――ある朝のこと。
アリーシャは侍女のフィリアを連れだち、ヒストリア王国の領地の外へと抜け出していた。
山脈へと続く草原をねり歩いていたのだ。
目的は狂暴な魔物、グリズリーを探しだし、討伐すること。
以前ライラが訓練場で武勇伝のように語っていたのだ。
山脈の麓でグリズリーという熊の魔物が出ると。
三メートルにも達する巨体と、黒い鉤爪、獰猛な牙で人を襲う。
騎士団数名でも苦戦する程の相手を一人で苦もなく倒してしまったと。
「ねえ、アリーシャ様。やはり戻りましょう? 危険です」
フィリアは辺りをキョロキョロと見回しながら恐る恐るついてくる。
突然舞い降りた不慣れな遠征に、完全に腰が引けてびくついていた。
「フィリア、何を怖がることがあろうか。私は騎士団の団員にも引けを取らないくらいに強くなった。どんな魔物であろうと退けてやる。大丈夫だ」
「そんな……でもアリーシャ様にもしもの事があったら……」
「だからそんな事はあり得ない。嫌なら帰るがいい。私一人でも行くと最初から言っている」
「それは絶対に駄目ですっ! 私も行きます!」
理由も言わず朝から城を出ていこうとするアリーシャに、強情にも付いてくると言い張った。
幼い頃から一緒に育ってきた、侍女であり幼馴染であり数少ないアリーシャが心許せる相手。それがフィリアであった。
彼女に対してはアリーシャもまた年相応の子供のようにわがままも押し通す。
そしてそれは互いにとって言える事であった。
だがそれがどのような結果をもたらすのか、今の二人には想像し得ない。
やはり二人はまだ子供なのだ。
――――丁度山脈の麓の森に差し掛かった頃。
遠目から見たら岩だと思っていたそれが、突然のそりと動き振り向いた。
青く仄光るその眼光に当てられて二人は時を止めたように硬直してしまう。
「な……なんだと!?」
完全に意表をつかれた形となったアリーシャの口から驚愕の声が漏れる。
「アリーシャ様っ! こっ……これは大きすぎます!」
「な……何を言うのだ! 怖じ気づいている場合ではないっ……!」
フィリアの言葉に反骨新が芽生えつつ、何とか腰の剣を抜き放ち構えるアリーシャ。
だが普段戦いのことばかり考えているアリーシャですらも、初めて見るグリズリーの迫力に一瞬にして気圧されてしまったのだ。
フィリアに至っては身体が震えてその場から動けずにいる。
しかも運の悪い事に立ち上がったグリズリーの体長は優に五メートルを越える。
聞いていた大きさとは明らかに異なる。同種の中でも一際大きく成長した個体だったのだ。
「グオオオッ!!」
「――来るっ……!!」
咆哮と共に二匹の獲物目掛けて地を駆ける。
その体躯からは想像もつかない程俊敏な動き。
だがアリーシャは相手の咆哮に気圧されなかった。
いや、正確にはその殺意に当てられ、逆に縮み上がっていたアリーシャの闘志に火がついたのだ。
やはり血は争えないのだろうか。
名家の血がアリーシャを窮地に奮い起たせた。
「フィリア! 距離を取って防御魔法を唱えろ! うおおっ!!」
「アリーシャ様っ!!」
アリーシャは剣を引き抜き果敢にも自身の数倍もある相手に斬り掛かっていく。
しかしグリズリーの爪牙の嵐に紙切れのように弾かれ、あっという間に劣勢に立たされた。
「くっ……!」
グリズリーが振り乱す爪牙は、手数の上でも一撃の重さでも遥かにアリーシャを上回っているのだ。
何とかそれを横っ飛びで逃れ、一度距離を取ろうとするもののバランスを崩された。
着地点に向けて丸太のような腕が振り抜かれる。
咄嗟に剣でガードしたが、思いっきり遠くまで吹き飛ばされてしまう。
「あっ、ぐっ……!!」
「アリーシャ様!」
「バカっ! 大人しくしていろっ!」
フィリアが再び自分の名前を叫んだ事で、アリーシャよりも近くにいるフィリアへとグリズリーの注意が向いた。
「グオオアアアァッッ!!」
「ひいっ!?」
凄まじい咆哮に縮み上がるフィリア。
アリーシャの言い付け通り、自身の周りに防御魔法のバリアーを張ってはいたものの、あの攻撃に耐えられるかどうかは定かではない。
「くっ!」
アリーシャは身を低くして地を駆ける。
剣は一度鞘に戻し、柄に触れたまま居合いの構えを取る。
スピードに乗った状態での居合い斬りでグリズリーの足を斬り落とす算段であった。
動きを封じてしまえば倒すのは容易。
アリーシャの全速力の疾走で、彼我の距離は一瞬にして無くなった。
このまま行けばフィリアに到達する前に斬れる。
フィリアに気が向いた事が結果的に大きな利点となったのだ。
そう勝ちを確信した時――。
「ゴガアッ!!」
「ぐああっ!!」
「アリーシャ様あっ!」
アリーシャの死角からもう一体のグリズリーが現れ、その爪牙が襲い掛かった。
鎧で怪我は負わなかったものの、その衝撃が内蔵にまで達し、更にはしたたかに背中を木に打ちつけた。
何が起こったのか理解が及ばず、ただ目眩がする程の気持ち悪さに意識が飛びそうになった。
「――が……はっ……」
何とか意識は繋ぎ止めたものの、目眩がしてしばらく立ち上がれそうにない。
完全に見誤った。グリズリーは二体いたのだ。
隠れていて隙を伺っていたという事だろう。
魔物だと思って侮っていたが、予想以上にこの魔物は周到なのだ。
「ごほっ……」
痛みで顔が上げられない。そんな中でもフィリアの安否の事が頭に過る。
だが今最も危険なのはアリーシャの方である。
動かねば簡単に捻り潰されてしまうだろう。
のしのしと土を踏みしめる音が徐々にアリーシャに近づいてくる。勝ちを確信したのか、ただ単に慎重なのか。その歩みは思いの外ゆっくりであった。
だがもうすぐ目の前に来ている。
地面に影が差し、アリーシャは自身の最後を覚悟した。
「ゴボァッ!!」
悲鳴にも似た短いグリズリーの声が響き、体がふっと持ち上がる感覚がする。
次に鼻腔を擽る花のような匂いがした。
この匂いには覚えがある。いつの間にか目を閉じてしまっていたアリーシャが瞼を開くと、そこに見知った顔があった。
「――ライラ」
「本当に困ったお姫様ね」
いつもの涼しい顔をした騎士がアリーシャを抱えていたのだ。
「ライラ、何故ここに……?」
「――っ!!」
助けられたことによる感謝の気持ちよりも、アリーシャの胸の内にはさざ波のように苛立ちが広がる。
だが今回はライラの様子が少しおかしかった。
「ライラ……!?」
