許さないという声が耳の中まで届くような鋭い目を思い出し、気持ちが暗くなる。
叔父夫婦と会話をしている涼月には見えない角度で、萌子は伽夜だけを睨んでいたから、彼は彼女の憎悪に気づいていない。
祝言を挙げて間もなく、一度だけ外出した伽夜は萌子に会っている。
フミが気にしていた通り、キクヱに連れられて舞踏会に着るドレスを作りに行ったときだ。
萌子は叔母とドレスを受け取りに来たのかちょうど帰るところで、なにも知らないキクヱが『まあ偶然ですね』と明るく声をかけた。
涼月から口頭では結婚しようと言われていたものの、その時点ではまだ確信がもてず不安を抱えていた。
『ごきげんよう。こちらへは?』と聞く叔母を前に、伽夜はなんと挨拶したらいいかわからずにいると、キクヱがすかさず『今日は伽夜様の舞踏会のドレスの注文に』と答えてくれたのである。
叔母は皮肉めいた冷たい目で『あらそう、よかったわね』と伽夜を睨み、行ってしまったが、萌子は違った。
『お前、調子に乗っていると、鬼の娘だと世間にバラすわよ』
キクヱがわずかに伽夜から離れた隙の出来事だ。
『お祖母さまとお父様が話しているのを聞いたのよ。お前の母親は怪しい異能があって、ついには鬼の娘を生んだってね。お前は卑しい鬼の娘なんだ』
『え? なにを言っているの?』
萌子は、伽夜の額の痣が証拠だと言った。
『高遠伯爵の銀行も研究所もなにもかも、お前のせいで潰れるよ。暴動が起きて屋敷も壊されるだろうね』
萌子の目は本気だった。
『 三 月のうちに離縁しないと、そうなるよ』
それが、フミにも言っていない真実だ。
早いもので、もうひと月経ってしまった。
(急がなきゃいけない)
玉森家で躊躇なく伽夜の頬を叩いたように。これ見よがしに伽夜の大切な物を壊したように。萌子に迷いはない。
自分にできるのは、高遠家を守ること。
まずは父が本当に酒呑童子なのか、真相を確かめなければ。
丑三つ時までは時間がある。
少し寝ようと思ううち、眠りに落ちていたらしい。
付喪神の話し声にハッとして目覚めた。
「今何時?」
「もうそろそろ丑三つ時だよ」
六時間ほど寝ていたようだ。
「鬼退治が様子を見にきていたよ」
「そうでしたか」
涼月が来たのは、伽夜が床について間もなくだったらしい。
「あいつになにかされたのかい?」
「いいえ、なにも?」
なぜそんな質問をするのかと聞くと、彼は謝っていたという。
「神妙な顔で『すまない』ってね」
胸がチクリと痛んだ。
(謝らなきゃいけないのは私の方なのに)
「私は涼月さんに感謝こそすれ、謝られるような心当たりなんて、ひとつもありませんよ」
「まったくお前はいつもそうだ」
彼の様子を詳しく聞きたかったが話込んでいる余裕はない。
戻るつもりでいるが、どうなるかわからない。
鬼束伯爵がどんな人かもわからないし、酒呑童子が父でなければ殺されてしまうかもしれないのだ……。
気を取り直して急いで涼月宛の手紙をしたため、今日完成したお守りの紐を一緒に置く。
作っておいた動きやすい服に着替え、昼間のうちに用意した綱を取り出す。
「さっきからなにをしているんだい?」
「ちょっと夜の散歩よ。明るくなる前に帰ってくるわね」
屏風の付喪神が髪についた牡丹を揺らしながら首を傾げる。
「散歩? あたしらと一緒に行くんじゃないのかい?」
「今夜はまずひとりで行ってみるわ」
この日のために付喪神には夜の散歩がうらやましいと言ってある。あなたたちのように、深夜の街を歩いてみたいと。
そっと窓を開け、梯子のようになっている綱を下ろす。
闇夜に浮かぶのは細い三日月、ひと目に付きにくく家出には絶好の夜だ。
伽夜は迷いもせず、紐を伝って下りた。
無事に庭に着き、念のためぶら下がる綱を見上げたが、壁と同じ色の紐のおかげで、思った通り目立たない。
伽夜は風呂敷を背負い、足早に使用人用の通用口から通りへ出た。
丑三つ時に歩く人はいない。
少し前の伽夜なら、こんな時間にひとりで外を歩くなんて、恐ろしくて考えただけで震えただろう。
でも、今は少しも怖くない。
酒呑童子に会いたいという思いが恐怖に勝っている。
瓢箪の酒を飲み始めてひと月、実は僅かだが両親と過ごした日々の記憶を取り戻していた。
『伽夜も、ととさまみたいなツノがほしい』
記憶の中の父は優しい笑顔で笑っている。
父の頭にツノは生えていたが、それ以外は人間とまったく変わらない見た目の、素敵な人だ。
彼は実の父なのか?
