顔を上げると、時計の針は十九時半を差している。集中して空腹を感じなかった。本はあと三分の一ほど残っている。だけどこの本には私が知りたいことが載っていないような予感がする。なんというか、体育会系のメンタル強化用の本みたいなのだ。
ふと思う。理想の私って、どんな人物だろう。ちゃんと考えたことがない。そもそも理想なんて抱いたことがない。ただ私は、大嫌いな今の私じゃないほかのものになりたいだけだ。なんなら、金魚になるんだっていい。レモン水の中をひらひら泳ぐ気ままな金魚として生きるのでもかまわないのだ。
ガラスポットを見ると、金魚はのんきにぷかぷかしている。赤い尾びれが柔らかそうにヒラヒラ揺れている。本当に、金魚になれたらいいのに。
少し時間が遅くなったけど、ガラスポットにエサを十粒入れた。
じっと見ていると、金魚は、ぱくりぱくりと口を開けたり閉めたり、エサを飲み込んでいく。どんな気持ちで食べているんだろう。この六十秒間は金魚にとってどんな時間だろう。
「美味しいですか?」
腹七分目になった金魚は私から逃げるかのように、ガラスポットの底に泳いでいった。
底でふらふらしている金魚を見ていて気付いた。フンがちっとも落ちていない。レモン水はきれいなままで、塵ひとつ浮いていない。もしかして、まだエサが足りないのだろうか。それとも、なにかの病気だろうか。
「大丈夫?」
尋ねてみても金魚が返事をするわけがない。だけど、食べたものが出てこないというのは、もしかしたら大変なことじゃないだろうか。
ペットショップに聞きに行ってみよう。立ち上がったけど、時計を見てためらった。スーパーは二十四時間営業だけど、専門店は違う。ペットショップは何時までの営業だろうか。
「閉まってたら帰ればいいだけ」
独り言を呟いて、思い切って家を出た。
三十分歩いて辿りついたペットショップは、すでに閉まっていた。電気が消されて、お店の周りを、菱形に編まれた緑色のロープが囲んでいる。水槽に取り付けられているライトだけがぼんやり光って、生物がいると知らせている。
金魚は明日まで生きていられるだろうか。もしひどい病気だったら、どうしよう。
「こんばんは」
背中にかけられた男性の声に、ビクッと身がすくんだ。けど、すぐに気づいた、店長さんだ。振り返るとリュックを背負った店長さんが立っていた。
「もしかして、御用でしたか? 営業時間が十九時までなもので、もう閉めてしまったんですけど」
「そうなんですか」
十九時に閉めたにしては、ずいぶん遅い時間まで職場にいるんだな。もう二十時過ぎなのに。
そんな風に考えているのがわかったのか店長さんは照れ笑いを浮かべた。
「忘れ物をして、戻って来たんですよ。でもちょうど良かった。ご用件をうかがいますよ」
仕事を終えたというのに客の相手をしてくれる。やっぱり、感じの良い人だ。いや、それだけじゃない。きっとこういう人が、仕事が出来る人なんだろう。残業させるのが悪いとは思ったが、金魚の命が気にかかって、質問することにした。
「金魚がずっとフンをしていないんです。なにか病気かと思って、聞きたくて、……すみません」
思わずうつむきそうになった私に、店長さんはニコッと笑いかけた。
「金魚のためにわざわざ足を運んでくださってありがとうございます」
嫌な顔をされなかったことにホッとして、顔を上げた。
「おそらく便秘でしょう。金魚は消化器が未成熟で、お腹の調子を崩しやすいんです」
便秘。すぐに死ぬようなひどい病気じゃない。ホッとした。
「二、三日ほど絶食させてみてください。もし、見てわかるくらいにお腹が膨れていたら、水温を上げたり、水換えしたりする必要もありますが」
金魚のお腹はどうだっただろう。カバンからスマホを取り出して、金魚の写真を見る。お腹の感じもちゃんと見える。この写真と見比べれば大丈夫そうだ。
「帰って、金魚のお腹を見てみます」
「そうしてください。そうだ、水槽用のヒーターはお持ちですか?」
なんのことやらわからないけど、首を横に振る。金魚用品なんてエサしか買っていない。
「もし良かったら、お貸ししましょう。今日ひとつ水槽が空いたんで、ヒーターも宙に浮いてるんです」
「いえ、そんな……」
あまりに親切な申し出に怖くなる。なにか下心があるんじゃないかって。知らず、二、三歩後退ってしまった。
「次の金魚の入荷が来週末なんで、その頃までに返していただければ大丈夫です。温かくしてあげても変わりがなかったら、またほかの対策を考えましょう」
そう言うと、店長さんは網をくぐってお店の中に入っていく。どうしよう、いまのうちに逃げようか。だけど、金魚のことで頼れるのは店長さんだけだ。それに、たしかに、なにか対策しないと、金魚が死んでしまうかもしれない。
悩んでいるうちに店長さんはすぐに戻ってきてしまった。
「はい、ヒーターです。こっちは水温計。ヒーターは横置き型なので、水槽の底に横にして設置してください。それと……」
店長さんは丁寧にあれこれ説明してくれた。ヒーターを設置するときの注意点とか、適温はどれくらいかとか、水温計を取り付ける位置とか。
お店の名前が入ったビニール袋にヒーターと水温計を入れてもらって、頭を下げる。なにか言わなきゃと思うんだけど、なにも思いつかない。
「それじゃあ、金魚、かわいがってあげてください ね」
店長さんが手を振るので、手を振り返した。なんだか仲良しにでもなったみたいで、ちょっと戸惑ってしまう。