身をよじるとライラは苦悶の表情を浮かべたのだ。
アリーシャを助けた際、アリーシャを抱えているのと反対側の左腕だ。そこにグリズリーの爪牙によるものであろう傷があったのだ。
肉がこそがれ、抉れ、かなりの重傷だった。
「ライラッ……!!」
「大丈夫。こんな相手、利き腕一本あれば十分よ」
「そ、そんな問題ではっ……」
ライラはアリーシャの口元に人差し指を寄せ、いつもの柔らかな表情で微笑む。
アリーシャは口をつぐみながら胸の中がもやもやして気持ち悪くなる。
ライラの顔を、まともに見れない。
「そんなことよりもアリーシャ、動けるかしら?」
「あ――ああ。何とか」
「ならあの子を連れて離れていなさい」
そう言うとライラはアリーシャを地面に降ろし、彼女の肩をぽんと軽く叩いた。
その表情には変わらずいつもの微笑が浮かんでいた。
全ての感情を受け流すような、透き通った瞳に見据えられ、この時ばかりはアリーシャも戸惑う。
「あ……」
彼女はそれ以上何も言わずグリズリーへと駆けていく。
その背中を掴みたいと思うけれど、アリーシャの手は虚空を掴んで揺蕩った。
ライラは血を流しながらもグリズリー二体の爪牙をいつもの涼しい顔で避け続けていた。
その度に鮮血が飛び散っていく。かなり痛々しい。
それがアリーシャの胸をぐしぐしと抉るように突き刺さっていく。
魔物の攻撃が当たるとは到底思えない。
いつも通りの流麗な動き。だが今はライラの事をまともに見ていられない。
アリーシャはとにかくライラの言いつけ通りフィリアの元へと足を向ける。
そしてアリーシャもバリアーの魔法を張ってもらい、その中に二人して身を隠した。
ふとライラの方を見やると彼女と目が合った。ライラはそこでまた微笑んだ。
「ヒストリア流剣技、林」
ライラが技の名前を言った瞬間、彼女の体がうっすらと透けて見えた。
まるで幽霊にでもなったかのような、存在が希少なものとなったように。
そして驚いた事に、グリズリーの攻撃はその全てが空を切り、ライラの体を通り抜けていく。
「なんだあれは……!?」
アリーシャはその剣技に見とれ、同時に戦慄した。
グリズリーの爪牙が十数回、そのことごとくが空を切る。
「バフォ……」
空振り腕を振り回すことに疲れたのか、攻撃に一時の間が生まれる。
それを黙って見過ごすようなライラではない。
彼女のは剣はその隙を突いてグリズリー二体の首筋へと疾った。
「――ガッ!?」
何かにこつかれたように体を震わせ、グリズリー二体の動きが鈍くなっていく。やがてその動きがピタリと止まる。
直後ライラの剣が鞘にしまわれる。
チンという小気味良い音がやけにクリアに響き渡る。
その瞬間にグリズリー二体の首に剣線が走り、頭がポトリと地面に落ちた。
体は虚空を彷徨うように腕を上下に震わせるグリズリーの胴体。そのまま二体の魔物は青い魔石へと姿を変えたのだった。
「――ふう」
一息吐くとライラは涼しい顔でアリーシャの方を見る。
やはりライラは強い。
今のアリーシャがどう背伸びしても敵う相手ではなかった。
そう思わせる程に圧倒的な剣の腕だ。
「二人共、怪我は無い?」
ライラはゆっくりとこちらへと歩いてくる。
「はい、ありがとうございました。ライラ様」
助けられたフィリアは丁寧にライラにお辞儀した。
「アリーシャは? 大丈夫?」
名前を呼ばれた当の本人は、命を助けられたというのに未だ俯いたままであった。
「……どうしてだ?」
「ん?」
「どうして怒らない! どうして私を責めない! いつも涼しい顔をして、そんな傷を負ってまで! 私は……私など助ける価値の無い人間だっ……!」
ライラの左腕は相当な深手を負っていた。未だに流れ出る血は止まっていない。
アリーシャの言葉にライラは少しだけ困った顔をした。
「ふふ……」
微かに笑うとその手が彼女の頬に添えられる。
抉れた傷が痛々しく、側からドクドクと血が流れていく。
アリーシャにとっては殴られるよりももっとずっと酷く、痛かった。
「アリーシャ、騎士の剣は人を守るためにあるのよ。そして騎士の強さは人に優しくあるための心。人に優しく出来るのなら、騎士の心は強く在れるわ」
アリーシャの頬に涙が伝う。悔しいのか、悲しいのか、嬉しいのか、自分の感情が理解出来なかったが、アリーシャの心はこの流れ出る涙と共に堰を切ったように渦巻く感情で溢れていた。
「あなたはそれを十分に分かっている。今回の行動は決して褒められたものではないけれど、あなたはそれを痛いくらい反省している。そんなあなたを叱るなんてことはしないわ」
ライラがアリーシャを見据える。
透き通った全てを見透かすような、それでいて淡い瞳。
その瞳の色は、揺らめきは、これからずっとアリーシャの心に残り続けるのだと思えた。
「――それにね、アリーシャ」
再び薄く笑うライラ。その瞳は限りない優しさに満ちている。アリーシャはライラの瞳が好きだと思ってしまっていた。
「あなたが助ける価値がある人間かどうかは、私が決める」
「――く……、何なのだ……、何なのだ一体!」
アリーシャはライラの胸に飛び込んだ。
そこには彼女に対する嫉妬やわだかまりや競争心や、そんな感情は一切無い。
いつの間にか綺麗さっぱりと消え失せていたのだ。
ライラの温もりだけが、ただただアリーシャの心に染み渡っていく。
アリーシャの口から嗚咽が漏れた。
「う……うあああああっっ!!!」
「大丈夫。あなたはきっと、強くなれるわ」
ライラの手が、そっとアリーシャの頭に添えられる。
しばらくの間、アリーシャの慟哭が山間に響き渡った。
「――ライラ……」
「ん? どうかした? アリーシャ」
「……いい加減離れたいのだが……」
「あら? せっかく可愛かったのに」
「かわっ!? ……クソ……」
「フフフ……」
しばらくして涙を一頻り流し、正気に戻ると急に気恥ずかしくなり、アリーシャは少しずつライラに力を加え離れようとした。
けれどその度に頭を固定され、身動きが取れなくさせられていたのだ。
流石にもうあれから数分経過している。
アリーシャも流石にいい加減離れたかくなったのだ。
ライラはアリーシャの頭をぽんと軽く叩くと、彼女をようやく開放してくれた。
アリーシャがライラから離れると、斜め前にフィリアがいた。
彼女は嬉しそうにニヤニヤしながらアリーシャを見つめていた。
