昼休み、ランチに行く椎葉さんに声をかけようと立ち上がった。だけど、椎葉さんは同期の四人と一緒だ。私が椎葉さんに呼びかけたら、あとの四人も振り返るだろう。五人の視線を浴びて話が出来る気がしない。
去っていく後ろ姿を見送って、イスに座り込んだ。エサの容器を入れたカバンを覗き込む。魚粉をさらに生臭くしたようなにおいがカバンの中に充満している。
私の勇気のなさが発する、腐っていく魂のにおいだ。人とまともに会話も出来ない私が周囲に振りまく脅えそのものだ。
考え続けたら、どこまでも気分が落ち込んでいく。社食でそばでも啜ろう。のろのろと立ち上がってエサの容器が入ったままのカバンを抱えて業務フロアを出た。
今日もまた散々な仕事を終えて社屋を出る。
自分の仕事の出来なさには、何か月たっても慣れることがない。喉の奥に真っ黒な煙が詰まったようで息苦しい。その嫌な気持ちは身に沁みついて、もうどうやっても晴れないように思う。それでも、生きていくために仕事を辞めるわけにはいかない。世の中は生きているだけでお金がかかるのだ。
「お酒、買いに行こう」
溜め息をついて、帰り道にあるコンビニに入る。お酒の棚にしか用はないのに、ぐるりと店内を一周する。雑誌の棚に並んでいるファッション誌、バイク専門誌、青年マンガ誌、どれにも興味はない。雑誌以外にも、薄くて小さめの本もある。占いと自己啓発本と『感じの良い人がしているたった一つのこと』というノウハウ本だ。感じの良い人がどんな人かもよくわからない。試しに手に取ってみた。
結論から言うと私の役には立たない本だった。要約すると、『自分の想いと相手の想いを汲んで、双方を褒めることが出来る人』。
どうすれば人の想いを汲むなんてことが出来るのか、肝心な方法は書かれていない。
そんなことが自然に出来るなら、こんな人生を歩んではいない。仕方ないか、こんなに薄くて安いのだから。
ふと思った。分厚くて高い本なら、方法まで載っているのではないだろうか。
本屋さんに行こう。なんだかすごくやる気が出てきた。コンビニを出て、いつもの二十四時間スーパーに向かうことにした。
スーパーの二階の書店で、自己啓発本のコーナーに行くと、自信を持つ方法や、人に好かれるようになる方法など、私が欲しい情報が山のように陳列されていた。片っ端からもくじを見ていって、買うべき一冊を選び出した。
『嫌いな自分を吹き飛ばせ!』
読む前から自分のなにかが変わったような気がして、ウキウキとレジに向かう途中、もう一冊、読むべき本を見つけた。
『電話オペレーターの基礎の基礎』
値段も見ずに掴み上げた。
二冊の本を抱きしめて店を出て、金魚の飼い方の本も探せば良かったと、ちらりと思ったけど、突然どこからともなく現れた怪しい金魚の飼い方は、どんな本にも書かれていないだろう。
カバンに本を入れようとして、思いだした。英語を読めるように英和辞典を買った方がいい。
そう思って辞書のコーナーに行ってみたが、英和辞典は高価だった。たった一度、それも金魚のためだけに支払うには、躊躇する値段だ。見なかったことにして今度こそ階段を下りようと歩き出して、思いだした。
ペットショップがあるじゃない。お店の人ならきっと英語で書いてあっても、その内容は知っているはず。
そうは思ったけど、昨日、店にいた店員は男性だった。近づきたくない。でももしかしたら、あの男性はバイトかなにかで、今日は女性がいるかもしれない。
一縷の望みをかけて水槽の陰から、そっと店内を覗いてみた。どの角度から見ても、壁のように積みあがった水槽たちに邪魔されてレジは見えない。
「いらっしゃいませ」
背中からかけられた声に驚いて一瞬、体が固まる。男性がすぐそこにいる。
「すみません、驚かせましたか」
動悸が激しい。耳の奥に心臓があるみたいにドクドク言っている。思わず飛び退った。
避けるのが勢い良すぎて、カバンを取り落とした。男性が拾い上げようとしたが傾いて中身がゴロゴロと転がり出る。
「あああ、すみません!」
財布と本と金魚のエサ。男性が手を伸ばそうとする前に、飛びついて荷物を拾った。また飛び退り、男性と距離を開ける。
「あの……」
男性が話しかけようとして、けれど口をつぐんだ。なんだろう。なにか文句でも言われるのだろうか。親切を無下にしたと怒られたりしたらどうしよう。
緊張して逃げ出すことも出来ず、カバンを抱きしめる。動けずにいると、男性が恐る恐るといった様子で尋ねた。
「返品ですか?」
「返品?」
思わず聞き返すと、男性はがっくりと肩を落とした。
「やっぱり、そのエサ、食いつきが悪かったんですね。お会計のときに説明すればよかったのに、俺、浮かれていて注意散漫で。申し訳ないです。外国製のエサだと和金が食べてくれないこともあって。ちゃんとご説明するべきだったのに、俺は店長失格です」
店長さんだという男性を見つめて、ぽかんと口が開いた。私なんかに申し訳ないだなんて。なんで、なにを、なにが、なんなの、いったい?
