酔い覚ましのレモン水はこれで確保できる。今晩のお酒を補充しようと階段へ向かう途中に、ペットショップがあった。水槽だらけで、魚専門のお店なのかもしれないと思う。
店頭には巨大水槽が二つ並んでいる。一つはシーラカンスのような細長くて白い魚が寝ている水槽。もう一つにはなにもいない。水槽のガラスに鼻をぶつけそうになりながら観察しても、わんさか植わっている水草しかない。水の中に生き物が存在しない森があるみたい。なんだかファンタジーだ。
そう言えば、ある朝突然、レモン水の中に現れた金魚。それこそファンタジーじゃないか。あの金魚も、もしかしたら妖精かなにかかもしれない。お花の蜜かなにかで生きているのかも……。なんて馬鹿なことを考えたけど、レモン水の中に花蜜なんかないに決まってる。
そうだ、エサをやった方がいいんじゃないだろうか。餓死されたら、それこそ、どうしたらいいかわからない。
水槽の間を縫って、そっと店内へ入ってみる。水槽は壁のように高く、みっしりと隙間なく積まれている。通路はかなり狭くて、横向きにならないと歩けない。店の奥に水槽がない空間を見つけて近づくと、よくわからない器具がたくさん並んでいた。水槽に取り付けるんだろうけど、なにがなんだか、なにもかもわからない。
魚のエサは種々さまざまにある。容器に魚の絵が描いてあるから、金魚用もすぐにわかった。一番安い瓶をとってレジに向かう。
「いらっしゃいませ」
顔を向けると店番をしていたのは男性だった。ビクッと体が揺らいで金魚のエサを取り落しそうになった。
横目で見ると、体格の良い若い男性で、愛想よく笑っている。でも、逃げたい。
「金魚がお好きなら、見ていきませんか」
男性の声が優しくて、なんとか踏みとどまった。私が握っている金魚のエサを見たのだろう。金魚は特に好きでもないのだけど。
「金魚の赤ちゃんがいるんです。かわいいんですよ、これが」
眼尻を下げて笑う男性は少年のようで、恐怖心が少し薄れた。
「金魚の赤ちゃんって、卵ですか?」
恐る恐る聞いてみると、男性の笑顔は輝かんばかりになる。
「いえいえ、もう孵化はしてます。一センチもないくらいなのに、いっちょまえに赤っぽい色なんですよ」
話しながら男性はカウンターの奥から出てきて、さっさと水槽の間を縫って歩いていく。大柄なのにうまく体を縮めて水槽にぶつからないようにしている。その器用さに感心して、恐れを忘れて後に続いた。
「これです!」
男性は一つの水槽を指し示した。水の中に森だけがある水槽だ。
「なにもいないみたいですけど……」
「まだ半透明ですから、見えにくいですよね。水草の間にちょこちょこ動いてるんですよ」
言われて目を凝らしてみると、確かに小さなものが動いている。本当に小さいのに、男性が言った通り、いっちょまえに魚の形だ。
「かわいいですね」
「でしょう!」
男性の大きな声にビクッと身がすくむ。
「あ、すみません、驚かせて」
水槽の間を通る時よりも身を縮めた男性は、一歩下がって私との距離を開けてくれた。ホッとする。
「稚魚のまま連れて帰ってくれるお客さんもいらっしゃるんですよ。稚魚はプランクトンを食べていますから、水の管理が大変なんですけどね」
水の管理。わざわざそんなことをするなら、もしかして、いろいろな水質で飼えるものなんだろうか、金魚って。
「金魚って、レモン水の中で生きられますか?」
尋ねると男性は目をぱちぱちさせて、しばらく私をじっと見つめた。居心地が悪くて目を逸らすと、男性は腕組みをして天井を見上げた。
「試さない方がいいと思いますよ」
じっくり三十秒は考えてから、そう答えた。
金魚のエサを買って店を出ようとすると、男性が店の外まで見送りに出て来た。
「ありがとうございました」
深々と頭を下げた男性の右耳の近くに、百円玉くらいの円形に髪が生えていない部分がある。どこかで見たことがあるような。でも思いだせなくて、お酒のことだけを考えながら階段を下りた。