養父である可能性はないのか。
(ととさまに早く会いたい)
ガス燈の明かりを避けながら、その一心でひた走る。
向かうのは、鬼束伯爵の妹から渡された紙に書いてあった場所。
屋敷から北へ向かった先にある川沿いの道だ。
【丑三つ時に、柳姫の下で車を停めて待っています】
柳姫とは女のあやかしが棲みついているといわれている大きなしだれ柳の木だ。
角を曲ったところで、柳姫の下に停まる車が見えた。
約束通り彼は来てくれた。
ホッと胸を撫でおろす伽夜が近づくと、車の扉が開き、黒いマントの男が降りてきた。
鬼束伯爵である。
「さあ、乗って」
「はい、ありがとうございます。あの、ここからどれくらいですか?」
「遠くはないよ。一時間ほど走れば着く」
よかった。
夜明け前に帰り、今夜のことは知られたくない。
高遠家を出るときは、離縁をしてもらい正式な形で出たいと思っている。
そうでないと迷惑をかけてしまう。妻が家出をしたのでは、高遠家の恥だ。お世話になったのにそれでは申し訳ない。
「どうしても今夜のうちに帰りたいので」
鬼束伯爵はうなずく。
「俺も誘拐犯にはなりたくないからね」
クスッと笑う伯爵の笑顔に密かに胸を撫で下ろす。
ほんの数回しか会っていないし、正直彼がどういう人かわからない。もし悪人だった場合、それこそ高遠家に迷惑をかけてしまうが、不思議なほど伽夜には自信があった。
鬼束伯爵の瞳は嘘をついていないと思うのだ。
車が走り出し、伽夜は後ろを振り返った。
誰も追いかけてこない。
見つかった場合、自分はいいが鬼束に迷惑をかけてしまう。それはどうしても避けたい。
あらためて鬼束伯爵を振り向くと、彼は首を傾げて伽夜を見ていた。
「ご自分で運転なさるのですね」
「秘密にしたいときはね」
酒呑童子に会いに行くなど誰にも知られたくないだろうと納得する。
「さあ、早速だが、どうして高遠と結婚することになったんだい?」
「高遠の祖母の遺言だと聞きました」
眉間をひそめた鬼束は「なぜ高遠公爵夫人が」と考え込む。
「実は君に縁談を申し込みに玉森に行ったんだが、すでに君はいなかった」
「えっ?」
伽夜は目を剥いて驚いた。
「鬼の娘を探していた。手掛かりは額にある梅の花」
鬼束は伽夜の額を見る。
「君の額に花の痣があるという噂を聞いたんだが……」
今は見えないはず。
だが、見透かされるような気がして背中がヒヤリとする。
それにしても。
額に梅の花がある娘といえば、どう考えても伽夜に違いない。
叔父に不気味でみっともないから隠せと言われていた。
なので親友の杏にも見せていない。いったいどこからそんな話が漏れたのか。叔父夫婦に萌子、ほかに玉森の使用人ならば伽夜の額の痣を知ってはいるが。
鬼束伯爵は伽夜の額を見て「違うようだ」とひとりごちる。
「でも間違いなく、君は鬼の匂いがするのに」
実は痣はあると言ったらどうなるのだろう。
少し迷ったが、ひとまず黙っておいた。彼と結婚するつもりはないから。
「あの……。その痣にはどういう意味が?」
「祖父が今わの際で言ったんだ。額に梅の花のある娘を探して鬼束家に迎えろと。その娘は計り知れない力を秘めているとね」
――計り知れない力?
「父が酒呑童子に言われたらしい。その娘を守れと」
「守れ、ですか?」
結婚と守れとでは意味が違うと思うが。
「ああ、そうだよ。鬼束に迎え入れて、大事に守るつもりだったんだ」
そういう意味かと納得したが、同時に混乱した。
祖母は高遠家に伽夜を託し、おそらく父である酒呑童子は鬼束家に伽夜を託したことになる。
「それで、君は」
「は、はい?」
混乱していた伽夜はハッとして鬼束伯爵を振り向いた。
「酒呑童子に会ってどうするつもり?」
「どうもしません。ただ、会いたいんです」
本当に父なのかと確かめたい。
そして、なぜ覚えていないのか。無くした記憶も取り戻したい。今夜の望みはそれだけだ。
いずれ無事に涼月と離縁したら、一緒に暮らせないかと頼んでみようと思う。
人を喰らう鬼と父が関係あるなら、近くにいて止めなきゃいけないから。
わずかな記憶に残っている父ならば、優しいはずだが、たとえ命に代えても止める。それが人として生まれた自分の責務に違いない。
伽夜の思いを知らない鬼束は「まあ会うのはいいことだ」とうなづく。
これ以上質問される前にと、今度は伽夜が質問をする。
「あの、鬼束家は鬼の家系なのですか?」
彼は「もちろんだ」と眉をひそめた。わかりきったことだと言わんばかりに。
「我が一族は誇り高い赤鬼の血が入っている。五十年前の粛清で生き残るために鬼の気配を消さざるをえなかったが。――玉森は九尾の狐だろう?」
「はい。そういう言い伝えがあると聞いています。証拠はありませんが」
風呂敷に包んでいる輝く衣が脳裏をよぎったが、その話をするほどまだ彼を信用していない。
「君の母が受け継いだようだな。今の公爵にその気配はないし、君と違って萌子という娘の方はなんの匂いも感じない」
そうなのか、と伽夜はぼんやりと思った。
萌子と伽夜は従姉妹なのに、子どもの頃から似ても似つかないふたりだった。
考え方も好みも。顔や表情も。何もかも違う。
ふと空を見上げる。
雲がでてきたようで、月も星も見えなかった。
今頃萌子はぐっすりと眠っているだろう。
自分も異能などなければ夢の中のはずだと伽夜は思う。
付喪神とも話せず座敷童や河童も見れず。今となっては彼らに出会えないのは寂しいと思うが、それが普通なのだ。
そうであれば、ずっと涼月のそばにいられたのか。
