「良かったじゃない」
 帰りの車中で矢代さんがポツリと言った。
「ごっそり買ってもらえて」
 声に抑揚がなくて、感情が読めない。でも、なんとなく嫌味ではなくて、真っ直ぐに褒めてくれているような気がする。
「ありがとうございます」
「これで彼氏にも良い報告できるんじゃない?」
「……彼氏じゃありません」
 否定したけど、なぜか寂しい気持ちになった。実際のことを言っただけなのに。
「どっちでもいいけど」
 それだけ言うと、矢代さんは窓の外に目を向けて、私なんかいないかのようにふるまう。静かな車内で私は金魚のことを考えていた。夏祭りのときには、生き物を幸せにすることなんか出来っこないと思っていた。でも、今は金魚の心配をして、かわいいとも思っている。
「悪かったね」
 突然、ポツリと矢代さんが言った。チラリと横目で窺ったけど、矢代さんの表情は見えなかった。



 今日はお祝いだ。お酒をたんまり買い込んで家に帰った。
「ただいま」
 浮かれて踊りだしそうな足取りになっている。こたつに乗せている大きめの水槽に顔を近づけて金魚を見る。今は光っていない。普通の金魚みたいな顔をしている。
 こたつの大部分を水槽が占拠してしまっている。わずかに残った空きスペースにお酒を並べて、金魚に見せつける。
「今日は飲み放題しまーす」
 金魚は知らんぷりで向こうへ泳いでいく。そのお尻から、薄茶色のフンが出ている。
「え!?」
 水槽に額をぶつけそうになりながら、覗き込む。右から見ても、左から見ても、上から見ても、フンは光っていない。
「……なんで?」
 普通の金魚なら、もうなにも相談する必要はなくなる。ペットショップに足を運ぶ理由もなくなる。
 ふと気づいた。水槽の水は普通の水だ。レモンを入れていない。もしかしたら、レモンを入れたら、金魚はまた光るだろうか。
 光らない金魚に、三枝さんは興味を持ってくれるだろうか。ふいにそんな気持ちが湧き上がってきた。
 それとも光る金魚にしか価値を感じないだろうか。普通の金魚じゃつまらないだろうか。

『世界中の金魚を幸せにしてやりたいんです』
 そう言った三枝さんは、金魚が光っても、光らなくても、変わらず愛してくれるだろうか。

 ピリリ、と甲高い音が鳴った。なんの音だろうかと驚いた。しばらくして、自分のスマホの着信音だとやっと気づいた。ディスプレイには椎葉さんの名前が表示されている。
「も、もしもし」
「青柳さん! 初売り上げだったって聞きました! おめでとうございます!」
 スマホの向こうで椎葉さんが笑顔で話しているのが手に取るようにわかった。思わず私も笑顔になる。
「ありがとうございます。すごく良いお客様に出会えました」
「良いお客様は、良い営業を選んでくださいますから。青柳さん、お客様に認められたんですよ!」
 認められた……、私が? 仕事も出来なくて、人とまともに話せなくて、なんの取り柄もないのに?
「お祝いしましょう! 急ですけど、今夜空いてますか?」
「はい、空いてますけど……」
「ハルさんと希美さんも一緒に、乾杯しましょう。二人に確認したら、今日いけるそうなんですけど、どうですか?」
 椎葉さんの声がワクワクしてるように聞こえる。私もつられて明るい気持ちになってきた。
「ご迷惑でなかったら、ぜひ」
「迷惑なわけないじゃないですか。ちょっとまだ会社に戻れてなくて、一時間くらい待って欲しいんですけど」
「大丈夫です」
「それじゃ、食べたいものを考えておいてください。また連絡します」
 通話が切れたスマホを見つめて、目をしばたたく。お祝い? 私のために集まってくれる? なんて奇跡みたいな日だろう。こんなに誰かに声をかけてもらったことは初めてかもしれない。大久保様、矢代さん。課長もお祝いを言ってくれた。私が私じゃなくなったみたいだ。
「ねえ、金魚。あなたは光りたい? それとも光らない金魚でいたい?」
 金魚はひらひらと寄って来て、口からぷくっと泡を出した。
 エサを十粒入れて見ていると、元気なフンがお尻から離れて水槽の底に落ちていく。
「掃除しなきゃ」
 水槽の掃除の仕方を知らない。掃除道具もいるだろうし、またお店に行こう。
 ほんの少しのフンのために、すぐに水槽の掃除をする必要はなさそうだと思う。けど今すぐにペットショップに行きたくてたまらない。
 椎葉さんとの約束の一時間まで、急げばスーパーと家を往復できる。だけど、歩いていくなら、本当に往復するだけでいっぱいいっぱいだ。金魚のことを話す時間はない。買い物をする時間すらないだろう。それでも、今、無性に三枝さんに会いたかった。

 家を飛び出してスーパー目指して走り出した。だけど、すぐに足が止まる。私の走りでは歩く速度と大して変わらない。
 スーパーの方から来たバスが、私の側を走り抜けて行った。顔が引きつる。足が震える。だけど。
 歩道橋を駆けあがって、反対車線に移動した。バス停はすぐそこだ。スーパーまでバスなら十分で着く。たった十分。たった十分我慢すればいいだけ。

 恐る恐るバス停に近づく。バスを待っている人はいない。時刻表を見ると、次のバスは三分後にやってくるらしい。
 動悸が激しくなる。手が小刻みに震える。自分がバスに乗れるような気がしない。今すぐ引き返して、こたつの中に引きこもりたい。なにも出来ない私のままで。

 歩道橋の方に戻ろうと顔を上げると、暮れなずむ空に、満月が昇っていた。三枝さんの右耳あたりを月のようだと思ったことがあった。
 そう思うと震えが止まった。
 バスがやって来た。帰宅時間だ、混雑している。
 プシューと空気が抜けたような音がしてバスの扉が開いた。また震えだした足先をタラップに乗せる。大丈夫。怖くない。過去はもう、戻ってこない。良いことも悪いことも。

 思い切ってバスに飛び乗った。扉が閉まり、発車する。
 荒くなった息を整えようと深呼吸した。窓の外に目をやると、満月がどこまでもついてきてくれる。
 ICカードを買おう。バスにも電車にも乗って、どこまでも行こう。
 私が虹色に輝けるところへ。もっと自由に泳げる、広い広い場所へ。