がやがやとした放課後の廊下。
そこを行き交う生徒たち。いつもの廊下よりも随分と賑わっている。

それもそうだ。今日は部活の体験入部期間初日だから。6時間目に行われた新入生歓迎会でたくさんの部活動を新1年生に紹介したのだ。僕もその話を聞いていた1年生の1人だ。

どの部活の先輩たちも新入部員を入れようと必死だった。
シュートを男子、女子どちらが多く入れられるかの競争をしたバスケ部。ボールが飛んできそうで怖かった。

最近流行りの曲を演奏した吹奏楽部。顧問の先生がノリノリで踊っていて面白かった。

全国レベルの合唱部。音楽に携わったことなどほとんどない僕でも上手さがわかるくらいだった。

その他にも、バレー部、新体操部、卓球部、陸上部、手芸部、テニス部など色々な部活の紹介を聞いた。

僕が少し飽きてきた頃、美術部の発表があった。入る気はなかったが、真剣に聞き入ってしまった。

もう僕は絵と関わりを持たない。そう心に決めていたのに、僕の胸の中にある何かがうずうずと音をたて動いているようだった。

なんだか落ち着かないような気分のままでいるといつの間にか新入生歓迎会は閉会の言葉までたどり着いていた。

そして、今日の放課後からさっそく部活入部体験が始まったというわけだ。
でも、僕はその人混みをかき分け、急いで昇降口に向かった。昇降口に行くまでの間、合唱部の活動場所の第一音楽室。年々部員が減っていて廃部の危機だという手芸部が必死に部員集めをしている家庭科室などの前を小さくなって通った。通るたびに、


「見学だけでも!」
と、声をかけられた。
僕はますますこの場から早く抜け出したいという思いが強くなる一向だった。

はずなのに。廊下の1番端にある教室の前で立ち止まってしまった。美術室。
美術部が活動しているはずだが他の部のように部員集めをしている様子もない。それとなく教室の中を覗くと中にある大きな自画像らしき物と目があったような気がした。微笑む口がかすかに動いたような気がして背筋がゾワッとする。

そうだ。この感覚だ。僕は久しぶりに目を覚ましたかのような感覚に陥る。無意識に手が筆を持つ手に変わる。空間にカラフルな色をつけているかのように踊る手。

あの頃のように。
あの頃のように。

僕は久しぶりに周りからの視線というものを気にしていなかった。しばらくすると、後ろからの視線を感じはっと我に返る。やばい。本当に大変なことをしてしまった。僕にしか見えない空間の画用紙に描いていたわけだから周りから見たらただの変なことをしている変な人にしか見えないのは当然だろう。急に恥ずかしくなった僕は急いでその場を離れた。

その途端後ろから、
「ねぇーちょっと待ってよ!」
と大きな声が聞こえてきた。僕は目をくれずにすたすたと歩いた。

「待ってってばーねぇ!そこの黒髪で制服着てる君だよ!君!」
ふいに、自分の着ているものを見た。
いや、運動部以外はみんな制服のはずだ。僕ではない。僕にそんな余裕はない。そんなことを自分に言い聞かせながら少し早足で歩き出した。と、その時。制服の襟元を後ろを捕まれぐいっと後ろに引っ張られた。

あわてて
「わっ」
と声を上げた。
後ろを見ると艷やかな黒髪を肩のところできれいに切りそろえ、前髪の端を軽くピンで止めた少し小柄な先輩らしき人が立っていた。制服のリボンが緑色をしているのでおそらく3年生だろう。
この学校の女子は制服のリボン、男子は袖の線の色が学年ごとに違っているのでパッと見ただけで学年がわかる。

「なんで何回呼んでも気づかないのよ。」
と、その先輩は呆れたようにため息混じりに言った。

「いや、あなた、あ。先輩に呼ばれるようなことをした覚えはないですし。あとこんなところで呼ばれても誰を呼んでいるかわからないですし。」
と言ったが周りを見ると生徒は僕と先輩しかいないようだ。