「ほかのエサと取り替えます。日本製の食いつきのいいのがありますから、どうぞ」
弱々しくそう言うと、店長さんは店に入っていく。右耳のあたりの髪が生えていない円形が、しょんぼりした雰囲気とみょうにマッチしている。あまりにも、あまりにもしょぼくれて、かわいそうだ。
「食べました」
「え?」
力なく店長さんが振り返る。しょげかえって肩を丸めた店長さんに覇気はない。そのせいなのかどうか、男性なのに、今は店長さんが怖くない。
「金魚、このエサ食べました」
「そうですか!」
たちまち笑顔になった店長さんを、やはり怖いとは思わない。笑顔にすごく親近感を覚える。
「良かった! これも栄養価は良いんですよ。ただ、大粒で飲み込みにくいらしくて、口の小さい子は敬遠するんです。あなたの金魚は大柄なんですね」
金魚が大柄か小柄かなんて考えたこともない。そもそもレモン水の中で泳ぐ金魚のサイズを、きちんと見たこともない。
「大きいのかもしれませんけど、よくわかりません」
「大丈夫です、金魚は自分のことは自分でわかってますから」
店長さんは自己啓発本に載っていたようなことを言う。『自分を好きになるには、自分を知ることが第一です』そんな感じのこと。金魚ですら出来るのに、私にはそんなことも出来ない。金魚以下なのだろう。
「どうかしましたか?」
落ち込んで無意識に自分の靴先を見ていた。人と話している最中に、なんて失礼を。カバンをぎゅっと抱きしめて顔を上げた。
「すみません、なんでもないんです」
私は変わるんだ。そのために本だって買った。辞書は買わなかったけど……。
そうだ、もう一つの目的を忘れている。
「このエサ、どれくらい食べさせたらいいんでしょうか。英語がわからなくて」
「個体別に食べる量は違いますから、どれくらいという決まりはないんですよ。目安としては、一分くらいで食べきれる量が腹七分目で健康に良いです」
店長さんは迷うこともなく、すらすらと答えてくれる。
「それと、フンの状態を見るのも大切ですね。健康だと二~三センチほどの長さのフンをしますよ」
レモン水の中の金魚はフンをしていなかったような気がする。エサが全然足りなかったのかも。お腹が空いて死んでたらどうしよう。
「ありがとうございました。帰ってエサやりします」
踵を返そうとしたら、店長さんが「またどうぞ」と優しく微笑んでくれた。店長さんは間違いなく『感じの良い人』だ。私とは正反対の。
「ただいま」
部屋の灯りを点けると、金魚はゆらゆら泳いでいた。餓死はしなかったようだ。
買ってきた安物の赤ワインとお惣菜をこたつに乗せて、カバンから金魚のエサを取り出す。ガラスポットの中を隅々まで見たけれど、フンらしきものは落ちていない。やっぱりエサが足りていないのかも。
朝は六粒やってみたけど、少し多めに入れてみて、一分で何粒食べるか確かめよう。
とりあえず、十二粒からにしようかな。手のひらにエサをざらざらと出して、十二粒だけ残した。あとは瓶に戻す。
ザラッと一気に水面に浮かべると、金魚はぷかりと上がってきた。
「いーち、にー、さーん、よーん……」
数えながら見ていると、金魚は急ぐこともなく、ぱくりぱくりと一粒ずつ丁寧に口に入れていく。なんとなく上品だ。
「ごじゅうきゅう、ろくじゅう!」
だいたい六十秒くらいで残りは二粒。明日からは朝晩、十粒ずつ入れてやればいいかな。
お酒は早めに切り上げて買ってきた本を読むことにした。
『嫌いな自分を吹き飛ばせ!』と『電話オペレーターの基礎の基礎』。どちらを先に読むか少し悩んだけど、すぐ必要なのは電話のスキルだ。『電話オペレーターの基礎の基礎』から読もうとしてページをめくる。もくじを読んでいると、眠気に襲われた。お酒が良い感じに回っている。このまま眠ったら幸せだなあ。
本は……。明日、昼休みに読めばいいか。
「おやすみ、金魚」
本を置いて布団の中に潜り込んだ。
「青柳さん、いつも社食なの?」
わかめそばを食べ終えて本を読んでいると、声をかけられた。同期の矢代さんがすぐ側にいて、私を見下ろしている。突然のことに驚いて返事も出来ずにいると、缶ジュースを買いに来たらしい矢代さんは本を覗き見た。
「もしかして、テレアポの教科書?」
小さくうなずくと、矢代さんは「は?」と低い声で言う。
「営業はテレアポとは全然違うでしょうよ。そんなのが役に立つとでも思ってるの? それとも、なに。転職するの?」
矢代さんは、顔を歪めて意地悪く笑う。いつも椎葉さんたちといるときの楽しそうな笑顔はどこへ消えたんだろう。とりあえず私に、その笑顔が差しだされることはないだろう。冷ややかな声でなにを言われるか、ビクビクしてうつむいた。