こんなふうに、まるであやかしのように夜行などせず、彼の腕に抱かれたまま、幸せな夢を見て……。
でも、普通の娘だったら彼は結婚してくれなかったのかもしれない。
彼はなぜ、自分と結婚したのだろう。
やはり、酒呑童子を倒すためなのか……。
「このまま高遠家にいるつもりなのか?」
「それは」
言葉を濁した。
「あの男は、君を足がかりに鬼を封じ込めるつもりだ」
ズキッと心に刃が刺さる。
「でもそれは、悪い鬼が――」
彼は鬼にもいろいろいると言っていた。
人間のように。
酒呑童子はいい鬼かもしれない。よくはなくても少なくとも悪行は重ねていないと信じたい。
通り魔や惨殺事件という信じられないような凶悪事件が起きると、新聞や世間は鬼やあやかしの仕業だと決めつけるが、
結果的にはごく普通の人間が犯人の場合が多い。
「君は考えないか? 人の残酷さを。鬼とどう違う?」
「同じだと思います。残酷な人だっている」
人は皆、人間の仕業だと信じたくないのだ。
鬼が人に乗り移ったとか、あやかしに取り憑かれたと思えば、同じ人としていくらか気が楽になるから。
「ただ私、一度も鬼に会ったことがないんです。鬼の眷属だという人も鬼束さんが初めてで」
「そうか。あやかしは? さっき柳姫は見えたか?」
「見えました。桜の枝を持っていましたね。――紙が、付け文でしょうか」
言い伝えは聞いていたが実際に見たのは初めてだ。
柳姫は男の首を持っていると言われていたが、彼女が手にしていたのは桜だった。
「ああ、そうだよ。彼女は男に騙されてあの川に身を投げた。桜の枝に男からの恋文が括られている」
そんな話をしているうちに車は街を外れ、鬱蒼と木が生い茂る森に近づいていく。
「あの森の中に酒呑童子はいる」
伽夜は大きく息を吸う。
いよいよだ。
幼き頃、ととさまと呼んだツノのある男性が、酒呑童子かどうか――。
森の麓で、鬼束は車を止めた。
車のエンジンを止め、ライトが消えると、
あたりは静寂に包まれる。
「ひとまず、ここで降りよう。あとは呼びかけて待つしかない」
伽夜は頷き、車を降りる。
同じく車を降りた鬼束は森に向かって声を張り上げた。
「酒呑童子は、いらっしゃるか!」
その隣で風呂敷包みを抱きかかえた伽夜は、『ととさま、会いに来ました』と、強く願う。
また雲が動き、月が隠れた。
刹那、ふと体が浮いた感覚がした。
「伽夜さん、伽夜さん!」
見えない力で、伽夜の体が宙を飛び、
鬼束の声が一言ずつ小さくなる。
不思議なことに伽夜は車から出ていて、慌てたように車を降りてきた鬼束を見下ろしていた。
あっと思う間もなく、瞬きをする間に移動し、気づいたときには部屋の中にいた。
洋館の造りの、天井が高く荘厳な部屋だ。
伽夜はふかふかの椅子に座っている。
そして――。
「大きくなったな、伽夜」
記憶の中の父が、目の前の大きな一人掛けの大きな黒い椅子に座っている。
傍らの丸いテーブルには、大きな瓢箪がひとつ。
長い脚を組み、片方のひじ掛けに肘をあてている。
人間となんら変わらないように見えるが、よく見ればツノがあり、手の爪は黒くて長い。
髪は黒いが燃えているように毛先が上に向かって波打っている。鼻は高く目は赤黒い不思議な色だ。着物と洋装を合わせたような不思議な恰好だが、胸を打つほどとても素敵だ。
「ととさま? あなた様は私の父ですか?」
言ったものの、聞くまでもなく伽夜はひと目で確信した。
目もとが伽夜にそっくりだ。
「ああ、そうだ」
思わず駆け寄ると、そのまま抱きしめられた。
懐かしい甘い香りに包まれた。瓢箪の酒の匂いによく似ている。
「額の花が隠れたところをみると、陰陽師の嫁になったか」
「そうです、高遠涼月とおっしゃる方です」
「鬼の嫁になっていれば、花はより赤くなるはずだからな」
選んだのが高遠でも鬼束でも、ふたつとも正解だったのか?
聞きたいことがたくさんある。
「ととさま、私の結婚は高遠家の遺言だと言われたのですが、ご存知でしたか?」
「高遠とはそういう約束だった。人として幸せになるために陰陽師と一緒の方がいいとな。それが無理なら鬼の嫁にと言っておいた」
とはいえ鬼は人に恐れられている。
「一緒に来た男は鬼の眷属のはずだが?」
「ええ、そうです。ととさまに会いたくてお願いしたんです。あの方は、おじいさまに私を守るよう言われたとか」
体を離した酒呑童子は「ああ、頼んでおいた」と言って、伽夜をじっと見る。
よく見れば燃えるような赤い目だった。
「小夜子によく似ているな」
伽夜の髪を撫でながら、酒呑童子は微笑み、何度もうなづく。
そして、伽夜が持ってきた風呂敷包みを引き寄せ開けた。
「懐かしいな。この衣は小夜子が糸から作った……」
「かかさまが、この衣を?」
その優しい表情は父そのものだった。
「ああ、そうだ。九尾の狐が残した糸を使ってな。――小夜子はお前によく似た美しい娘だった」
父は懐かしそうに、遠い目をする。
「あれは心の臓が弱かった。実家に戻るよう言ったが小夜子が嫌がった」
「かかさまは、心臓が弱って?」
頷いた父は「心の臓の病だけはどうすることもできなかった」と、深い溜め息を落とす。
「どうして私の記憶を消したのですか? 私はその頃を覚えていないのです」
記憶を封印した理由は母にそうして欲しいと頼まれたと言う。
「小夜子でないとわからないが、おそらく、子どものお前が生きやすいようにしたんだろう」
生きやすいように……。
(鬼の子だって知られないように?)