店長さんは階段を下りて行った。私も下りるのだけど、一階でまた顔を合わせたら気まずい。二階で三十分くらい時間を潰してから、階段に向かった。
ふと思う。理想の私って、どんな人物だろう。ちゃんと考えたことがない。そもそも理想なんて抱いたことがない。ただ私は、大嫌いな今の私じゃないほかのものになりたいだけだ。なんなら、金魚になるんだっていい。レモン水の中をひらひら泳ぐ気ままな金魚として生きるのでもかまわないのだ。
ガラスポットを見ると、金魚はのんきにぷかぷかしている。赤い尾びれが柔らかそうにヒラヒラ揺れている。本当に、金魚になれたらいいのに。
少し時間が遅くなったけど、ガラスポットにエサを十粒入れた。
じっと見ていると、金魚は、ぱくりぱくりと口を開けたり閉めたり、エサを飲み込んでいく。どんな気持ちで食べているんだろう。この六十秒間は金魚にとってどんな時間だろう。
「美味しいですか?」
腹七分目になった金魚は私から逃げるかのように、ガラスポットの底に泳いでいった。
底でふらふらしている金魚を見ていて気付いた。フンがちっとも落ちていない。レモン水はきれいなままで、塵ひとつ浮いていない。もしかして、まだエサが足りないのだろうか。それとも、なにかの病気だろうか。
「大丈夫?」
尋ねてみても金魚が返事をするわけがない。だけど、食べたものが出てこないというのは、もしかしたら大変なことじゃないだろうか。
ペットショップに聞きに行ってみよう。立ち上がったけど、時計を見てためらった。スーパーは二十四時間営業だけど、専門店は違う。ペットショップは何時までの営業だろうか。
「閉まってたら帰ればいいだけ」
独り言を呟いて、思い切って家を出た。
三十分歩いて辿りついたペットショップは、すでに閉まっていた。電気が消されて、お店の周りを、菱形に編まれた緑色のロープが囲んでいる。水槽に取り付けられているライトだけがぼんやり光って、生物がいると知らせている。
金魚は明日まで生きていられるだろうか。もしひどい病気だったら、どうしよう。
「こんばんは」
背中にかけられた男性の声に、ビクッと身がすくんだ。けど、すぐに気づいた、店長さんだ。振り返るとリュックを背負った店長さんが立っていた。
「もしかして、御用でしたか? 営業時間が十九時までなもので、もう閉めてしまったんですけど」
「そうなんですか」
十九時に閉めたにしては、ずいぶん遅い時間まで職場にいるんだな。もう二十時過ぎなのに。
そんな風に考えているのがわかったのか店長さんは照れ笑いを浮かべた。
「忘れ物をして、戻って来たんですよ。でもちょうど良かった。ご用件をうかがいますよ」
仕事を終えたというのに客の相手をしてくれる。やっぱり、感じの良い人だ。いや、それだけじゃない。きっとこういう人が、仕事が出来る人なんだろう。残業させるのが悪いとは思ったが、金魚の命が気にかかって、質問することにした。
「金魚がずっとフンをしていないんです。なにか病気かと思って、聞きたくて、……すみません」
思わずうつむきそうになった私に、店長さんはニコッと笑いかけた。
「金魚のためにわざわざ足を運んでくださってありがとうございます」
嫌な顔をされなかったことにホッとして、顔を上げた。
「おそらく便秘でしょう。金魚は消化器が未成熟で、お腹の調子を崩しやすいんです」
便秘。すぐに死ぬようなひどい病気じゃない。ホッとした。
「二、三日ほど絶食させてみてください。もし、見てわかるくらいにお腹が膨れていたら、水温を上げたり、水換えしたりする必要もありますが」
金魚のお腹はどうだっただろう。カバンからスマホを取り出して、金魚の写真を見る。お腹の感じもちゃんと見える。この写真と見比べれば大丈夫そうだ。
「帰って、金魚のお腹を見てみます」
「そうしてください。そうだ、水槽用のヒーターはお持ちですか?」
なんのことやらわからないけど、首を横に振る。金魚用品なんてエサしか買っていない。
「もし良かったら、お貸ししましょう。今日ひとつ水槽が空いたんで、ヒーターも宙に浮いてるんです」
「いえ、そんな……」
あまりに親切な申し出に怖くなる。なにか下心があるんじゃないかって。知らず、二、三歩後退ってしまった。
「次の金魚の入荷が来週末なんで、その頃までに返していただければ大丈夫です。温かくしてあげても変わりがなかったら、またほかの対策を考えましょう」
そう言うと、店長さんは網をくぐってお店の中に入っていく。どうしよう、いまのうちに逃げようか。だけど、金魚のことで頼れるのは店長さんだけだ。それに、たしかに、なにか対策しないと、金魚が死んでしまうかもしれない。
悩んでいるうちに店長さんはすぐに戻ってきてしまった。
「はい、ヒーターです。こっちは水温計。ヒーターは横置き型なので、水槽の底に横にして設置してください。それと……」
店長さんは丁寧にあれこれ説明してくれた。ヒーターを設置するときの注意点とか、適温はどれくらいかとか、水温計を取り付ける位置とか。
お店の名前が入ったビニール袋にヒーターと水温計を入れてもらって、頭を下げる。なにか言わなきゃと思うんだけど、なにも思いつかない。
「それじゃあ、金魚、かわいがってあげてください ね」
店長さんが手を振るので、手を振り返した。なんだか仲良しにでもなったみたいで、ちょっと戸惑ってしまう。
店長さんは階段を下りて行った。私も下りるのだけど、一階でまた顔を合わせたら気まずい。二階で三十分くらい時間を潰してから、階段に向かった。