欠けた僕らの結果論

 その日、天使の存在を目の当たりにした。
 真っ暗な歩道橋の上で踊るようにその場で回った彼女は、紺色のスカートと腰の長さの綺麗な銀髪を揺らす。振り返った途端、アンバーの瞳が私をとらえると、口元が微笑んだように見えた。
 街路灯だけでなく、端の下を走る車のヘッドライトすらも彼女に向けられる。まるでランウェイを歩くモデルを照らしたスポットライトのようだ。
 彼女が歩道橋を立ち去るまでの間、私はただ茫然とその場に立ち尽くしていた。
 最終バスに乗り遅れて夜中に歩いているところを補導されてしまったら、塾の居残りで遅くなったことを伝えればいい。期末テストという大切な時期に寝坊して学校に遅れて、テストが受けられなくなって先生からの評価が下がったってかまわない。
 今はただ、彼女のことをこの目に焼き付けておきたかった。
◇◇◇

「ねぇ、聞いた? 歩道橋にいる幽霊の話。夜になると歩道橋で踊っている女の子の霊が現れるっていう」
「確かこの間、部活の先輩が遭遇して慌てて逃げたけど、次の日に怪我したんだよね」
「こわーい。……でもつかさは大丈夫だよね。その身長じゃあ、誰でも逃げるって」
 クラス内で盛り上がる話の中、友人の一人がニヤニヤした顔で私――()()つかさを見て言う。名前の字面だけだと男に見られがちな私は、れっきとした女子生徒だ。
 名前だけで性別を間違えられるのは日常茶飯事で、成長期で伸びた身長はクラスの平均を超え、ついに一七七センチに到達した。そのせいで体育の授業では「男子と同じチームでなければ平等じゃない」という身勝手な理由で男扱いをされている。
 根腐れてしまった今は、少しでも女子らしく見られようと肩まで髪を伸ばした。それでも周囲の反応は変わらない。
「そ、そうだね」
「歯切れ悪いなぁ。実際にそうでしょ。小さい子に『お兄ちゃん』って呼ばれているの知っているから。ま、幽霊に好かれない限り大丈夫だよね」
「あはは……」
 苦笑いしか出てこない。それ以上話すことはなかったので、解きかけの塾のプリントを再開する。友人はつまらなさそうに鼻で嗤うと、また先程の幽霊の話の続きを他の子に話していた。
 歩道橋の幽霊――それは、つい先月くらいから広まった噂の話。
 なんでも、夜遅くに私が通っている学校と駅の途中にある歩道橋の上で、長い銀髪を揺らす少女が現れるらしい。彼女を見た人は、次の日に必ず不運なことが訪れるとさえ言われている。しかし、防犯カメラや警察の巡回でも少女の姿は見当たらなかった。それがきっかけで、彼女は「歩道橋の幽霊」と呼ばれている。
「……まぁ、関係ないでしょ」
 少なくとも、私には関係のないことだ。それよりも塾のプリントをどうにか終わらせなくてはと、改めてシャーペンを握りなおすと、突然教室の出入り口が騒がしくなる。
 気になって目を向けると、端正な顔立ちに長い黒髪を揺らした女子生徒が、なぜかまっすぐ私のほうへ歩いてきた。近づくにつれて、その容姿を見てハッとする。
「君が鳥羽つかさ? ちょっと顔貸してくれる?」
 彼の名前は(おと)(なし)()(ゆき)。れっきとした男子だ。
 音無くんに連れられてやってきたのは、人気の少ない中庭の奥だった。
 ごみ捨て場が近いこともあって、誰も近寄ろうとはしない。密会には適した場所だ。
 教室を出てから一言も交わすことなくここまでやってきたが、彼の表情は一向に真顔だった。
 音無佐幸は隣のクラスに所属する有名人。整った容姿と一七五センチの平均的な身長でもすらっとした体型の良さ。さらに成績優秀で教師の中でも一目置かれている存在だ。
 しかし、先々月あたりから彼はがらりと変わった。前日まで襟足の短かった髪がウィッグによって腰までの長さになり、目元をパッチリとさせるようメイクを施した。さらに女子の制服を着用し、足元は黒のタイツで覆ったその姿は、本当に女子かと勘違いしてしまいそうになるほどの可憐な姿になっていた。
