彼の居たオフィスの屋上。純白の布がビル風に靡く音を聞きながら、つい先程のやりとりを思い出し、笑みが込み上げる。
「まさか、あんな答えを出されるとは。……いやはや、東城さんはお強いですね」
『過去は変えない』
『……はい?』
『過去じゃなく、これから。僕自身が変わっていきたいんだ。それが、僕の願い』
『……』
『なりたい自分はあったはずなのに、最初から、どうせ僕なんか、って諦めてばかりでさ……結果、何も変わらないんだ。そんなの、当たり前なのにな』
『東城さん……』
『ずっと何か、切っ掛けが欲しかったんだと思う。……あんたは、その為に来てくれた天使なんじゃないのか?』
そう話す彼の瞳はいつになく力強く輝いていて、その口許には、いつぶりかの笑みが浮かんでいた。
これまでの彼の人生を思えば、それは生半可な覚悟ではない。自身の歩んできたもの全てを受け入れつつも、否定するようなものだ。
けれど、それでも。追い立てられるような日々の中、初めて明確なやる気と目標が得られたのなら、少しは未来も良い方向に変わるはずだと、願わずにはいられない。
「過去を変えずに、未来に向けて自分が変わる、なんて……本当に、同じ『私』とは思えません」
そう。私は、あの時同じようにやって来た天使の提案に『もしもこの世に生まれて来なければ、こんなに苦しまずに済んだのに』と、自らの人生の過去も未来も全てを否定した『東城奏』だった。
選んだ『もしも』の先で、生まれる前に死んだ無垢なる魂は天使となって、奇しくも『あの時』の私と同じ状態の、過去で未来で他人な自分を担当することになったのだ。
本来、もしもの数だけ分岐した並行世界があるのだというが、天使というこの世の理と解離した存在となったせいで、このような稀有な邂逅を果たしたのだろうか。まったく、自分が自分を担当するなんて奇跡的な確率だろう。
しかしながら、そんな奇跡の巡り合わせをもって幾度の些細な『もしも』を変えたとしても、彼の予想した通り、きっと『東城奏』の人生は大して代わり映えせず、ほとんどが何をやっても失敗しがちなだめだめの人生だった。私はそのことに失望し、全てを捨てたのだから。
「……私、あんな顔してたんですね」
私自身、彼に出会うまですっかり忘れていた、人間『東城奏』としての人生。
私が歩むはずだったその人生は『もしも』の果てに消滅したのだから、思い出したこともイレギュラーだろう。取り乱すことなく居られたのを褒めて欲しいくらいだ。
「変わる、か……。まあ、人から天使にジョブチェンジも、中々の変わりっぷりですけどね」
それでも、もしもあの時。彼と同じく自分が変わることを選んでいたなら。
私は彼と同じように、輝く瞳でその先の未来を望めただろうか。あんな風に、自らの人生に向き合えていたのだろうか。
「……なんて。今さら考えても、仕方ないことですね」
彼の居たオフィスの明かりは、とうに消えていた。もうじき長かった夜が明ける。陽が昇り始め徐々に白んで行く空は、やがて朝を連れてくる。
「それでは、『もしも』を取り戻せないこれからの人生……願わくは、あなたにとって最良の今を、積み重ねられますように」
世界はまばたきの間にも、戻らない時を刻み続ける。それは決して、巻き戻ることはない。
世界に光が満ちる中、私はローブの下に隠した天使の羽根を広げ、深呼吸する。新鮮な空気を吸い込めば、口元には知らぬ間に笑みが浮かんでいた。
そして天高く昇り続ける眩い光へと手を伸ばすように、屋上から一歩踏み出し、大きな翼で飛び立つのだった。