「君しかいないじゃんっ!しかも冷たいなー。先輩だそ。せ、ん、ぱ、い!」

「あーはい。すみません。」
と適当に謝ると先輩は

「まあいいや。てか、さっき美術室覗きながら何やってたの?」
と痛いところをついてきた。

「あ、いや。その、、、」
と、曖昧に答えると、

「でもさ!美術部に興味があるのは本当でしょ?だったら何で入らないの?」
と、なぜか少しキレ気味に言われた。

「でも、、、部活入る気ないので。」
と本当のことを答えた。

「はぁ!?アオハルだよ!?ア、オ、ハ、ル!部活で青春しないでどうすんの?もう!とりあえずさ来て。ほら早く!」

今度は本気でキレられ、急に腕を引っ張られた。
「え?ちょ、ちょっと。え?」
今までにないくらい困惑してしまった。
でも、当たり前だ。
今まで恋愛経験0でボディタッチというものを経験したことがない僕にとってそれもドキッとしてしまうことだったから。まして、初対面の人に。

振り放そうとしたが腕をぶんぶん振り回す度に腕に力がどんどんと加わっていく一方だった。もう諦めた頃には美術室の前にいた。

そして、先輩は美術室のドアをどんどんと叩き、

「おーい!ひーかーり!開けて!ねぇ!開けて!」

と叫んだ。

すると、ドアがガラッと開いて、背が高く茶色っぽい色の髪を高い位置で結んだいかにも先輩らしい人が出てきた。

「ねお!さっきからすっごいうるさいんですけど?しかも部室の前で友達の家に遊びに来た感じで呼ばないでよ。恥ずかしい!こっちは部活中なの。集中して描きたいじゃん。なのにあんたが邪魔してきたおかげでもう!あんたみたいに部活やってない人のお遊びパラダイス放課後タイムに付き合ってる暇はないんです!」

その先輩は一気にまくし立てるようにしゃべった。
途中で僕が

「あ、部活やってないんだ、、、」

と、ボヤいたことは気づかれていないようだった。さっきから僕を連れ回している先輩はねお先輩というらしい。

「あのねぇ。ひかり?私は部活をやっていないわけではないんですよ?私は美術部応援部なの。」

ねお先輩は急に甘い口調になり、変な薬が回っている人のようにへへっと笑いながらしゃべった。
そして、僕の方を見るようにひかり先輩に示した。

「え?」

なんで僕なのだろうと思っていたがそれも気にせずねお先輩は続けた。

「こちら、先ほど美術室を覗きながら変な動きをしておりました。えと、、、」

「あの、、、ねお先輩。変な動きじゃないです、、、あと、名前はむうとです。夢に叶えるでむうとって読みます。」

と、説明した。

「あ、そうなのね。教えてくれてありがとう。でもねー私、ねおって名前じゃないです。」
くすくす笑いながら訂正された。実に不快だ。

「あのね私ひかりにはねおって呼ばれてるけどほんとは、ね、お、ん!心に音って書いてねおんです。へへっ」

と、嫌らしい笑い方をしながら教えてくれた。

「あ、私は羽崎ひかりです。光るに里って書くの。よろしくね。」

と、丁寧に教えてくれた。微笑む時に少し首を竦め、その時に髪がふわっと揺れるのが可愛い。そういえば女子をかわいいと思ったのは初めてかもしれない。

「でもさ?ここで話すのもなんだから教室入ろっか?」

光里先輩が言ってくれた。その優しい話し方につい、「はい」と言ってしまいそうになったが慌てて

「あ、この後塾があるので、すみません。」

と、嘘をついて軽くお辞儀をし足早にその場を立ち去った。このままだと無理やりでも美術部に入れられてしまいそうだったから。
後ろから

「1年生の始めから塾かー。大変だねぇ」

「ねおはもっと勉強した方がいいと思うけどね。」
などという先輩たちの声が聞こえ胸がチクッと痛んだ、、、ような気がした。

本当は今日は熟の日ではない。でも、僕が嘘をついてまで帰るのには理由があった。


※※※

僕の家は父、母、僕の3人家族。
父は総合病院の内科で医者として働いている。すごく几帳面で厳しい性格をしている。こんな感じで本当に医者として患者さんの話をしっかり聞くことが出来ているのだろうかと息子ながらに余計な心配をしてしまう。

