れたかと思うとその首を一つ、いとも簡単に斬り伏せてしまったのだ。
その流麗な動き、気高くも美しい彼女の勇姿に惚れ惚れとしてしまう。
ふうと短い息を吐き、美奈も眼差しを強くケルベロスを見据えた。
自分もアリーシャに続く。
美奈は深呼吸を一つして、再び魔法に意識を集中させた。
『魔法というのは私が思うに、頭の中のイメージがはっきりと思い描けるのならば発動できるものなのではないかと思うのだ』
隼人に助言された内容だ。
それをきっかけに、つい先程無詠唱での魔法の発動を体現した美奈。
だが、本来の目的はこれではない。
これはまだ次のステップへと移るための準備段階。
隼人に言われた助言にはまだ続きがある。
『魔法を発動するために自身のイメージだけでそれが成せるなら、裏を返せばそれはイメージさえ描ければ魔法を発動する事は可能だという事なのではないか』
隼人は美奈にそう助言した。
美奈にとって彼の言葉は他の何よりも信頼に値する。それだけ隼人の事を心から頼りにしているからだ。
そんな想いは何よりも人に力を与える。
今の美奈にとって、彼の言葉がこの世の理の全てであるとさえ思えているのだ。
隼人に対しそこまでの想いを抱く美奈。それにはこんな経緯がある。
ネストの村で村長にこの世界を救ってほしいと言われ、それを素直に聞き入れられなかった隼人。
そんな彼の想いを感じつつも味方になってやれなかった。
その事を美奈は後からすごく悔いたのだ。
何故彼に真っ先に寄り添ってやれなかったのかと。
彼の言葉を受け入れる自分であれなかったのかと。
だがそんな彼女に隼人はこんな言葉を聞かせてくれた。
『美奈はあの時正しい事を言って私に気づかせてくれたのだ』
と。
彼はいつだって優しい。自分の事を一番に想いやってくれる。
そんな彼の言葉をどうして信用できない事があろうか。
隼人がそうだと言えば全ての彼が予測する事象は真実になる。
美奈の想いは強くそう解釈できるよう仕向けられているのだ。
自分に自信が持てず皆の足を引っ張っていると思う自分に新たな道を示してくれた隼人。その想いに応えたい。
彼の言葉を心の中で反芻する。
ただそれだけで美奈の胸に大きな希望という力が生まれ出るような、そんな気がするのだ。
だからこれは証明だ。
自分が隼人がこの世界で正しいという事の証明をするのだ。
美奈は隼人の隣にいつもいて、彼を支えるパートナーであり、常にその場所に自身を置いておけるように。
今は純粋にそんな事を願い、彼女は魔法の詠唱に入るべく深呼吸をする。
『スターライトジャッジメント』
今回ピスタの街で美奈が得たライトニングギャロップの魔法ともう一つがこれだ。
この魔法の詠唱はこうだ。
『この身に宿りし光のマナよ 空に散りばめられし光となれ
今ここに 万物を消し去る神の力となりて 彼の者に降り注げ
一切の塵芥すら残さずに 光は神々の裁き 彼の者に降り注げ』
この魔法のイメージは結局美奈には持つことは出来なかった。
発動する事は叶わない。それは今も同じ。
だが隼人は全く別の切り口で美奈へと助言を持ち掛けてくれた。
その助言から導き出された美奈の答え。ふうと短く息を吸い込む。
「この身に宿りし光のマナよ」
美奈のその柔らかな唇から小鳥の囀りのように言葉が紡がれる。
その瞬間大気が震えた。
以前はこの一節を唱えても何の変化も起こらなかったというのに。
今回は魔法が形成されているのだ。大魔法の初動が静かに、だが確かに築かれつつあった。
「空に集められし雷となれ」
美奈の脳内には確かなイメージが描かれていた。
呪文の改変――。
隼人が教えてくれた事。それはイメージが出来ないならイメージ出来るようにしてしまえばいいという事だった。
結局詠唱とはイメージをより具現化、具体化させるものだ。
隼人から詠唱をこう言ってみてはどうかと言われた時は狐につままれたような思いであった。
だがこの詠唱なら言葉から確かなイメージが描ける。それによりイメージは確かな形となって美奈に魔法という力を具現化させていく。
「今ここに 万物を消し去る神の力と成りて 彼の者に降り注げ」
美奈のイメージに共鳴するかのようにケルベロスの頭上に稲妻のような光が巻き起こる。
「う……くっ……」
美奈が詠唱の途中で顔をしかめた。
流石にスケールが大きい魔法だけあって、身体の中の魔力が根こそぎ持っていかれるかのような消失感と虚脱感が彼女を襲うのだ。
これは全くの予想外。
だがそんな事、美奈が皆の役に立つために引き換えると思えば些末な事だ。
少し疲れるくらい何ともない。
自分の大切な人が血を流し、膝をつき倒れていくのを何も出来ずに見ている事しか出来なかった、その恐怖と絶望に比べたら。
美奈は笑った。頬に汗を滴らせながら、敵であるケルベロスを見据えながら、にっこりと。
自分が無理をする事で大切なものを守れる。大切なものを守るだけの力が自分にも宿っているという証をその身に感じながら。
ゆっくりと右手の人差し指をケルベロスへと向け、詠唱を継続していく。確かなイメージを確実に形にするために。
「一切の塵芥すら残さずに 雷は神々の裁き 彼の者に降り注げ」
詠唱の一語が重なる度に稲光が巻き起こり、大きさを増していく。身体中の力が根こそぎ持っていかれる。
美奈は今一度地に着ける足に力を込めた。
後はこの魔法を完成へと導くだけ。美奈は自分の中に在るありったけの魔力を絞り出すように唇を噛み締めた。
『隼人くん、ありがとう』
心の中で謝辞を述べ、今は姿が見えない愛しい人の事を思い浮かべる。それだけで身体が少し軽くなったように感じる。
そして思い描いただけの形を、この魔法に込められる全ての魔力が充たされた時、美奈は声の限りに力ある言葉を解き放った。
「ライトニングジャッジメントッ!!」
その刹那。迸る稲妻が。帯びただしい光状の奔流が。光の激流を生み出した。