途端に頬に熱が帯びていったが、今はそれよりも話しておきたいことがあった。
「――その、ライラ」
「???」
「私にヒストリア流剣術を教えてくれ」
ライラはその言葉に一瞬動きを止め、目を丸くしてアリーシャを見つめた。
だがすぐにいつもの柔和な笑みを浮かべて微笑む。
「――ああ、今さら何を言うかと思えば。初めからそのつもりよ」
ライラは踵を返し、ヒストリアの方へと歩いていく。
腕の傷は大丈夫かと心配になったが、不思議ともう血は流れていないようだった。
回復アイテムか何かを持参していたのかと、何はともあれアリーシャはホッと胸を撫で下ろした。
日はまだ昇りきっておらず、朝の陽光が穏やかにヒストリアの地を照らしていく。
アリーシャは先を歩くライラの後ろ姿をしばらくぼうっと眺めていた。
陽の光に照らされたアリーシャの表情は凛として、少女のものとは思えないほどに美しかった。
アリーシャの騎士としての心は、ここから育っていくのだ。
城に帰った後、アリーシャは事の顛末の報告を受けた国王である父、アンガスにすぐさま呼び出された。
勿論そこでは自身の身を案じるというようなものではない、こっぴどいお叱りを受けた。
だがアリーシャにとってそれは苦ではなかった。
更に言うと娘として心配されるよりも、騎士としてどうあるかについて問われた方がよっぽど気が楽だったのだ。
だから国王の言葉も、自身に問われた処遇も何のわだかまりもなく受け入れられた。
まあ実際処遇は簡単なものだ。一週間の自室での謹慎処分。
自身の罪としてはかなり軽い方だと思う。
体罰なども覚悟していたアリーシャにとっては拍子抜けだ。
そしてやはり自身は娘としてそこまで冷遇されているのではないのではとも思った。
アリーシャ自身、今回の事については深く反省していた。
今回の処遇は甘んじて受け入れているし納得とまではいかないまでも罪を受けることは良しとしている。
厄介だと思ったことは他の家族の反応だった。
王妃であり、母親のメイサは酷く悲しみ涙を流した。
アリーシャからしたら剣の道に自分を引き込んでおいて、今更何だと思わなくもなかった。
親とはやはり身勝手なものだと思うのだ。
双子の兄アストリアには、何故か謝られた。
アストリアは結局アリーシャに対し、それなりに思う所があったのだろう。
自身が常に比較対象として見られたことや、彼が剣の腕が立ちすぎることが結果としてアリーシャを卑下する対象として貶められたことなどか。
だがそんな事はアリーシャにとっては今更どうでもよかった。
ただこれからもアリーシャにとって兄は越えるべき存在であり、目標、ライバルなのだ。
家族の中で唯一心を許せるのは弟のアーノルドだ。
彼は何故か兄よりも自分に良く懐き、今回の件も「姉上、カッコいい!」 と屈託ない笑顔を向けられる始末。
それには彼女も口元が緩むのを隠しきれなかった。
騎士団長のベルクートには豪快に笑われた。
何なら少し嬉しそうですらあった。
元はと言えばこの人に認められたいという想いからの行動であったのだが、そんな事は露知らず。
それでも彼の「過ちは若い内にどんどんやっておけよ」という一言に心が軽くなったものだ。
最後に、一緒に連れてきてしまったフィリアの処遇だ。
彼女にも勿論処罰が下された。
正直これが一番アリーシャには堪えた。
アリーシャを引き止めなかった事を咎められ、一週間独房での生活を強いられてしまう事となったのである。
食事も水以外与えられず、アリーシャよりも当然のように重い処罰であった。
アリーシャはフィリアに非はないと主張したが、そんな事が受け入れられるはずもない。
フィリアもアリーシャに笑顔で「私は大丈夫ですから」と言ってくれた。
だがアリーシャにとってはそれが尚更辛い。
去り行くフィリアの表情がアリーシャの心に大きな楔を打ち込んだのだ。
ここでアリーシャにとって、フィリアが自身が守るべき大切な存在との認識が強くなったのかもしれない。
自室の謹慎処分の最中、アリーシャはベッドの天幕の中で物思いに耽っていた。
丁度この時間が自分を見つめ直すいい機会となったのだ。
そこで改めて思えた。
自分は今まで思っていた程劣悪な環境に身を置いているとは言えないのではないかと。
寧ろ自身を想う何人もの者達に囲まれて幸せなのではないかと。
そんな正しき想いが彼女の中に、水面に雫が落ちて波紋が広がっていくように。確かに、大きく広がり始めていたのだ。
ようやく謹慎からも解放され、久しぶりにアリーシャは訓練場へと足を運んだ。
同期の訓練生からは以前にも増して一層白い目で見られ、一層蔑みの目で見られた。
だがここでアリーシャの行動は変化する。
その一人一人にアリーシャは謝罪して回ったのだ。
彼らに何を迷惑を掛けたでも無いが、一国の王女として、騎士としてそれが当然の行いのように思えたからだ。
謝罪する度に反応は様々だった。
更にここぞとばかり罵ってくる者もいれば、驚き慌てふためく者、無視する者、説教染みた言葉を言ってくる者など。
少数だがアリーシャのその行動に好感を示すものもいた。そんな者達はアリーシャの日々の研鑽を認めてくれており、そんな者もいたのかと改めて気づかされた。
皆の多種多様な反応に、アリーシャは少し興味深いなどという所感を抱いた。
人は自身も含め様々な者がいる。
そしてその全てが自身を煙たがったり憎ましく思うような者だけでは無いのだと。
アリーシャは剣を取り、いつものように剣の素振りを始めた。
一週間ぶりに握る剣は実に良かった。
剣を持つ手からじんわりと喜びが広がるような。
瞬間的に身体が打ち震えるのを実感し、一太刀振り抜いた瞬間何とも言えない想いが胸を締め付けた。
そこでやはり、アリーシャは自分には剣が合っているのだと改めて思うのだ。
「アリーシャ、元気そうね」
「――む」
振り向くとそこにはいつものように柔和な笑みを浮かべたライラが立っていた。
本当なら真っ先に会いに行くべき相手であったが、何を話せばいいのか分からず、結局今まで会いに行けなかったのだ。
ライラの左手には包帯が巻かれて吊るされていた。
それが自分のせいだと思うと余計に痛々しく見えた。
「散々だ。父上にはこっぴどく叱られ、母上には泣かれた」
そんな事を言いたかったわけではないが、口から出た言葉はそんなだった。
素振りをしつつそんな事を言うアリーシャにライラは苦笑する。
