音無くんに連れられてやってきたのは、人気の少ない中庭の奥だった。
 ごみ捨て場が近いこともあって、誰も近寄ろうとはしない。密会には適した場所だ。
 教室を出てから一言も交わすことなくここまでやってきたが、彼の表情は一向に真顔だった。
 音無佐幸は隣のクラスに所属する有名人。整った容姿と一七五センチの平均的な身長でもすらっとした体型の良さ。さらに成績優秀で教師の中でも一目置かれている存在だ。
 しかし、先々月あたりから彼はがらりと変わった。前日まで襟足の短かった髪がウィッグによって腰までの長さになり、目元をパッチリとさせるようメイクを施した。さらに女子の制服を着用し、足元は黒のタイツで覆ったその姿は、本当に女子かと勘違いしてしまいそうになるほどの可憐な姿になっていた。
 元々、声変わりしても男子高校生にしては高く特徴的な声の持ち主だったこともあって、周囲の人間はひどく混乱した。
 学校側としては、このご時世ということもあって、彼の意思を尊重し、好成績を残していくことを条件として許可しているらしい。教室内でどういった立場にいるのかはわからないけど、今日まで特に大事になっていないのだから、受け入れられているのだろう。
 ――さて、問題はここからだ。
 音無くんと私には接点がない。移動教室ですれ違った程度で、言葉も交わしたことがない。そんな彼が私を呼び出した理由は、皆目見当もつかない。
「いきなり呼び出して悪かった。実は君に確認したいことがあって」
「な、なんでしょう……?」
「昨日の夜二十二時過ぎ、歩道橋を渡ろうとしていただろう?」
 昨日――学校が終わってすぐに塾へ移動し、講義をいくつか受けた。質問のために残って、課題のプリントを少しだけ終わらせようと思って自習室にこもったけど、最終バスに乗れるギリギリまで粘った結果、私はバス停まで走ることになった。
 バス停に向かうには、噂になっている歩道橋を通らなければいけなくて、無我夢中に駆け上がった。それから――。
「その時、幽霊を見たんだろう?」
「……なんで」
「答えて」
 長い銀髪を揺らして、くるくると回る少女の姿が脳裏に浮かぶ。その可憐な姿――「歩道橋の幽霊」に、私は心を奪われていた。
 私が小さく頷くと、彼は納得したように笑みを浮かべた。
「よかった。その幽霊、実は私なんだ」
「……はい?」
 何を言っているんだ彼は。
 私が聞いている音無くんは、自分のことを「私」ではなく「俺」と言っていた気がする。
 そもそもさあやって誰だ。クラスにも身近な人にもいない。
 たった一言なのに困惑して開いた口が塞がらない私に、音無くんはクスクスと笑いながら続ける。
「その反応、新鮮で楽しいな」
「……いやいやいや! 一体どういうこと?」
「そうだね、順を追って説明しようか」
 音無くんの話はこうだ。
 彼には()(あや)という妹がいるらしい。しかし先月、沙綾が事故に遭ってしまい、気付いたら彼女は音無くんの体に取り憑いていたという。
 まずここまででも意味が分からない。
「私の目の前にいるのは音無くんの体を乗っ取っている沙綾さん……っていう認識は合ってる?」
「沙綾ちゃんって呼んでくれて構わないよ」
 声色が音無くんのものだが、特徴的な声質のせいか、目の前にいる男子がだんだんと女の子のように思えてしまう。実際、女子生徒の制服を着て可愛らしい顔立ちだから、意識しなくても次第に慣れていったかもしれない。そこまで女子独特の話し方ではないのは、持ち主が男子だからだろうか。
「それで、歩道橋の幽霊と沙綾ちゃんの関係は?」
「このシルエットに見覚えはないの? わざわざ君のために着てきたのに」
「着てきたって……」
 一歩下がって彼――改め、沙綾ちゃんの頭から足元までくまなく見る。似たような恰好は校内でも見かけるし、いちいち覚えていられない。
 すると、彼女はスカートを少し持ち上げて、くるりと一回転した。――その瞬間、昨夜の光景が重なって見えた。長い髪とともに揺れるスカートの裾、先までピンと伸ばした指、ゴム底がコンクリートでかすれる小さな音さえもぴったりだった。
 一周回った沙綾ちゃんは私の反応を見て、満足そうに笑う。
「本当に……歩道橋の上で踊っていた……?」
「踊っていた? いや、私は回っていただけだよ。意外にエモいことを言うんだね」
 エモいの一言で片づけられるかはわからないけど、少なくとも私には特別な光景に見えた。オレンジ色の街路灯と車のヘッドライトが照らす歩道橋の上で踊るなんて、青春映画のワンシーンじゃないか。
「でも私が見たのは、銀髪にアンバーの瞳の色で……」
「それが本来の私だ。丁寧に手入れした自慢のホワイトアッシュ、あの歩道橋だと銀色に見えるみたいだね」
 瞳はカラコンね、と付け加えると沙綾ちゃんは茶目っ気たっぷりに笑う。
 まだ混乱する頭をどうにか整理させて、私があの日見た天使を彼女に置き換える。言われてみれば、あの街路灯やヘッドライトに照らされて髪色が輝いて見えてもおかしくはない。
「……でもどうして?」
「私を見てくれる人を探していたからだよ」
 ずっと笑みを浮かべていた沙綾ちゃんが、突然影を落とした。
「あの歩道橋はね、私が事故に遭った場所なんだ。――あの日から、動けないままでいる」
 ぽつぽつと少しずつ話してくれたのは、彼女の現状だった。
 事故現場であるあの場所から一歩も動けない沙綾ちゃんは、あの歩道橋を通る音無くんを見つけては取り憑いているらしい。だから話しかけることすらできず、ほぼ無断で取り憑いているようなものだという。しかし、歩道橋を過ぎてしまうと自然に体から離れてしまい、沙綾ちゃんが取り憑いていた時間の間は記憶がないことが分かった。一度だけ、メモを残してみたけど反応がないらしい。簡単に信じてもらえなくても仕方がないだろう。
 そこで沙綾ちゃんは考えた。――自分に気付いて話を聞いてくれる人間を探そうと。
「あの歩道橋は駅と学校を繋ぐ通学路。だから佐幸と同じ学校の子が私に気付いてくれたら、実行できると思った。そしたら、君が気付いてくれたってわけ」
「実行って……何をする気?」
 そう尋ねると、彼女はいつになく真剣なまなざしで私を見据えた。
「私を、兄に会わせてほしい」