 元々、声変わりしても男子高校生にしては高く特徴的な声の持ち主だったこともあって、周囲の人間はひどく混乱した。
 学校側としては、このご時世ということもあって、彼の意思を尊重し、好成績を残していくことを条件として許可しているらしい。教室内でどういった立場にいるのかはわからないけど、今日まで特に大事になっていないのだから、受け入れられているのだろう。
 ――さて、問題はここからだ。
 音無くんと私には接点がない。移動教室ですれ違った程度で、言葉も交わしたことがない。そんな彼が私を呼び出した理由は、皆目見当もつかない。
「いきなり呼び出して悪かった。実は君に確認したいことがあって」
「な、なんでしょう……?」
「昨日の夜二十二時過ぎ、歩道橋を渡ろうとしていただろう?」
 昨日――学校が終わってすぐに塾へ移動し、講義をいくつか受けた。質問のために残って、課題のプリントを少しだけ終わらせようと思って自習室にこもったけど、最終バスに乗れるギリギリまで粘った結果、私はバス停まで走ることになった。
 バス停に向かうには、噂になっている歩道橋を通らなければいけなくて、無我夢中に駆け上がった。それから――。
「その時、幽霊を見たんだろう?」
「……なんで」
「答えて」
 長い銀髪を揺らして、くるくると回る少女の姿が脳裏に浮かぶ。その可憐な姿――「歩道橋の幽霊」に、私は心を奪われていた。
 私が小さく頷くと、彼は納得したように笑みを浮かべた。
「よかった。その幽霊、実は私なんだ」
「……はい?」
 何を言っているんだ彼は。
 私が聞いている音無くんは、自分のことを「私」ではなく「俺」と言っていた気がする。
 そもそもさあやって誰だ。クラスにも身近な人にもいない。
 たった一言なのに困惑して開いた口が塞がらない私に、音無くんはクスクスと笑いながら続ける。
「その反応、新鮮で楽しいな」
「……いやいやいや! 一体どういうこと?」
「そうだね、順を追って説明しようか」
 音無くんの話はこうだ。
 彼には()(あや)という妹がいるらしい。しかし先月、沙綾が事故に遭ってしまい、気付いたら彼女は音無くんの体に取り憑いていたという。
 まずここまででも意味が分からない。
「私の目の前にいるのは音無くんの体を乗っ取っている沙綾さん……っていう認識は合ってる?」
「沙綾ちゃんって呼んでくれて構わないよ」
 声色が音無くんのものだが、特徴的な声質のせいか、目の前にいる男子がだんだんと女の子のように思えてしまう。実際、女子生徒の制服を着て可愛らしい顔立ちだから、意識しなくても次第に慣れていったかもしれない。そこまで女子独特の話し方ではないのは、持ち主が男子だからだろうか。
「それで、歩道橋の幽霊と沙綾ちゃんの関係は?」
「このシルエットに見覚えはないの? わざわざ君のために着てきたのに」
「着てきたって……」
 一歩下がって彼――改め、沙綾ちゃんの頭から足元までくまなく見る。似たような恰好は校内でも見かけるし、いちいち覚えていられない。
 すると、彼女はスカートを少し持ち上げて、くるりと一回転した。――その瞬間、昨夜の光景が重なって見えた。長い髪とともに揺れるスカートの裾、先までピンと伸ばした指、ゴム底がコンクリートでかすれる小さな音さえもぴったりだった。
 一周回った沙綾ちゃんは私の反応を見て、満足そうに笑う。
「本当に……歩道橋の上で踊っていた……?」
「踊っていた? いや、私は回っていただけだよ。意外にエモいことを言うんだね」
 エモいの一言で片づけられるかはわからないけど、少なくとも私には特別な光景に見えた。オレンジ色の街路灯と車のヘッドライトが照らす歩道橋の上で踊るなんて、青春映画のワンシーンじゃないか。
「でも私が見たのは、銀髪にアンバーの瞳の色で……」
「それが本来の私だ。丁寧に手入れした自慢のホワイトアッシュ、あの歩道橋だと銀色に見えるみたいだね」
 瞳はカラコンね、と付け加えると沙綾ちゃんは茶目っ気たっぷりに笑う。
