その日はどんよりと曇って、みぞれでも降り出しそうな寒い日だった。

 刑務所の門をくぐって、竹林に面した狭い道路に出てきた重森安喜良は、そんな空を見上げることもなく歩きだした。刑務所の角を曲がってから少し離れた路上に、重森議員が寄こした迎えの車が止まっている。チャンスはそこまでの短い距離だ。

 安喜良はズボンのポケットに両手を入れてゆるゆると歩いていく。角までもう少し。綾子は、右手に握った包丁の上にコートをかけて隠し、安喜良の背中に向けて駆け出した。

 安喜良は角まで行くことなく、なぜか竹林に足を踏み入れた。好都合だ。綾子は足を速め、竹林に飛び込んだ。

 途端に、横合いから突き飛ばされて地面に転がった。

「なんだ、小娘か。あの鳥ガラみたいなババアかと思ったぜ」

 したたかにわき腹を打ち付けた綾子が身を起こそうとしていると、安喜良に頬を殴られ、倒れ伏した。

落としてしまった包丁を手さぐりに探していると、安喜良がのしかかり、綾子の衣服の上から胸をまさぐった。

「やめて!」

 綾子の叫びを安喜良は笑い飛ばした。

「人殺しが何を言ってんだ。警察に突き出されたくなければ黙ってろ」

「人殺しはあんたじゃない! 鬼! 人でなし!」

 安喜良はまた綾子の頬を殴り、スカートをまくり上げた。綾子は必死に身をよじるが、安喜良の体の下から出ることは出来ない。

「殺してやる! 殺してやるから!」

 安喜良が三度、殴ろうと上げた手を、誰かが捉えた。

 驚いた安喜良が振り返ると、道着姿の初老の男性が安喜良を綾子から引きはがし、竹やぶの中に突き飛ばした。

「てめえ、なにしやがる!」

 安喜良は威勢だけはよかったが、どこかぶつけて動けないようで、うずくまったままだ。綾子は起き上がり、包丁を掴み上げると、安喜良に体当たりするように突進した。



 ところが、肩をぐっと掴まれて、途端に足の力が抜け、すとんと座り込んでしまった。道着姿の男性が綾子の手から包丁を取り上げた。

「返して! この男を殺してやるんだから!」

 男性は無言で手拭いを取り出し、包丁をくるみ、懐にしまった。

 安喜良がよろけながらも立ち上り、男性を睨みつけた。

「おい、じじい。今すぐ消えろ。その女は置いていけ。そうしたらゆるしてやる」

 私を殺す気だ。

 綾子はぞっと鳥肌立った。安喜良に殺される。

 綾子は思わず立ち上がり、数歩、下がった。安喜良は頬を醜く歪めて笑うと綾子に向かって手を伸ばした。

 男性がすっと身を引いて、安喜良の前に道が出来た。鼻で笑った安喜良は体をかばいながら立ち上がり、一歩踏み出した。

 その時、男性が、手にしていた長杖を、とん、と軽く安喜良の腹に押し当てた。安喜良の体が、爆発にでもあったかのように吹き飛ぶ。背中を竹にしたたかぶつけた安喜良は、ぐったりと気を失った。

 男性は綾子の手を取ると、竹やぶを抜けて道に出た。

「離してください。包丁を返して。私はあの男を殺すんです」

「大事なものを、殺されたからか?」

 男性の声は低く落ち着いて、地面にしっかりと根を下ろした大樹のように安心感を与えるものだった。綾子はふいに、泣きたくなった。

「包丁があっても、あの男を殺すことは出来ないだろう。あなたは、そんなことが出来る女性ではない」

 綾子の手を引いたまま、男性は刑務所の方に歩いていく。



 刑務所の門の脇に立っている守衛に男性が名乗った。

「夢想権之助と申す」

 守衛は心得ていたようで、道を開けたが、綾子を共に連れて入ろうとしているのに気付き、権之助を呼び止めた。

「先生、女性は男子刑務所には入れませんよ」

「応接室をお借りしたい。あそこならば女性も居られる」

 権之助は勝手知ったる様子で刑務所の建物に入って行く。冷たいコンクリート造りの建物は異様に天井が高く、寒々としていた。綾子は殺人未遂の罪で捕まるのだろうと思っていたのだが、そのような様子はない。