私が返事するのを待つ気はなかったようで、矢代さんは言葉を続ける。
「青柳さんって、やる気ないよね。毎日、ただ受話器を上げたり下げたりしてるだけ。楽でいいね」
嘲笑うような雰囲気が消えて、矢代さんは硬い表情になった。
「向いてないよ、営業」
そう言って去っていく背中は怒っていた。私は会社のお荷物でしかないとはっきり言われた。みんなが同じように思っていることは、毎日、肌でひしひしと感じている。営業成績が良い矢代さんにとって、私なんかは給料泥棒としか思えないだろう。
間違っていない。私は矢代さんや椎葉さんたちが売り上げたお金のおかげで給料をもらっているのだから。
本を閉じて、カバンに入れる。矢代さんが言うとおりだ。こんな本を読んでも、なんにもならない。私に出来ることなんて、この世の中に、なにもないんだから。
落ち込んでいるせいで、いつもより多くお酒を買ってしまった。こんなことでは、いつかアルコール中毒になってしまうかもしれない。それでも頼れるものはほかにない。
友人もいない、親とも仲が良くない、恋人がいたこともない。臆病で人間と関われずに生きてきた結果がこれだ。
「ただいま」
玄関でぼんやり佇む。カーテンの隙間から夕暮れ時の黄色い光が差し込んで、部屋がぼんやり薄黄色だ。その光がガラスポットに差してレモン水がキラキラ光っている。
灯りを点けずに部屋に上がる。こたつの前に座ると、金魚は私の方に寄ってきた。私のことを覚えたのだろうか? そう思ったけれど、金魚はすぐに好き勝手な方向に泳ぎだした。なんだかとても空しくなった。
買ってきたお酒を冷蔵庫にしまって、本を手に取る。
『嫌いな自分を吹き飛ばせ!』
今日は本当に、私は私が嫌いだと思い知った。自分で好きになれない私を、ほかのだれが好きになってくれるもんか。金魚ですら私を好きにならない。
私を吹き飛ばして、どこかへ消してしまえばいい。そうすれば、もう二度と嫌いな自分を見なくて済む。
本を開いて、噛みしめるようにじっくりと読んだ。
顔を上げると、時計の針は十九時半を差している。集中して空腹を感じなかった。本はあと三分の一ほど残っている。だけどこの本には私が知りたいことが載っていないような予感がする。なんというか、体育会系のメンタル強化用の本みたいなのだ。
ふと思う。理想の私って、どんな人物だろう。ちゃんと考えたことがない。そもそも理想なんて抱いたことがない。ただ私は、大嫌いな今の私じゃないほかのものになりたいだけだ。なんなら、金魚になるんだっていい。レモン水の中をひらひら泳ぐ気ままな金魚として生きるのでもかまわないのだ。
ガラスポットを見ると、金魚はのんきにぷかぷかしている。赤い尾びれが柔らかそうにヒラヒラ揺れている。本当に、金魚になれたらいいのに。
少し時間が遅くなったけど、ガラスポットにエサを十粒入れた。
じっと見ていると、金魚は、ぱくりぱくりと口を開けたり閉めたり、エサを飲み込んでいく。どんな気持ちで食べているんだろう。この六十秒間は金魚にとってどんな時間だろう。
「美味しいですか?」
腹七分目になった金魚は私から逃げるかのように、ガラスポットの底に泳いでいった。
底でふらふらしている金魚を見ていて気付いた。フンがちっとも落ちていない。レモン水はきれいなままで、塵ひとつ浮いていない。もしかして、まだエサが足りないのだろうか。それとも、なにかの病気だろうか。
「大丈夫?」
尋ねてみても金魚が返事をするわけがない。だけど、食べたものが出てこないというのは、もしかしたら大変なことじゃないだろうか。
ペットショップに聞きに行ってみよう。立ち上がったけど、時計を見てためらった。スーパーは二十四時間営業だけど、専門店は違う。ペットショップは何時までの営業だろうか。
「閉まってたら帰ればいいだけ」
独り言を呟いて、思い切って家を出た。
三十分歩いて辿りついたペットショップは、すでに閉まっていた。電気が消されて、お店の周りを、菱形に編まれた緑色のロープが囲んでいる。水槽に取り付けられているライトだけがぼんやり光って、生物がいると知らせている。
金魚は明日まで生きていられるだろうか。もしひどい病気だったら、どうしよう。
「こんばんは」
背中にかけられた男性の声に、ビクッと身がすくんだ。けど、すぐに気づいた、店長さんだ。振り返るとリュックを背負った店長さんが立っていた。
「もしかして、御用でしたか? 営業時間が十九時までなもので、もう閉めてしまったんですけど」
「そうなんですか」
十九時に閉めたにしては、ずいぶん遅い時間まで職場にいるんだな。もう二十時過ぎなのに。
そんな風に考えているのがわかったのか店長さんは照れ笑いを浮かべた。