 まだ混乱する頭をどうにか整理させて、私があの日見た天使を彼女に置き換える。言われてみれば、あの街路灯やヘッドライトに照らされて髪色が輝いて見えてもおかしくはない。
「……でもどうして?」
「私を見てくれる人を探していたからだよ」
 ずっと笑みを浮かべていた沙綾ちゃんが、突然影を落とした。
「あの歩道橋はね、私が事故に遭った場所なんだ。――あの日から、動けないままでいる」
 ぽつぽつと少しずつ話してくれたのは、彼女の現状だった。
 事故現場であるあの場所から一歩も動けない沙綾ちゃんは、あの歩道橋を通る音無くんを見つけては取り憑いているらしい。だから話しかけることすらできず、ほぼ無断で取り憑いているようなものだという。しかし、歩道橋を過ぎてしまうと自然に体から離れてしまい、沙綾ちゃんが取り憑いていた時間の間は記憶がないことが分かった。一度だけ、メモを残してみたけど反応がないらしい。簡単に信じてもらえなくても仕方がないだろう。
 そこで沙綾ちゃんは考えた。――自分に気付いて話を聞いてくれる人間を探そうと。
「あの歩道橋は駅と学校を繋ぐ通学路。だから佐幸と同じ学校の子が私に気付いてくれたら、実行できると思った。そしたら、君が気付いてくれたってわけ」
「実行って……何をする気?」
 そう尋ねると、彼女はいつになく真剣なまなざしで私を見据えた。
「私を、兄に会わせてほしい」
 授業を終えて、私は荷物を抱えて教室を出ると、廊下で音無くん――じゃなかった、沙綾ちゃんと合流する。彼女は私の歩幅に合わせるようにして隣を歩く。周囲からの注目度がさらに増した。
「君って有名人なんだね。こんなにギャラリーがいるなんて思ってもいなかったよ」
「……どう見たって、沙綾ちゃんだよ」
 何も知らない人にとってみれば、私の隣を歩いているのは沙綾ちゃんではなく音無佐幸だ。彼の女装のクオリティはとても高いが、大半の人が物珍しさからだろう。しかし、そんなことをおかまいなしに沙綾ちゃんは言う。
「確かに、こんな美男美女がそろって歩いていれば、誰でも振り向きたくなるだろうね」
 ……ダメだ、絶対わかっていない。
 これ以上反論するのも疲れるので、本題に入る。
「それで、私はどうすればいいの?」
「そうだね……まずは電話ができるかチャレンジしよう。家と、あと職場かな」

 兄に会わせてほしい。――そう答えた沙綾ちゃんの表情は、真剣そのものだった。
 そもそも事故に遭ったのは、兄の颯希(さつき)さんと喧嘩をして家を飛び出したからだという。
「このまま佐幸の体を借り続けるわけにはいかないだろう? でも最期に……成仏する前に兄に謝りたいんだ」
 死んでしまったら、生きている人へ何もしてあげられない。ただ遠くから見守ることしかできないのが、どうしても歯がゆい。
 だからこそ、彼女は自分のために成仏する道を選んだ。
 しかし、歩道橋に縛られてしまっている以上、どうしても生きている人の協力が必要だった。
「音無くんのスマホで連絡を取ろうとは思わなかったの?」
「不思議なことに、身内との連絡手段は何も使えなかった。神様は意地悪したいらしい」

 学校を出て、ひとまず歩道橋に向かう。
 歩きながら沙綾ちゃんの話に耳を傾けつつ、自分のスマホで先月の交通事故の情報を探る。彼女が事故に遭って死んだのなら、小さくても記録が残っているはずだ。しかし、一向にそれらしい情報がどこを探しても見つからない。どのネット情報でも「交通事故死者〇名」の記載ばかりだ。
 すると、ずっと手元ばかり見ていたせいで足元がふらついて躓きそうになる。それを横から腕を掴まれて留まった。思わず顔を上げると、すぐそこまで沙綾ちゃんの顔が迫っていた。
「ちゃんと歩きなって。危ないだろ」
「ご、ごめん……」
 呆れた様子で沙綾ちゃんが腕から手を放す。やはり元の体が音無くんだから、男らしい腕力が備わっているらしい。
 歩道橋まで来ると、家に戻ってきたかのように沙綾ちゃんが大きく伸びをする。