母は父が働く総合病院の隣にある研究所でアレルギーについての研究をしている。母は父に比べて比較的温厚な性格をしていると思うが研究の話になると人が変わったように目力がとても強くなる。本当に人格が変わってしまったのではないかというくらいだ。

家でも父と母は研究や病院についての話ばかりをしている。たまに言い合いになるからいつ夫婦喧嘩が始まってしまうのか内心ビクビクしている。
たまに僕が

「最近デビューしたアーティストのCDが人気らしいよ」

などという話をすると、父は

「うるさい。今、この生活と芸能界は何の関係もないだろう。現実とかけ離れたような話ではなく、実際に今自分の目の前にあるものを必死に追いかければいいんだ。それだけだ。」

と、訳の分からないようなことを言う。

まぁ、僕は芸能界に入ることを目指しているわけでもないし、これから先もきっと目指すことはないだろうから「夢」という部分では、今、目の前にあるものではないのかもしれない。

でも、実際に芸能界で活動している人もいるわけなのだからかけ離れているわけではないと思う。でも、そんなことを言うともっとめんどくさいことになるということを知っているからあえて言わないことにした。

でも、今僕にはやりたいことがある。
絵を描くこと。

それは幼い頃からの唯一の楽しみでもあった。
でも、楽しみをなくし僕の夢を壊してきたのは父だった。だから僕は父のことが信用できず、心の距離を置いてしまっている。



僕が幼稚園の年長だった頃の話だ。

人見知りだった僕はいつも一人ぼっちでやることもなく先生が弾くピアノの横で爪をいじったり、周りを見渡したりしていた。

そんな時、先生がスっと僕の目の前に1枚の画用紙を差し出した。

はっと顔を上げると先生は、

「夢叶くん。おえかきしよっか。なーんでもいいから、描いてごらん。夢叶くんが描いたものはみーんな夢叶くんのお友達なんだよ。」

と、穏やかな笑みを浮かべながら言った。

ー僕が描いたものはみんな僕のお友達ー
それがとても嬉しくて僕は「うん」と頷き、画用紙にクレヨンで思いっきり大きなキリンを描いた。

外遊びをしていた他の子たちが教室に戻ってきて、僕の絵を見た時、

「すごーい!!上手だねー!」

「もっと描いてみてよ!!」

と、たくさんの子が褒めてくれた。
僕は照れているのと同時に恥ずかしさが込み上げてきて、顔がだんだん熱くなっていくのを感じた。

そんな僕の肩に先生がぽんっと左手を乗せた。
そして先生と目を合わせ、微笑みあった。

今、思い返せば先生の顔をしっかりと見たのは、あの時が最初で最後だったかもしれない。

僕が描いた絵は色々な子が

「ちょうだい!」

と持って行ってしまったから、自分の絵を持ち帰ったことは1度もなかった。

それから数日たって「なーちゃん」と呼んでいた同じクラスの女の子が可愛らしい犬のぬいぐるみを持って僕のもとへ駆け寄ってきた。
そして、

「ねぇ、むーくん?この子の描いて欲しいの。」

と、ぬいぐるみを差し出してきた。

僕はちょうど「なんの絵を描こうかな」と考えていたところだったので、

「いいよ!」

といい、ぬいぐるみを受け取った。

絵は10分くらいで完成した。
なーちゃんを呼び、絵を見てもらった。なーちゃんは、

「違う。こうじゃない。そらはこんなじゃない。」

と、僕が思っていた反応と違う反応をしてきた。
僕は「僕が描いてあげたのに。」と、少し嫌な気分になった。

でも、僕に絵を描いてと頼んでくれたなーちゃんの気持ちを壊したくなくて、

「ごめんね。もっかい描くから。」

と、言った。
なーちゃんは、

「ごめんね。むーくん。あのね、この子「そら」って言うの。私の家で飼ってたそらが最近死んじゃって。そらにすっごい似てたからこの子。だから、この子、、、そらだから、、、」

