雨が降っていた。
重森安喜良は父の言いつけに従い、古い歴史のある料亭へ父の供をしていた。重森議員の私腹に金を運んできてくれる土建屋や銀行家などとの顔合わせだった。にこやかに話を合わせてはいたが、安喜良は父の跡を継ぐ気など毛頭なかった。
政治家などといった生ぬるい生き方はごめんだった。あふれるほどの父の財産を引き継いだら、あとは遊んで暮らすつもりでいるのだった。
父と取り巻きたちが密談を始める隙を捉えて、安喜良は座敷を抜け出した。そのまま料亭を出て歓楽街の方へ歩いていく。
途中、工場の高いコンクリート壁と雑木林の間のひとけのない道を通る。泥道で水たまりがあちらこちらに出来ている。街燈もなく真っ暗で、遠くの街灯りがかろうじてものの輪郭をわからせるだけだ。
靴はとうに泥だらけだったが、せめて服には跳ねさせるまいとそろりそろりと歩いていると、後ろから駆けてくる小さな足音が聞えた。振り返ってみると傘をさした、どうやら小柄な女のようだった。じっと見ていると、女はぴたりと足を止めた。
「お嬢さん、どうしたんだい。一人かい? 夜道は危ない、送っていこうか」
安喜良は優し気な声音で話しかけてみたが、女は動かず、返事もない。つまらなくなって無視して歩きだすと、女がついてくる足音が聞こえる。しばらくはそのまま歩いていたが、しまいには鬱陶しくなって女の近くまで歩み寄った。
女の傘を奪い取り地面に投げ捨てた。女はじっと動かない。闇の中、目をすがめて女の顔を見ていると、ぼんやりと顔かたちを知ることが出来た。
「お前、あの時の女じゃねえか。なんだ、今日は包丁は無しか」
綾子は手ぶらで、丈の短いワンピースにはポケットもついていない。
「お前、武彦の家族か? それとも、あいつの女かよ。どっちでもいいが、あいつが死んだのは事故だぜ。それに俺は刑務所を出て来たんだ。罪は償った。もう終わりだ」
安喜良が何と言っても綾子は動かなかった。両手をだらりと伸ばして、体中のどこにも無駄な力が入っていないような立ち方。まるで人形のようにも思えて、安喜良は不気味に感じた。だが、そんなことで不安になるなどと、自分で認めることは出来なかった。安喜良は自分を強い男であると思っていたのだ。
「それとも何か、あの日の続きをしに来たのか」
安喜良は綾子に近づくと、ワンピースの裾から手を差し込んだ。素肌の太ももを、ねっとりとした触り方で撫でる。それでも綾子は動かなかった。
チッと舌打ちすると、安喜良は乱暴に綾子の腕を取り、雑木林に連れ込んだ。
木に遮られて雨が弱まる。安喜良は傘を畳むと木に立てかけ、綾子を突き飛ばした。
されるがままに下草に伏した綾子のワンピースを乱暴にまくりあげ、下着をむしり取った。綾子は初めて身じろぎして安喜良の体を押しのけるように腕を突っ張った。安喜良が綾子の頬を張る。二度、三度。綾子の頬が腫れあがった。
「武彦を、殺したの?」
低い声で綾子が尋ねた。安喜良はもう一発、綾子を殴った。
「殺してねえよ」
「殺したでしょう」
「うるせえな。事故だよ」
「武彦のことが怖かったんでしょう。あなたの言うことを聞かないから。武彦は強いもの」
安喜良が綾子を殴る。
「ほら、図星。人に知られないように殴ることでしか、人を思い通りに出来ないのよ。弱虫」
綾子の首に、安喜良の手がかかった。
「うるせえ。誰が弱虫だ。お前も殺してやるよ。武彦のところへ送ってやる」
「武彦を、殺したの?」
「ああ、殺したさ」
唐突に、安喜良の眉間を衝撃が襲った。額を両手で押さえて地面に転がる。
綾子は握りこぶしから突出させた中指のふしで安喜良のこめかみを突く。
「ぎゃあ!」
安喜良が叫んで地面を転がった。しばらく悶絶していたが、綾子が爪先でつつくと、目を開け、ゆっくりと起き上がった。
「てめえ、ゆるさねえぞ」