「……ここで事故が遭ったなんて知らなかった」
 普段使っている場所だからこそ、そう言った話を聞くとぞっとした。
「真夜中だったからね。朝方には撤収しただろうし、誰も気付かなかった可能性だってある」
 歩道橋の下を行き交う車は、十字路の信号機にあわせて行き来している。近くには横断歩道もあるけど、対角線上へは歩道を二回に分けて行かなければならない。斜めに飛び出す人も少なくはないだろう。それを防ぐために歩道橋が作られたわけだが、緩やかでも長い階段を登るのは好まれないらしい。
「はい、佐幸のスマホ。ロックは外してあるよ」
「それって不用心すぎるんじゃ……」
「私が取り憑いた頃からずっとロックは外されていたんだ。最初からロック機能を使っていなかったのかもしれない。……って、どこに行くの?」
「車の通る音で聞こえないでしょ。ちょっと待ってて」
 私は階段を降りてひらけた場所で、音無くんのスマホから着信履歴を辿る。最近はアプリで連絡を取り合っているせいか、履歴には自宅と颯希さん、それとある会社の電話番号だけだった。
 自宅と颯希さんのスマホ番号を確認して、自分のスマホからそれぞれかけるが、すぐに留守電に切り替わってしまった。
「……となると、この会社か」
 会社名を調べると、IT企業のようだ。同様に発信ボタンを押すと、ワンコールで『はい、セキネ情報会社です』と音声データのようなお手本の女性の声が聞こえてきた。
 私が颯希さんはいるかと問うと、確認すると言って保留音が流れる。
『お待たせいたしました。音無ですが、本日休暇をいただいております。ちなみに音無とはどういったご関係でしょうか?』
「えっと……お、弟さんの友人です! 偶然弟さんのスマホを拾いまして、自宅や颯希さんに連絡が取れなくて。以前颯希さんからもらった名刺があったのでお電話したのですが……」
 苦し紛れな言い訳を即席で考えて答えると、よくあることなのか、電話口から納得したような声が聞こえた。個人情報だからか、先程よりも小声で話してくる。
『すでに連絡しているのなら、こちらで対応は難しいですね』
「どこにいるか、心当たりはありませんか?」
『そうですね……実は卓上カレンダーに「病院」の記載があるので、多分そうかと』
 どこか体調が悪いのだろうか。それとも家族の付き添いとか?
 これ以上は怪しまれるので、お礼を言って電話を切る。履歴にあった場所への電話は全て終わった。曖昧な情報しかないけど、ひとまず沙綾ちゃんの元へ戻る。
 念のため、と歩道橋近くの交番に行って警察官に話しかける。
 先月と今月にこの付近で事故があったか尋ねると快く教えてくれた。しかし、ネットで調べたものと同じで、事故はあったが死亡者はいないという答えが返ってきた。
 事故はあったという事実は沙綾ちゃんが音無くんの体を取り憑いていることで証明されている。でも記録には死亡者の記録はない。
 もしかしたら、彼女が事故に遭ったのはここではないのかもしれない。
 悶々と考えながら沙綾ちゃんのもとへ戻ると、大学生らしき男性二人が彼女を囲っていた。遠くからでも「連絡先教えて?」「遊ぼうよ」といった口説き文句ばかりだ。それを困ったように目を泳がせている沙綾ちゃんを見て、少しだけ妬いた。
「あの! その人、私の友人なので離してもらってもいいですか」
 大学生と彼女の間を割るようにして入る。一七七センチある私は、大学生の二人には少し大きく見えたようで、見上げられる構図になる。
「でっか! 高校生ってそんなに身長伸びる? 成長期?」
「いや、こいつ男なんじゃね? 女子って後ろの子くらい小さいほうが可愛いじゃん」
 ゲラゲラと嗤う彼らの声が、心臓に刺さっていく。
 何回も、何十回も聞いてきた。背が高いからと、容姿や名前から判断してくる奴は今までも何人もいた。髪を少し伸ばしても、自分磨きをしようとしても「女の子らしく」の一言で片づけられ、貶される。
 それって、意味あるの?