光が視界を駆け巡り、眩いばかりの煌めきに少し遅れて怒号のような金切り音が耳をつんざきけたたましく辺りに木霊した。
ほんの一瞬の出来事だった。
その大きすぎる力の見返りとして、ケルベロスの右側の頭部は声を上げる暇も一切与えられずに、その姿を消し炭へと変えたのだった。
遥か彼方の地上に雷鳴の音が響き渡る。あれは恐らく美奈の魔法だろう。
とは言っても今いる場所は風の轟音が耳に煩く確信はない。
だが美奈はきっと、私の言葉を真摯に受け止め光の上級魔法を成功させたのだと思う。
彼女へと想いを馳せながら、私はと言えば遥か彼方の上空にいた。
椎名の操る風の能力により、空に上昇できるだけ上昇した後、自由落下を始めていたのだ。
私は手元のツーハンデッドソードをしっかりと両手で握り直し、スピードが増していく上空にて剣を構えた。
徐々に速度が上がり、目も開けていられない程の風圧が顔にのしかかってくる。
私はふと目を閉じる。
地上を見据えてしまうとその高度にびくついてしまうと思ったからだ。
ここは椎名に全てを託す。
目を閉じ、全神経を集中する。
「はあ……」
小さく、長い息が漏れ出た。
私はこの世界に来てからずっと、この世界が自分がいた世界よりもとても美しいと感じていた。
美奈も同じ認識を持っていたことは記憶に新しい。
それは景色の綺麗さや自然の多さ。また見知らぬ土地に対する新鮮さ。そんなものだと思っていた。
だがそれは果たして本当にそうなのだろうか。
私は思う。この世界の美しさには何か他にそう思わせる決定的な何かが在るのではないかと。
それは何か。
マナだ。
マナとは魔法を行使するに当たって、魔力を媒介としてこの世界に顕現し得る大いなる力の源だと言う。
私はこう思う。
それはきっと人がこの世界で持ち得る超常的な困難に立ち向かう力の根源なのだと。
確かに私は精霊の力の多くを使えなくなってしまった。
だがそれは自分の中の魔力が、自身のマインドが消失してしまったというわけではない。
たとえ精霊の助けがなくとも、その力を使いこなすことはできるのではないか。
できる。
少なくとも私はそう思っている。
精霊を感じられなくとも、魔力も、マインドも私の中に溢れているのだから。それはこの世界でずっと感じていることだ。
――――イメージしろ。
私の中にある力を引き出せ。
精霊の力など借りなくても私は戦える。皆と共に進んで行けるはずなのだ。
「――はああああっ!!」
列泊の気合いと共に私の中にあるマインドが溢れた。
それが強く握り締めた剣へと伝っていく。大丈夫だ。私はやれる――――。
「うおおっっ!!」
目を見開き、イメージの向こうにある形を顕現させるため、私は力ある言葉を解き放った。
「エルメキアソード!!」
手にした剣が神々しく光輝く。
私が思い描いていた通りに剣が輝き、光の粒子の膜のようなもので覆われた。
丁度目の前にケルベロスの首が迫っていた。
「ずあああっ!!」
私は力任せに思いきり剣を振り下ろす。
腕に一瞬衝撃が走ったが、刃は思った以上に鋭かった。ケルベロスの首の中へと剣は素通りするように入り込み、しゅるりと首を切り落としてみせた。
滑らかにケルベロスの首は胴体から切り離されとさりと地に落ちる。
断末魔の声すら上がらない。
やってやったぞ。
そう思ったらすぐに地面が目の前に迫る。
余りにも勢いが殺され無さすぎて地面に激突するかと思われた
「はあっ!!」
そう思った矢先、椎名の声が近くで聞こえた。
再び風の能力を発動したのだろう。
私の体は地面に激突するほんの数センチ手前で強い浮遊感に包まれ停止。最後にポスンと地面に尻餅をついたのだった。
直後にケルベロスの体はさらさらと砂のように消失していく。
残ったのは黄色い魔石だけ。
私達を苦しめた三つ首の魔物はようやく倒されたのだった
「ふう~っ! けっこうしんどかったわね~……」
椎名が額の汗を拭いながら呟く。
とことことこちらに歩いてきて私達へと手を差し伸ばした。
その手に掴まり私は立ち上がる。
「何とか倒せたな」
「ほんと、無茶なこと言うんだから」
「うまくいったろ?」
「私のお陰でねっ」
私達は軽口を叩きながら、にこりと笑顔を交わし合う。
「最高は見事だったぞ、ハヤト」
気がつくとアリーシャもすぐ近くにいて優しく微笑んでくれていた。
その向こうには美奈もいて、小走りで私の元へと向かう。
「隼人くんっ、だいじょうぶ!?」
「ああ、大丈夫だ」
超スピードで落下する私を目の当たりにしていたからだろう。
美奈は心配そうな顔で下から私を見上げていた。
だが私としては自分より彼女の方が心配だった。
というのも顔色は少し血の気が引いて青白く、ふらついているように見えたからだ。
身の丈に合わない高位な魔法を使用したからだろう。いつ倒れてもおかしくないように思われた
「美奈こそ大丈夫か? 魔法は成功したようだがかなり辛そうに見えるのだが……」
美奈の肩に手をやり支える。
彼女は薄く微笑むと首を横に振った。
「ううん、そんな事ないよ? 疲れよりも今は皆の力になれた事が嬉しいから」
その表情にはやはり疲れは見えるものの、笑顔は実に晴れやかだ。
「そうか……良かった」
彼女の笑顔に私の胸は安堵感に包まれる。
そんな私を嬉しそうに見つめ、穏やかに笑う美奈はとても美しかった。雪のように白い肌がまるで彫刻かと思わせるほどに。引き寄せ抱きしめると彼女の温もりが胸に広がる。
「隼人くん……痛いよ」
「美奈……」
「ちょっと……あんたらねえ……」
「「っ!!?」」
気づいたら二人の世界に入り込んでしまっていた私達に非難の声が飛んできた。
見ればアリーシャも顔を真っ赤にして俯いている。
「このバカップルがっ!!」
「いたっ」
「いてっ!」
椎名の叱責と共に飛んできたチョップを甘んじて受けた。
まあ何はともあれケルベロスに何とか勝てた。
黄色い魔石を落とす程の魔物だ。よくやったと自分達を褒めたい。