あやかしの中でも鬼は、ずっと恐れられている。
五十年前の騒動の元凶、不知火侯爵が鬼の末裔だったのが尾を引いているのだ。
「思い出したいか?」
「はい」
「 我 (われ)の知る記憶なら呼び覚ませる」
酒呑童子が伽夜に息を吹きかけると、頭の中になにかが満ちていくような感覚になる。
母と父とここで笑いながら夕食を共にした。
鬼は陽の光を嫌うために、三人で弁当を持ち出掛けるのはいつも、月が細い夜で、星が綺麗だった。
あたたかい温もりに包まれた幸せな日々。
伽夜の頬には涙が伝う。
「ととさま、伽夜もここにいていいですか?」
「お前の母はそれを望んでおらぬ」
ずっとここにいたいと思った。
酒呑童子の娘だとわかった以上、高遠家に戻っては迷惑がかかる。
「なにがあった? 幸せではないのか?」
伽夜の頬を流れる涙を拭い、酒呑童子が眉をひそめる。
「なにも。とても幸せです。ただ、私も鬼ならば人の世界にいてはいけないのかと」
高遠家にいては迷惑をかけるだけの存在になってしまう。
でも、本当の気持ちは言えない。父である酒呑童子の存在を否定するような気がして。
「ダメ? かかさまもそうしたでしょ?」
母は人の社会よりも、父を選んだ。
「お前は我の娘ではあるが、人間だ。会いたければ、いつでもまた会いに来ればいい」
「でも」
父は立ち上がった。
背が高い。涼月よりも更に頭ひとつは高く、肩幅も広い。無造作に着崩した黒い衣から、筋肉が盛り上がる胸板が見える。
その逞しい姿はまさに鬼の首長を思わせた。
「お前がそれでよくても、もう遅いようだ」
そう言うと、壁際の棚から細い棒のようなものを取り「結婚祝いだ」と、伽夜に差し出した。
見たところ扇子に見える。
親骨は金属のようだがとても軽い。持ち手から上の方にたくさんの宝石がついていた。
開けば薔薇の絵が描いてある美しい扇子である。
「ありがとう……、ととさま」
「お前以外のものは重たくて持てない。その扇子を高く掲げ、強く強く願えば、俺が必ず駆けつける」
そのほか、なにものかに襲われたときの使い方などいくつか説明すると「さあ行くぞ」と伽夜の手を引いた。
「え?」
「このままでは、やつらのどちらかが死んでしまう」
なんのことかと思う間もなかった。
伽夜は気を失った。
◆八の巻
もぬけの殻の伽夜の部屋で、涼月は呆然と立ち尽くした。
丑三つ時、なんとなく胸が騒ぎ窓を開けた。
涼月の部屋の丸く迫り出した窓からは伽夜の部屋の窓が見える。
伽夜の部屋の窓は開いていて、よく見れば綱のようなものが垂れていた。
慌てて入った部屋に、伽夜の姿はない。窓辺に駆け寄れば、綱の様子から、外部からではなく伽夜自身が垂らしたようであると思われた。
「これはどういうことだ」
ぎろりと睨まれた屏風はカタカタと震える。
「さ、散歩だって。朝までにはちゃんと帰ってくるよ」
屏風の付喪神は恐怖のあまり屏風から飛び出し、屏風の後ろに隠れた。
鬼の形相で涼月が睨んでいるからだ。
「なんのためにお前達をここに置いていると思っている!」
今度は茶碗が睨まれてカタカタと震えた。
「だ、大丈夫だよ、鬼の娘なんだから」
「いつだ。伽夜はいつ出ていった?」
「ついさっきだよ、丑三つ時さ」
茶碗から目だけを出した付喪神が答える。
ふと、棚の上にある【涼月さんへ】という手紙を見つけた。
封筒を開けると、手紙と紐が入っている。
紐は月の光を浴びてキラキラと光り、その様子から、伽夜が受け取った狐の衣から糸を使ったとわかる。途中に入れて編み込んでいる宝石がなにであるかはわからないが、力を感じた。
取り急ぎ手紙を開く。
【涼月様へ
これを読んでいるということは、私が出かけたと気づいたか、もしくは私が帰らなかったのでしょう。
でも心配しないでください。私は自分の意志で父に会いに行きます。
私は高遠家に来て、幸せを知りました。
もう大丈夫です。
この幸せを胸に、生きていけます。
もし私が帰らなければ、どうぞ。遠慮なく離縁してください
ずっと、高遠家の人々と、涼月様の幸せを願っています。 伽夜】
ぎゅっと手紙を掴んだ涼月は、紐を手首に巻き、付喪神を振り返る。
「伽夜に何かあったら、お前達は消す」
ヒィという付喪神の悲鳴を背に、全身に異能をたぎらせた涼月は伽夜の部屋の窓からひらりと外に飛び降りた。
着地でしゃがみ込み、立ち上がった涼月の瞳は金色に変わっている。
ひたひたと庭を走り、馬を引き、気を集中させ通りに出ると、あたりの気配を探った。
わずかに感じた伽夜の匂いを頼りに進み、行き着いた先は、川沿いの大きなしだれ柳。
風にそよぐ葉の中に、柳姫が見え隠れする。
「ここに鬼の娘は来なかったか?」
柳姫はゆっくりとうなづく。
このあやかしは失意のままときを重ねているうちに声を失ったらしい。
「どこに向かった?」
手にした桜の枝を北の方角に向けた。
その先を真っ直ぐに進むと森に出る。言い伝えでは酒呑童子がいると言われる場所のひとつだ。
黒木が調べた情報と一致する。
伽夜の母はその森にいたという話を親から伝え聞いたという者がいたのだ。
その情報をもとに、涼月も一度森の麓まで行ったが、中に入るとなぜかまた麓に出てしまったのだ。
酒呑童子は、本来なら京都の大江山にいる。
ここにいるとしてもほんのいっときだ。それがいつかは行ってみないとわからないと言われている。
とにかく行くしかない。
柳姫に礼をいい北へと馬を走らせた。
歩いて行ける距離ではない。
伽夜がひとりで向かうはずもなく、必ず手引きをした者がいるはずだ。
森が近づいてくると、止まっている車が見えた。
