「え。千春、あんたなんでお父さんと一緒にラグビーなんか見てんの」
「べつに、なんとなくだけど」
「なにそれキモぉ……」
「お前も見るか? フランス戦、25対13! まだまだ勝負は続くぞ!」
「はあ? 見るわけないじゃん。テンション高いのキモいんだけど」
辛辣な姉と少々可哀想な父の会話を無視して、僕は再びテレビに視線を移す。
日曜日、夕方。先日、金曜ロードショーの時間に被っていたラグビーの録画試合を見ていた父に、僕は「ラグビーって何が面白いの?」と聞いてみた。姉が言う「容量の無駄遣い」が果たして本当にそうなのか、確かめてみたくなったのだ。
父は一瞬驚いたように瞳を大きくしたが、すぐに嬉しそうに微笑み、「ちゃんと見てればわかってくる」とだけ言った。
ラグビーの詳しいルールを僕はこれっぽっちも理解できていなかったが、実況や観客の歓声でどちらに得点が入ったとか、どれがファインプレーだったとか簡易的なことはわかってくるので、知識がなくても意外と楽しめるものだと知った。
今後も見るかどうかの二択を問われたら多分そこまで夢中になる事柄ではないなと思ったが、それでも今、父のことをわかろうとすることは、僕に必要である気がしたのだ。
『わかり合えなくてもいいから、わかろうとしてほしい』
シマさんに言われた言葉は、僕の思考をとかすように反芻していた。
試合を見終えた後、僕は自転車を走らせコンビニに向かっていた。
母が、カレーを作るのに肝心なルーを買い忘れたらしいのだ。既に飲酒してあてにならない父、夕飯準備で忙しい母、自由奔放で口が悪い姉とくれば、消去法で僕にお使いが回ってくることは、もはや避けられない。
夕暮れ時のわずかに冷たい風を浴びながら、僕は昨日の記憶を巡らせた。
『きみは、仁科翼くんの背景を考えたことはある?』
僕が知っている仁科が、0から100まで想像通りの人間じゃなかったとして。
たとえばシマさんのように、弱さを隠すのが上手で、普通のふりをして生きるのが癖になっていたとして。
完璧だと思っていた同級生が、本当は誰も知らないところであがいていたとしたら、彼が隠していた弱さってなんだろう。誰にも言えなかった本音はなんだろう。
仁科翼は、誰に何を、わかってもらいたかったのだろう。
───なんて考えたところで、所詮他人でしかない僕に答えが巡って来ることはないけれど。
「こんにちは。君、ちょっと話を伺いたいんだけどいいかな」
「はあ、どうも……」
「この辺に住んでる仁科翼って人について何か知ってることない? この写真の子なんだけど」
交差点で信号待ちをしていると、背後から警察官に声を掛けられた。変わらず聞き込み捜査が続いているようだ。目が合う前に逃げるのは得意だけど、背後からは太刀打ちできない。僕は小さくため息を吐き、差し出された写真に視線を移した。
テレビに映っていたものと同じだ。仁科の家族が提供したのだろうか。記憶に残る中学時代の仁科より確実に大人びた顔つきになっている。同じ男として羨ましく思ってしまうほど整った顔だ。高校でもさぞかしモテていたことだろう。明るくて爽やかで、写真からでもわかる友達がたくさんいそうな雰囲気。
やっぱり、彼と僕とは全然違う。
僕と仁科はただの同級生で、友達でもなんでもなくて、挨拶すらまともに交わしたことはなく、他人と呼んでも支障がない、その程度の関係性。
「どこかで生きててほしいですよね」
それでも、わかろうとしてみることにした。仁科翼という人間について、ニュースも人伝もあてにせず、自分の頭でちゃんと考えたことを信じてみようと思った。
背景も事実も考えないうちに他人の生死を判断するのは想像力に欠けると、誰かにわかってもらいたいと願うシマさんは言っていた。
「はい?」
「仁科くん、死んでないって信じてます僕は。全然、ほとんど他人ですけど、勝手に信じるくらいいいかなって」
きっとみんな、それぞれ違う棘を抱えて生きている。
「あの、すみません、僕カレールー買って帰らなきゃいけないので。もういいですか」
「え。あ、ちょっと君!」
警察官にそう告げて、僕は再び自転車を漕いで風に乗る。
ふと視線の先、交差点を曲がる若い男性が目に入った。
白い肌に、薄い身体。それにむかつくくらい綺麗な横顔が、どこかなつかしさを連れていた気がした。
「仁科?」
慌ててサドルから体を浮かし、立ち漕ぎでペダルを回した。
衝動的に追いかけてしまうほどのなつかしさを、僕は信じることにする。
その夜食べたカレーは、長い間固まっていた脳をたくさん動かした僕の身体によく沁みた。