とは言っても赤、青、黄の順番に魔物が強くなっていくはずだ。
ようやくこれで三段階目。まだまだ強い魔物はいくらでもいるのだろうとは思うのだが。
ここから更に緑、白、黒と段階的に強くなっていくのかと考えると気が遠くなりそうなので、今はそれ以上の思考には一旦蓋をして、安堵の息を吐く。
それでも今は少しだけ自分達の力が誇らしい。
私は微かな胸の高鳴りと、達成感という余韻に浸っていた。
この戦いで得たものは、きっとこれからの戦いに向けて大きな力となるものなのであろうから。
「さて……と」
ケルベロスを退けた私たち。落ちているユニコーンナックルを拾い上げつつ、私は戦いの最中に手放してしまった馬車を探すため感知を巡らせた。
正直けっこう疲れたから休みたいとは思うけれど、馬車を確保して、当初の予定通りヒストリアへと向かう道中でしばし休息を取ればいい。
「??」
感知の目を広げた私の頬に、ふっと鋭く風が薙いだ。
それで私は何気なく瞬きを一つ。その瞬間目の前の景色の変化に鼓動がとくんと跳ねる。
「――えっ!?」
「あれ……? 隼人……くん?」
「ハヤト!?」
美奈もアリーシャも驚き声を上げる。
瞬き一つしている間に、近くにいたはずの隼人くんが忽然と姿を消したのだ。
「――まさか」
私はこの現象にすぐに思い至った。
きっとこれは精霊の仕業じゃないかと。
『うん。どうやらあっちの世界へ行っちゃったみたいだね』
風の精霊シルフの声が頭の中に響き渡る。
どうやら私の考えは間違っていないみたいだった。
「やっぱり。てことは契約して戻ってくるの?」
「え? めぐみちゃん?」
急に独り言のように呟かれた私の声に美奈が小首を傾げる。
いかんいかん。精霊の声は私にしか聞こえてないんだった。
「あ、美奈ごめん、こっちの話。今隼人くんのこと、シルフと話してて」
「あっ……」
私は手をぱたぱたしつつ不思議そうな面持ちの美奈に笑顔を向ける。
美奈にそれだけ言うと察してくれたみたいで、こっちを向いたままこくんと頷いてくれた。
『まあ戻ってきた場合はそういうことなんだろうね』
彼の返答には回りくどさが感じられる。
そんな言い方をされると嫌な予感がしてしまうのだけれど。
「何なのその言い回し。――いやらしい」
この子はいつも意地悪な言い方ばかりする。イエスノーでは答えようとしないのだ。
いつも気まぐれな感じの物言いで、目の前にいたら頭ぐりぐりの刑に処してしまいたい。
『あの……頭ぐりぐりとか止めてもらっていいかな。だからさ、戻ってくるには精霊とハヤトが契約しないといけないからさ。精霊が契約する気で呼び出したのなら戻ってくるってこと』
これも含みのある言い方。
けれど流石に言いたいことは分かる。
「マジか……」
それじゃあまるで精霊が契約する気もなく隼人くんを精神世界に引っ張り込んだという可能性も考えられるってことだろうか。
じゃあ何? 契約しなければ隼人くんは一生帰って来ないってことなの?
『まあそういうことになっちゃうかな』
「は!? そんなの自分勝手のわがままじゃんっ!?」
「めぐみちゃん!?」
「あ、いや、ごめん。なんでもない」
「??」
なんでもなくはないんだけど、私は思わず声を張り上げたことを謝罪する。
アリーシャも美奈も近くで私を不安そうに見つめている。
そんな二人に何事もない風に微笑む私。
ここで今の話を正直に話していらぬ心配をかけたくない。特に美奈には。
そもそもまだそうだと決まったわけではないのだから。
それに心のどこかでは大丈夫なんだろうとも思っていた。
なんだかんだ隼人くんのことだ。無事契約して戻ってくるんだろうと思ってしまうのだ。
『君は彼のことをかなり信頼しているんだね。ふむふむ。なるほど。」
何だかシルフの声音はどことなく嬉しそうに感じられた。それがちょっぴり癪に障るけれど、今は何も触れないでおく。それに実は今は悠長なことも言ってられなかったりするのだ。
『そうだね。よく気づいたもんだ』
思考する私の心の声を聞き、今度は感心したような声が漏れる。
私はシルフの声に自身の気づきを確信へと変え、口の端を上げて虚空のある一点を見据えた。
「それじゃあそこのあなた。たぶん魔族でしょ? いい加減隠れてないで出てきなさいよ」
「なっ!? 何を言ってるんだ椎名?」
中空に声をかける私にアリーシャが驚いていた。
彼女ほどの剣の達人でも気配を読んだりできないのだ。
その事に相手がいる場所というのがこちら側でない事を悟る。
でも私の感知には反応している。向こう側の気配が完璧に読めるわけじゃないけれど、シルフと正式に契約してからというもの、感覚がより鋭敏になったみたいだ。
これはきっと、精神世界に存在する気配じゃないだろうか。
『ククク……やるねえ』
突然どこから、という感じでもなく声が響き渡る。
それは女の人の声音だった。短い言葉尻に嘲りの気持ちが含まれているのが強く感じられる不快な声だ。
直後私が見つめていた空間が歪み、視界がぼやけた。
何もない空間が切り裂かれたようになり、そこから一人の褐色の女性が姿を現したのだ。
パチパチパチ……。
その女性は拍手をしながら表情に不敵な笑みを張りつかせていた。
アリーシャの師匠だって言ってたあのライラと同じように、見た目からは何ら私たちと同じ人のように見える。
「何なの? この人が魔族?」
美奈が目の前の彼女を見て戸惑いの表情を見せる。
それには同意見だ。だって確かにどう見たって人間に見えるんだもの。
見た目は四級以下の魔族とは明らかに違う。
それに身の毛もよだつような圧が、異質な存在感を放っていた。
アリーシャはこの女性の全身から立ち上る悪意を感じ取ったのか、鞘にしまった剣に再び手を掛けた。
「三級魔族ってとこかしら?」
私は平静を装いあっけらかんとした口調で呟く。
こういう時には雰囲気に呑まれないことが一番だとそう思うから。
あくまでもいつもの私の調子は崩さないのだ。
