誰もいなくなった放課後の教室はがらんとしていてとても静かだった。
上靴を擦る音、椅子を引く音、心臓が脈を打つ音、グラウンドから聞こえる声。全部が鮮明に届いて、ひとりなのにどうしてか少し緊張してしまう。
机の中に放り込んだスマホを無事回収し、それから何気なく窓の外に視線を映した。
まだ明るい空と混ざり合ったオレンジの光がとても眩しい。
夕焼けを収めておきたくてカメラを起動させると、そのタイミングでスマホが振動した。
表示された通知を確認すると、ユウナから《あやちゃんスマホあった?》といった内容のメッセージが送られてきていた。《あった。ごめんありがとう》と返信しながら、何がごめんとありがとうなんだっけと自分に疑問を抱く。
癖というのは怖いもので、慣れれば慣れるほど、言葉や仕草に含まれる意味合いが薄れていってしまう。
「ごめん」も「ありがとう」も大切な言葉なのに、私が使うと、どうしても粗末にしているような気がするのだ。
「あれ、庄司さん」
ふと、そんな声がかけられた。振り向くとそこには仁科くんが立っていて、私の口からは反射的に「仁科くん」と彼の名前がこぼれた。
空に向かって構えていたスマホを隠すように腕をおろす。空が綺麗で写真に収めたいと思う、なんて、私のキャラじゃない。
「忘れもの?」
「うん、スマホ忘れちゃって。仁科くんは?」
「俺はー……うん、まあ、そんな感じ?」
なんで疑問系? と思ったけれど、私がその理由を聞く前に仁科くんに「ひとり?」と質問される。彼は私の横を通り抜けると、窓を開け夕焼けの光を浴びるように窓の縁に身体を預けた。黄昏る、というのは、こういう瞬間をいうんだなとその時強く実感した記憶がある。
「いつもの二人は一緒じゃないんだね」
「いつもの……」
「永田さんと、木崎」
「ああ……モモコは部活。ユウナは一緒にいたけど先に帰ったの。一緒に戻らせるの申し訳ないじゃん」
「ふうん」
ふうんって、聞いてきたのは仁科くんのほうなのに。
興味のなさそうな返事にうまく反応できず、沈黙が訪れる。こういう時ばかり、話し上手なユウナがいてくれたら、なんて都合の良いことを考えてしまう私は、とてもずるい人間だと思う。
「ねえ」と、仁科くんが再び口を開く。開けた窓から抜ける夏のぬるい風が、仁科くんの黒髪を仄かに揺らしている。彼の横顔をちゃんと見るのは初めてで、その美しさに、心臓が脈を打った。
「庄司さんって学校楽しい?」
「は?」
「楽しい?」
クラスメイトと話している時より雑なトーンで二度聞かれたその質問の意図は汲み取れなかった。
庄司さんって学校楽しい?
それは、どういう視点でどういう理由で聞かれたものなのだろうか。
「普通に、楽しいよ」
疑問を抱いたけれど、問うに値しなかった。当たり障りなく聞かれた質問に答えると、仁科くんは「へえ」とこれまた興味なさそうに言うのだった。
私が過ごす学校生活は可もなく不可もない。日々に大きな不満もないし、これと言ってトクベツなことも起きない。
放課後は友達と遊んだり、寄り道をしたり、人並みに恋愛もして、そうやって生きている。
一般的に見て、平均的に考えて、私が生きている今は、「普通に楽しい」のだと思う。
ただ、それが少し物足りないっていうだけで。
「その〝普通〟って、なんなんだろ」
「はあ?」
「〝普通〟に楽しいとか〝普通〟においしいとか。誰にとっての普通が基準になってんのかなって、疑問に思ったことない?」
仁科くんと私は、友達でも恋人でもない、ただのクラスメイトだ。今までのどこかでまともに会話をした記憶はない。目を見て話すのだって、その時がはじめてに等しかった。
私が知っている仁科くんは、いつもまわりに人が集まっていて、誰にでも平等で、運動も勉強もできる、才能にも人脈にもめぐまれた人。
「ずっと気になってたけどさ、庄司さんってべつにすごい明るい人間じゃないよね」
じゃあ、私が今、話している仁科くんは誰なんだろう。
西日が仁科くんを照らしている。窓に寄りかかったまま振り向き、仁科くんは続けた。
「木崎と話してる時とか特に、目死んでるし。いつも“合わせてあげてる”んだなって思って見てたよ。庄司さんって、百円のイヤフォン買って一日で壊れて『百円だからしょうがないや』って妥協するタイプなんだなって」
「……なにそれ。意味わかんないし」
「値段と質は比例するから。百円のイヤフォン五十回買うのと五千円のイヤフォン一回買うのとじゃ全然意味合い違う。そんで庄司さんは、高いイヤフォンを買わない派」
「ねえ、さっきから何の話してるの」
「それってさあ、対価を払って壊れた時が怖いから?」
何も言えなかった。図星をつかれて、言い返す言葉がなかったのだ。
中学生ながらに、私は自分の限界を見据えていた。
高いイヤフォンを買うのは怖い。払ったお金が高ければ高いほど、壊れた時のショックが大きいから。その点、百円で買ったイヤフォンは何回壊したって感じる罪悪感はたかが知れている。
百円だから。安いから。音質は気になるけれど支障が出るほどじゃないから。
思入れは少ないほうがいいのだ、物にも───人にも。
地元だから。揉めたらめんどうだから。周りの歩幅に合わせたほうが何事も穏便に済むから。
誰にも言ったことのない本音が露呈してしまった気がして、私は恥ずかしくて目を逸らした。
「……なんなの、仁科くん」
「べつに、思ってたことを言っただけ。やっぱり、俺が想像してた通りの人だった」
「想像って」
「庄司さん、いつもつまんなそうな顔してる。もったいない生き方してるんだなあって思ってたよ────俺と同じだ、って」
こぼれた私の声はとてもかすかで、弱かった。睨むように視線を向けても、仁科くんにはきっと響いてはいない。
クラスの人気者の仁科くんとはかけ離れた二面性を知っている人は、いったいどのくらいいるのだろう。
「今日の空、綺麗だよね。収めておきたいって思うの、わかるよ」
シャッターを切る音がやけに印象的だった。
『庄司さん、いつもつまんなそうな顔してる』
同級生に、ましてや関わりのなかった男子に、こんなふうに言葉を吐かれたことはなく、仁科くんには期待するほどデリカシーがなかった。
つまんなそうな顔して生きてる。
それってどんな顔? 仁科くんの世界で、私はどんなふうに映ってるの。
聞きたかった、けれど、聞く勇気はなかった。
「勝手に私をわかった気にならないでよ」
「はは、ごめん。でも事実でしょ?」
「むかつく……」
むかついた。けれど同時に、本音で話した時間はあまりに煌めいていて───私は確かに惹かれていたのだ。