「誰も借りたことがなかったのに、貸し出されたからビックリした。あれを読む生徒が他にいるんだなって」
後ろに下がる間もなく身を乗り出され、物理的な距離が縮まる。
「どうだった? 面白かった?」
保っていた距離感を易々と越えてきた彼の期待に満ちた目には人懐っこさが感じられる。
返す言葉を探した。彼がもっと感じの悪い生徒であれば、素っ気ない返事をしてこの場を去っただろう。それが出来ないのは彼に悪意が見当らない点と、あの本のせいだ。
五秒以上の無言を彼は悪い意味で捉えたらしい。キラキラと輝いていた目に不安が宿る。
「あの本、殆ど主人公の一人語りで、他に登場人物は殆ど出てこないし、内容に波がないからつまらないと感じても不思議じゃ……」
つまらない。
その一言が、悩み続ける頭を強く叩いた。
答えていない人の感想を勝手に決めつけられることに我慢が出来ず、言葉がまとまっていない中、静止の信号を送る暇も無く口を開く。
「すっごく面白かった!」
映画好きの友達が好きな映画を誰かに勧め、同じように観て欲しい、好みにあったのなら共に語りたい、そう思うように私も誰かに話したかった。けれどいざそのタイミングが訪れると、内側に閉じ込めていた言葉は何から外に出せばいいのか分からず、言葉の数々は喉に詰まって一つも出せなくなる。
結果、簡潔に纏めた些細な言葉が代わりとなる。考えた末に出てきたものはこれだけかと、聞く側からすれば語彙力の無さに呆れるだろう。でも不思議と恥ずかしさはない。目を見開けた彼の目に、曇りの色もない。
「主人公の羽叶が月を見ながら物語を作っていく場面ね、最初はなんだか竹取物語とか源氏物語みたいな昔の小説って感じがしたんだけど、語られるネタは松阪牛を巡って綱渡りをしたり、ロボットと意識を入れ替えられたり!」
蓋を開けてしまったことにより、次々と口から溢れ出る。前後のつながり等気に留めず、印象に残っている場面や言葉、登場人物の心情など、聞かされている側の返しを求めることもなく一方的に語った。蓋を閉じることが出来ない以上、全てが流れ落ちるのを待つしかない。
「で、月見団子を無意識に食べてしまったことを思い出さずに、奪われたものと勘違いしてこう言うの」
人差し指を立てた。彼も同じように指を立てる。
「「月へ団子を買いに行こう。あれがないともう何も作れない」」