と、少し落ち込んだ様子で言った。
きっと過去を思い出しているのだろう。

そんななーちゃんの話を聞いた僕は、今まで以上に「描きたい!」と思った。

僕は帰りまで、隙を見て絵を仕上げた。

そして、帰ろうとしていたなーちゃんに渡した。
なーちゃんのあの表情を見てしまったからには、日をまたぐのが嫌だった。

「わー!そらだ!そらがいる!!!すっごい!すっごいかわいい!!!」

絵を受け取ったなーちゃんは本当に心から嬉しそうにそう言ってくれた。

そして、はっと急に真面目な顔になり、僕の肩を掴んで興奮した様子で、ぴょんぴょんと跳ねながら、

「むーくん!私いいこと思いついちゃった!むーくん画家さんになりなよ!」

と、言った。

「画家さん」知ってはいたけど夢のまた夢だと思い、考えたこともなかった。
でも、クラスで1番お友達が多いなーちゃんが言ってくれているのだ。間違えているはずがない。
僕は画家さんになれるのだ。

変な自信と勇気が体の底から満ち溢れてきて、

「なーちゃんがそう言ってくれるなら、僕、、、なるよ!画家さんに!」

と、思わず言っていた。
なーちゃんは、

「なれるよ!むーくんなら!頑張って!」

と、明るい笑顔で言ってくれた。

そうと決まればやるしかない。
僕は絵をまずは両親に見せようと思った。

その時はちょうど父の日が近かったので、画用紙に大きく、父の絵を描いて、覚えたてのひらがなで
「おとうさん、いつもありがとう」と書いた。
父の笑顔を思い浮かべながら。

出来上がった絵を見て、先生も、そしてなーちゃんも褒めてくれた。
出来上がった絵を見て、家に帰って父に渡すのがとても楽しみになった。

午後になって待ち遠しかった帰る時間になった。
本当は父の日に渡す予定でいたけど、僕自身が待ちきれなくて、帰ってすぐに渡すことにした。

幼稚園バスで帰り、家に着くと、母の出迎えも押しのけ、リビングに入った。そして、ソファの上にどっかりと腰を下ろしていた父に、

「おとーさん!これ!僕が描いたの!」

と、僕はにこにこしながら渡した。

「ん?」

と、言って絵を受け取った父は僕の期待とは裏腹な行動をとった。
絵を持った父の両手にはだんだんと力がこもっていった。そして、ついにその絵をビリッと破いた。

僕は目の前で繰り広げられる出来事に頭が追いつかなかった。

信じられなかったし、信じたくもなかった。

だから僕は、

「あ、、、おとーさん。間違えて破っちゃったんだね。もっかい描いてあげるから、、、」

と、自分に「嘘だ」と言い聞かせるように言った。
でも、僕の言葉を遮るように父は

「お前。こんなことをしていたんだな。最近通信教材のテストの成績が落ちていると思っていたら。やっぱり。もうだめだ。絵を描いてはいけない。わかったか。」

と、幼稚園児に言うようなことではないことを言った。そして、自室に入っていった。

床には僕が時間をかけて描いた、父の似顔絵が真っ二つになって落ちていた。
僕は混乱して、涙すら出なかった。

隣の家に回覧板を渡しに行っていた母がリビングに入ってきた。
母は、真っ二つになった絵と、リビングにぽつんと残され棒立ちの僕を見て状況を察したようだった。

そして、絵をテープでとめて、直しながら、

「夢叶。夢叶は大きくなったら、お父さんみたいなお医者さんになるの。だから、今はお父さんの言うことを聞いて、お勉強を頑張らないと。」

と、言った。

もう、僕には頼れる人がいなくなった。
未来もないし。希望もない。画家さんにも慣れないし。夢も持てない。

そう思うと、胸が締め付けられる思いだった。

そして、初めて貰ったお年玉で買った画用紙とクレヨンを捨てた。


父はその後、幼稚園にまで

「もう、息子に絵を描かせないでほしい。」

と、電話で頼んでいた。

あの出来事があってから僕は、美術の時間以外では絵に触れないようになった。

夢を持つことができない僕には、美術部に入る資格がないのだ。