 出迎えに来た紺色の制服の官吏も綾子を怪訝な様子で見ていたが、権之助が一言言うと、すぐに応接室に綾子を通した。

 官吏に怪我の手当てをしてもらっているうちに、権之助は姿を消していた。

「あの方は、刑務所の方なのですか?」

「いや、夢想先生は刑務官の指導に来られる杖術の師だよ」

「じょうじゅつ?」

「そう。もうすぐ稽古が始まるから、そこの窓から見ているがいい」

 言われた通り、窓から外を見ると、広々とした運動場に制服姿の刑務官が、ぞろぞろと整列しているところだった。

 行列が整ったところに権之助が現れ、軽く頷いた。刑務官たちが手にしていた白木の長杖を提げ、礼をとる。

「始め!」

 権之助の声で全員が、ぴたりと揃って動き出す。



 四尺ほどの白木の丸棒の長杖を地面に突き、肩のあたりの高さで杖を握る。

そこから一歩下がり杖を体に引き付け、両手で構えて振り上げ、一歩踏み込み振り下ろす。

また下がり、太刀を佩くように杖を体側に置き、上段から打ち込む。

杖の動きは、ある時は太刀のように、ある時は薙刀のように、ある時は槍のように、変幻自在であった。

風を切る音もしないほどに静かに流れるようで、一手がどこから始まり、どこで終わるのか定かでない。



全体での型を終えると、二人一組で向き合い、一方は長杖、他方は木刀に持ち替えて打ち合いを始めた。そうすると、先ほどの静かな動きが、太刀を止め、押さえ、突き放すまでの一連のものであるのだとわかった。

太刀は、どんな方向から切り結ぼうとしても、長杖に受け流されて間合いをつめる事すら出来なかった。

綾子は、美をも感じさせる技の数々に見入った。

権之助は口を開くこともなく見ていたが、すっ、と足を踏み出すと、手近で組んでいた刑務官の間に割って入り、太刀を受け取りもう一人の刑務官と向き合った。

それまでは太刀を構える相手を翻弄していた刑務官だったが、権之助が太刀をふるうと、それを止めることも出来ず、間合いをつめられ、杖の構えを解いた。権之助の動きは力押しするわけでもなく、ゆっくりとしていた。

綾子はすべてをしっかりと見ていたのにもかかわらず、それは一瞬の出来事で何が起きたかわからなかったと感じた。動きは見えたのに、その力の作用がどう働いたのか、想像することも出来なかったのだ。

ぽかんと口を開け、権之助が次々と指導していく姿を、ただ、目で追い続けた。



応接室に権之助が戻ってきたとき、綾子はまだ窓の方を向いたままだった。目の前で繰り広げられたことが、とても現実のものと思えない。いにしえの戦場にでも迷い込んだかのように思った。

「私を、弟子にしてください」

 綾子は権之助の正面に立つと、睨みつけるかのように強い視線を放った。

「私にも、教えてください。あの不思議な力の使い方を」

 権之助は静かに口を開く。

「なにも不思議なことなどない。動けるように動き、止まれるように止まるだけだ」

「私は、動かなければならないんです。動かなければ、あの男を止められません」

 綾子の強い視線を、権之助は正面から受け止める。

「杖術は人を殺めるためのものではない。傷つけず、人を戒める。そういうものだ」

 綾子はただ黙っていた。権之助が何と言っても、引くつもりはなかった。権之助は手にしていた杖を綾子に手渡した。

「構えよ」

 綾子は杖を自分の肩に立てかけ、おさげ髪を解くと、首の後ろでひとくくりに縛りなおした。それから、先程見ていた通り、刑務官の真似をして杖を提げ、礼をした。

下げた頭を揺らすことなく、そのまま動かなくなった綾子を見て、権之助は無言で応接室の戸を開けて外へ出た。

「どうした、来ぬのか」

 声をかけられ顔を上げると、権之助は小さく頷き、綾子を促して歩きだした。綾子は長杖を両手でぎゅっと握りしめて、権之助の後を追った。