「ありがとうございます! すぐに伺います!」
思わず立ち上がって頭を下げた。電話を切って、外出の準備をする。えっとなんだっけ、商品カタログ、商品見本、新商品のサンプルと……。
「青柳さん、もしかして、予約が取れたの?」
課長がイスを蹴って立ち上がる。
「はい! 大久保様が買い換えたいとおっしゃってくださいました」
大股に近づいてきて、私の背中をバンバンと叩く。
「おめでとう! 初快挙だ。先輩に同行してもらって……」
課長が言葉を切った。オフィスはガランとして、私と課長しかいない。今日は営業社員全員が予約を取れた幸運日だった。
お客様のところへ初めて行くのに、一人だなんて……。予約が取れたと浮かれて、客先でどういう風に商品を勧めればいいのか知らないことを忘れていた。
「女性に下着を勧めるところに、俺が一緒に行くわけにもいかないし。あ、矢代さん!」
課長がドタドタとドアに向かって走っていく。矢代さんが帰社したところだった。
「今日の案件は終わった?」
「はい。ノルマも達成しました」
「それはすごい! 青柳さん」
呼ばれて、まさかと思ったけど、課長が言う。
「矢代さんについてってもらって。行ってらっしゃい」
きっと、私の顔は真っ青になっていただろう。
社用車を運転して客先に向かう。助手席の矢代さんは頬杖をついて窓の外を見ている。社屋を出るときから、一度も私の方を見ることはない。
居心地悪いけど、もう怖くはない。
矢代さんは怒ってるのかな、やっぱり。矢代さんみたいにコミュニケーション能力の高い人が、私みたいなノロマに言い負かされるなんて、きっとすごく悔しいことだったろう。たぶんだけど。
「ついていくだけだから」
「え?」
矢代さんは窓の外を見たまま呟くように言う。
「口ださないから」
それは、なにがあっても助け舟は出さないという宣告だろう。
「わかりました」
あれだけ大きな口を叩いておいて、矢代さんに頼るなんて、ダメに決まってる。ついてきてくれるだけでも感謝しないと。
レモン水の中で泳ぐ金魚みたいに、私も一人で泳がなくちゃ。
顧客カルテでは、大久保様は年齢は六十八歳、独身とのことだった。年金で悠々自適の生活なのかと思っていたけど、大久保様のお宅は、驚くほど古くて小さなアパートだった。1Kの私の部屋より狭い。間取りを見ていると、どうもお風呂はついていないようだ。
「何年ぶりかしらねえ、下着を買うなんて」
小さな卓袱台に案内されて腰を下ろす。黄色に変色している畳は、けばだっていて、飛び出たイグサが足に触れてチクチクする。出してくれたお茶は何度も使ったものか、色も香りもほぼなくなって、お白湯のような味だった。
うちの会社の下着はかなり高額だ。本当に買うのだろうか。
大久保様は小さなタンスから、下着を何枚か引っ張り出した。
「ずーっと着てるから、ヨレヨレで」
見せてくれたブラジャーも、コルセットも、ガードルも、あちこちから糸が飛び出して、生地もかなり薄くなっている。乱暴に扱えば簡単に破れてしまいそうだ。
思わず笑みが浮かんだ。こんなに使い込んでもらえるなんて、大久保様は本当にうちの商品を好きでいてくれたんだ。
「大切に使っていただいていたんですね。ありがとうございます」
「とても付け心地がいいですからねえ。今日は久しぶりに電話をもらえて良かったわ」
まさか、電話して喜んでもらえるなんて。入社してからずっと、一度も誰からも、電話したことを嫌がられなかったことはない。
高級下着じゃなくても今は機能の良い下着が安く手に入る。訪問販売なんて時代遅れで敬遠されている。だから予約なんか取れるわけない。そう思っていた。
だけど、大久保様はうちの会社の下着の価値を認めてくれる。私が電話したことも評価してくれた。
差し出したカタログのページを楽しそうにめくり、新商品を触ってみて生地が良くなったと褒めてくれる。
この人のためだったら、なんでもしてあげたい。私が持ってる商品知識を全部、披露したい。私との会話を楽しんでほしい。