「自分の事で泣いてくれる親がいるということは幸せなことよ」
「……」
いつもならライラのそういった物言いには食って掛かっていたアリーシャであったが、今は沈黙していた。
それどころかアリーシャの胸には今や、ライラの言葉で温かな光が差し込むような心持ちさえするのだ。
ライラの言うことはいつも正しい。
今は不思議と素直にそう思えてしまう。
暫く素振りを続けながら呟くように言葉を発する。
「――ライラ……やはりその腕、簡単には治らないのか?」
「いえ、大丈夫よ。回復魔法もかけてもらったし。少し痕は残るかも知れないけれど、前と同じように剣を振れるようにはなるみたいだから、問題ないわ」
そこでアリーシャは改めて剣を振る手を止めた。
「ライラ、済まなかった。私のために」
アリーシャは腰を折ってライラに謝罪する。
アリーシャの手は、体は思っていた以上に震えていた。
そこで胸に去来する想いが申し訳無さではなく、恐怖なのだと気づいてアリーシャは泣きそうになる。
アリーシャにとってライラはもう自分の想像以上に大切な存在なのだ。
アリーシャは彼女の元で剣の高みを目指したいという気持ちを改めて強く自覚した。
「アリーシャ、顔を上げなさい」
顔を上げたアリーシャに一振りの剣が投げられた。
「……? 何だこれは?」
「あなたにプレゼントよ」
「……どうして」
「どうしてかしらね。何となく、とかそんな気分だったから、とか。そういうことにしといてもらえるかしら?」
ライラは微笑みそう言う。アリーシャは手にした剣を眺めた。
剣はアリーシャの意思に呼応するかのように輝きを放っている気がした。
柄の部分には魔石が嵌められている。
何かの特性があるのだろうか。
「この剣は属性変換の効力を持った剣。あなたの闇魔法をこの剣に込める時、この剣は魔族すらも斬れる光の剣になるわ」
アリーシャの疑問を見透かしたように言葉を添えるライラ。
「魔族も斬れる?」
「そう。この先予言にある通り、魔族が世に蔓延る時、この剣の力があなたを支えてくれるはずよ。いつか訪れる魔族との戦いにおいて、あなたはきっとこの国の希望となれるでしょう」
「そんな……まさか……」
ライラの顔を見るといつものように微笑んでいる。
闇魔法が使える事で、一国の姫として疎んじられる事はあっても、そのような力の使い道があるなどとは夢にも思わなかった。
同時にここまで自分の事を考えてくれていたライラに、尊敬と感謝の念が巻き起こるのだ。
「アリーシャ、強くなりなさい。あなたの大切なものを守れる程に。そしていつか――」
そこで一度言葉を切る。
彼女の瞳が一瞬憂いを帯びた気がした。
「?? ライラ?」
彼女はアリーシャに呼ばれ、首を振り、目を閉じる。
再び目を開くと同時に彼女のエメラルドグリーンの瞳が何よりも輝いて見えた。
「私を助けてちょうだいね?」
「――――」
何だかおどけているようにも思えたが、ライラの瞳の輝きを見ていると、それが本心なんだろう。
今は素直にそう思えたのだ。
だから彼女はライラとは裏腹に、真面目な面持ちで答えたのだ。
「……ああ。約束する。魔族からだって私がお前を守ってやる」
「フフ……、その意気よ」
アリーシャはライラと出逢い、少しずつ変わっていった。
この半年後、アリーシャは父に認められ、母の反対を押しきって王国の騎士団に入団する事になる。
大切なものを守れる騎士として、一国を担う姫として、アリーシャは急速な成長を見せ始めていったのだ。
「う~~~んっ! 気持ちいい~!!」
柔らかな陽光が射す街の大通りを歩きながら、私は大きく一つ伸びをした。
昨日の戦いでかなりの重傷を負ったはずだったけれど、回復魔法の力というのはすごいものだ。
たった一晩でまるで何事もなかったように治ってしまっているのだから。
更に先程美奈と久しぶりのショッピングを楽しんだ私はご機嫌だった。
やっぱりストレス発散には買い物は持ってこいよね!
先の戦いでボロボロになった衣服を新調し、茶色のロングブーツとウエストポーチを腰に巻いた私はご機嫌だった。
「う~~~~んっ!!」
コツコツとかかとを鳴らしつつ、美奈の斜め前を歩きながらもう1つ私は伸びをした。
昨日の戦いから一夜明けて、街はそれなりに賑やかに人々が往来してる。
レッサーデーモンが暴れ回ったせいで所々壊れている箇所があったりもするけれど、被害はそう大きくはならなかったらしい。
すれ違う人達も皆元気そうだ。
周りの楽しそうにしている人たちの姿を見るだけで、私の昨日の頑張りが報われた気がして元気が出た。
「何だかこういうの、久しぶりだね」
ふと隣に並んだ美奈をちらと見やると、彼女も自然と顔が綻んでいた。
昨日私たちがボロボロにやられたせいで一時期はかなり落ち込んだ様子を見せていたけれど、少し持ち直してくれたみたいでホッとした。
「確かに、そうよね」
この異世界、グラン・ダルシに来て初めての経験。
親友同士、女同士のお買い物。
こんな時に不謹慎なのかもしれないけれど、ほんの少しだけ心が踊る。
いや、こんな時だからこそ目一杯今を楽しまなきゃいけないような気がする。
いつも気を張ってばかりじゃ身も心ももたなくなるし、陰鬱にしていても決して状況は好転しないのだ。
今この場にいないアイツの事を考えると気持ちが参ってしまいそうになるから。敢えてそういう事は今は考えないようにしている。
まだこうして自然に振る舞えているのだから。きっと私は大丈夫だ。
それよりも今は美奈のことを気づかってあげたい。
少し元気になったとはいえまだまだ無理をしている。
理由は分かる。
自分が戦う能力が乏しくて、足手まといになるのが嫌だとかそんなところなんだろう。
何とか元気づけてやりたかった。
こうしてせっかく二人きりになったのだ。
本音もバンバン言えるだろうし、何かアドバイスできることがあればできる限り協力するつもり。
別行動を取るのは危険だと隼人くんには反対されそうになったけれど、こういう時は女同士、二人きりでのんびり過ごすのがいいに決まってる。ま、そんなに時間は無いんだけどね。
そう思うとちょっと私の買い物に時間使いすぎたかな……。
美奈に付き合うはずが私に美奈を付き合わせるような形になってしまった気がする。
すぐに終わらせるつもりだったのだけれど、思いのほか長引いてしまったかも。
でもしょうがないよねっ!?
