結局寒さを凌ぐという問題に関しては、アリーシャのマントを椎名に貸すということで一旦の落ち着きを見た。
暫く美奈の薄ら寒い視線を背中に感じていたが、私はひたすらそれに気づかない振りをし馬車を走らせる。
生きた心地がしなかったが、ここは何とか時間が解決してくれるのを願う事にした。
それにしても女の中に男が一人とは想像以上に疲れるものだ。
両手に華と言えば聞こえはいいが、事ある毎に気を使う自分がいる。
こんなところで工藤のありがたみを実感させられるとは思いもよらなかった。
同性の旅の連れとは気兼ねなく良いものだ。
そんな事を考えていると、程なくして山の頂上を越えたようで、いつの間にか馬車は山を下り始めていた。
眼下にはだだっ広い平原が広がっている。
地平線の向こうにはもうヒストリア王国らしき町並みが視認できた。

「おお~っ!! 絶景絶景~!!」

お腹が減ったと言って、ピスタの露店で買ったというサンドイッチを頬張っていた椎名。
荷台の窓から見えた景色にテンションが上がったのか、そこから身を乗り出し感嘆の声を漏らした。
その気持ちは分からなくもない。
私も声には出さなかったが陽光に照らされる山の頂上からの景色というものはそれはもう絶景だ。
森や山々、青空、そしてその向こうに見える海。
近代的な景色とは異なるありのままの自然は、グランダルシに来てまだ数日の私にとって心が洗われるようであった。
ため息が出る程美しい景色に、今だけは陰鬱な気持ちも吹き飛ぶようだ。
しばらく青と緑のコントラストに目を奪われつつ、その先のヒストリア王国へと目を向ける。
王国の手前には川を挟んで橋が掛かっており、その先の島一帯が目的の場所なのだとか。
遠くに見える海が日の光に照らされてキラキラと宝石のようだ。その宝石の中に浮かび上がる王国。それがヒストリアだ。
水に囲まれた国。そこには何十万という人達が暮らしている。
流石に一つの国ともなればスケールがピスタとは段違いだ。

「――ねえ……あれ、何かな?」

不意に美奈が眼下に広がる山の中腹を指差してそんな事を呟いた。
そこへ目を向けると山の木々の合間に違和感のある黒い陰が見えたのだ。

「黒い……岩?」

 少し遠かったけれど、一見すると確かに椎名の言うように黒い岩に見える。

「あんな所に岩など無かったと思うが……」

よく通る道だからか記憶しているのだろう。
アリーシャは怪訝な表情を浮かべている。
その時だった。
黒い岩が蠢いたように見えたかと思うと、その中心から光が瞬いたのだ。

「!!? 違う! 皆、馬車に捕まって!」

椎名が突如として声を上げた。

「はあああっっ!!」

私達が御者台に掴まるかどうかというタイミングで椎名の気合いの声と共に馬車が再び空へと飛び上がった。
その一瞬の後、さっきまで私達がいた所を一筋の光条が通り過ぎた。
山は木っ端微塵に破砕され、草木や瓦礫が吹き飛んだ。
大気が震動する音が遅れて耳に届き、衝撃が馬車を襲う。

「何だっ……!!?」

「分からないがあれは魔物かっ……!!」

あれが何かは分からない。だが明らかに攻撃された。
衝撃が止み、その場所を確認すると、頂上付近の山の形が変わってしまっているのが見えた。
雪で白みがかっていた山の岩肌が露出し、少し火の手も上がっている。
あれをまともに受けていればひとたまりもなかっただろう。
椎名の反応が数秒でも遅れていたら。
そう考えるとうすら寒くなった。
改めて魔物に注視する。するとそれは四本足の獣であった。

「なんだあれは……あんな魔物、この辺りでは見たことがない……」

流石のアリーシャも冷や汗を滲ませた。
その魔物は、鋭く赤く光る眼光をこちらにへと向け続けていた。
低い唸り声が地響きのように山に木霊している。

「隼人くん、あれって……」

「――ああ、そうだな」

美奈の呟きに頷き応える。
彼女の言いたいことは分かる。
その魔物は私達の世界でも有名なフォルムをした魔物だったのだ。
だが本来あれは空想上の生き物。
それが実際今、目の前にいるのだ。

「ケルベロス……」

呟いた私の声音は渇き、ほんの少し掠れていた。