店頭には巨大水槽が二つ並んでいる。一つはシーラカンスのような細長くて白い魚が寝ている水槽。もう一つにはなにもいない。水槽のガラスに鼻をぶつけそうになりながら観察しても、わんさか植わっている水草しかない。水の中に生き物が存在しない森があるみたい。なんだかファンタジーだ。
そう言えば、ある朝突然、レモン水の中に現れた金魚。それこそファンタジーじゃないか。あの金魚も、もしかしたら妖精かなにかかもしれない。お花の蜜かなにかで生きているのかも……。なんて馬鹿なことを考えたけど、レモン水の中に花蜜なんかないに決まってる。
そうだ、エサをやった方がいいんじゃないだろうか。餓死されたら、それこそ、どうしたらいいかわからない。
水槽の間を縫って、そっと店内へ入ってみる。水槽は壁のように高く、みっしりと隙間なく積まれている。通路はかなり狭くて、横向きにならないと歩けない。店の奥に水槽がない空間を見つけて近づくと、よくわからない器具がたくさん並んでいた。水槽に取り付けるんだろうけど、なにがなんだか、なにもかもわからない。
魚のエサは種々さまざまにある。容器に魚の絵が描いてあるから、金魚用もすぐにわかった。一番安い瓶をとってレジに向かう。
「いらっしゃいませ」
顔を向けると店番をしていたのは男性だった。ビクッと体が揺らいで金魚のエサを取り落しそうになった。
横目で見ると、体格の良い若い男性で、愛想よく笑っている。でも、逃げたい。
「金魚がお好きなら、見ていきませんか」
男性の声が優しくて、なんとか踏みとどまった。私が握っている金魚のエサを見たのだろう。金魚は特に好きでもないのだけど。
「金魚の赤ちゃんがいるんです。かわいいんですよ、これが」
眼尻を下げて笑う男性は少年のようで、恐怖心が少し薄れた。
「金魚の赤ちゃんって、卵ですか?」
恐る恐る聞いてみると、男性の笑顔は輝かんばかりになる。
「いえいえ、もう孵化はしてます。一センチもないくらいなのに、いっちょまえに赤っぽい色なんですよ」
話しながら男性はカウンターの奥から出てきて、さっさと水槽の間を縫って歩いていく。大柄なのにうまく体を縮めて水槽にぶつからないようにしている。その器用さに感心して、恐れを忘れて後に続いた。
「これです!」
男性は一つの水槽を指し示した。水の中に森だけがある水槽だ。
「なにもいないみたいですけど……」
「まだ半透明ですから、見えにくいですよね。水草の間にちょこちょこ動いてるんですよ」
言われて目を凝らしてみると、確かに小さなものが動いている。本当に小さいのに、男性が言った通り、いっちょまえに魚の形だ。
「かわいいですね」
「でしょう!」
男性の大きな声にビクッと身がすくむ。
「あ、すみません、驚かせて」
水槽の間を通る時よりも身を縮めた男性は、一歩下がって私との距離を開けてくれた。ホッとする。
「稚魚のまま連れて帰ってくれるお客さんもいらっしゃるんですよ。稚魚はプランクトンを食べていますから、水の管理が大変なんですけどね」
水の管理。わざわざそんなことをするなら、もしかして、いろいろな水質で飼えるものなんだろうか、金魚って。
「金魚って、レモン水の中で生きられますか?」
尋ねると男性は目をぱちぱちさせて、しばらく私をじっと見つめた。居心地が悪くて目を逸らすと、男性は腕組みをして天井を見上げた。
「試さない方がいいと思いますよ」
じっくり三十秒は考えてから、そう答えた。
金魚のエサを買って店を出ようとすると、男性が店の外まで見送りに出て来た。
「ありがとうございました」
深々と頭を下げた男性の右耳の近くに、百円玉くらいの円形に髪が生えていない部分がある。どこかで見たことがあるような。でも思いだせなくて、お酒のことだけを考えながら階段を下りた。