「――あるよ」
 腕をぐっと引かれ、沙綾ちゃんの胸元に顔を押し付けられる。身動きが取れないくらい、強い力で抑え込まれていた。
「さっさと失せろ。俺の可愛い彼女をバカにするな」
「はっ……⁉」
 今まで聞いた中で一番低く、脅しかかる声。顔を胸元に押し付けられていて見えないけど、背中に回された手に力がこもったのが伝わった。その勢いに恐れおののいたのか、「な、なんだよ! 女装してんのはこっちか!」「もう行こうぜ!」と大学生たちは足早に立ち去った。
「……ったく、彼らは最低だな! 人を見た目で判断するなんて!」
 そっと体を離してくれた沙綾ちゃんは、むすっと不機嫌そうに頬を膨らませている。先程の声色はどこから出したのか、不思議で仕方がない。
 すると、沙綾ちゃんは私の顔をじっと見て、両頬をつまんだ。
「いっだぁ!? な、なに⁉」
「辛気臭い顔しているから、景気づけてやろうと思って」
「絶対違うでしょ……!」
「でもね、さっきの彼らの言葉は間違っていると私は思う」
 両頬から手を離すと、沙綾ちゃんは自分の胸に手を置いた。
「兄と喧嘩して家を飛び出したって話しただろう? 喧嘩したのは私ではなく、佐幸なんだ」
「え……?」
「佐幸は名前だけじゃなくて顔も身長も女の子に近い。小さい頃はよく間違えられていたし、両親はそんな佐幸に女の子の服を着せていたこともあった。当人は気にしていなかったけどね。それが次第に、自分の欲に変わった。髪を伸ばしてみたい。可愛らしいワンピースを着てみたい。メイクをしてみたい。――そんな憧れを、兄が否定した」
 喧嘩した日――佐幸の部屋に入った兄の颯希が、机の上に置かれたメイク道具を見つけて問いただした。自分でアルバイトをして稼いだ金で購入したものなのだから、誰にも文句を言われる筋合いはない、という佐幸に対し、颯希はメイク道具を床にたたきつけた。
『お前は男なんだから、恥ずかしいだろ!』――と。
「滅多に怒らない佐幸が声を荒げたから、慌てて仲裁に入ったんだ。でも二人とも止まらなくて、気付いたら私に矛先が向いた。好きで染めた髪色がおかしいって言われたんだ。……おかしいよね、私は好きで選んだのに」
「……それで、家を飛び出したんだね」
 私が問うと、彼女は小さく頷いた。
「兄にしてみたら、私たちは生まれてきた性別の一部分が欠けて歪な形をしているのかもしれない。それでも間違っていないと、信じたい。私は私のしたいことをする。――そう、行動を起こすと決めた」
 だから、とひと呼吸置くと、沙綾ちゃんは私をまっすぐ見据えた。
「だから教えてあげる。背が高いとか髪が短いとか関係なく、守ってくれようと立ち向かった姿。自分であろうとぶれないつかさの心。私は全部好きだよ。胸を張ってくれ」
「……っ」
 胸の内を見透かされた気がした。
 名前も容姿も身長も、全部を否定され続けてきた。多少はちょっとした意地悪だったのかもしれない。悪口だったのかもしれない。スポーツメーカーのTシャツを着ているだけで「男じゃん」と嗤われたのも、ただ話の切り口として必要だったのかもしれない。
 その小さな棘が、時間をかけてナイフになるなんて誰も想像しなかっただろう。
 髪をばっさり切ってしまいたい。Tシャツにジーパンみたいなラフな服装をしたい。
 ずっと誰かに聞いてみたかった。――女の子らしくいる必要が、どこにあるんですかって。
「自分らしくいればいい。そんな君の傍にいたい」
 沙綾ちゃんが私の目尻をそっと触れると、涙がこぼれた。
 ああ、そっか。私は、私であることを誰かに認められたかったんだ。
 ずっともやもやしていた胸の内側が、スッと晴れていく気がした。
 落ち着いたところで、今度こそ颯希さんがいるであろう病院に向かう。
 歩道橋から歩いて十分もかからない場所にあった総合病院は、夕方のせいかどこか寂しげに見えた。
 受付のロビーまで行って、颯希さんが来ていないかダメ元で確認すると、受付の人はにっこりと笑顔で答えた。どうやら颯希さんと面識があって、たわいのない話をするほどの仲らしい。