「忘れ物をして、戻って来たんですよ。でもちょうど良かった。ご用件をうかがいますよ」
仕事を終えたというのに客の相手をしてくれる。やっぱり、感じの良い人だ。いや、それだけじゃない。きっとこういう人が、仕事が出来る人なんだろう。残業させるのが悪いとは思ったが、金魚の命が気にかかって、質問することにした。
「金魚がずっとフンをしていないんです。なにか病気かと思って、聞きたくて、……すみません」
思わずうつむきそうになった私に、店長さんはニコッと笑いかけた。
「金魚のためにわざわざ足を運んでくださってありがとうございます」
嫌な顔をされなかったことにホッとして、顔を上げた。
「おそらく便秘でしょう。金魚は消化器が未成熟で、お腹の調子を崩しやすいんです」
便秘。すぐに死ぬようなひどい病気じゃない。ホッとした。
「二、三日ほど絶食させてみてください。もし、見てわかるくらいにお腹が膨れていたら、水温を上げたり、水換えしたりする必要もありますが」
金魚のお腹はどうだっただろう。カバンからスマホを取り出して、金魚の写真を見る。お腹の感じもちゃんと見える。この写真と見比べれば大丈夫そうだ。
「帰って、金魚のお腹を見てみます」
「そうしてください。そうだ、水槽用のヒーターはお持ちですか?」
なんのことやらわからないけど、首を横に振る。金魚用品なんてエサしか買っていない。
「もし良かったら、お貸ししましょう。今日ひとつ水槽が空いたんで、ヒーターも宙に浮いてるんです」
「いえ、そんな……」
あまりに親切な申し出に怖くなる。なにか下心があるんじゃないかって。知らず、二、三歩後退ってしまった。
「次の金魚の入荷が来週末なんで、その頃までに返していただければ大丈夫です。温かくしてあげても変わりがなかったら、またほかの対策を考えましょう」
そう言うと、店長さんは網をくぐってお店の中に入っていく。どうしよう、いまのうちに逃げようか。だけど、金魚のことで頼れるのは店長さんだけだ。それに、たしかに、なにか対策しないと、金魚が死んでしまうかもしれない。
悩んでいるうちに店長さんはすぐに戻ってきてしまった。
「はい、ヒーターです。こっちは水温計。ヒーターは横置き型なので、水槽の底に横にして設置してください。それと……」
店長さんは丁寧にあれこれ説明してくれた。ヒーターを設置するときの注意点とか、適温はどれくらいかとか、水温計を取り付ける位置とか。
お店の名前が入ったビニール袋にヒーターと水温計を入れてもらって、頭を下げる。なにか言わなきゃと思うんだけど、なにも思いつかない。
「それじゃあ、金魚、かわいがってあげてください ね」
店長さんが手を振るので、手を振り返した。なんだか仲良しにでもなったみたいで、ちょっと戸惑ってしまう。
店長さんは階段を下りて行った。私も下りるのだけど、一階でまた顔を合わせたら気まずい。二階で三十分くらい時間を潰してから、階段に向かった。
「ただいま」
ガラスポットに顔を近づけて金魚を観察する。お腹が飛び出しいるという感じでもない。スマホの写真と見比べても変化はないみたいだ。
「絶食だけでいいかな?」
念のために水温計をポットの内側に付けてみた。水温は十八度だ。いくらなんでも寒いだろう。ヒーターも入れなくちゃと思ったけど、ヒーターは大きすぎた。縦長のポットの底に横置きにすることは出来ない。
仕方ない。お風呂に入れよう。
お風呂場から洗面器を取って来て、水温計で計って二十八度のお湯を張る。その中にガラスポットを浸けてみた。五分ほどして水温を計ると、レモン水は二十度になっていた。、快適になったのかどうかわからないけど金魚は上へ下へと活発に動くようになった。やっぱり、寒すぎたのか。
お湯はすぐ冷める。どうしようかと考えて、ポットにタオルを巻いてカイロを取り付けてみた。また五分ほど待って水温を計ると、二十三度。適温には少し足りないが、煮え立つよりはマシだろう。今日のところは、これで良しとしておこう。
明日は土曜日、お休みだ。午前中に小さなヒーターを買いに行こう。
「……おはようございます」
ペットショップはもう開店していた。緊張して、やっと出た小さな声で声をかけた。店の中を覗いてみたけど、やっぱり店内に人がいるかどうか、ちょっと見ただけではわからない。水槽の壁の陰を少しずつ少しずつ奥へ移動して、どの列にもお客さんがいないことを確認してみた。大丈夫。私だけだ。
安心してレジに行くと、店長さんまでいなかった。どうしよう、ここで待ってていいかな。でももし、お客さんが来ちゃったらどうしよう。
