◆八の巻

 もぬけの殻の伽夜の部屋で、涼月は呆然と立ち尽くした。
 
 丑三つ時、なんとなく胸が騒ぎ窓を開けた。
 涼月の部屋の丸く迫り出した窓からは伽夜の部屋の窓が見える。
 伽夜の部屋の窓は開いていて、よく見れば綱のようなものが垂れていた。
 慌てて入った部屋に、伽夜の姿はない。窓辺に駆け寄れば、綱の様子から、外部からではなく伽夜自身が垂らしたようであると思われた。

「これはどういうことだ」
 ぎろりと睨まれた屏風はカタカタと震える。
「さ、散歩だって。朝までにはちゃんと帰ってくるよ」
 屏風の付喪神は恐怖のあまり屏風から飛び出し、屏風の後ろに隠れた。
 鬼の形相で涼月が睨んでいるからだ。
「なんのためにお前達をここに置いていると思っている!」
 今度は茶碗が睨まれてカタカタと震えた。
「だ、大丈夫だよ、鬼の娘なんだから」
「いつだ。伽夜はいつ出ていった?」
「ついさっきだよ、丑三つ時さ」
 茶碗から目だけを出した付喪神が答える。
 ふと、棚の上にある【涼月さんへ】という手紙を見つけた。
 封筒を開けると、手紙と紐が入っている。
 紐は月の光を浴びてキラキラと光り、その様子から、伽夜が受け取った狐の衣から糸を使ったとわかる。途中に入れて編み込んでいる宝石がなにであるかはわからないが、力を感じた。
 取り急ぎ手紙を開く。

【涼月様へ
 これを読んでいるということは、私が出かけたと気づいたか、もしくは私が帰らなかったのでしょう。
 でも心配しないでください。私は自分の意志で父に会いに行きます。
 私は高遠家に来て、幸せを知りました。
 もう大丈夫です。
 この幸せを胸に、生きていけます。
 もし私が帰らなければ、どうぞ。遠慮なく離縁してください
 ずっと、高遠家の人々と、涼月様の幸せを願っています。 伽夜】

 ぎゅっと手紙を掴んだ涼月は、紐を手首に巻き、付喪神を振り返る。
「伽夜に何かあったら、お前達は消す」
 ヒィという付喪神の悲鳴を背に、全身に異能をたぎらせた涼月は伽夜の部屋の窓からひらりと外に飛び降りた。
 着地でしゃがみ込み、立ち上がった涼月の瞳は金色に変わっている。
 ひたひたと庭を走り、馬を引き、気を集中させ通りに出ると、あたりの気配を探った。
 わずかに感じた伽夜の匂いを頼りに進み、行き着いた先は、川沿いの大きなしだれ柳。
 風にそよぐ葉の中に、柳姫が見え隠れする。
「ここに鬼の娘は来なかったか?」
 柳姫はゆっくりとうなづく。
 このあやかしは失意のままときを重ねているうちに声を失ったらしい。
「どこに向かった?」
 手にした桜の枝を北の方角に向けた。
 その先を真っ直ぐに進むと森に出る。言い伝えでは酒呑童子がいると言われる場所のひとつだ。
 黒木が調べた情報と一致する。
 伽夜の母はその森にいたという話を親から伝え聞いたという者がいたのだ。
 その情報をもとに、涼月も一度森の麓まで行ったが、中に入るとなぜかまた麓に出てしまったのだ。
 酒呑童子は、本来なら京都の大江山にいる。
 ここにいるとしてもほんのいっときだ。それがいつかは行ってみないとわからないと言われている。
 とにかく行くしかない。