思ったとおり、鬼束伯爵の車である。
馬を降りて近づくと、車の脇から鬼束が出てきた。
「伽夜はどうした」
「なんのことですか?」
彼は肩をすくめる。
「ご覧の通り、タイヤがはまってしまいましてね」
ちらりと見ると、確かに車は昨日降った雨のぬかるみにはまっているようだ。
だが、涼月はそれには構わず続ける。
「言え。伽夜はどこにいる」
「ですから、うちの別宅がすぐそこに――」
なおも惚ける彼の足元を目掛け、前に突き出した右手の平を大きく開いた。
その刹那ひらりと飛び上がった鬼束は車の屋根の上に立つ。
彼が立っていた地面は轟音と共に大きく抉られていた。
「危ないな」
鬼束は肩をすくめておどける。
「やはりお前は鬼の眷属か」
「そういうお前も、ただの陰陽師ではないな。いったいお前は何者なんだ」
鬼束はさらに上に飛び木の枝に片足で立ち、腕を組んでいる。
到底普通の人間の動きではない。
「何度も言わすな、伽夜はどこだ!」
涼月は怒気を強め、今度は枝を砕いた。
鬼束が飛ぶその先の枝も砕口と同時に、今度は鬼束が細かい 礫 (つぶて)を投げ涼月は大きく飛び退く。
涼月がいたはずの地面には無数の穴ができる。
そのまま戦い続けるうち「いい加減にしろ!」と声が響いた。
「森を壊す気か!」
見れば大木に大きな男が立っていた。
腕には伽夜がいて、気を失っているように見える。
「酒呑童子か」
「言うまでもあるまい」
酒呑童子はギロリと涼月と鬼束要のふたりを見比べるように首を回す。
「なるほどな。――陰陽師よ、ひとまずお前の屋敷に行く。少し話をしよう。夜が明ける前に」
酒呑童子はそれだけ言うと伽夜を抱いたまま瞬時に姿を消した。
涼月が高遠の屋敷に戻ったとき。酒呑童子は伽夜の部屋の窓に腰を下ろし、外を眺めていた。
庭のあやかしたちが騒がしい。
池の周りで河童らが身を寄せ合うようにして、草木の影から酒呑童子を見上げているのが見えた。恐れおののいているのだろう。
邸に入り、伽夜の部屋の扉を開けると、酒呑童子は棚に並ぶ茶碗をつつき付喪神をからかっていた。
茶碗が「やめてくれっ」と騒いでいる。
「遅いな」
「仕方がない人間の体なのだ」
伽夜はベッドで寝ている。
「口の聞き方に気をつけるんだな。義理とはいえ我はお前の父親でもあるんだぞ」
鬼めが、と咥内で毒づき涼月は溜め息をつく。
やはり伽夜の父は酒呑童子だったのだ。
「伽夜のほかに子は?」
「おらん。伽夜は我の唯一無二の娘。小夜子は人の血が濃く、長く生きられなかったのが残念だ」
目がよく似ていた。疑うほどの理由もない。
噂通り、見れば見るほど美しい顔をした男である。ツノがなければそれとはわからないくらい人そのものだ。
千年前に誕生したと言われているが、寿命はないのか。
歳を重ねるごとに弱るあやかしもいるが、鬼は謎に包まれいる。
ゆっくりと首を回した酒呑童子は涼月をじっと見る。
「大天狗だったとはな」
酒呑童子は見抜いたらしい。
「お前は人よりも天狗が濃いではないか」
よく化けたもんだとニヤリと笑う。
「お前、どういうつもりで伽夜を娶った。なぜ、伽夜は我と暮らしたいなどと言う?」
酒呑童子は涼月を見極めようとするかのようにジッと見つめる。
「伽夜を足がかりに我を倒すつもりか。ことと次第によっては伽夜は赤鬼に預けるぞ」
瞬きもせず見返した涼月は不敵な笑みを浮かべる。
赤鬼――。鬼束要。
明るく燃えるようにうねる髪は、まさに赤鬼を連想させる。
「倒す理由がありません」
鬼の存在を否定する気はない。
少なくとも酒呑童子が善人を襲ったという記録はない。
鬼の首長が見境なく人を襲う鬼であれば、今より悪鬼は増えていたはずだ。そういう意味でも酒呑童子の存在意義は高い。
「教えてください。伽夜を守るにはどうすればいいのか。悪鬼が伽夜を狙う恐れはありますか?」
「悪鬼は――強くなるために伽夜の血や涙を欲しがるかもしれぬ。我の血をな」
血と聞いて背中に緊張が走る。
「もしや、心臓を狙われた女も鬼と関係が?」
「あれは違う。たまにいるのだ。鬼が好む血をもつ女が」
酒呑童子は、伽夜の瓢箪を手に取り蓋を開けて匂いを嗅ぐ。
「この酒を毎日飲ませるといい。悪鬼も我の匂いに恐れ襲いはしないし、あやかしに憑依される心配はない。大天狗だろうと憑依はできぬ」
酒呑童子は涼月を見てにやりと笑う。
なるほど。伽夜の心が読めない理由に通じるのかと納得した。
「伽夜にはどんな力が?」
「小夜子が残した〝癒し〟の力だ。お前はすでに実感しているだろう?」
癒やしと聞いて合点がいった。
驚くほど傷の治りが早いと思っていたが、伽夜を抱いて寝ていたおかげだったのか。
「伽夜になにかあったらただではおかぬ。覚えておけ」
そう言い残し、酒呑童子はひらりと窓に立ち、闇に消えた。
間もなく夜明けだ。
茜色に染まり始めた東の空に、明けの明星が輝いている。
涼月は伽夜が眠るベッドの枕元に腰を下ろした。
あらためて服装を見れば、伽夜は髪をひとつに束ね、マントを羽織り男のような洋装を着ている。
(密かに出かける準備をしていたのか)
まったく気づかなかった。
伽夜の心を掴みきれず、苛立つ気持ちを持て余すように伽夜を抱いた。
己の身勝手さに呆れるばかりだ。
「はぁ……」
重い溜め息を吐く。
伽夜はおとなしいが、気が弱いわけじゃない。
考えをしっかりと持っているのはわかっていたが行動力まであるとは。
鬼の血を引くとはいえ、丑三つ時に家をこっそり出て夜道を進むなど、不安で怖かっただろうにと思う。
(もしかしてそれほど嫌なのか? 俺が? この家が?)