店員さんが私を見てスタイルがすごくいいだの、何着てもすごく似合うだのいちいち騒ぎ立ててきたんだし。
すっかり気分も良くなって、何着か試着してしまったり、買う予定ではなかったブーツやらウエストポーチやらも愛嬌といいますか。
なので少しだけ、ほんのちょぴっとだけ出費がかさんだのだけれど、ネストの村で魔石の相場を聞いていた私のお陰で、魔石屋で買い叩かれずに済んだのだ。
そのことを思えば、出費をしたものの、その分の対価を得ているのだからみんなも納得するに違いない。
プラスマイナスゼロ、むしろプラだ。うん、そうだ。
『……』
「シルフ、うるさいわよ」
『ボク、何も言ってないんだけど』
「……え? 何か言った?」
シルフとの会話を自分に向けられたものだと思ったらしく、美奈がこちらを向いた。
いかんいかん、つい精霊と会話する時に口に出てしまうのだ。
「あ、いや、何でもない! シルフが頭の中でうるさくってね! それよりも美奈。私の買い物に付き合ってもらっちゃってありがとね」
そんな私の言葉に美奈はふいと首を傾げた。
その仕草が小動物みたいで可愛らしいのだ。
「ううん。少し寄り道するくらい構わないよ? ただ……あんなに長居するとは思わなかったけど?」
そう言い彼女はいたずらっぽい笑みを浮かべた。
彼女の大きな瞳がスッと細められて、それもまたスッゴク可愛い。
「あはは……。ごめんってば」
「ふふ……。でも、こういうの、こっちに来て初めてだから、けっこう楽しいねっ」
ちょっぴりルーズな私の行動に、そんな風に言ってくれる美奈が私は好きだった。
いつも私が元気でいられるのもこの娘のお陰というところが大きい。
「そうよね! 何か懐かしいっていうか!」
「うん!」
お互い破顔しつつ、やっぱり思う。
美奈、ちょっと元気ないな。
私は彼女からいつも元気を貰っているのに、私は彼女に何もしてあげられていないのではないか。
そんな風に思ってしまう。
いつもそう。
彼女に何かしてあげたくても結局元気を貰うのは私。ダメだなあ、こんなんじゃ。
そこで私は大きく首を振る。
何急に弱気になってるんだろう。美奈を元気づけようって決めたのに、自分だけテンションが上がった事に落ち込むなんて、バカか私。
私は改めて気持ちを切り替えて、残りの時間は美奈のために使うと決めた。
隼人くんたちと別れてから感知の目は途絶えさせていない。
彼らの動向を探ってみると、まだ防具屋を出たところらしかった。
たぶんこの後道具屋に向かうのだと思うから、時間はあるはずだ。
それにその後は食事もするのだろうし、何だかんだでまだ一時間は大丈夫だろう。
ん? でもさ、あの二人ショッピングして、食事して……なんかデートっぽくないか?
……後でからかってやろ。
私は内心の決意を新たにしながら、美奈の前に立って後ろ向きに歩く。
美奈の顔を見つめていたら、彼女ははてと小首を傾げた。
「じゃあさっさと行きますか! 魔法屋」
「え!? 知ってたの!?」
美奈が驚き目を見開いた。
美奈の口からは皆に行きたい場所の具体的な場所は聞かされてはいなかった。
けれどそんなのすぐに分かる。
だって美奈って昔から隠し事が下手なんだもの。
私は大げさにため息を吐いた。
「いや……魔石屋に行く途中、魔法屋をあんなに見つめてたら普通気づくでしょうよ。それでなくても美奈ってば、昔から分りやすいんだから。特に、隼人くんのこととかさ」
「え、隼人くん!? ……あ……それは……だって」
隼人くんという言葉に肩をぴくんと震わせる美奈。
彼女は私の言葉を否定するでもなく、ただただ俯いて茹でダコのように顔を赤らめていく。
私はそんな彼女を見ながらふうとため息を付きつつ目を細める。
この娘、ホント隼人くんのこと好きすぎるわよね。あっちも大概だけど。
「はあ……ごちそうさま。ほらっ、早く行くわよ」
そう言い私は魔法屋を目指して足早に歩いていく。
「あっ、待って! めぐみちゃんっ!」
私の胸には若干の嫉妬みたいな気持ちがあった。
だって美奈ったら、あんなに私が話してもどことなく上の空で元気がなかったというのに。隼人くんの名前が出ただけで少しいつもの感じを取り戻しているんだもの。
私はもう一度心の中で大きなため息を溢しつつ、美奈を置いてけぼりにすることで清算することにしたのだった。
街の大通りの途中の、少し小さめの木造の丸太小屋のような建物。それが魔法屋だった。
中に足を踏み入れるとかなり薄暗くて、本棚が整然と並んでいる。
中の一段ごとに一冊、分厚い本が置かれている。
正直場所取り過ぎと思わなくも無かったけれど、この一冊一冊が何かの魔法の本なのだろう。
こうして置いていれば無くなったらすぐ気づくという利点はある。
魔法書が一冊でもかなり高価なものなのであればそれにも納得はいく。
店の奥には長机が一つ。
そこに紫のフードを被り、眼鏡を掛けたいかにもおとぎ話に出てくる魔法使いといった風なお婆さんが居眠りをしていた。おいおい無用心だなおい。
「あの~……すみませ~ん」
私が声を掛けると船を漕いでいたおばあさんの動きがひたと止まり、しょぼしょぼした目が急にパチリと開いた。
失礼かとしれないけれど、それが何かのおもちゃみたいでちょっと可愛いかもと思ってしまう。
「おや……お客さんかい? また可愛らしいお嬢さんたちだねえ」
お婆さんは思いの外はっきりとした口調で話した。
もしかしたら別に眠ってはいなかったのかもしれない。
魔法使いっぽく精神を集中していたとか?
