「はぁ……やっと終わった。もうこんな時間か……」
満月の夜。最寄り駅を降りた結花はそんな独り言を呟きながら、街頭に照らされた長夜の道を歩いていた。 時刻はまもなく、新しい日を迎えようとしている。「私……この仕事向いてないのかな……」
俯きながら歩く彼女の心身を、ならい風が突き刺し続ける。結花は着ていたコートにくるまり帰路を急いだ。しかし俯きながら歩いていたせいか、ふと顔をあげると知らない路地に入ってしまっていた。
(あれ……? いつもなら間違えないのにな……)
半年以上通い続けてる道を間違えた自分に少し疑問を感じながらも残業で疲れているせいだと自己完結した結花は、元の帰路に戻ろうと振り返り速足で歩いた。
歩きはじめるとすぐに目の前に小さな小屋が現れた。扉に掛けられたランプのかすかな光によって、看板に書かれた【一会食堂】と【OPEN】の文字が見える。その文字に不思議と目を奪われた結花は、帰路につく歩みを止めた。
(こんなところにレストランあったんだ。最近夕飯はコンビニばっかだし、ここで食べられるなら今日に外で食べちゃおうかな……)
そう思った結花は、少し重いドアを開き中へと入っていった。
チリンチリン--。扉につけられたベルが鳴る。
扉の向こうには懐かしさを感じさせる空間が広がっていた。壁にはアンティーク風の古時計がかけられ、シックなテーブルと椅子。レジの横に花瓶にカスミソウが生けられており、カウンターには綺麗に並べられたいろんなお酒の横で理科の実験器具のような装置でコーヒーが淹れられていた。
「いらっしゃいませ」
カウンター越しに男性が一人立っていた。年齢は初老を超えたくらいだと思うが顔立ちは整っており、ベストをまとったその姿は凛々しさに満ちていた。
「すみません一人なんですが……まだ時間って大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ。こちらのお席にお掛けください」
そう言われた結花は案内された席に座り、テーブルに立てられたメニューを開いた。
「ご来店ありがとうございます」
男性はそう言って結花の手元におしぼりとレモン水、そしてメニューを置いた。
「ありがとうございます」
そう言い結花はメニューを開いた。少し眺めた後
「じゃあこれで」
と結花はメニューの1つを指差し、メニューを閉じる。
「かしこまりました。ライスかパンがつきますが?」
「ライスで」
「かしこまりました」
そんな会話のやり取りをし、男性はカウンターで調理を始めた。
調理をはじめ数分。古時計の針が時を刻む音と、小鍋がわずかに煮立つ音しかない静かな空間が暫し続いていた。
「はぁ……」
結花が小さくついた溜め息も、この空間には大きな音として響いた。
「お疲れですか? お客様」
男性が結花に声をかけた。
「あっ……すみません」
「いえ、大丈夫ですよ。疲れた体も心も癒して頂くのが食堂……『レストラン』の約目ですから」
「そうなんですか……?」
「はい。レストランの語源は【restaurer】、フランス語の回復させるという意味ですから。まぁ本当はもうひとつあるんですけどね」
男性は少し笑いながらそう語った。
「へぇそうなんですね。なんですかもう一つって?」
「それはまた後で。大変お待たせ致しました。ごゆっくりお召し上がりください」
男性はそう言い、結花の前に料理を置いた。「ありがとうございます」
そう言って結花は、注文したクリームシチューを食べ始めた。
「美味しい!」
結花は一口目の衝撃で食べた瞬間そう言い放った。 一切のザラつきがないクリーミーなソース。柔らかく煮込まれた鶏肉はもちろん、人参やじゃが芋はバターの香りをまとい甘味を引き出されている。若干歯応えを残してあるブロッコリーとコーンも彩り、食感ともに素晴らしいアクセントとなっていた。
「凄い……! 家で作るのと全然違います!」