迷ったけど、やっぱり外で待つことにした。なんとなく、魚を飼う趣味がある人は男性の方が多いような気がしたから。でもこんなところでボーっとしてたら不審者みたいかな。水槽を眺めているフリをしていたら怪しまれないかな。また、迷う。私は自分じゃ、なにも決められない。
そうだ、もう一度、本を探そう。
本屋に向けて歩いていると、重そうな台車に色々な大きさの段ボールをのせて運んでくる、エプロン姿の女性とすれ違った。段ボールに『水槽』の文字が見えた。見ているとペットショップの前で立ち止まった。段ボール箱を抱えて、次々と店内に運んでいく。
今日は店長さんはいないのだろうか。あの女性は明らかに店員さんだ。
カバンの中をチラッと覗く。借り物のヒーターと水温計。女性に渡して、小さなヒーターを買って帰ればいい。女性で良かった、私でも話しかけられそうだ。
でもなんだか、ためらってしまった。その間に女性はどんどん段ボールを運び入れて、空になった台車をコロコロと、どこかへ運んでいった。話しかけようとした勇気は、もう蒸発したみたいに消えてしまった。
また、別の日にしよう。ヒーターを借りた経緯を説明するのも難しいし。店長さんがいるときに返そう。
そう決めて、本屋にも寄らずに逃げるようにスーパーを出た。
「ただいま」
金魚のポットに巻いたタオルとカイロに触れてみると、生ぬるくなっていた。水温計を付けると、二十度。少し低い。カイロを変えてやって、こたつに入る。こたつの中はひんやりしているけど、なんとなく電源を入れる気になれない。温まったポットを両手で握って暖を取った。
帰ってからなにもせず、なにも食べず、ただ赤い金魚を見ていた。
夕方にはさすがにお腹が空いた。でも絶食している金魚の前で自分だけごはんを食べるのは気が引ける。水温計で二十三度で安定していることを確認して、外で食事してくることにした。
ところが、家の近くには一人で入れそうなお店がないことを初めて知った。ファーストフード店か、チェーン店のカレー屋さんくらいしか一人で入ったことがない。ぐるっと町内を一周してみたけど、焼き鳥、焼き肉、バル、割烹、高そうなお寿司屋さん、そんなお店ばかりだ。せめて、あまりおしゃれじゃないチェーン店のカフェはないかと探索範囲を広げたけれど、見つからない。お腹が空きすぎて、痛くなってきた。
「青柳さん?」
通りの向こうから歩いてきている女性三人のうち一人から声をかけられた。顔を向けると、同僚の椎葉さんだった。
「こんにちは、偶然ですね」
椎葉さんは小走りに近づいてきて、私の行く手を塞いだ。どうあっても、話さないわけにはいかない。でも、なにを言えばいいのか言葉が出てこない。
「もしかして、お家はこのあたりなんですか?」
どうしてバレたのだろう。驚いてそっと目を上げると、椎葉さんは優しい笑みを浮かべていた。明るい色で軽やかな雰囲気の服を着ている。薄手の布が何枚も重なったスカートが金魚の尾びれのようだ。
黒づくめの自分なんかとは比べ物にならない、美しい装いだ。そう思って、自分の服装に思いが至った。大したお店に入らないつもりで出てきたから、部屋着より少しマシな程度の服だ。近所のコンビニに行くときのような。この服装を見れば、遠出してきたようには見えないだろう。
なんだか恥ずかしくなって、顔を伏せた。椎葉さんは困ったようで言葉に詰まっている。
「椎葉ちゃんの友達?」
椎葉さんのお連れの二人が追い付いてきた。うつむいているから二人の靴しか見えないけど、やっぱり、おしゃれなものを履いている。私のぼろぼろのスニーカーとは大違いだ。泣きそうなほど恥ずかしい。
「同僚の青柳さん。そうだ、青柳さん。夕飯はもう済みました?」
黙って首を横に振ってみせた。今にもお腹が鳴りそうだ。静かにしていて、私の胃。これ以上、恥ずかしい目にあいたくない。
「良かったら、夕飯、ご一緒しませんか? 四人で予約しているんですけど、友達が一人、ドタキャンしちゃって」
椎葉さんはなにを言いだしたのだろう。私なんか誘ってどうするんだろう。上目遣いに様子をうかがっていると、お連れのうちの一人、大きな輪っかのピアスをした人がニコニコと話しかけてきた。
「ナポリピザのお店なんですよ。本場の職人さんが焼いてるの。すごくカジュアルで気軽なお店ですよ」
「はあ……」
「ピザ、だめですか? チーズが苦手とか」
「いえ……、べつに」
もう一人の化粧が派手な、少し年上に見える女性に腕を取られた。
「じゃあ、行こう! みんなで食べると、ご飯は美味しいから!」
有無を言わさず、ぐいぐい引っ張られる。戸惑って椎葉さんの顔を見ると、楽しそうにニッコリと笑いかけられた。そこに邪気は一片も感じられない。からかわれているわけではないように思う。もしかしたら本当に、私も一緒にいていいのだろうか?