そうでないと信じたいが、自信はない。
伽夜はいつもどこか悲しそうだった。
伽夜の笑った顔を思い浮かべてみたが、掴めば指の間からサラサラと落ちていくような気がしてかぶりを振る。
だが、それでも明るい笑顔に嘘はないはずだ。
翳りは見えなかった。それとも目まで曇っているのか?
伽夜のことになると、すべてに自信がなくなる。
なぜ伽夜が悲しげな表情をするのかと、ふとした瞬間に考えてしまう。
『寝ても覚めても気になって仕方がない。キクヱ、なんとかして探ってくれ』
たまりかねてキクヱに言うと、笑われた。
『涼月様、それを恋と言うのですよ』
『俺は伽夜がなぜ悲しそうなのか知りたいだけだ』
『ええ、ええ。そうでしょうとも』
心当たりがないわけじゃない。
舞踏会で、伽夜に目を輝かせる鬼束伯爵に憎悪の炎が揺れた。
今夜もあの男が伽夜と一緒だと思うだけで、感情を抑えられなかった。
伽夜の笑顔に安心し、些細な表情の陰に一喜一憂する。
自分には決してないと思っていた情愛の炎。
心を支配するこの感情は――。
これが恋なのか?
涼月はふと寒気を感じ、我が身を顧みて苦笑する。
寝巻きのまま飛び出していたのだ。
剥き出しの足や腕、胸もとは擦り傷だらけだ。
鬼束と戦っているときにできたのだろう。寝巻きの浴衣は、ところどころ破けている。
戦うときは洋装と決めているのに。
着替えるだけの気持ちにゆとりがある伽夜と、まったく余裕のない自分。比べるまでもないと苦笑いが込み上げる。
伽夜の寝顔に語りかけた。
「両手を挙げて降参だ」
これが恋ならば制御しようがない。
(どこまでも、溺れてみよう。伽夜、お前に)
***
目が覚めて、最初に伽夜の目に映ったのは、涼月の心配そうな顔だった。
「私……」
「君の父上がここまで送ってくれた」
ととさまが? と慌てて起き上がろうとして止められた。
「少し休んだ方がいい。急な移動に体が驚いているはずだ」
「はい」
夢ではなかったのかと、重たい頭で考える。
最後の記憶は『さあ行くぞ』と手を引かれ『このままでは――』と言う途中で、ふわりと抱き上げられた感覚の中で気を失っていった。
「あの、父は?」
「夜明け前に帰られた」
鬼は明るい光を嫌う。
もう少し話をしたかった。いろいろ聞きたかったのに、いざとなるとなにも聞けなかったような気がする。
それでも父との記憶は取り戻せた。
楽しそうな母と力強くて頼もしい父。鬼やあやかしが家に遊びにきて伽夜はよく河童の子どもと遊んだ。
楽しかった日々。
視界が涙で歪むと。涼月が伽夜も手を握った。
「ごめんなさい。でも、ここに帰るつもりだったの」
どうしてここに涼月がいるのかわからないが、彼の話から察するに彼は酒呑童子と会ったのだろう。
「いいんだ。無事でよかった」
ふと、枕元にある扇子が目についた。
手を伸ばすと「それは?」と聞かれ、父にもらったのだと答えた。
「私以外の者にはとても重たいそうです」
伽夜には箸のように軽く感じられる。
「持ってみますか?」
「ああ」
繋いでいた手を外し、涼月の手に乗せると彼も手はベッドに落ちる。
「本当だ。これは相当重たい」
彼はあらためて扇子を持ち上げるが手に力を込めているようだった。
「少なくとも普通の人間では持てない」
「この扇子を高く掲げて念を込めると、父が駆けつけてくれるそうです」
「ほぉ」
今すぐに使ってみたい。
もっともっと一緒にいたかった。
それでも父は鬼だ。涼月の敵である。
溢れる思いが涙になって溢れてくる。
止められず両手で目元を覆った。
「君の父上は最強の鬼だが、人に悪さはしない。最強といわれる理由は人に対してではなくあやかし界でのこと」
伽夜が顔を上げると、涙を拭い、涼月は頬に口づけをする。
「鬼は鬼だが山にいる鬼と、市中に出回る鬼は違う。酒呑童子は山にいる」
「父は、悪鬼ではないのですね」
涼月は「もちろんだ」と、うなずく。
「伽夜、すまなかった」
涼月は肩を落としてうなだれる。
(えっ?)