「クク……人間があたい達を区分するなんておこがましいにも程があるけどさ……まあそういう事になるのかねぇ……?」
その魔族は不敵な笑みを浮かべながら両手を広げた。目を見開き愉しそうにクククと笑う。
その仕草が私たちを小バカにしたようで胸くそが悪くなった。
何こいつ。――スッゴクやな感じ。
褐色の女性は悠然と佇み、余裕の笑みをその表情に張り付けている。
面積の少ない布地に身を包み、豊満な肉体を見せつけるように立ち止まって両腕を開いた。
ていうか……このセクシーさ絶対いらないと思うんだけど。
なんなのこの微妙に勝ち誇ったように見える感じ。なんかすっごくムカつくんデスケド……。
「まさかこんなにあっさりあたいのケルベロスを倒しちまうなんてねぇ……。お気に入りの子だったのにさあ」
彼女の口から出た言葉はケルベロスについてのことだった。
そこで私は察する。
この場所には似つかわしくない強大な力を持った魔物ケルベロス。
私たちを待ち構えていたかのような攻撃。
魔族の差し金なんだろうとは思っていたけれど、この者がそうだったのだ。
今までの戦いはいわゆる前座。ここからがいよいよ本番。三級魔族との戦いというわけだ。
前回ライラに会った時は気づかなかったけれど、三級魔族から立ち込める黒い気流――視認できる風の流れに私は怖気を感じずにはいられなかった。
冷たい汗が背中を伝っていくのがわかる。
この気流は魔族特有のオーラみたいなものなのだろうか。
とにかく強いであろうことは彼女から溢れ出るプレッシャーが物語っていた。
ていうか彼女が少し動く度にその豊満な胸がたおやかに揺れて、そのセクシーさが余計でちょっとイライラした。
「――グレイシー。あんたたちを殺す者の名前だよ」
不敵な笑みの中に狂喜が混じっている。
私の背中にさらに冷たい汗が滴り、ゾクゾクと肌が波打つような感覚に囚われる。
いつの間にか私はその場に動けずに立ち止まっていた。
それに気づいた私は顔から血の気が引いて、これ以上この場に止まるのは良くないと脳が警鐘を鳴らしてくる。
私は拳を握り締め、自分自身を鼓舞するように気持ちを奮い立たせた。
深呼吸するように空気をふっと肺に染み込ませ、風を纏いながらその身を中空へと舞わせた。
「うっさい! 私たちをつけ狙う魔族! あんたたちって本当にめんどくさいのよっ!」
そんな減らず口を叩きながら、気合いと共に一直線に褐色の魔族――グレイシーへと突き進む。
「――はあああっ!!」
私は右手に装着したユニコーンナックルに力を込めた。先手必勝だ。
グレイシーは私の特攻を気にするでもなくその場に止まっている。
ふと私の頭の中に違和感が過った。
この余裕の表情。――誘われてる?
「シーナ! グリズリーだ!」
「ゴバアアァ!!」
「――ちいっ!」
アリーシャの声とほとんど同時、地中から熊の魔物が飛び出し、その鋭い爪で私を引き裂こうと襲い掛かってきた。
私はとっさにユニコーンナックルでグリズリーの爪を往なし、力を利用して中空へと飛び上がる。
アリーシャの声があと一瞬遅ければ、この熊の魔物の爪に引き裂かれていただろう。
頭を冷静に保てなかった私の落ち度。感知を怠った。
「――あっぶないっ……!」
私は一度体勢を立て直すため、そのまま数メートル上空に一旦止まった。
同時に感知を張り巡らせる。数キロ先の森の中や山の麓まで。そこで私はある事態に気づく。
「――ウソでしょ……」
私の口から零れ出る驚愕の声。
きっかけは感知ではあるけれど、別に感知しなくたって分かる。遠くから重低な震動音が響いてきているのだ。
私はその方向に視線を這わせて更に目を見開くことになる。
「くそ……何よこれ……」
視界に広がる薄黒い塊。その中にチカチカと小さな赤い光が灯っている。
私たちが下りてきた方とは別の、少し離れた山脈の麓から、または空から。それらは地を這い回るうじ虫か何かのようにわしゃわしゃとこちらへ向かってくるのだ。
――魔物の大軍勢。
「――な……なんだと……?」
流石のアリーシャもそんな絶望的な呟きを漏らした。
私はその数の多さに言葉を失う。
数は優に千を超えるのではないだろうか。
ピスタの街で魔族50体を相手取った時も多勢に無勢とは思ったけれど、今回に至ってはその20倍以上。
鼓動が早鐘を打ち、この先の戦いを想像して身体全体が打ち震える。
「ククク……あたいは魔物共を操るのが得意でねえ……。ちょいとこの辺に集まって来てもらってるのさ」
グレイシーはグリズリーの傍らへと移動し、依然として不敵な笑みを浮かべている。
道理で道中魔物が見当たらなかったわけだ。
ケルベロスから少し離れた場所に魔物たちを集め、待機させていたのだろう。
私もマインドの無駄使いはしたくなかったので、そこまで警戒の根を張り巡らせていなかったのが仇となった。
けれど不幸中の幸いだったのはケルベロスの打倒にそこまで多くの時間を擁さなかったことだ。
もしあれ以上苦戦していたら、今頃両者に叩き潰されていただろうことは想像に難くない。
「……ふう」
一度私は軽く深呼吸する。
ここからどうしていくか。思考することを止めちゃダメだ。
こんな事で絶望的な気持ちになっている場合じゃない。
私は首を振り、自身を鼓舞するように頬を両手でぴしりと叩く。
改めて私はこの先の対応について思考を巡らせていく。
私が魔物の相手をしている隙に魔族を美奈とアリーシャに倒してもらうか。その逆か。
それとも魔物たちがここに到着する前に魔族を一気に叩くか。
考えはするけれど、いずれにしても難しい気がした。
そもそもこの三級魔族が先程のケルベロスより弱いとは思えない。
私自身、戦いの相性としては体の硬いケルベロスよりもグレイシー相手の方が分がある気はするけれど、あの数の魔物を美奈とアリーシャの2人だけにに任せるなんて。それこそ物量に一瞬にして呑まれてしまうだろうことは想像に難くなかった。