連れられて行ったピザのお店は、おしゃれだった。色いろに塗ったドラム缶をテーブル代わりにして、足の長いスツールが少しあるけど、ほとんどの人は立ち食いだ。
カジュアルと言っていた通り、ジーンズとセーターの男性がいたり、女性もウール素材のロングスカートにスニーカーなんて人もいる。私の普段着でも、そんなに浮かないみたいで、心底ホッとした。
「青柳さん、お酒は飲めます?」
「はい」
椎葉さんがドリンクメニューを取ってくれた。ザッと目を通す。種類が豊富で、しかも安い。少しテンションが上がった。
「私、ビール」
年上のお姉さんが即決した。
「私も」
「うん、私も」
あとの二人も同じ。三人の視線が私に集まる。早くしないと、いつまでも注文できなくて迷惑かけてしまう。なんにしようって考える余裕なんかない。
「じゃあ、……私も」
そう答えて半分後悔する。みんなと同じものを頼むって、個性がないって思われないだろうか。それに、同じものと言うだけなのに、のろのろ時間をかけて、きっと呆れられた。
私が悶々としているうちに椎葉さんが店員に注文を伝えている。ちょっと手を上げて店員を呼んで。すごくスマートに。私じゃ、とてもマネ出来ない。
「青柳さんは、下の名前はなんていうの?」
お姉さんに聞かれた。どうしたらいいか混乱した。名前を聞かれただけなのに口を開けずにいると、椎葉さんが代わりに答えてくれた。
「青柳美雪さんですよね。美しい雪って書くの。きれいでうらやましいです」
「椎葉ちゃんは珍しいもんね、名前」
ピアスの人が言ったけど、椎葉さんの名前を私は知らない。お姉さんが同意してうんうんとうなずいている。
「村子って名前はおそらく日本中を探しても、椎葉ちゃんだけだと思う」
村子。あまりに驚いて目が丸くなった。椎葉さんは恥ずかしそうに、はにかんだ笑みを浮かべている。
「もう、それはいいから。青柳さん、こちらが九条ハルさん」
お姉さんが片手を上げて「ども」と笑いかけてくれる。
「こちらが森希美さん」
ピアスの女性は「よろしくー」と頬を赤くして挨拶した。
私は挨拶を聞いただけで、会釈すらしていない。どうしよう、今さら頭を下げても場違いかもしれない。悩んでいると、ビールがやって来た。それぞれの前に置かれた大きなグラスは、うちで使っている350ミリリットル入るグラスの1.5倍はありそうだ。ぐうっとお腹が鳴った。
「美雪ちゃん、腹減り? すぐ摘まめるもの頼もうか」
ハルさんがメニューを開いて店員さんを呼び止める。料理をいくつか注文して、グラスを取った。
「それじゃ、新しい友達、美雪ちゃんに、かんぱーい!」
突然の乾杯にも怯むことなく、椎葉さんと希美さんもグラスを取って高々と挙げる。
「ほらほら、美雪ちゃんも」
ハルさんに急かされてグラスを取ると、三人のグラスが襲い掛かるかのような勢いで私のグラスに押し当てられた。
カツンと小気味よい音、揺れる白い泡、こぼれそうになるほど波打つビール。
こんなこと、信じられない。私は初めて経験した愉快な乾杯に驚いて、動けなくなった。三人は勢いよくグイッとビールを喉に流し込んでいる。
グラスに口を付けないと変に思われるかもと危惧したときに、料理が何皿かやって来た。
「取り皿はいらないよね。各自、フォークで取り合いましょう」
希美さんがそう言って、一つの小皿に載っているフライにガツンとフォークを突き立てた。フライは五切れ。全員分ある。椎葉さんとハルさんも一切れずつ取って口に入れた。
「うーん、美味しい。青柳さん、カマンベールフライ、好きですか? このお店のはビックリするくらい美味しいですよ」
カマンベールフライ。食べたことない。またお腹が鳴って、そろそろ空腹で目が回りそうだ。フォークを取って一切れ口に入れた。
「……美味しい」
「でしょう、このお店で使っているのはイタリア産だそうなの。チーズがものすごく伸びるのよね」
椎葉さんの言葉を肯定するかのように、希美さんがチーズを伸ばしてみせた。糸みたいに細くなっても切れない強さだ。
次の料理がやって来た。紫色の細長い貝が一皿と、お団子にホワイトソースがかかったようなものが一皿。
「美雪ちゃん、カマンベールフライ、最後の一個、食べちゃって。お皿を空けてくれたら、ムール貝の殻入れに出来るから」
ハルさんがずいずいと私の方に小皿を押し付ける。三人はもうフライのお皿には目もくれず、他の料理に照準を合わせている。たしかに、貝殻を入れる容器が必要だ。急いでフライを平らげた。
ほかにも二種類来た小皿が空になる前に、希美さんのビールのグラスが空になった。
「美雪さん、ワインいけます?」
こっくりとうなずく。酔いが回ってきたからか、なんだか返事をするのが楽になった。というか、どんな返事をしても、この人たちなら受け入れてくれる。そんな気がするのだ。
「デカンタで赤ワイン、いきません?」
疑問形で言った割には、誰の返事も待たず、希美さんは注文を入れた。すぐに金魚のガラスポットの三倍くらいの大きさのガラス容器がやって来た。四人で分けるにしても、多すぎじゃないだろうか。