「自分が情けない」
そういえば彼が謝っていたと付喪神が言っていたのを思い出し、慌てて起き上がって彼の腕を掴んだ。
「どうして謝るのですか? 涼月さんには感謝こそすれ、なにも」
涼月は伽夜の腕を解き、そのまま伽夜を抱きしめた。
「君の気持ちを思いやれない自分が歯痒いんだ。すまない」
「そんな。私こそごめんなさい」
なにも言えずにいた。
こんなふうに心配してくれるとは思わなかったから。
「私――」
たとえ狐で鬼の娘でも。長く一緒にいられなくても。
どれほど涼月を想っているか、それだけは伝えておこうと思い口を開くと。
「伽夜、俺はお前が好きだ」
先に涼月がそう言った。
唖然とする伽夜の髪に涼月は頬擦りをする。
今、彼は何と言ったのか。
驚きのあまり息を呑んだ。胸は高鳴り、耳を疑う。
「この気持ちをどう伝えていいかわからない」
ゆっくりと体を離した涼月は、伽夜の頬を両手で包む。
「夕べ、伽夜の部屋から綱が降りていると気づいたとき、心臓が止まるかと思った」
「そんな……」
帰るつもりでいたし、見つかった場合は考えないようにしていたのだ。
考えてしまうと行動できなかったから。
「君がなにに悩んでいるのか。頼むから教えてくれないか。一緒に悩ませてくれ」
「涼月様も私に教えてくれますか?」
うなずいた彼に伽夜もこくりとうなずき返す。
「私はあなたの重荷になっていませんか?」
自分が鬼の娘であり、それを知っている人もいる。もし世間に知られてしまったら高貴な高遠家に傷がついてしまうと告げた。
「鬼の娘で狐の私が高遠家にいるわけにはいきません」
真剣に訴えた。
「私はこの家を守りたいんです」
あなたが私を好いてくれる以上に何倍も私はあなたが好きだからと、心で続ける。
「伽夜。俺は天狗の血を引いているんだよ。陰陽師の血だけじゃない。大天狗の末裔でもある。しかも伽夜以上にあやかしの血の方が濃い」
人の心を読めて、やろうと思えば心を操る力もあると教えてくれた。
悪鬼を消すだけが力ではないのだと。
「俺のすべてを知るものは一族の者しかいない。黒木はある程度知っているが、それだけだ。キクヱも知らない。悪鬼を倒しあやかしの力を封じる陰陽師だと彼らは思っている。読心術については気分のいいものではないし、滅多に使いはしないが」
本人にとっては残酷な異能だと、伽夜は思う。
人の心は、美徳よりも醜さの方が際立つはず。
自分を振り返ってみてもそうだ。
玉森にいた頃は、どうして辛くあたるの?どうして酷い物言いをするの?どうしてどうしてと叔父一家に対する不満や悲しみばかりだったから。
知りたくもない自分への憎悪も目にするかもしれない。強い心を持っていなければ、闇に引きずられるだろう。
そういえばとふと思う。
心も読まれていたから、昨夜の外出もわかってしまったのかと。
ならばもう隠す必要がない。
「この家に来てすぐドレスを作りに行ったとき、萌子に会って、三月のうちに離縁しなければ、私が鬼の娘だと世間に公表すると言われました。舞踏会で萌子の憎悪に満ちた目を見て、もうダメだと、どうしようもなくて」
彼の目には萌子に対する恐怖やどうしようもない不安がみえていたはずだ。
「そうだったのか」
初めて知ったような響きに不思議に思い、首を傾げた。
あの日以来ずっと萌子に言われた言葉が頭から離れなかった。少しでも心を読めばわかっていただろうに。
「伽夜。君の心だけは見えないんだ」
「え? そう、なのですか?」
嘘をつくとも思えず、混乱する。
「何度も覗こうとしたが、どうしても読めない。伽夜だけなんだ」
「私が、鬼の娘だからなんでしょうか。それとも狐だから?」
「どうだろう。正直よくわからない」
読めないとなると。
(じゃあ、今私が言った萌子の話は知らなかったの?)
「とにかく、もう心配いらない。君は何もしていないし、責められるはずがないんだ。そもそも彼女が口外すれば困るのは玉森家だ。玉森にはあやかしの異能があると言っているようなものだからね」
「でも母が父に拐かされたと言われたら……」
なにも返せない。
父と母は春の山で出会ったという。
桜を見に出掛け、急な雨で岩陰で雨宿りをしていて、猪に襲われそうになったところを父が助けた。
母は父に礼を言いに再び岩に向かい、ふたりは恋に落ちた。
父から聞いた美しい恋を世間に伝えようもない。
「少なくとも九尾の狐の眷属でなければ鬼に近づけない。普通の人間は鬼の姿すら見えないだろう?」
ああそうかと、伽夜はハッとした。
拐かされるとしたら、普通は取り憑かれるか殺されるかのどちらかだ。
普通の人間は、鬼と心を通わせる 術 はない。
「伽夜の母にその力があるとなれば一族の問題だ。公爵だけ知らぬ存ぜぬは通じない」
確かにそうだ。
萌子がそれをどう思っているかは別として、玉森家の血に違いないのだから。
「責められるとしたら玉森家なのですね?」
「そうだ。我が家は陰陽師一族、仮に君が鬼の娘であろうと異能を消すと宣言すれば世間は信じる。それだけの実績と信用を我が家は積んでいるんだよ」
涼月は警察官が立ち合い、犯罪者から取り憑いたあやかしを祓って消すという仕事もしていると言った。
「夜になるとよく出掛けるのにはそういう理由もある」
(夜、出掛ける理由?)