かといって美奈とアリーシャに魔族を任せるにしても、美奈は魔法という力を手にしたものの、おそらくそれは魔族には有効にはならない。
結局のところ彼女は未だ魔族に対抗し得る手段を持ち合わせていない状態なのだ。
更に先ほどのケルベロスとの戦いで大魔法を放ったため消耗も一番激しい。
「――私が食い止めるしか、無いわよね……」
そう呟きつつ全部ほっぽっといて逃げるっていう手段もあるなとは思っているけれど、それもそれでちょっとキツい。
隼人くんが戻ってきていないのだ。
彼はきっと今精神世界にいる。精霊と会っているに違いないのだ。
もし私たちがここから逃げた直後に彼が戻ってきた場合、魔物の群れのど真ん中に一人きりにさせてしまうことになる。
精神世界の方が時間の流れが遅いので、戻ってくるのに時間は掛からないとは思う。
だからやはり隼人くんと合流してからでなければ意味がない。何より美奈が納得してくれるはずがない。
「あーもうっ! せめて隼人くんと合流できれば……全く……どうしてこう次から次に!」
私は向かって来る群衆を見据えながら、苛立ちを隠せないでいた。てかちょっとへこみそうよこんなの。
それでも地響きはどんどんその音量を増してゆく。考えてる暇なんかない。
とにかくまずは動かなきゃなのだ。
「――ここは……一体何なのだ……?」
ケルベロスを打ち倒した直後。少しばかり余韻に浸ってしまっていた私は、気がつけば先程とは全く別の空間にいた。
周りの景色は全てグレイ一色。先程まで一緒にいたはずの美奈達もいなくなっている。というよりか現状を鑑みるに私一人だけこの場所に飛ばされてしまったと見るべきか。
とすれば考えられる事は一つ。
「精霊か」
「ウチじゃ」
「っ!!」
急に背後で、私の呟きに呼応するように声がした。
驚き振り返るとそこにはロングソードを携えた一人の少女の姿があった。
彼女を見た瞬間、不思議なことに妙な既視感を覚えた。
そう思った途端、ある記憶が心の奥底から浮き上がってきた。
水面に浮き輪が浮上してくるように。これは、今朝の夢の記憶――。
「――お前は……朝の」
「そうじゃ」
少女は眉一つ動かすことなく、無表情で私を見つめている。表情からはこの行動の意図が読み取れない。
確か朝の時点では私の事が嫌いで、力を貸さないというような事を言っていた筈だが、一体どういう風の吹き回しだろうか。
「何故ここへ私を連れてきた?」
「ハヤト……お主に聞きたいことがあるのじゃ」
「――」
私は正直かなり焦っていた。
戦いは一つの区切りを迎えた。椎名や美奈、アリーシャに危険はないだろう。
だが私はどうか。急にこんな所へと連れて来られ、この後皆の元へ帰してもらえるのだろうか。
彼女の私に対する想い次第ではこちら側に無理矢理囚われるという可能性もあるのではないか。
そんな事になったら私には為す術がない。
だが今この精霊は私に聞きたい事があると言った。
私と話がしたくてこっちへ連れて来たことは明白。
ならばどうあってもここで彼女を説得しなければならないのではないか。
とにかく彼女の言う言葉に耳を傾けてみよう。
最善は彼女との対話の末契約を結び、精霊と共に元の場所に戻ることだ。
そこまで考え、私はその場にしゃがみこみ、彼女と目線を合わせ向き合った。
「聞きたい事とは?」
そんな私の目を見つめる精霊。一瞬目が少し見開かれた気がした。
「――お主は何故力を求めるのじゃ」
前回会った時はまともに目も合わせてはくれなかったのに、今回は真剣な眼差しで私の目をじっと見続けている。それだけでも大きな進歩と言えた。
これは返答次第では、力になってくれると見てもいいのではないだろうか。
となればここでの回答が今後の命運を左右すると言ってもいい。
だが彼女が一体どういった返答を求めているのか今一検討がつかない。
ただ今朝から今までの私の行動は見られていたはずだ。
ここまでの行動の中で、何か彼女の意思を変えるようなものがあったのかもしれないとは思う。
とはいえそれがどういったものなのかは見当がつかない。ここは偽りない気持ちを吐露するのが最善と考える。
私は小さくほうと息を吐いた。
「何故……か。今まで必死でここまで来て、いちいち考えている余裕は無かったな。だが何故かと聞かれれば、答えは簡単だ。大切なものを守るためだ」
力を求める理由など考えてもそんな事しか思いつかない。
というかそれ以外に何かあるのかとすら思う。
「大切なものを……守る」
少女は私の言葉をそのまま復唱し、しばらく考え込んでいた。
こんな答えで大丈夫かとも思うが、それが私の本心であるのだから仕方無い。
もし仮にこのまま上手く事が運び、いざ契約という状態になれば私の心の内は彼女に筒抜けになるのだろう。
そうなった時、今私が嘘の答えを言っているのならばこの少女を少なからず傷つける事になるのではないか。
些細な事かもしれないが、これから命を預けるかもしれない相手に最初から信頼を置かないというのも悲しい事だ。
ここはやはり駆け引きなど一切無く、自分自身の正直な気持ちで向き合うべきなのだ。
「…………」
精霊は暫く黙り込んでいる。どこか迷っているようにも見えた。
だがやがて意を決したのか、再び私の方を向いてしっかりと私の目を見つめ、思いもよらない反応を見せた。
満面の笑みを作り、朗らかに笑ったのだ。
まるで蕾が花開くように、可憐に。年相応に。
精霊なので実際の年齢はかなり上なのかとも思うが目の前の少女然とした精霊は角が取れたように親しみ易く見えた。
「どうやらウチは少し勘違いをしていたようじゃな。お主の言葉、信じるのじゃ。これからの戦いに、ウチも連れていってくれ」
「え!? い、いいのか?」
意外すぎた。
望んでいた回答ではあるものの、あまりにもあっさりとし過ぎて逆に拍子抜けしてしまう。
朝から今に懸けてどういう心境の変化があったのかは分からない。