「ありがとうございます。ライスはお替りも出来ますので申し付けください」
「はい」
と答え結花は夢中で食べ進めた。人目がないのをいい事にご飯もお替りして10分程で一気に食べ終えた。
「ご馳走さまでした。美味しかったです」
「良かったです。こちらサービスです」
男性は結花にカフェオレを提供した。
「ありがとうございます。ちょっと最近仕事ばっかで……今日はちょっと楽しちゃおうとたまたま入ったんですけど、良かったですこのお店に入って」
結花はそう言い少し微笑んだ。
「それは良かったです。この料理も役目を果たせたようですね」
「……? どういうことですか?」
結花が首をかしげ尋ねると男性は答えた。
「この料理は元々学童給食の栄養補給の為に作られた日本料理なんです。それをあるメーカーが簡単に作れるようにしたことで家庭料理として定着し、栄養満点の料理として愛されてます。疲れた時にはたっぷり栄養を摂るのが一番ですので」
男性はそう言いながら少し微笑んだ。
「そうなんですね。確かにチャージ出来たって感じがします」
結花はまた少し微笑んだ。
「それは良かったです。……ところで仕事は大変なんですか?」
「えっ?」
「先程仕事ばっかりと話してましたので」
「あっ、いや……すみません。何ていうか、仕事は嫌いじゃないんですよ。でも……もうすぐ働いて一年経とうとしてるのに成長出来てる実感ないし、同期はどんどん仕事任されていって……後輩も入ってくるのに……私この仕事向いてないのかなって」
いつの間にか本心を漏らすように結花は静かに語っていった。
「そうですか……。これは私の持論なんですが、何事も一年は踏ん張るべきだと思うんです。一年間自分の全力で頑張って、それで無理だと思ったらもう辞めて新しい道に変えたほうが良い。一年保たない人は何やっても駄目だと思うけど、一年で見極められない人も何やっても駄目だと思うんです」
「へぇ……」
「もう少しだけ続けてみてはどうでしょう? それで駄目なら思い切って違うやりたいことやってみれば良いんじゃないでしょうか? 成人した後は人生自分のものなんですから(笑)」
「なるほど……ちょっと考えてみます」
「いえ、出過ぎた真似をしてしまいました」
「いえ、ありがとうございます。ちょっと気が楽になった気がします」
そう言った結花の顔は微笑んでいた。
「ご馳走さまでした」
会計を済ませた結花は少しスッキリとした表情をしていた。
「ありがとうございました」
「あっ、そういえばレストランのもう一つの語源聞いてなかった。次来たとき教えてくださいね(笑)」
「かしこまりました」
そんなやりとりをし、結花は店を出た。歩き始めてすぐに振り返ると、男性が頭を下げていた。結花は一礼して帰路についた。時刻は丁度新しい日を迎えたところだった。
店内に戻った男性は
「樫原結花様……。最後のご来店、誠にありがとうございました」
そう一言呟いた。
数ヶ月後ー。紅葉のもみじが並ぶ道を結花は歩いていた。
「今日の打ち合わせ上手く出来たかも……!」
そう呟いた結花の顔は爽やかな表情をしていた。あの後、彼女は仕事を辞めた。男性の言われたように一年間は仕事を続け、やりたかったブライダル業界へと転職を果たした。
(そうだ!久しぶりにあのお店行って報告しよ……)
そう思った彼女は店に向かった。しかし、あの路地は全然見つからない。
「すみません。この辺に一会ひとえ食堂ってお店知りませんか?」
結花は気になってしまい、近くの家の前を掃き掃除していた老婦に尋ねた。
「一会食堂? あたしゃこの辺りに住んで三十年になるけど、その店どころかごはん屋なんて一軒も出来てないよ。お嬢さん場所間違えてんじゃないのかい?」
「えっ……!?」
老婦の言葉に結花は絶句し、あれは何だったのかと自問自答を繰り返した。
その後結花は人生で一度も、この食堂に行くことは出来なかった。
黄昏の空には月が光る。今夜の月は満月だ。チリンチリン--。今夜も何処かでベルが鳴った。
