もし、あの時、こうしておけば。そんな風に振り返ることが、人生の内でどれだけあるだろう。

 日々に忙殺されて、今を生きるのに必死で、過去に想いを馳せる間もない人。
 常に高みを目指し続け、前だけを向いて過去なんか振り返らない人。
 そして僕のように、誰から見てもだめだめの人生で、未来を見る勇気もなく、後ろばかり見て後悔ばかりが尽きない人。

「はあ……」

 皆が帰った後、節電のため薄暗いオフィスの片隅で、僕は一人溜め息を吐く。人が居ない空間に、陰鬱としたそれはやけに響いた。

 仕事で細かいミスを連発し、それらを直すために泣く泣く残業。はたまた上司や同僚から押し付けられた仕事が終わらず仕方なく残業。最後に定時に上がれたのは、一体いつだったろう。

 いつも終電近くぎりぎりまで粘って、後片付けにもたついたり施錠を忘れて戻ったりで、電車を逃すこともしょっちゅうだった。
 時折早めに家に帰れても、デスクの引き出しに家の鍵を忘れていたりと、失敗続きでいっそ笑いが込み上げてくる。

 要領が悪いのは自覚済み。けれど持ち前の気質はそう簡単には変えられないもので、僕は物心ついた頃からずっと、人より何周も遅れて必死に追い付こうと頑張って来た。

 そんな辛い日々の中、癒しとなるペットでも居れば良かったのだが、帰宅が遅いと留守番させるのは可哀想だし、自分のことで手一杯な今の僕に、小さな命を預かる責任が果たせるとは思えない。
 僕の行く末を心配した親からの紹介で、人生で初めて出来た彼女からも、交際一ヶ月足らずでフラれてしまった。

「せめて、普通になれたらいいのに……それすら叶わないなんて。何なんだろうな、僕の人生……」

 昔憧れた、逆境をはね除ける少年漫画の主人公のようにはいかない。
 近頃流行っているらしい、異世界に飛ばされて活躍するような勇者にもなれない。

 そもそもそんな高望みなんてしていないのだ。せめて、人並みに立ち回れるようになりたい。
 もしももう少し欲張ってもいいのであれば、誰かに溜め息を吐かれたり陰口を叩かれる人生ではなく、たった一人だけでも、誰かを笑顔にしたい。

 けれど現実は残酷だ。二十五年、僕という人間として生きてきて、痛いくらい理解している。

 そんな絶望的な諦めの中、先を見るだけの余裕はなくて、今を乗り越えるのにただ必死で。それでも僕は、時折現実逃避のように考える。細やかなミスを、嫌な記憶を、もう同じ失敗を繰り返さないために想像するのだ。

『もし、あの時、こうしておけば』

「おや、あの時とはどの時のことです?」
「……うわっ!?」

 誰も居ないと思っていた空間で、不意に至近距離から声を掛けられ、僕は思わず椅子から転げ落ちた。
 そのまま強かに尻餅をついてしまい、思わず涙が滲む。しかしその様子を見た声の主は、至極楽し気に、まるで道化のように仰々しく笑い声を上げた。

「あっはっは、いいリアクションですねぇ、さすがです!」
「な……、なっ!?」
「ああ、申し遅れました。私この地区担当の『天使』です。本日はあなたの望みを叶えに参りました!」
「……、は?」

 床に尻餅をついたまま呆然と見上げると、マントのようなローブのような白い布を纏い、フードを被った胡散臭い格好をした男が一人。
 見るからに怪しい。けれどあろうことか、フードの下から覗いたその顔は、僕にそっくりだったのだ。

「……!?」

 天使どころか、これではドッペルゲンガーではないか。それとも、疲れきって知らぬ間に僕は鏡に映った自分と対話しているのだろうか。

 理解の追い付かない内に、天使と名乗る男はデスクに散らばったままの仕事の資料を一枚手に取る。

「おや。ちょうどいいところに」
「……? おい、何を……」
「さて、こちらをご覧ください」

 資料を揺らす、白い手袋に覆われた指先。何をするのかと怪訝に思い視線を向けると、男はにやりと笑みを浮かべる。
 そして、僕の目の前でその資料を躊躇うことなくびりびりに破り捨てた。

「は……? ちょ……っ!? 待っ、それ、大事なやつ……!」
「ねえ東城奏さん……今こう思いませんでしたか? 『もし私が資料を破り捨てる前に、それを奪い返せていたら』もしくは、『もしその資料を、出しておかずに引き出しにしまっていたら』と……」
「……何で僕の名前……。……いや、そりゃあ、あんたがこんなことするって知ってたら、そうしたさ……」

 しかしながら、不法侵入の自称天使のドッペルゲンガーに資料をだめにされました、なんて、予測不能にも程がある。
 最早混乱と疲労で、怒るだけの気力もない。僕は問い掛けに適当に答えつつ、床に散らばる紙屑になった元資料を集め、どうにか修復できないものかと頭を抱えた。

「では、その願いを叶えて差し上げましょう」
「は……?」
「もし、あの時。私が手に取る前に、東城さんが既にこの資料を引き出しにしまっていたら」

 男の声と同時に、カチッ、と、時計の針が動いたような音がした。このオフィスの時計は全て、仕事の邪魔にならないよう無音かデジタルのものだ。周囲を見渡しても、音の発生源がわからなかった。

 しかし不意に、今しがた集めた資料の破片が何処にもなくなっているのに気付き、困惑する。

「……え、あれ?」
「さあ、東城さん。此処はあなたの望んだ『もしも』の先……。資料はどの引き出しにしまおうとしましたか?」
「え……と、一番上に……」

 恐る恐る立ち上がり、普段よく使うデスクの鍵付きの引き出しを開ける。
 するとそこには、破かれる前の綺麗な状態の資料が存在していた。破けた痕跡どころか、折れ目一つないそれを、まじまじと見詰める。

「……どう、なってるんだ? 手品か?」
「いやですね、天使は手品なんか使いませんよ。あなたの望みを叶えたんです」
「……いや、望みと言うか、そもそもあんたがこれを破かなければ済んだ話で……」
「おっと、それもそうですね。いやはや、大変失礼致しました。ですが……これで私が天使だと、信じていただけましたか?」
「それは、まあ……多少。五ミリくらい」
「あっはっは、五ミリで結構! さっき見たありんこより大きいです!」
「そんなんでいいのかよ……」

 同じ顔と声をしているのに、どうにも性格やノリが違い過ぎる。その違和感と未だに現実離れした状況で、もしかしたら夢でも見ているのではないかと錯覚してしまう。が、未だに臀部に残る痛みが現実の証拠だ。

「それでは東城さん、資料のお詫びも兼ねて、あと一度だけ……あなたの『もしもの願い』を叶えて差し上げましょう」
「え……?」
「さあ、決めてください。たった一度だけ……あなたはどんな『あの時』を変えますか? そして、どんなあなたになりたいですか?」


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