とにかくおばあさんはにこやかにこちらに微笑み手招きする。
美奈は私の横を通りすぎ、すたすたと机のところまでいくとぱちんと机を叩き身を乗り出した。
「あの、私! 光魔法をもっと覚えたくて! 何かオススメなものはありませんかっ!?」
美奈は緊張しているのかやる気に満ち溢れているのか、頬を紅潮させながら一生懸命だった。
お婆さんはそんな美奈の勢いを特に気にするでもなく少しだけつぶらな目を大きく見開くと、それも束の間。にっこりと顔をしわくちゃにして笑顔を作った。
それが余りにも優しそうで。田舎のおばあちゃんみたいだ。
「ほお、光魔法かい? うちは見たとおり小さい魔法屋でねえ。それだとあるのは三つしかないよ」
「どっ、どれですかっ!?」
「後ろのお嬢さんのすぐ隣の棚の本だよ」
そう言っておばあさんは私のいる左隣の棚を指し示す。
美奈は弾かれたように振り向きその棚の方へ小走りで駆けていく。
そんなに急ぐと転んじゃうわよ全くもう。この娘ったらこんなに慌ててすみませんねえおばあさん。と美奈の行動に母親じみた感想を抱きつつ、棚の前に来た彼女の横に並ぶ。
しかしこんな小さい魔法屋でも三つもあるのかと思った。
だって光魔法って神聖な感じがしてたくさん種類があるイメージが無かったから。
もしかしてここだけ特別に多いとか。その辺の知識は皆無なのでよく分からないけれど。
『ボクもその辺の知識は乏しいからよくわかんないや』
――ふむ。
中々に頼もしい、知り合ったばかりの相方の言葉を脳内で聞きながら、私は棚を見やる。
『悪かったね、なんにも知らなくて』
目の前には三冊の百科事典のような大きさの魔法書が置かれてあった。
それぞれ魔法名らしきものが書かれてあるけれど、古代文字らしく何と書かれているのか読めない。
ネストの村で見た魔法書もそうだった。
あとそうそう。今さらなのだけれど、この世界の文字は基本的に私たちでも読める。
というのも普通にこの世の中で使われている文字は日本語なのだ。
いや、この世界に日本は無いからダルシ語?
これは私たちの世界とほぼ同じだと思われる。
私は漢字にそこまで詳しくないからもしかしたら細かい部分は違うかもしれないけれど、この店の看板も『魔法屋』って書かれてあった。
なのでこの世界で今のところ会話や文字で苦労したことはほとんどない。
というか読めない文字は今のところ、この魔法書に書かれている古代文字くらいだ。
でもこれはこちらの世界の人たちも基本的には読めないらしい。
ある程度古代文字に精通していれば読めるみたいなのだけれど、一般的ではないのだとか。
その知識を私は別に得ようとは思わなかった。
だって今のところここのような魔法書くらいでしか目にしない文字をわざわざ解読するための知識を得るとかめんどくさいし、非効率だと思うのだ。
それならばやっぱりお金の価値とか、魔物や魔族に対する知識とか、世間の一般常識みたいな知識を得る方が遥かに有意義だし優先順位が高い。
お陰でさっきも魔石の換金の時に利益を得ることが出来たわけだし私ってエライ!
そうこうしている内に美奈が魔法書を両手に抱えて戻ってきた。
小走りで駆けてくる美奈は、初めてのおつかいを終えた子どもみたいで。何だかとっても嬉しそうで、思わずよしよしいーこいーこしたくなった。
「買えたの?」
私がそう訊ねると、美奈は頬を薄赤く紅潮させて笑顔を私に向けた。
「うん! 一つは今も使えるライトニングスピアだったから、新しく2冊」
「そっかそっか」
ライトニングスピアは光魔法の最も初歩的なものだ。
ネストの村にその魔法書があり、既に習得済みというわけなのだ。
「美奈。じゃあさっそくここで読んでみたら?」
「あ――うん」
私がそう告げると、彼女は途端に緊張した面持ちになった。
まあ無理もない。
本を買ったものの、開いてみるまでは習得可能かどうか分からないからだ。
魔法の習得方法。
それは簡単だ。
単純に本を開いてみればいい。
魔法書には何か特別な魔力が込められているのか、その魔法の適性がある人には基本何が書いてあるか分かるらしい。
それは読むとかそういう事ではなくて、本を開いた瞬間にその情報が頭の中に流れてくる感じらしい。
これは美奈や村の人から聞いた話でしかないけれど。
というのも、残念ながら私は魔法を習得する才能がない。
ネストの村にあったどの魔法書を開いても、その感覚を味わえなかったのだ。
『あ、シーナ。そのことなんだけど、君は今ボクと正式に契約を結んだことによって、風魔法も使えるようになっているはずだよ?』
「え!? マジ!?」
さらりと爆弾を投げ込んでくるシルフ。
というかそんな事まで可能になっているとはいざ知らず。私は急に得した気分になった。
「え――じゃあ私も魔法書買おっかな」
『あー、でもここに置いてある風魔法は一つしかないね。それにその魔法なら別に買わなくったってもう使えるよ?』
「えっ、そうなの!? てか風魔法は一つって。……まあ、いいけどさ」
確認しなくてもそんな事まで分かってしまうシルフはさすがだ。
しかしちょっぴり納得がいかない。
光魔法が三つも置いてあるのに対し、風魔法は一つしか無いなんて。
風魔法の方が汎用性が高いような気がしたから、もっとたくさんあると思っていただけに拍子抜けのぬか喜びだ。
ていうか思ったより風魔法ってレア? そしたら私ってスゴくない!?