満月の夜。最寄り駅を降りた結花はそんな独り言を呟きながら、街頭に照らされた長夜の道を歩いていた。 時刻はまもなく、新しい日を迎えようとしている。「私……この仕事向いてないのかな……」
俯きながら歩く彼女の心身を、ならい風が突き刺し続ける。結花は着ていたコートにくるまり帰路を急いだ。しかし俯きながら歩いていたせいか、ふと顔をあげると知らない路地に入ってしまっていた。
(あれ……? いつもなら間違えないのにな……)
半年以上通い続けてる道を間違えた自分に少し疑問を感じながらも残業で疲れているせいだと自己完結した結花は、元の帰路に戻ろうと振り返り速足で歩いた。
歩きはじめるとすぐに目の前に小さな小屋が現れた。扉に掛けられたランプのかすかな光によって、看板に書かれた【一会食堂】と【OPEN】の文字が見える。その文字に不思議と目を奪われた結花は、帰路につく歩みを止めた。
(こんなところにレストランあったんだ。最近夕飯はコンビニばっかだし、ここで食べられるなら今日に外で食べちゃおうかな……)
そう思った結花は、少し重いドアを開き中へと入っていった。
チリンチリン--。扉につけられたベルが鳴る。
扉の向こうには懐かしさを感じさせる空間が広がっていた。壁にはアンティーク風の古時計がかけられ、シックなテーブルと椅子。レジの横に花瓶にカスミソウが生けられており、カウンターには綺麗に並べられたいろんなお酒の横で理科の実験器具のような装置でコーヒーが淹れられていた。
「いらっしゃいませ」
カウンター越しに男性が一人立っていた。年齢は初老を超えたくらいだと思うが顔立ちは整っており、ベストをまとったその姿は凛々しさに満ちていた。
「すみません一人なんですが……まだ時間って大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ。こちらのお席にお掛けください」
そう言われた結花は案内された席に座り、テーブルに立てられたメニューを開いた。
「ご来店ありがとうございます」
男性はそう言って結花の手元におしぼりとレモン水、そしてメニューを置いた。
「ありがとうございます」
そう言い結花はメニューを開いた。少し眺めた後
「じゃあこれで」
と結花はメニューの1つを指差し、メニューを閉じる。
「かしこまりました。ライスかパンがつきますが?」
「ライスで」
「かしこまりました」
そんな会話のやり取りをし、男性はカウンターで調理を始めた。
調理をはじめ数分。古時計の針が時を刻む音と、小鍋がわずかに煮立つ音しかない静かな空間が暫し続いていた。
「はぁ……」
結花が小さくついた溜め息も、この空間には大きな音として響いた。
「お疲れですか? お客様」
男性が結花に声をかけた。
「あっ……すみません」
「いえ、大丈夫ですよ。疲れた体も心も癒して頂くのが食堂……『レストラン』の約目ですから」
「そうなんですか……?」
「はい。レストランの語源は【restaurer】、フランス語の回復させるという意味ですから。まぁ本当はもうひとつあるんですけどね」
男性は少し笑いながらそう語った。
「へぇそうなんですね。なんですかもう一つって?」
「それはまた後で。大変お待たせ致しました。ごゆっくりお召し上がりください」
男性はそう言い、結花の前に料理を置いた。「ありがとうございます」
そう言って結花は、注文したクリームシチューを食べ始めた。
「美味しい!」
結花は一口目の衝撃で食べた瞬間そう言い放った。 一切のザラつきがないクリーミーなソース。柔らかく煮込まれた鶏肉はもちろん、人参やじゃが芋はバターの香りをまとい甘味を引き出されている。若干歯応えを残してあるブロッコリーとコーンも彩り、食感ともに素晴らしいアクセントとなっていた。
「凄い……! 家で作るのと全然違います!」
「ありがとうございます。ライスはお替りも出来ますので申し付けください」