伽夜は思い切って聞いてみた。
「女性のところでは、ないのですか?」
「女性? ああ、もしかして妾でもいると思ったか?」
伽夜はこくりと頷いた。
「いないよ。今までも、これからも」
「それじゃ……」
涼月はうなずく。
「俺には伽夜しかいない」
ほかに女性はおらず、鬼の娘でも迷惑をかけない? と、伽夜は心で何度も繰り返した。
「なにも心配ない。もし玉森萌子が何かしたところで高遠はびくともしない。妻である君を含めてね」
力強い微笑みに、緊張の糸が切れる。
ホッとすると同時に涙が溢れた。
「もう大丈夫だ。なにも心配ない」
強く強く抱き寄せられ、伽夜は心からようやく心から安心できた。
◆九の巻
(かわいそうに、嫁に来てまでそんな思いをしていたのか)
涼月は車の中から空を見つめ伽夜の涙を思い浮かべた。
「お体は大丈夫ですか?」
振り向くと黒木が気遣わしげにジッと見ていた。
「ああ。もう大丈夫だ」
伽夜が夜中に家を出たのは三日前。
深夜の騒動を家の者はなにも知らない。黒木もだ。
朝方目覚めた伽夜と話をした後、涼月はホッとしたように眠りについた。鬼束との戦いで、かつてないほど体力を消耗していたらしく、伽夜のベッドに入ったまま丸一日、一度も目を覚さずに眠りこけたのである。
目覚めると伽夜が心配そうに覗き込んでいた。
『伽夜』と声をかけると彼女は泣き崩れ、キクヱが大慌てで黒木を呼びに行き、それはもう大変な騒ぎだったらしい。
あやかしとの戦いに疲れ半日寝続けたときはあるが、一日中というのは今回初めてだ。それほど鬼束との戦いは熾烈を極めた。
俺もまだまだだなと反省しつつ、苦笑する。
「心配かけたな。すまない」
「何かありましたか? 実は先日、夜明け前に、伽夜様の窓が開いているのに気づき、なにものかが見えたような……。その後すぐ涼月様も顔を出されたのを確認したので安心していたのですが」
「そうだったのか。実は酒呑童子が来てな。少し話をした」
黒木はギョッとしたように目を剥く。
「酒呑童子? 京の都にいるのではないんですか」
「気まぐれに来るらしい」
黒木は高遠の遠縁にあたる家の出だ。
異能があっても不思議はない。あやかしも付喪神もはっきりと見えはしないようだが、気配を感じる程度に鋭い勘を持つ。
「伽夜の父は酒呑童子だ」と短く耳打ちした。
黒木は無言のまま、深刻な表情でうなずく。
「全力で守ると決めた。よろしく頼む」
「わかりました」
一年契約ではなく、永遠にと想いを伝えた。
伽夜の悩みも胸の内もよく聞き、心が溶け合った実感がある。
酒呑童子からも話を聞けた。
『伽夜にはどんな力が?』
『小夜子が残した〝癒し〟の力だ。お前はすでに実感しているだろう?』
伽夜を抱きしめると全身に力が漲る感覚を覚えるのは気のせいではなかった。
手首に巻いた紐に目を落とす。
伽夜だけでなく、この紐にも回復させる力があるのかもしれない。
体中にあった細かい擦り傷は、丸一日寝ている間に跡形もなく消えた。
夕べ心を通わせ伽夜を抱いた。すると深手の傷も消えたのだ……。
伽夜は宝だ。
そう思うだけで、胸が燃えるように熱くなる。
『私は高遠の嫁として、鬼の娘であるのを卑下していました』
『それは違うぞ。酒呑童子は誇り高い鬼の首長だ。高遠の力にはなっても、力を削ぎはしない』
伽夜はうれしそうに微笑んだ。
『ありがとうございます。ととさまにも言われたのです。遠慮と卑下は違うと。私は両親を誇りに思います』
だからこそ許せない。
「それで、玉森にはどういったご用件で?」
これから伽夜の実家、玉森家に行く。
「後悔させてやろうと思ってね」
黒木は当然だと言わんばかりに大きくうなずく。
「聞けば聞くほど酷い話であったからな」
フミや捨吉だけではない。御膳所の料理人に黒木が聞いた話によれば、伯爵夫人や萌子から、伽夜には使用人と同じ食事を出すよう指示されていたという。
朝の握り飯はともかく、野菜の切れ端の味噌汁とイワシだけという食事。たとえ使用人であっても、酷い扱いである。
『一度だけお夕食に伽夜様が呼ばれたそうですが、そのときのお客様は助田子爵だったそうです。公爵夫人は助田子爵と伽夜お嬢様を結婚させようとしていたと、後になって聞きました』
助田は純血種の人間ではあるが、人の形をした悪の塊だ。いっそ人でなければ斬首できるものを。 いずれにせよ助田の悪い噂を玉森公爵夫人が知らないはずはない。
怒りのまま、拳を握る。
(絶対に許さない)
公爵には、訪問を前触れしてある。
訪問の理由は言っていない。