そう思ったのが顔に出ていたのか、椎葉さんが私の耳元にそっと口を寄せた。
「ハルさんはウワバミっていうやつで、いくらでも飲めるの」
ウワバミ。初めて聞いた言葉だ。何度かうなずいていると、ハルさんがみんなのグラスにワインを注いだ。
「誰がウワバミですって? あなたたちだって飲みだしたら止まらないでしょうが」
私のグラスにもみんなと同じ量のワインが注がれた。もう少しで溢れそうなほど、並々と。
「美雪ちゃんも飲める人よね」
ハルさんがなんでもないことのように言う。私はなにも言っていないのに。
「どうしてわかったんですか?」
ニヤリと笑ったハルさんは、なんだか迫力がある。少し怖いような気もするけど、それ以上に、楽しそうな雰囲気が、気持ちを落ち着かせてくれた。
「ビールの飲みっぷりが良かったからね。苦手なお酒はある?」
首を横に振る。お酒ならなんでも大好きだ。
「じゃあ、カクテルもおススメ。かなり本格的なのが出てくるから」
希美さんが、グイッとワインを飲み干して、デカンタを傾けている。
「私のおススメはソルティドッグだなあ。塩気がちょうどいいんだ、ここのは。椎葉ちゃんは?」
椎葉さんは私をじっくり見ている。視線を受けて居心地が悪くなった。キョロキョロ視線をさまよわせてしまう。
「ロングアイランドアイスティ、青柳さん、飲んだことあります?」
お酒の話なのにアイスティ? 不思議に思いながらも首を横に振る。
「紅茶を使ってないのに、なぜかアイスティみたいな味がする不思議なお酒なんです。おススメですよ」
なんだろう、それ。すごく面白い。飲んでみたい。
その思いが伝わったのか、ハルさんがドリンクメニューを開こうとした。そこにピザがやって来た。ホコホコ湯気がたつ、熱々だ。
「じゃ、カクテルは食後の〆ってことで」
ハルさんが一旦、メニューをテーブルの隅に置いて、取り皿を配る。希美さんがサッと手を伸ばして、一番大きな一切れを取り上げた。
「いただきまーす」
ほかの人には目もくれず、希美さんはピザを頬張る。すごい人だ、希美さんは。すごく自由だ。ぽかんと見ていると、椎葉さんが私の腕を突いた。
「早く食べないと、希美さんに全部食べられちゃいますよ。彼女、食べ物のことになると、遠慮ないから」
椎葉さんの言い様にも遠慮がない。思わずクスッと笑いが出た。椎葉さんは驚いたようで、一瞬、目を丸くした。私がなにか妙なことをしただろうか。
「青柳さんの笑顔、初めて見ました。とってもかわいい」
まさか。私がかわいいことなんかあるはずがない。きっとお世辞だ。でも、それでも嬉しい。椎葉さんは気配りが出来て、すごいな。
そんな風に感じたけど、それをどう言葉にしたらいいかわからない。戸惑っていると、椎葉さんはニコニコしながら、ピザのお皿を私の目の前に移動させてくれた。ピザを取って頬張ると、あまりの熱さに舌を火傷して、涙が出たけど楽しすぎた。
お腹いっぱい食べて、好きなだけ飲んで、もうなにも入らないと思ったのに、食後のカクテルは別腹で。
こんなに楽しい食事は生まれて初めてだった。それも、知らない人と同席しているのに緊張も解けて、のびのびできた。今日は人生最高の日かもしれない。
三人は駅に向かうというので、お店の前で解散することになった。もう二度と一緒に食事をすることはないだろう。奇跡は二度は起きないのだ。
「あ、美雪ちゃん。連絡先交換しよう」
「え?」
ハルさんがスマホを取り出して、私のカバンを指し示す。
「ほおら、早く」
スマホを取り出して、ハルさんにスマホの機能の使い方を教わりながら、連絡先を交換した。酔って顔を赤くしたハルさんは少し発音が怪しくなっている。これが酔った勢いというやつだろう。きっとかかってくることはないだろう。そう思っても、初めて登録先が出来たことが、ものすごく嬉しい。
希美さんと椎葉さんの連絡先も教えてもらった。椎葉さんと目が合うと「また美味しいものを食べに行きましょうね」と言ってくれた。それは酔った勢いでも、お世辞でもないように感じる。
私はしっかりとうなずいた。酔いとは違う熱が顔に集まっているのを感じる。気恥ずかしいような興奮しているような、心がざわついて落ち着かない。三人に手を振って家に帰るまで、それは続いた。
「ただいま」
電気を点けて金魚の様子を見る。カイロがぬるくなっているので、タオルを外してカイロを付け替えようとして、ぎょっとした。
金魚がフンをしている。お尻から二センチくらいのフンがピョロッとつながっている。フンが出たのは良いことだ。だが。
「これは……」
口が開いてふさがらない。金魚のフンは虹色に輝いていた。
光の当たり具合のせいだろうかと、こたつの周りをぐるっと回って見てみたけど、どの位置から見ても、金魚のフンは美しい虹色だ。酔っているせいだ。目の錯覚だ。そうに違いない。
ガラスポットにタオルとカイロを取り付けて、手早く寝る準備を済ませて、電気を消した。