「はい」
と答え結花は夢中で食べ進めた。人目がないのをいい事にご飯もお替りして10分程で一気に食べ終えた。
「ご馳走さまでした。美味しかったです」
「良かったです。こちらサービスです」
男性は結花にカフェオレを提供した。
「ありがとうございます。ちょっと最近仕事ばっかで……今日はちょっと楽しちゃおうとたまたま入ったんですけど、良かったですこのお店に入って」
結花はそう言い少し微笑んだ。
「それは良かったです。この料理も役目を果たせたようですね」
「……? どういうことですか?」
結花が首をかしげ尋ねると男性は答えた。
「この料理は元々学童給食の栄養補給の為に作られた日本料理なんです。それをあるメーカーが簡単に作れるようにしたことで家庭料理として定着し、栄養満点の料理として愛されてます。疲れた時にはたっぷり栄養を摂るのが一番ですので」
男性はそう言いながら少し微笑んだ。
「そうなんですね。確かにチャージ出来たって感じがします」
結花はまた少し微笑んだ。
「それは良かったです。……ところで仕事は大変なんですか?」
「えっ?」
「先程仕事ばっかりと話してましたので」
「あっ、いや……すみません。何ていうか、仕事は嫌いじゃないんですよ。でも……もうすぐ働いて一年経とうとしてるのに成長出来てる実感ないし、同期はどんどん仕事任されていって……後輩も入ってくるのに……私この仕事向いてないのかなって」
いつの間にか本心を漏らすように結花は静かに語っていった。
「そうですか……。これは私の持論なんですが、何事も一年は踏ん張るべきだと思うんです。一年間自分の全力で頑張って、それで無理だと思ったらもう辞めて新しい道に変えたほうが良い。一年保たない人は何やっても駄目だと思うけど、一年で見極められない人も何やっても駄目だと思うんです」
「へぇ……」
「もう少しだけ続けてみてはどうでしょう? それで駄目なら思い切って違うやりたいことやってみれば良いんじゃないでしょうか? 成人した後は人生自分のものなんですから(笑)」
「なるほど……ちょっと考えてみます」
「いえ、出過ぎた真似をしてしまいました」
「いえ、ありがとうございます。ちょっと気が楽になった気がします」
そう言った結花の顔は微笑んでいた。
「ご馳走さまでした」
会計を済ませた結花は少しスッキリとした表情をしていた。
「ありがとうございました」
「あっ、そういえばレストランのもう一つの語源聞いてなかった。次来たとき教えてくださいね(笑)」
「かしこまりました」
そんなやりとりをし、結花は店を出た。歩き始めてすぐに振り返ると、男性が頭を下げていた。結花は一礼して帰路についた。時刻は丁度新しい日を迎えたところだった。
店内に戻った男性は
「樫原結花様……。最後のご来店、誠にありがとうございました」
そう一言呟いた。
数ヶ月後ー。紅葉のもみじが並ぶ道を結花は歩いていた。
「今日の打ち合わせ上手く出来たかも……!」
そう呟いた結花の顔は爽やかな表情をしていた。あの後、彼女は仕事を辞めた。男性の言われたように一年間は仕事を続け、やりたかったブライダル業界へと転職を果たした。
(そうだ!久しぶりにあのお店行って報告しよ……)
そう思った彼女は店に向かった。しかし、あの路地は全然見つからない。
「すみません。この辺に一会ひとえ食堂ってお店知りませんか?」
結花は気になってしまい、近くの家の前を掃き掃除していた老婦に尋ねた。
「一会食堂? あたしゃこの辺りに住んで三十年になるけど、その店どころかごはん屋なんて一軒も出来てないよ。お嬢さん場所間違えてんじゃないのかい?」
「えっ……!?」
老婦の言葉に結花は絶句し、あれは何だったのかと自問自答を繰り返した。
その後結花は人生で一度も、この食堂に行くことは出来なかった。
黄昏の空には月が光る。今夜の月は満月だ。チリンチリン--。今夜も何処かでベルが鳴った。