――ある朝のこと。
アリーシャは侍女のフィリアを連れだち、ヒストリア王国の領地の外へと抜け出していた。
山脈へと続く草原をねり歩いていたのだ。
目的は狂暴な魔物、グリズリーを探しだし、討伐すること。
以前ライラが訓練場で武勇伝のように語っていたのだ。
山脈の麓でグリズリーという熊の魔物が出ると。
三メートルにも達する巨体と、黒い鉤爪、獰猛な牙で人を襲う。
騎士団数名でも苦戦する程の相手を一人で苦もなく倒してしまったと。

「ねえ、アリーシャ様。やはり戻りましょう? 危険です」

フィリアは辺りをキョロキョロと見回しながら恐る恐るついてくる。
突然舞い降りた不慣れな遠征に、完全に腰が引けてびくついていた。

「フィリア、何を怖がることがあろうか。私は騎士団の団員にも引けを取らないくらいに強くなった。どんな魔物であろうと退けてやる。大丈夫だ」

「そんな……でもアリーシャ様にもしもの事があったら……」

「だからそんな事はあり得ない。嫌なら帰るがいい。私一人でも行くと最初から言っている」

「それは絶対に駄目ですっ! 私も行きます!」

理由も言わず朝から城を出ていこうとするアリーシャに、強情にも付いてくると言い張った。
幼い頃から一緒に育ってきた、侍女であり幼馴染であり数少ないアリーシャが心許せる相手。それがフィリアであった。
彼女に対してはアリーシャもまた年相応の子供のようにわがままも押し通す。
そしてそれは互いにとって言える事であった。
だがそれがどのような結果をもたらすのか、今の二人には想像し得ない。
やはり二人はまだ子供なのだ。
――――丁度山脈の麓の森に差し掛かった頃。
遠目から見たら岩だと思っていたそれが、突然のそりと動き振り向いた。
青く仄光るその眼光に当てられて二人は時を止めたように硬直してしまう。

「な……なんだと!?」

完全に意表をつかれた形となったアリーシャの口から驚愕の声が漏れる。

「アリーシャ様っ! こっ……これは大きすぎます!」

「な……何を言うのだ! 怖じ気づいている場合ではないっ……!」

フィリアの言葉に反骨新が芽生えつつ、何とか腰の剣を抜き放ち構えるアリーシャ。
だが普段戦いのことばかり考えているアリーシャですらも、初めて見るグリズリーの迫力に一瞬にして気圧されてしまったのだ。
フィリアに至っては身体が震えてその場から動けずにいる。
しかも運の悪い事に立ち上がったグリズリーの体長は優に五メートルを越える。
聞いていた大きさとは明らかに異なる。同種の中でも一際大きく成長した個体だったのだ。

「グオオオッ!!」

「――来るっ……!!」

咆哮と共に二匹の獲物目掛けて地を駆ける。
その体躯からは想像もつかない程俊敏な動き。
だがアリーシャは相手の咆哮に気圧されなかった。
いや、正確にはその殺意に当てられ、逆に縮み上がっていたアリーシャの闘志に火がついたのだ。
やはり血は争えないのだろうか。
名家の血がアリーシャを窮地に奮い起たせた。

「フィリア! 距離を取って防御魔法を唱えろ! うおおっ!!」

「アリーシャ様っ!!」

アリーシャは剣を引き抜き果敢にも自身の数倍もある相手に斬り掛かっていく。
しかしグリズリーの爪牙の嵐に紙切れのように弾かれ、あっという間に劣勢に立たされた。

「くっ……!」

グリズリーが振り乱す爪牙は、手数の上でも一撃の重さでも遥かにアリーシャを上回っているのだ。
何とかそれを横っ飛びで逃れ、一度距離を取ろうとするもののバランスを崩された。
着地点に向けて丸太のような腕が振り抜かれる。
咄嗟に剣でガードしたが、思いっきり遠くまで吹き飛ばされてしまう。

「あっ、ぐっ……!!」

「アリーシャ様!」

「バカっ! 大人しくしていろっ!」

フィリアが再び自分の名前を叫んだ事で、アリーシャよりも近くにいるフィリアへとグリズリーの注意が向いた。

「グオオアアアァッッ!!」

「ひいっ!?」

凄まじい咆哮に縮み上がるフィリア。
アリーシャの言い付け通り、自身の周りに防御魔法のバリアーを張ってはいたものの、あの攻撃に耐えられるかどうかは定かではない。

「くっ!」

アリーシャは身を低くして地を駆ける。
剣は一度鞘に戻し、柄に触れたまま居合いの構えを取る。
スピードに乗った状態での居合い斬りでグリズリーの足を斬り落とす算段であった。
動きを封じてしまえば倒すのは容易。
アリーシャの全速力の疾走で、彼我の距離は一瞬にして無くなった。
このまま行けばフィリアに到達する前に斬れる。
フィリアに気が向いた事が結果的に大きな利点となったのだ。
そう勝ちを確信した時――。

「ゴガアッ!!」

「ぐああっ!!」

「アリーシャ様あっ!」

アリーシャの死角からもう一体のグリズリーが現れ、その爪牙が襲い掛かった。
鎧で怪我は負わなかったものの、その衝撃が内蔵にまで達し、更にはしたたかに背中を木に打ちつけた。
何が起こったのか理解が及ばず、ただ目眩がする程の気持ち悪さに意識が飛びそうになった。

「――が……はっ……」

何とか意識は繋ぎ止めたものの、目眩がしてしばらく立ち上がれそうにない。
完全に見誤った。グリズリーは二体いたのだ。
隠れていて隙を伺っていたという事だろう。
魔物だと思って侮っていたが、予想以上にこの魔物は周到なのだ。

「ごほっ……」

痛みで顔が上げられない。そんな中でもフィリアの安否の事が頭に過る。
だが今最も危険なのはアリーシャの方である。
動かねば簡単に捻り潰されてしまうだろう。
のしのしと土を踏みしめる音が徐々にアリーシャに近づいてくる。勝ちを確信したのか、ただ単に慎重なのか。その歩みは思いの外ゆっくりであった。
だがもうすぐ目の前に来ている。
地面に影が差し、アリーシャは自身の最後を覚悟した。

「ゴボァッ!!」

悲鳴にも似た短いグリズリーの声が響き、体がふっと持ち上がる感覚がする。
次に鼻腔を擽る花のような匂いがした。
この匂いには覚えがある。いつの間にか目を閉じてしまっていたアリーシャが瞼を開くと、そこに見知った顔があった。

「――ライラ」

「本当に困ったお姫様ね」

いつもの涼しい顔をした騎士がアリーシャを抱えていたのだ。