金魚のフンはうっすら発光していた。
ペットショップが開く十時ちょうどに店の前に立った。昨日の女性でもいいから、とにかく金魚のフンの怪異について聞いて欲しかった。
水槽の壁をすり抜けていくと、レジ近くで段ボール箱を開けている店長さんを見つけた。
「すみません」
声をかけると、店長さんは振り返って、明るい笑顔を浮かべた。
「いらっしゃいませ。金魚はどうですか?」
「フンをしました」
「それは良かった。ちゃんと長さも色も大丈夫でしたか」
「大丈夫じゃなくて……」
虹色でしたと言おうとして、口を閉ざした。そんなバカなことを言って、信じてもらえるわけがない。
「なにか変なところでも?」
でも、この人ならもしかしたら。なぜか助けてくれるのではないかと思う。
「虹色でした」
店長さんの動きがピタリと止まった。なにを言っちゃったんだろう。私も動けなくなった。頭が真っ白で、口も開けない。
「虹色……ですか。それは、透明なフンが光を反射していたということでしょうか」
店長さんは笑いも呆れもせずに真面目に聞いてくれる。もしかして、たまにある現象なのかもしれない。
「電気を消したら、フンが光ってました」
また店長さんの動きが止まった。だけど、すぐに腕組みして、天井をあおいだ。
「水槽にライトを取り付けていますか?」
「いいえ」
「常夜灯をつけていたり」
「いいえ」
「カーテンの隙間から灯りが入ってきたり」
「遮光カーテンです」
腕を解いて、私の目を見て、力強くうなずく。
「新種が報告されていないか、調べます」
そう言って、段ボールを放置したままレジの奥に置いてあるノートパソコンに向き合った。
ものすごい勢いでキーボードをたたき、マウスを動かすしていくつもの写真や文献を見ている。
「いらっしゃいませ」
女性の声がして振り返ると、昨日の女性がいた。
「ご用は店長がうかがっていますか?」
「あ、はい」
女性はニコッと笑って会釈すると、段ボールから商品を取り出し始めた。中身は魚のエサみたいだ。
ふーと大きなため息が聞こえて、店長さんがレジ裏から出てきた。
「文献なんかは見つかりませんでした。どんな金魚なんですか?」
スマホの写真を見せると、店長さんは顔をしかめた。
「初めて見る形です。カズちゃん」
呼ばれた女性がエサを陳列していた手を止めてやって来た。
「こんな形の金魚、見たことある?」
「んー? 『キラキラ』に似てますかね」
「そうだね、でも鱗は反射しているようには見えない」
店長さんは私の顔を見て、口を開けかけて、一旦閉じた。
「すみません、お名前をうかがってもいいですか」
「青柳ですけど……」
「ありがとうございます。あ、僕は店長の三枝です」
三枝さん。なんだか昨夜、椎葉さんたちと連絡先を交換したときのような高揚した気分になった。
「青柳さんの金魚は、鱗が光を反射しますか?」
「いえ、金魚自体は赤いだけです」
三枝さんとカズさんは顔を見合わせて討論を再開した。
「型はそれほど大きくないみたいですよね。形も和金らしい素直な姿だし」
「気になるところと言えば、尾びれが大きいのが特徴的かな。だけど、それくらいは個性のうちかもしれない」
「『クイタフナキン』の可能性はないですかね」
「そうだね、亜種が産まれるとしたら、それはあり得るか」
なにを話しているのか、よくわからない。二人を観察することしか出来ない。
カズさんは長い髪を丁寧に編み込んで、複雑な模様みたいにしている。私にはとても出来ない。手先の器用さもないし、そもそも髪を飾ろうと思うこともない。きっと、私は女子力が低いというやつなんだろう。
カズさんには仕事に対する情熱がある。店長に相談されるほどの知識もある。昨日は一人で店を切り盛りしていた。私が勝てることは、なに一つない。
勝つ? 勝つって、なにに?
「青柳さん」
三枝さんに呼ばれてハッとした。相談に来たのに、ぼうっとしていた。
「一度、動画を撮ってもらえませんか。動いているところを見たら、もっとなにかわかるかもしれません」
「はい」
「それと、フンをしたなら、普通はエサをやってもいいところなんですが……。金魚のお腹がへこんでいたりしますか?」
昨夜も今朝も見ていたのに、お腹のサイズなんて気にもしなかった。
「……わかりません」
私は飼い主失格なのではないだろうか。三枝さんは不快に思わないだろうか。
「お腹がへこんでいないなら、もう少し絶食で様子を見てもいいかもしれません。水温は少し高めに」
「あ!」
そうだ、ヒーターを返そうと思っていたんだった。なのに混乱していて、持ってくるのを忘れてしまった。
そう話すと、三枝さんは「いつでもいいですよ」と優しく言ってくれたけど、新しい魚が入荷したら使う予定だと言っていた。お礼を言って店を出て、急いで家に帰ることにした。ヒーターを持ってもう一度来よう。
家に帰って水温計を取り外そうとポットの蓋を開けると、金魚は全身からピカピカと虹色の光を放っていた