私は知らないうちに、笑顔になっていた。
思わず立ち上がって頭を下げた。電話を切って、外出の準備をする。えっとなんだっけ、商品カタログ、商品見本、新商品のサンプルと……。
「青柳さん、もしかして、予約が取れたの?」
課長がイスを蹴って立ち上がる。
「はい! 大久保様が買い換えたいとおっしゃってくださいました」
大股に近づいてきて、私の背中をバンバンと叩く。
「おめでとう! 初快挙だ。先輩に同行してもらって……」
課長が言葉を切った。オフィスはガランとして、私と課長しかいない。今日は営業社員全員が予約を取れた幸運日だった。
お客様のところへ初めて行くのに、一人だなんて……。予約が取れたと浮かれて、客先でどういう風に商品を勧めればいいのか知らないことを忘れていた。
「女性に下着を勧めるところに、俺が一緒に行くわけにもいかないし。あ、矢代さん!」
課長がドタドタとドアに向かって走っていく。矢代さんが帰社したところだった。
「今日の案件は終わった?」
「はい。ノルマも達成しました」
「それはすごい! 青柳さん」
呼ばれて、まさかと思ったけど、課長が言う。
「矢代さんについてってもらって。行ってらっしゃい」
きっと、私の顔は真っ青になっていただろう。
社用車を運転して客先に向かう。助手席の矢代さんは頬杖をついて窓の外を見ている。社屋を出るときから、一度も私の方を見ることはない。
居心地悪いけど、もう怖くはない。
矢代さんは怒ってるのかな、やっぱり。矢代さんみたいにコミュニケーション能力の高い人が、私みたいなノロマに言い負かされるなんて、きっとすごく悔しいことだったろう。たぶんだけど。
「ついていくだけだから」
「え?」
矢代さんは窓の外を見たまま呟くように言う。
「口ださないから」
それは、なにがあっても助け舟は出さないという宣告だろう。
「わかりました」
あれだけ大きな口を叩いておいて、矢代さんに頼るなんて、ダメに決まってる。ついてきてくれるだけでも感謝しないと。
レモン水の中で泳ぐ金魚みたいに、私も一人で泳がなくちゃ。
顧客カルテでは、大久保様は年齢は六十八歳、独身とのことだった。年金で悠々自適の生活なのかと思っていたけど、大久保様のお宅は、驚くほど古くて小さなアパートだった。1Kの私の部屋より狭い。間取りを見ていると、どうもお風呂はついていないようだ。
「何年ぶりかしらねえ、下着を買うなんて」
小さな卓袱台に案内されて腰を下ろす。黄色に変色している畳は、けばだっていて、飛び出たイグサが足に触れてチクチクする。出してくれたお茶は何度も使ったものか、色も香りもほぼなくなって、お白湯のような味だった。
うちの会社の下着はかなり高額だ。本当に買うのだろうか。
大久保様は小さなタンスから、下着を何枚か引っ張り出した。
「ずーっと着てるから、ヨレヨレで」
見せてくれたブラジャーも、コルセットも、ガードルも、あちこちから糸が飛び出して、生地もかなり薄くなっている。乱暴に扱えば簡単に破れてしまいそうだ。
思わず笑みが浮かんだ。こんなに使い込んでもらえるなんて、大久保様は本当にうちの商品を好きでいてくれたんだ。
「大切に使っていただいていたんですね。ありがとうございます」
「とても付け心地がいいですからねえ。今日は久しぶりに電話をもらえて良かったわ」
まさか、電話して喜んでもらえるなんて。入社してからずっと、一度も誰からも、電話したことを嫌がられなかったことはない。
高級下着じゃなくても今は機能の良い下着が安く手に入る。訪問販売なんて時代遅れで敬遠されている。だから予約なんか取れるわけない。そう思っていた。
だけど、大久保様はうちの会社の下着の価値を認めてくれる。私が電話したことも評価してくれた。
差し出したカタログのページを楽しそうにめくり、新商品を触ってみて生地が良くなったと褒めてくれる。
この人のためだったら、なんでもしてあげたい。私が持ってる商品知識を全部、披露したい。私との会話を楽しんでほしい。
私は知らないうちに、笑顔になっていた。