スーパーの二階の書店で、自己啓発本のコーナーに行くと、自信を持つ方法や、人に好かれるようになる方法など、私が欲しい情報が山のように陳列されていた。片っ端からもくじを見ていって、買うべき一冊を選び出した。
『嫌いな自分を吹き飛ばせ!』
読む前から自分のなにかが変わったような気がして、ウキウキとレジに向かう途中、もう一冊、読むべき本を見つけた。
『電話オペレーターの基礎の基礎』
値段も見ずに掴み上げた。
二冊の本を抱きしめて店を出て、金魚の飼い方の本も探せば良かったと、ちらりと思ったけど、突然どこからともなく現れた怪しい金魚の飼い方は、どんな本にも書かれていないだろう。
カバンに本を入れようとして、思いだした。英語を読めるように英和辞典を買った方がいい。
そう思って辞書のコーナーに行ってみたが、英和辞典は高価だった。たった一度、それも金魚のためだけに支払うには、躊躇する値段だ。見なかったことにして今度こそ階段を下りようと歩き出して、思いだした。
ペットショップがあるじゃない。お店の人ならきっと英語で書いてあっても、その内容は知っているはず。
そうは思ったけど、昨日、店にいた店員は男性だった。近づきたくない。でももしかしたら、あの男性はバイトかなにかで、今日は女性がいるかもしれない。
一縷の望みをかけて水槽の陰から、そっと店内を覗いてみた。どの角度から見ても、壁のように積みあがった水槽たちに邪魔されてレジは見えない。
「いらっしゃいませ」
背中からかけられた声に驚いて一瞬、体が固まる。男性がすぐそこにいる。
「すみません、驚かせましたか」
動悸が激しい。耳の奥に心臓があるみたいにドクドク言っている。思わず飛び退った。
避けるのが勢い良すぎて、カバンを取り落とした。男性が拾い上げようとしたが傾いて中身がゴロゴロと転がり出る。
「あああ、すみません!」
財布と本と金魚のエサ。男性が手を伸ばそうとする前に、飛びついて荷物を拾った。また飛び退り、男性と距離を開ける。
「あの……」
男性が話しかけようとして、けれど口をつぐんだ。なんだろう。なにか文句でも言われるのだろうか。親切を無下にしたと怒られたりしたらどうしよう。
緊張して逃げ出すことも出来ず、カバンを抱きしめる。動けずにいると、男性が恐る恐るといった様子で尋ねた。
「返品ですか?」
「返品?」
思わず聞き返すと、男性はがっくりと肩を落とした。
「やっぱり、そのエサ、食いつきが悪かったんですね。お会計のときに説明すればよかったのに、俺、浮かれていて注意散漫で。申し訳ないです。外国製のエサだと和金が食べてくれないこともあって。ちゃんとご説明するべきだったのに、俺は店長失格です」
店長さんだという男性を見つめて、ぽかんと口が開いた。私なんかに申し訳ないだなんて。なんで、なにを、なにが、なんなの、いったい?
「ほかのエサと取り替えます。日本製の食いつきのいいのがありますから、どうぞ」
弱々しくそう言うと、店長さんは店に入っていく。右耳のあたりの髪が生えていない円形が、しょんぼりした雰囲気とみょうにマッチしている。あまりにも、あまりにもしょぼくれて、かわいそうだ。
「食べました」
「え?」
力なく店長さんが振り返る。しょげかえって肩を丸めた店長さんに覇気はない。そのせいなのかどうか、男性なのに、今は店長さんが怖くない。
「金魚、このエサ食べました」
「そうですか!」
たちまち笑顔になった店長さんを、やはり怖いとは思わない。笑顔にすごく親近感を覚える。
「良かった! これも栄養価は良いんですよ。ただ、大粒で飲み込みにくいらしくて、口の小さい子は敬遠するんです。あなたの金魚は大柄なんですね」
金魚が大柄か小柄かなんて考えたこともない。そもそもレモン水の中で泳ぐ金魚のサイズを、きちんと見たこともない。
「大きいのかもしれませんけど、よくわかりません」
「大丈夫です、金魚は自分のことは自分でわかってますから」
店長さんは自己啓発本に載っていたようなことを言う。『自分を好きになるには、自分を知ることが第一です』そんな感じのこと。金魚ですら出来るのに、私にはそんなことも出来ない。金魚以下なのだろう。
「どうかしましたか?」
落ち込んで無意識に自分の靴先を見ていた。人と話している最中に、なんて失礼を。カバンをぎゅっと抱きしめて顔を上げた。
「すみません、なんでもないんです」
私は変わるんだ。そのために本だって買った。辞書は買わなかったけど……。
そうだ、もう一つの目的を忘れている。
「このエサ、どれくらい食べさせたらいいんでしょうか。英語がわからなくて」
「個体別に食べる量は違いますから、どれくらいという決まりはないんですよ。目安としては、一分くらいで食べきれる量が腹七分目で健康に良いです」
店長さんは迷うこともなく、すらすらと答えてくれる。
「それと、フンの状態を見るのも大切ですね。健康だと二~三センチほどの長さのフンをしますよ」
レモン水の中の金魚はフンをしていなかったような気がする。エサが全然足りなかったのかも。お腹が空いて死んでたらどうしよう。
「ありがとうございました。帰ってエサやりします」