「颯希さんって入院しているんですか?」
「いえ、お見舞いですよ。■■さんの」
 その一言で、すべてが解けた。
 私は病室の場所を覚えると、受付から離れた場所にいる沙綾ちゃんの腕を掴んで階段を駆け上がる。
「ちょっ……いきなりどうしたんだ⁉」
「わかったの! 颯希さんがここにいる理由も、沙綾ちゃんが幽霊である理由も全部!」
 首をひねる彼女に、私は一度立ち止まって先月の歩道橋付近であった交通事故の記録が表示されたスマホの画面を見せる。
「よく見て。あの歩道橋で事故は遭っても、誰一人死んでいないの」
「死亡者がいない……? でも私は確かに……」
「うん。事故は遭った、それは間違いない。でもそのショックで沙綾ちゃんが幽体離脱したとは考えられない?」
 事故に遭い、体と魂が分離してしまったとしたら。
 魂だけが歩道橋に取り残され、体がこの病院にあるとしたら。
「沙綾ちゃんは、まだ生きてるかもしれない!」
 私がそう言うと、沙綾ちゃんの目つきが変わった。今度は彼女が私の手を掴んで階段を駆け上がっていく。
 受付で教えてもらった病室に着いて、ノックもなしに中へ入ると、小さな個室の中心にベッドが置かれ、あの音無沙綾が横たわっていた。真っ白な肌に丁寧に手入れされたホワイトアッシュの髪が夕陽の光に照らされている。音無くんとそっくりだ。
 そのベッド横に置かれた椅子に座っていたのは、二人の兄である颯希さんだった。スーツ姿にぼさぼさの髪、やせこけた頬が目立っている。それをお構いなしに、祈るように眠っている彼女の手を握っていた。
 隣にいる沙綾ちゃんを見ると突然、がくんと足から崩れ落ちた。
「沙綾ちゃん!?」
 慌てて支えると、彼女の口元が小さく緩んだ。……いや、ちがう。
「もしかして……佐幸か? その恰好は一体……それに君は……?」
 こちらに気付いた颯希さんが、驚いた様子で私たちを見る。
 すると、どこからか小さく唸る声が聞こえた。まさかと思い、颯希さんの向こう側――ベッドに横たわる彼女を見る。
「……みんな、ただいま」
 沙綾ちゃんはそう言って、小さく笑って見せた。
 ――沙綾ちゃんが目を覚まして一週間が経つ。
 未だ入院中の彼女のお見舞いに行くと、颯希さんと音無くんがそろっていた。
「お兄ちゃん、もう大丈夫だって」
「一か月以上寝たきりだったんだから、もっと甘えていてろって」
「だったらもう喧嘩しないでよね」
 あの後、颯希さんは音無くんと和解したらしい。その証拠に、今日の音無くんの服装はスタイリッシュな恰好ながらも、黒の長い髪を一つにまとめ、大きなイヤリングをしている。可愛らしい中にかっこよさが光るスタイリングだ。もちろんメイクも欠かせない。
 沙綾ちゃんにお見舞いのお菓子を渡すと、にっこりと微笑んで言う。
「つかささんがいなかったら、私はあのまま歩道橋の上で彷徨っていただけでした。ありがとうございます」
「い、いえ! そんな……」
「そういえば髪、切ったんですね」
 そう。私は肩まで伸ばした髪をつい最近、首筋が出るくらいバッサリ切ったのだ。髪型一つ変わるだけで、生まれ変わった気がしたのは、私が単純だからだろうか。
「沙綾ちゃんのおかげだよ」
「私……なにかしましたっけ?」
 あれ?
 不思議そうに首を傾げる彼女に、私はふと違和感を覚える。
 確かに沙綾ちゃん自身には幽体離脱した時の記憶がはっきり残っていたが、ところどころ抜けている記憶がある。それだけじゃない。きりっとした口調ではなく、今は柔らかくのんびりした口調で、心なしか雰囲気も違う気がした。
 ……まさか?
「私が沙綾ちゃんと思って話してた相手は、音無くんだったんじゃ……?」
 病室の端で眺めている音無くんに問う。すると緩んだ口元を手で隠して私を見ながら言う。
「どうかな。 私は私(・・・)、だよ」

【 欠けた僕らの結果論 完 】

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