『別に四大属性っていうくらいだから特別でもなんでもないと思うよ? たまたまじゃないかな』
「……ちっ」
シルフの言葉を舌打ちでスルーし、改めて美奈を見つめる。
彼女はいよいよ一冊の魔法書を手に取り、固く閉じられた魔法書をおばあさんに貰った鍵で開こうというところだった。
魔法書にはそれぞれ勝手に中を見られないよう予め鍵が掛けられている。
魔法を買うとそれぞれの本を開くための鍵を渡してもらうという仕組みだ。
解錠して中を見たらまた本棚に戻す。一回見たら魔法書はその人にとって不要のものとなるので何度もリサイクルできるのだ。
魔法書自体かなり高価なものみたいで、たくさんは世の中に出回っていないから、そういう風に利用しているらしい。
盗まれたりしないのかとも思うけれど、そういったことを考えてしまうのは野暮なのだろうか。
美奈は慎重に錠前に鍵を差し込み、丁寧に本に手を掛けた。
カチャリと小気味いい音を立てて、本を止めている金具が外れる。
美奈の頬は相変わらずさっきから紅潮している。
見ているとまるで宝物でも手に入れた子供みたいで、すっごく微笑ましくなって、胸がきゅんきゅんした。
本はパラパラと捲れ、彼女が目を通した瞬間眩い光を放った。程なくしてその光は美奈の体へと吸い込まれるように移っていく。
ネストの村でライトニングスピアを覚えた時と同じ感じだった。
光が収まると、美奈は一度ゆっくりと目を閉じた。
「……どうなの?」
しばらくして美奈はゆっくりと目を開き微笑んだ。
「うん。何とかなりそうだよ」
「お、そっか! じゃあもう一冊も覚えちゃいなさい」
「うん」
もう一冊の本も開く。
けれど今度はちょっと先ほどとは違う反応で。
同じように光は現れた。
けれどその光は中々美奈には移って行かず、やがて光を弱め、その弱々しくなった光の粒子が美奈の中に入っていったのみだったのだ。
「――ほう……」
後ろでお婆さんが感嘆の声を漏らした。
「どうしたんですか?」
私はがおばあさんに訊ねると、おばあさんはまたにっこりと笑った。
「今の魔法は現代魔法とは少し違うようでね。おそらく使える者がいないんだよ。少なくともあたしゃその魔法を使える人を見たことが無いね。だから全ての人に光の発動すら起こらない。初めてなんだよ。その魔法書を読んで光が発動した人は」
「え、そうなんですか!? ねえ美奈、どうなの?」
そんな話を聞くと流石にテンションが上がる。
だって美奈が特別だと言われているみたいで。自然と嬉しくて笑顔が溢れてしまう。
けれど当の美奈は虚空を見つめながら小首を傾げている。
いまいち得心がいかないような顔をしていた。
「……うん。多分ダメだと思う。この魔法は今のところ使えそうにないよ」
「……そうなんだ」
そう呟く美奈は、自分の手を見つめながら何か考え事をしているみたいだった。
ちょっぴり残念だけれど、落ち込むのはまだ早い。
だって光が出現したのは確かなんだもの。
可能性はきっと0ではないってことなんだよねって思うから。
魔法屋を後にした私たちは、露店で買ったサンドイッチを頬張りながら大通りを歩いた。
きらめく日差しは優しく、長閑な雰囲気を醸し出している。
グランダルシは天気のいい日ばかりだし、気温も寒くもなく暑くもないと丁度いい気候だ。
そんなだから外を散歩するには本当にもってこいなのよね。
目的の場所はヒストリア方面の出入口近くの街の外。
せっかくだからこんな日はゆっくりランチでも、と思わなくもないのだけれど。あいにく私たちにはそんなに時間が無い。
実は美奈としては先ほど習得した魔法をいち早く実戦でも使えるように、試し打ちがしたいのだ。
魔法が使えるといっても効果や威力、消耗がどのくらいか、などは実際に使ってみないと分からない。
最悪結果的に実戦で全く使い物にならない可能性だってある。
新しい魔法を覚えた、と言ってもまだまだそれを精査する必要があるのだ。
美奈もそれは解っているようで、その表情はまだまだ固い。
何ならより緊張してさっきよりも不安そうな表情かもしれない。
そんな彼女の緊張をほぐしてあげるのも、私の役目だと思ってついてきたのだ。
私は彼女の不安を紛らわすようにサンドイッチをぱくぱくと胃の中へと放り込み、美奈の手を取り腕を組んだ。
「めぐみちゃん?」
「デートッ」
小首を傾げる美奈に、にこやかにそう答えると、彼女もにこりと微笑んでくれた。
私はそこから二人、腕を組んだまま鼻唄混じりに街中を並んで歩いたのだ。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
大きな門をくぐり街の外へ出ると、目の前には広大な平原が広がっていた。
何だか小鳥のさえずりとかも耳に届いてきて、本当に長閑な雰囲気が漂っている。
あと少ししたらここを進んでヒストリアに向かい、魔族との激戦を繰り広げる、なんてまるで思えなくなってくる。
かなり遠くの方に山々が連なっているのが陽炎のように見える。
かなりスケールの大きい山脈だ。
私が住んでいたところはどちらかというと海が近かったので、こういう山々を見るのは久しぶり。
こんな景色は遠足だったか何だかの朧気な記憶の中にうっすらと残っている程度。
「ほわあ~……」
だからかな。こんな広大なスケールの景色を見せられて胸が一杯になって、変な声が漏れでた。
不覚にも何だか涙が出そうになって。慌てて首を振る。
いかんいかん。今は感傷に浸っている場合じゃないのだ。
ほんとこればっかりは。ともすると歯止めが利かなくなりそうだから、私は頭を空っぽにしてぐっと歯を食いしばる。
「じゃあっ、やる?」
「うんっ」
横に並ぶ美奈に、にこやかに笑顔を向ける。
ちょっと大げさすぎたかもと思わなくもないけれど、美奈も同じように弾んだ声を上げた。
私たちは、更にそこから移動して、街の入り口から少しだけ離れた平原で魔法の発動を試すことにした。
この辺はほんと見通しがいいので安心だ。
魔物がいてもすぐに気づく。どのみち風の感知もあるから大丈夫なんだけど、私は目の前への感知は目視すればいいからと緩めることにした。
「それじゃあ、私はそこで見てるわね」
ちょうどすぐ側に腰かけられそうな岩があったので、余分に買ったサンドイッチでも食べようかと歩いていって腰を下ろそうとしたところ。