踵を返そうとしたら、店長さんが「またどうぞ」と優しく微笑んでくれた。店長さんは間違いなく『感じの良い人』だ。私とは正反対の。
『嫌いな自分を吹き飛ばせ!』
読む前から自分のなにかが変わったような気がして、ウキウキとレジに向かう途中、もう一冊、読むべき本を見つけた。
『電話オペレーターの基礎の基礎』
値段も見ずに掴み上げた。
二冊の本を抱きしめて店を出て、金魚の飼い方の本も探せば良かったと、ちらりと思ったけど、突然どこからともなく現れた怪しい金魚の飼い方は、どんな本にも書かれていないだろう。
カバンに本を入れようとして、思いだした。英語を読めるように英和辞典を買った方がいい。
そう思って辞書のコーナーに行ってみたが、英和辞典は高価だった。たった一度、それも金魚のためだけに支払うには、躊躇する値段だ。見なかったことにして今度こそ階段を下りようと歩き出して、思いだした。
ペットショップがあるじゃない。お店の人ならきっと英語で書いてあっても、その内容は知っているはず。
そうは思ったけど、昨日、店にいた店員は男性だった。近づきたくない。でももしかしたら、あの男性はバイトかなにかで、今日は女性がいるかもしれない。
一縷の望みをかけて水槽の陰から、そっと店内を覗いてみた。どの角度から見ても、壁のように積みあがった水槽たちに邪魔されてレジは見えない。
「いらっしゃいませ」
背中からかけられた声に驚いて一瞬、体が固まる。男性がすぐそこにいる。
「すみません、驚かせましたか」
動悸が激しい。耳の奥に心臓があるみたいにドクドク言っている。思わず飛び退った。
避けるのが勢い良すぎて、カバンを取り落とした。男性が拾い上げようとしたが傾いて中身がゴロゴロと転がり出る。
「あああ、すみません!」
財布と本と金魚のエサ。男性が手を伸ばそうとする前に、飛びついて荷物を拾った。また飛び退り、男性と距離を開ける。
「あの……」
男性が話しかけようとして、けれど口をつぐんだ。なんだろう。なにか文句でも言われるのだろうか。親切を無下にしたと怒られたりしたらどうしよう。
緊張して逃げ出すことも出来ず、カバンを抱きしめる。動けずにいると、男性が恐る恐るといった様子で尋ねた。
「返品ですか?」
「返品?」
思わず聞き返すと、男性はがっくりと肩を落とした。
「やっぱり、そのエサ、食いつきが悪かったんですね。お会計のときに説明すればよかったのに、俺、浮かれていて注意散漫で。申し訳ないです。外国製のエサだと和金が食べてくれないこともあって。ちゃんとご説明するべきだったのに、俺は店長失格です」
店長さんだという男性を見つめて、ぽかんと口が開いた。私なんかに申し訳ないだなんて。なんで、なにを、なにが、なんなの、いったい?
「ほかのエサと取り替えます。日本製の食いつきのいいのがありますから、どうぞ」
弱々しくそう言うと、店長さんは店に入っていく。右耳のあたりの髪が生えていない円形が、しょんぼりした雰囲気とみょうにマッチしている。あまりにも、あまりにもしょぼくれて、かわいそうだ。
「食べました」
「え?」
力なく店長さんが振り返る。しょげかえって肩を丸めた店長さんに覇気はない。そのせいなのかどうか、男性なのに、今は店長さんが怖くない。
「金魚、このエサ食べました」
「そうですか!」
たちまち笑顔になった店長さんを、やはり怖いとは思わない。笑顔にすごく親近感を覚える。
「良かった! これも栄養価は良いんですよ。ただ、大粒で飲み込みにくいらしくて、口の小さい子は敬遠するんです。あなたの金魚は大柄なんですね」
金魚が大柄か小柄かなんて考えたこともない。そもそもレモン水の中で泳ぐ金魚のサイズを、きちんと見たこともない。
「大きいのかもしれませんけど、よくわかりません」
「大丈夫です、金魚は自分のことは自分でわかってますから」
店長さんは自己啓発本に載っていたようなことを言う。『自分を好きになるには、自分を知ることが第一です』そんな感じのこと。金魚ですら出来るのに、私にはそんなことも出来ない。金魚以下なのだろう。
「どうかしましたか?」
落ち込んで無意識に自分の靴先を見ていた。人と話している最中に、なんて失礼を。カバンをぎゅっと抱きしめて顔を上げた。
「すみません、なんでもないんです」
私は変わるんだ。そのために本だって買った。辞書は買わなかったけど……。
そうだ、もう一つの目的を忘れている。
「このエサ、どれくらい食べさせたらいいんでしょうか。英語がわからなくて」
「個体別に食べる量は違いますから、どれくらいという決まりはないんですよ。目安としては、一分くらいで食べきれる量が腹七分目で健康に良いです」
店長さんは迷うこともなく、すらすらと答えてくれる。
「それと、フンの状態を見るのも大切ですね。健康だと二~三センチほどの長さのフンをしますよ」
レモン水の中の金魚はフンをしていなかったような気がする。エサが全然足りなかったのかも。お腹が空いて死んでたらどうしよう。
「ありがとうございました。帰ってエサやりします」
踵を返そうとしたら、店長さんが「またどうぞ」と優しく微笑んでくれた。店長さんは間違いなく『感じの良い人』だ。私とは正反対の。