「ただいま」
 部屋の灯りを点けると、金魚はゆらゆら泳いでいた。餓死はしなかったようだ。
 買ってきた安物の赤ワインとお惣菜をこたつに乗せて、カバンから金魚のエサを取り出す。ガラスポットの中を隅々まで見たけれど、フンらしきものは落ちていない。やっぱりエサが足りていないのかも。

 朝は六粒やってみたけど、少し多めに入れてみて、一分で何粒食べるか確かめよう。
 とりあえず、十二粒からにしようかな。手のひらにエサをざらざらと出して、十二粒だけ残した。あとは瓶に戻す。
 ザラッと一気に水面に浮かべると、金魚はぷかりと上がってきた。
「いーち、にー、さーん、よーん……」
 数えながら見ていると、金魚は急ぐこともなく、ぱくりぱくりと一粒ずつ丁寧に口に入れていく。なんとなく上品だ。
「ごじゅうきゅう、ろくじゅう!」
 だいたい六十秒くらいで残りは二粒。明日からは朝晩、十粒ずつ入れてやればいいかな。 

 お酒は早めに切り上げて買ってきた本を読むことにした。
『嫌いな自分を吹き飛ばせ!』と『電話オペレーターの基礎の基礎』。どちらを先に読むか少し悩んだけど、すぐ必要なのは電話のスキルだ。『電話オペレーターの基礎の基礎』から読もうとしてページをめくる。もくじを読んでいると、眠気に襲われた。お酒が良い感じに回っている。このまま眠ったら幸せだなあ。
 本は……。明日、昼休みに読めばいいか。
「おやすみ、金魚」
 本を置いて布団の中に潜り込んだ。

「青柳さん、いつも社食なの?」
 わかめそばを食べ終えて本を読んでいると、声をかけられた。同期の矢代さんがすぐ側にいて、私を見下ろしている。突然のことに驚いて返事も出来ずにいると、缶ジュースを買いに来たらしい矢代さんは本を覗き見た。
「もしかして、テレアポの教科書?」
 小さくうなずくと、矢代さんは「は?」と低い声で言う。
「営業はテレアポとは全然違うでしょうよ。そんなのが役に立つとでも思ってるの? それとも、なに。転職するの?」
 矢代さんは、顔を歪めて意地悪く笑う。いつも椎葉さんたちといるときの楽しそうな笑顔はどこへ消えたんだろう。とりあえず私に、その笑顔が差しだされることはないだろう。冷ややかな声でなにを言われるか、ビクビクしてうつむいた。

 私が返事するのを待つ気はなかったようで、矢代さんは言葉を続ける。
「青柳さんって、やる気ないよね。毎日、ただ受話器を上げたり下げたりしてるだけ。楽でいいね」
 嘲笑うような雰囲気が消えて、矢代さんは硬い表情になった。
「向いてないよ、営業」
 そう言って去っていく背中は怒っていた。私は会社のお荷物でしかないとはっきり言われた。みんなが同じように思っていることは、毎日、肌でひしひしと感じている。営業成績が良い矢代さんにとって、私なんかは給料泥棒としか思えないだろう。
 間違っていない。私は矢代さんや椎葉さんたちが売り上げたお金のおかげで給料をもらっているのだから。
 本を閉じて、カバンに入れる。矢代さんが言うとおりだ。こんな本を読んでも、なんにもならない。私に出来ることなんて、この世の中に、なにもないんだから。

 落ち込んでいるせいで、いつもより多くお酒を買ってしまった。こんなことでは、いつかアルコール中毒になってしまうかもしれない。それでも頼れるものはほかにない。
 友人もいない、親とも仲が良くない、恋人がいたこともない。臆病で人間と関われずに生きてきた結果がこれだ。
「ただいま」
 玄関でぼんやり佇む。カーテンの隙間から夕暮れ時の黄色い光が差し込んで、部屋がぼんやり薄黄色だ。その光がガラスポットに差してレモン水がキラキラ光っている。
 灯りを点けずに部屋に上がる。こたつの前に座ると、金魚は私の方に寄ってきた。私のことを覚えたのだろうか? そう思ったけれど、金魚はすぐに好き勝手な方向に泳ぎだした。なんだかとても空しくなった。

 買ってきたお酒を冷蔵庫にしまって、本を手に取る。
『嫌いな自分を吹き飛ばせ!』
 今日は本当に、私は私が嫌いだと思い知った。自分で好きになれない私を、ほかのだれが好きになってくれるもんか。金魚ですら私を好きにならない。
 私を吹き飛ばして、どこかへ消してしまえばいい。そうすれば、もう二度と嫌いな自分を見なくて済む。
 本を開いて、噛みしめるようにじっくりと読んだ。