「――あの……、めぐみちゃんっ!」
「ん?」
不意に美奈に呼び止められる。
さっきからずっとそうだけれどちょっと緊張の面持ちの美奈。
新しい魔法の試運転にやっぱり不安なのだろうか。
「どした?」
私が微笑み訊ねると、美奈はしばらく逡巡するように視線を泳がせた後、やがて意を決したように私を見てなんとこんなことを提案してきたのだ。
「私の魔法、めぐみちゃんに向けて試してもいいかな!?」
「――――」
急に放たれたその言葉に私はしばし沈黙。
突然何を言われたのか頭の中が真っ白になり、数瞬の後、私の頬にはちろりと冷や汗が伝う。
「え……と。シルフと契約してから確かに回避とかには多少自信あるけど、それでもちょっと心配かな……。もし当たったらちょっとね……さすがに痛いかもだし。まあ美奈に治してはもらえるから万が一があっても大丈夫だとは思うんだけど……それでもさ、これから移動とかけっこう気合い入れないとだしさ」
恐る恐る丁重にお断りしようとする私の言葉を受けながら、ぽかんとした表情を浮かべていた美奈。
何だか噛み合っていないような気がする。
彼女はやがて合点がいったようで、ハッとした表情になって顔を赤らめた。
「あっ……いやっ、ごめん! そ、そうじゃなくて!」
「――あっ、そゆこと?」
彼女の明らかに動揺した反応で、さすがの私もぴんと来た。
というか私ったらばかだ。
考えが足りないにも程がある。
「あのさ、新しい魔法って補助魔法か何かなの?」
私の言葉に慌てて口をぱくぱくさせていた美奈はコクコクと激しく首を縦に振った。
――やっぱり。私ってバカだ。
冷静に考えれば分かることじゃん。美奈が私に向けて攻撃魔法試し撃ちとかあるわけ無い。
何を勘違いしたんだかと私も途端に恥ずかしくなった。
「そうそう! ライトニングギャロップって言ってね。攻撃魔法じゃないからっ、安心して?」
「あ、そうだよねっ! ごめんねっ! うんっ!」
美奈の言葉に私は安堵しつつ頷く。
けれど、それでもだ。多少の不安は残るのは否めない。
私はほんの少し、う~むと唸ってしまった。
「――確かに効果がどんなものか知る必要はあるものね。……でもさ。それ、ほんとに大丈夫なわけ? 疑うわけじゃないけどさ。失敗して暴走したりとかしないの?」
「う――それは……たぶんとしか言えない」
自信なさげに俯く美奈。
確かに魔法なんてつい最近覚え始めたことなのだ。自信なんてないだろう。
初めて人に注射を打つ看護師さんみたいな気分なのだろうか。
そんなことを考えるとさらに不安は募っていく。
けれどせっかく美奈を元気づけようと画策していたのも事実。
親友としてここで引き下がる訳にはいかない。
「分かった分かった。いいわよ、早くやっちゃいましょ?」
「え、いいの!?」
「う……ん」
私の呻きにも似た返事に美奈の顔はさらに曇っていく。
やっちまったと思い、そこで私は覚悟を決めた。
「わ、わかったからっ! 時間ないんだから早くやっちゃいなさい! ほらっ、カモンッ! ミナチャンッ!!」
私は最後若干変なテンションになりつつ、腰を低く構え両手でクイクイと美奈に魔法を促す。
まあ失敗しても、死んだりとか痛かったりとかは別にないだろう。
万が一怪我したら美奈に治してもらうことはできるのだし。
何より美奈に自信をつけさせてあげたいから、やるっきゃないっ! 女は度胸よっ!
「う……ん。わかった、ありがとう。めぐみちゃん」
美奈もようやく納得してくれたようで。軽く深呼吸した後、彼女はゆっくりと目を閉じた。
「我が身に宿りし光のマナよ」
詠唱が始まった途端、美奈の体から光が浮かび上がる。
それは彼女の身体の周りに等しく光の粒子が湧き上がっていく感じだった。
その様子はとても神秘的で、彼女の容姿や振る舞いとも相まって、さながら光の妖精を思わせた。
「我が魔力以て 地を駆ける光となりて 彼の者に大いなる祝福を」
やがて光の粒子は美奈の体を離れ、集まり、中空に揺蕩い、止まる。
「ライトニングギャロップ!」
「わはんっっ!?」
急に光の粒子が私の体に纏わりつき、結果変な声が出てしまった。ちょっと恥ずかしい……。
力ある言葉を受けた光の粒子は私の体に注がれていき、火照ったように熱を帯びる。
あ、決してえっちな意味じゃないわよ?
ウォーミングアップを終えたスポーツ選手のそれみたいな感じだからね?
「めぐみちゃん? どう……かな」
若干心配そうに眉根を寄せる美奈。
「……これが?」
私は自分の体に視線と意識を向けつつ呟いた。
「うん、成功したと思うんだけど。めぐみちゃん、少し走ってみてくれる?」
光輝く私の体を見て、まだ少し不安そうにしている美奈。
魔力を使って少し蒸気した美奈の表情が妙に艶っぽくて。ドキドキしちゃうのは私だけだろうか。
「こうかな?」
そんな下世話なことを思いつつ、美奈の言われるまま駆け出してみる。
「――っ!!?」
すると、どうだ。
ほんの数メートル先に進むだけのつもりが気がつくと数十メートル先まで来てしまっているではないか。
「――すごっ」
思わず感嘆の声を上げてしまう私。
そこで改めて思う。魔法ってのはこの世界の革新的なほんとにすごい発明だと。
「めぐみちゃんっ。ど、どうかな~!!?」
もうだいぶ離れてしまった美奈が叫んでいる。
「美奈っ! これすごいわっ!」
私も美奈と同じように叫びつつ、再び彼女の元へと戻ろうとした。
すると今度は先ほどよりもリアルに体に起こる現象わ感じられた。
体がまるで自分のものじゃないみたいだ。凄まじい反応速度で以て動いていく。
何とか2回目の動作は多少の制御が出来た。
原理も何となく理解出来た。
おそらくこれは身体の電気信号を活性化させる魔法なのだ。
脳で思ったことを身体が異常な速度で反応を示すような感じかな。
慣れればかなり素早く動けて敵を翻弄出来るかもしれない。
実際隼人くんやアリーシャには有効な補助魔法となるんじゃないだろうか。
それでも正直私には必要ないかもしれないなと思った。
実際ほとんどの場合、風で宙に浮いてで戦うし。
自分の足で動き回って戦うスタイルでない私には、無用の長物だと思ってしまうのだ。
もちろんその事は、今は美奈には言わないでおくけれど。