だがとにかく精霊の力を借りられるというのならこんなに心強い申し出はない。
そうこう考えている内に彼女は私の目と鼻の先まで近づいてきた。というか急に近い。近過ぎる。
「うむ、ウチに二言はないのじゃ。とは言ってもウチはお主に対する疑いを完全に晴らしたわけではないぞ? だからお主と契約を結び、監視させてもらうことにするのじゃ。わかったら早く手を出すのじゃ、ハヤト」
そう言いながら彼女は小さな手を差し出してきた。
その小さな掌はただの少女のようだ。彼女が精霊と言われても俄には信じられない。
そんな彼女はさっきまでとは全く正反対の朗らかな空気で私に接してくれている。
疑いとか監視とか、言っている事自体は若干物騒で、今一意図は理解出来なかったが正直少し安堵している自分もいた。
とにかくここで私に契約を結ばないという選択肢はない。
私は今すぐにでも現実世界に戻りたいのだ。
私は精霊に言われるまま、右手を差し出した。
「分かったのだ。それで……お前の名前は?」
「バルじゃ!」
これまでで一番の元気良さで答えるバルと名乗る少女。
その名前に私のいた世界でピンと来る精霊は思い浮かばなかったが、精霊に抱く私のイメージには似つかわしくない、明るく元気一杯な雰囲気を見せた。勿論良い意味でだ。
もしかしたらこれが本来のこの精霊の振る舞い方なのかもしれない。私も自然と口角が上がってしまっていた。
「バル……。分かったのだ。ではよろしく頼む」
「うむ」
そして私は彼女の小さな手を取る。
人と何ら変わりのない、弾力のある柔らかな少女の手に触れながら、ここから精霊バルとの冒険が始まるのかとまるでゲームの主人公か何かのような厨二病のような所感を抱いてしまった。
そんな事を考える暇もなく、二人の体はやがて眩い光に包まれた。
目の前が真っ白になり、身体は心地良い浮遊感に包まれる。
揺りかごの中にいるような感覚に包まれながら私はバルに語り掛ける。
『さあ行こう、私達の世界へ』と。
平原の緑、真っ青に広がる空。
鮮やかな彩りに包まれた世界に一瞬目が眩みそうになる。
色のある世界だ。私は無事、戻って来れたようである。
ホッと安堵の息を漏らしつつ、そんな場合ではないと大きく目を見開く。
一体これはどういうことだろうか。
大して時間は経っていない筈なのに、明らかに先程までとは状況が違っている。
ケルベロスを倒し、その後すぐに事は起こったというのだろうか。
山の麓に目をやれば、そこには夥しい数の魔物の群れ。それらがこちらへと向かって来ているではないか。
「――まさか……あれは全て魔物か?」
「隼人くん!」
聞き覚えのあるその声に顔を向けると、そこには美奈、椎名、アリーシャの三人の姿が。
私はすぐに合流できたことにほうと安堵の息を漏らす。
「隼人くん、大丈夫?」
「ああ、大丈夫だ」
ぱたぱたと近くまで走ってきて私の顔を覗き込む美奈に笑顔で頷く。
「だが、あまり状況がよろしくはないようだな」
「――うん」
視線を彼女達の少し向こうへと這わせると、熊の魔物が。それにあれは、魔族か。
色黒のおおよそこの場には似つかわしくないような肌を大きく露出させた女性が立っていた。
その見た目とは裏腹に、彼女の体には酷く醜悪でどす黒い靄が内包していた。
美奈と共に椎名とアリーシャの二人の元へ行こうとして、ふと歩を止める。
というのもマントが引っ張られて首ごと後方へとひっくり返りそうになったのだ。
「――んなっ!?」
そちらに顔を向ければそこには一人の少女が立っていた。
言うまでもない。先程契約を交わしたばかりのバルだ。
それはいいのだが、私は彼女の行動の意図が分からず思わず首を傾げる。
「――バル? 何故出てきているのだ? てっきり私の中にいるものと思っていたのだが……」
私の言葉にバルはふんと鼻を鳴らし、こちらを見た。
そもそも精霊とは基本的に契約者の中にいるもの。
外側に具現化することも出来なくはないのだろうが、それにはある程度力を消費すると認識している。
実際椎名の連れている精霊シルフは、基本的に外に出て来る事は無い。
昨日宿屋で姿を目撃して以来出てきてはいないのだ。
そこはバルも同じだと思うのだが――。
バルはそんな私の考えを察してか。しばらく彼女を見つめていた私に不満そうな視線を向けつつ眉根を寄せていた。
「何じゃハヤト。ウチはハヤトとこちら側の世界に来た。それに何の不服があるというのじゃ?」
「いや――まあいい」
今はそれについて協議している場合でもない。
まだ精霊についての知識も不充分なのだし、一旦は目の前の問題に向かうことにする。
「分かった。では皆に軽く紹介だけしておく。こっちへ来てくれ」
「嫌じゃ。移動は疲れる。ハヤト、おんぶじゃ」
「は……?」
バルをそう促し連れようとした矢先、そんな言葉が彼女の口から放たれる。それには流石に私も少々面食らった。
しばらく思考が停止したように言葉を失う。
「だからっ、ウチは疲れているのじゃっ! ハヤトッ! おんぶなのじゃ!」
更に追い打ちを掛けるようにバルはその場にへたり込み、だだっ子のように手足をジタバタとバタつかせたのだ。
「――む……う……」
「早くするのじゃハヤト。さっさと乗せるのじゃ」
「うおっ!?」
私が逡巡していると、バルは私の背中にぴょこんと飛び乗ってきた。
「早く、進むのじゃっ」
「う……うむ」
戸惑いつつも仕方なく足を送り出していく。顔を上げた際にその一部始終を見ていたであろう美奈と目が合う。
何だかとても恥ずかしい気持ちになったが、取りあえず何か言わなければと思う。
「――私の精霊のバルだ」
「えっと――うん。そうなんだね……」
え? 何か気まずいんですけど?
この沈黙と逸らされた視線が痛いっ。
た……確かにこの状況下で幼女に駄々をこねられておんぶまでしてしまう自分に不甲斐なさみたいなものは感じるが、致し方なしではないだろうか!?
アリーシャも反応の仕方が解らず固まっている様子。
アリーシャ、そんな目で見ないでください……。
「ちょっと何やってるのよ隼人くんのあほっ! 遊んでる場合じゃないでしょおがっ!」
椎名の言葉に今度こそ私は我に返る。
彼女は流石と言うべきか、この短時間で先程までいた熊の魔物を一蹴していた。
褐色の三級魔族の方はまだ手加減をしているのか私達の状況を伺っているのか。その辺は分からないが、今のところ特に目立った攻撃はして来てはいないようだ。
私達の事を笑みを張りつけ舐めるように見ている。
「よし……あの女、せっかくだからウチが相手をしてやるのじゃ」
「は? バル?」
バルはそう言うと、急に背中から飛び降り腰に提げたロングソードを引き抜き前に出た。
彼女の横顔には余裕の笑みが浮かんでいる。
「隼人くん?」
「ここは任せてみよう」
「――うん、分かった」
戸惑う椎名は素直に私の言葉に従った。一旦魔族と距離を置き、代わりにバルが魔族と向き合う形となった。
ほんの少し、ピリついた空気が流れる。
「ククク……いいのかい? お嬢ちゃん、死ぬよ?」
「お嬢ちゃんではない。ウチはバルじゃ、露出女よ」
お互いに睨みを利かせ合う。そんな折、椎名が私の横に並ぶ。
「隼人くん、魔物の群れは私が何とかするからここをお願い」
魔物の群れはもう目と鼻の先まで迫っている。
確かにあちらも何とかしないとという状況ではある。
「椎名、だが流石に一人というわけには……」
「まあ何とかするわよ」
「椎名っ」
止める私の言葉を待たず、魔物の群れへと突っ込んでいった。
魔族は魔族でそんな椎名を黙って見送る。
どうやら興味はバルの方へと向いたようだ。
「お主ら二人もあっちへ行って構わんのじゃ」
バルは椎名を一瞥すると、続いて美奈とアリーシャに向けてそんな言葉を放った。
その事に私達は目を見開く。
余程自分の力に自信があるのだろうか。
一対一でこの魔族を倒せるとでもいうのだろうか。
彼女に内包する闇の濃度を見る限り、今まで出会ったどの魔族よりも強いのではないかと思えた。流石三級魔族といったところか。
「ハヤト、いいのか?」
アリーシャに判断を仰がれ逡巡する。
だがアリーシャも流石にあの数の魔物を椎名一人で相手にするのは無茶だと思ったのだろう。
どちらかと言えば魔物の方へと馳せ参じたいと感じているようだ。
そこで私も決断することにした。
「ではアリーシャ、美奈、二人共椎名を援護してくれ」
「――分かった」
「隼人くん、バルちゃんも、無理しないで?」
「うむ」
私の言葉に存外あっさりと二人は了承を示し、魔物の群れの方へと駆けていった。
あちらの方では椎名が既に派手に暴れているらしい。魔物の断末魔の悲鳴や時折空高く打ち上げられている様が見える。
これにアリーシャと美奈の二人が加わればある程度は持ち堪えられるのではないだろうか。
再び視線を褐色の魔族へ移すと目が合う。
ぞくりと背中に悪寒が走る。
ニヤリと浮かんだその笑みは余裕の現れか。やはりこの魔族、相当に強いと思った。
突如として魔族から黒いオーラのようなものが立ち昇る。
禍々しい揺らめきが黒い煙のように可視化され、おぞましい死神のように見える。
息が詰まり、冷や汗が頬を伝っていく。
肌で感じる。やはりこの魔族、四級魔族などとは比べ物にならないくらい強い。彼女から溢れるどす黒いオーラがそれを物語っている。
こんな者相手にバルは勝てるのだろうか。
目の前の少女の小さな背中を見やり、不安に刈られる。
だがそんな私の心配を他所に、バルは何事もないように突っ立ったまま。
「なんなのじゃお前は。ザコが」
「――っ」
つまらなそうにため息混じりに吐き出された言葉は思った以上に乱暴なもので。私は内心ひやひやした。
魔族はバルの言葉を受けて、明らかに気を悪くしたのではないだろうか。眉がぴくりと上下に揺れる。
「……そうかい、言ってくれるねえ……。ククク……雑魚はどっちかわからせてやるよっ!」
不意に魔族の姿が消えた。
気配も無い。
おそらく精神世界とこちらの世界を行き来しながらの攻撃だろう。
正直こんなもの今の私では全く捉えようが無かった。
「ハヤトはそこで見ているだけでいい」
そうとだけ言うと、不意にバルの手が動いた。
鞘から引き抜いていたロングソードをゆっくりと一凪ぎ。その後に剣を鞘へと戻す。
チンと小気味良い音がして、一瞬の静寂が場を包んだ。
「――がっはあああっっ!!? そっ……そんな……っ!?」
「――――っ!!?」
私は目の前の光景が信じられなくて言葉を失い目を見開く。
空間からにゅるりと姿を現した魔族の身体は真っ二つにされていたのだ。
「ああああ……お前は一体なんなんだあ~!?」
「ふん、やはりこの程度か。久しぶりの運動にもならんのじゃ」
地べたに転がる魔族に吐き捨てるような目を向け、それと同時に魔族の下半身は細切れになり消滅した。
「なにいぃぃぃぃっ!!?」
上半身だけになってしまった褐色の魔族は、起き上がり荒い息をつきながら上空に浮遊した。
その瞳には欠片の余裕もなく、ただただ息が詰まるような睨みを利かせている。
「――うぐっ……」
魔族の体からさっきよりも数段濃い禍々しいオーラが湧き上がり、その圧倒的な醜悪さに思わず顔を背けてしまう。
「食らえっ!!」
怖気が走るようなオーラが直径十数メートルにも膨れ上がり、バル目掛けて一直線に迫る。
端で見ている私は冷や汗が伝ったが、当の本人は涼しい顔で突っ立ったまま。
彼女の横顔を見つめていると、一度だけ瞳を瞬かせた。
たったそれだけのことで黒いオーラの塊はあっさりと消滅してしまったのだ。
驚愕の表情を浮かべる魔族。
「――何なんだ!? ……お前……一体何もの……」
魔族が言葉を言い終わらない内に、今度は魔族の両腕が吹き飛んだ。
「ぎゃああああああっ!!」
上空にいた魔族は落下し、とさっ、と思ったよりも軽い音を立てて地面に横たわる。
「くっ……、このグレイシー様が、文字通り手も足も出ないなんて……フフ……フフフフフ」
「何がおかしいのじゃ」
バルは特に興味も無さそうに、冷めた瞳でグレイシーを見下ろしていた。
「クククッ、おかしいさ。こんな所であたいが負けるなんてねえ」
「……死ぬのが恐くないのか?」
私は自然とグレイシーに聞き返してしまっていた。
明らかに自身の死が迫っているというのに、こういった時に笑うなど、やはり普通の感覚ではないと思うのだ。
グレイシーはちらと一瞬こちらを見やり、ニヤリと笑う。
「恐い? ……何だよそれは。魔族は滅びるために生きてる。あんたの言ってる意味はあたいにゃ分からないよ」
「滅びるために? ならば何故魔族は自分達だけで滅びようとしない。そんな事を言いつつも、我々を滅ぼそうとしてくるではないか。滅びが目的なら自分達だけで勝手にやってくれ」
魔族の目的が自分達が滅ぶ事にあるのなら、私達に危害を加える必要などないはずだ。
勝手に生きて、勝手に滅んでくれればそれでいい。他を巻き込まないでほしいのだ。
「はあ? おかしなことを言うねえ。ただ滅びることに何の価値があるってんだい。あたいたち以外の種族に絶望や苦痛をたっぷりと味合わせてからでないと意味がない。あたいたちはこの世界で最も崇高な種族。他種族は皆等しくあたいたちに絶望を与えられ、あたいたちに愉悦をもたらさなければならない」
「――っ」
グレイシーのその表情がこの上ない悦びに満ちていて、嫌悪感が体中を支配する。
言う事の意味は分かったがそれは到底理解出来るものではなかった。
――気持ち悪い。
魔族に対する率直な感想が胸に満ちて、どうしようもなく不快な気持ちになった。
こんな話、聞かなければよかった。
「クククク……、まあこれじゃああんた達の絶望に歪む顔を拝む前に滅んじまうけどねえ……そこは他の同族に託すことにはなるのかもしれないねえ……ククク」
笑いながらグレイシーは顔をことりと地につけた。
地べたを這いつくばっている状態だというのに何故か笑っている。私はふとそれに妙な違和感を覚えるのだ。
「そろそろ滅んでしまえ、ザコが」
面白くもなさそうにバルがグレイシーの半身を見下ろしている。やけに冷めた瞳をしていた。
バルもグレイシーの話を聞いて、それなりに怒ったり嫌悪しているのかもしれない。
ちらりとバルに目だけを向けて、グレイシーはそれでも笑っていた。
「ククク……あんた……ムカつくねえ――――」
――――――――っ!!!!
「――っっ!!?」
グレイシーの最後の言葉はそれだった。
彼女の体はそう告げた後、突如大きな光を放ち爆発を起こしたのだ。
「うぐっ……!?」
突然の出来事に対応が遅れる。
咄嗟に出来たことは自身の目と顔を覆えただけ。
目の前に大量の燐粉のようなキラキラした物が舞っていた。
それは私の周りだけでなく、遥か遠く。魔物の群れも巻き込んで視界が夥しい量の燐粉に支配される。
「ハヤト! とにかく今は息を止めてこの粉のようなものを出来るだけ吸わないようにするのじゃ!」
「――――っ」
私は声には出さず頷きだけで彼女の提案に肯定を示した。
バルも流石にこの行動は読めなかったらしい。私達はとにかく変な影響が出る前に一度この燐粉の範囲から抜け出そうと走り出した。
「皆! 集まって!」
事態を察した椎名が風を纏い、いつの間にか接近していた。
すぐに私の体は浮遊感に包まれ遥か上空へと逃れた。魔物の群れが豆粒程の大きさになる。
その頃には周りに散らばっていた燐粉もなくなり、範囲の外へと抜け出ていた。
周りには美奈もアリーシャもいて、私は安堵した。
「――ぷはっ」
と同時に肺の中に新鮮な空気を取り込む。
咄嗟に息を止めたので燐粉を吸うことは何とか免れられた。
「ふう……ここまで来れば問題ないわ」
眼下を見下ろしながら呟く椎名は相当疲弊しているように見えた。
無理もない。ここまでずっと戦いっぱなし。風の能力も相当駆使してのことだ。
それにどれ程のマインドを要するのかまでは定かではないが、決して余裕を持てる労力ではないことははっきりと伺い知れた。
かなり無理をさせてしまっているという自覚はあるがそれでも今の私にはどうしようもできない。
自分が情けなくもなるが今は彼女に頑張ってもらうしか手立てがないのだ。
「にしても一体何だったのだ」
眼下に目を落とせば夥しい数の魔物が蠢いているのが見えた。
「――まさか」
そこで私はその動きに違和感を覚える。先程よりも活発化しているように思えるのだ。
「うん。魔物たちが凶暴化してるみたいね」
椎名が私の意図を組んで、それに頷き肯定を示す。
「なるほど、そういう技だったのか」
彼女は感知の能力もあるのでより正確にそれを捉えられたのだろう。
先程の魔族の燐粉を取り込んだ魔物は凶暴化してしまう。そういった自爆技だったのだ。
確かにあれだけの数の魔物が全て凶暴化するとなれば、三級魔族一体よりも脅威ではある。
「どうする? 戦う? それなりにはやっつけたけど、正直簡単に勝てるような数じゃないわよ? むしろ部が悪い」
眼下に広がる魔物はまだ数えきれない程いる。それこそ百や二百では利かない。
美奈もアリーシャも大きな怪我こそ無いものの、相当疲弊している。
こんな状態であれだけの数の魔物と一戦交えるなど自殺行為だ。
「ハヤト、このままヒストリア王国まで行ってはどうだろうか」
思案しているとアリーシャがそう告げた。実を言うと私もそう考えていた。
「うむ、私も同意見だが――」
椎名の方を見ると彼女は大仰にため息をついた。
「は~……分かったわよ。結局こうなるのね」
椎名は心底面倒くさそうにそう答えた。
彼女に無理を強いていることは申し訳なく思うが、今は踏ん張ってもらうしかない。
「よし、では決まりだ。このままヒストリアを目指そう」
「りよーかい。じゃあ早いとこ行くわよ! ……って美奈、大丈夫?」
椎名が呼んだので美奈の方を向く。今まで一切話に加わっていなかった彼女は、少し血色が悪かった。
「美奈!? まさか今ので何か影響が出ているのではないか!?」
慌てて声を掛けるが美奈は笑顔で首を横に振った。
「ごめん。少し疲れただけだから、大丈夫」
「そ、そうか」
疲れた表情に見えたのはほんの束の間で、彼女は疲労は見えるものの花のような笑顔を咲かせた。
懸念するようなことはなさそうではあるが、先程の戦いで美奈はかなりの魔力を消耗したはずだ。
そう思った私は懐からあるものを取り出した。
「美奈、受け取れ」
「??」
「それはピスタの街で購入したマジックポーションだ。飲めば魔力を回復する効果があるらしい」
「ん、そっか。隼人くん、ありがとう」
美奈にマジックポーションを二本共渡し、残り一つはそのまま彼女に所持してもらうようにした。
マジックポーションを飲んだ美奈は、先程よりも幾分顔色が良くなったように見えた。
「中々気が利くわね。他にはないの?」
「うむ、これも皆に渡しておく」
椎名に聞かれたタイミングで買ってあったもう一つの回復アイテム、ポーションも取り出した。
「こっちは体力を回復するものだ。皆、一応飲んでおくといい」
「ありがとうハヤト」
アリーシャも笑顔でポーションを受け取ってくれた。そこから一旦小休止。空中ではあったが皆小瓶にはいったそれを煽る。
ポーションは青い色をしており、薬のような味を想像していたが、思ったより清涼感のある爽やかな味で飲みやすかった。
飲んでいる最中に体全体が青い魔力の光に包まれた。
同時に体にあった疲労感が嘘のように消えていく。
ほうっと口からため息が溢れた。
こんな空の上とはいえ、私達は一度ここでほんの少し息をつくことが出来たのだ。