綾子は安喜良の傘を取り、両手で構えた。
「は。剣士ごっこか。あいにくだったな、俺は剣道四段だ」
余裕を見せつけようと両手を広げてみせている安喜良の顔に向かって、綾子は靴を蹴り飛ばした。安喜良はそれを叩き落としたが、怒りに我を忘れたようで、両手を突き出して突進してきた。
綾子は傘を杖のように操り、安喜良の腕を上段から薙ぎ払った。体勢を崩した安喜良が樹の幹に体を打ち付ける。
安喜良が身じろぎするのを綾子は冷静に見つめていた。
二度ほど咳き込み、安喜良はうずくまった姿勢から突然、綾子の足首を蹴りつけた。今度は綾子が地面に倒れ込んだ。
綾子の手から離れた傘を安喜良が拾い、石突を綾子に向けて突きだした。
「人を馬鹿にしやがって。地獄に落ちろ!」
大上段から綾子の脳天目がけて傘が振り下ろされる。咄嗟に横に転がり、直撃は避けたが、綾子の右肩を傘が掠った。鈍い痛みが走る。安喜良は数歩下がって、もう一度傘を構え、打ち込んできた。
綾子は立ち上がりざま、額の上で交差させた腕で迫りくる傘を待ち受けると、触れたと思った瞬間、傘の勢いに乗り遡るように、腕を滑らせ安喜良の懐に入り込んだ。そのまま体当たりすると、安喜良の手から傘が落ち、安喜良はよろけて樹に腕を突いた。
ゆっくりと傘を拾い、綾子は安喜良が立ち上るのを待った。荒い息を吐いていた安喜良が、闇の中、目をぎらつかせて綾子を睨んだ。綾子は安喜良に背を向けると、雑木林から出た。
雨は激しくなっていた。痛いほどに肌を打つ。雨だれが泥道を叩く音以外の、何の音も聞こえない。
綾子は自分の傘を拾いあげると、雑木林からよろばい出て来た安喜良に、安喜良の傘を投げ渡した。
安喜良は傘を両手で構えた。じりじりと間合いを詰めてくる。綾子は全身の力を抜き、左手だけで傘の重心を取り、両腕をだらりと体側に垂らした。
間合いが一間を切ったところで、安喜良が上段から袈裟懸けに切り込んできた。
綾子はあわてず切っ先を見つめた。
遅い。
一瞬が、どれほども長く感じられた。安喜良の繰り出した切っ先が止まっているかの如く感じられる。
左手の傘を腰まで持ち上げ、右手をかけて、左肩の周りをめぐらすようにして、安喜良の傘と合わせる。
安喜良が押し込んでくる勢いを活かして一歩引き、そのまま腕を脇に畳む。傘は滑りながら安喜良が押してくる力を下方に流した。
勢いをそがれて安喜良の傘が地面を叩き、泥水がはねた。
前傾になった安喜良の両腕の間から、がら空きになった胸と腹が見えている。綾子の視線が安喜良の水月に向かい引き絞られる。
気合一閃。
綾子の傘は吸い込まれるように安喜良の水月を捉えた。
ほんのわずかな間をおいて、綾子はそっと傘の先に力を込めた。安喜良の体が後ろへと吹き飛んだ。
泥水の中に横たわった安喜良は動くことも出来ない。
綾子は傘をおさめ、体側に持ち直すと、深く、礼をした。
綾子に引き立てられて警察署に出頭した重森安喜良は、婦女暴行未遂を認め、原田武彦の死亡も、事故ではなく殺意あっての殺害だったと告白した。
綾子の行動は正当防衛であったとして、安喜良に負わせた傷については不問となった。
カネが入院したまま動くことも出来ず、他に身内のいない綾子を、藤田記者が身受け人として迎えに来てくれた。ぼろぼろに怪我をしている綾子を見て、藤田記者は言葉を失くした。
藤田記者の張り込み取材が実を成し、重森議員の不正が暴かれた。これまでの息子の犯罪の隠蔽までもが明るみに出て、重森親子は共々に罪を償うこととなった。
「ああ、綾ちゃん。待ってたのよ。ねえ、武彦」
カネが優しく人形を撫でている。綾子は、カネの手を取り人形を離させた。
「綾ちゃん、武彦をどこに連れて行くの?」
「伯母さん、武ちゃんは、もういないんです」
カネが首をかしげて不思議そうな表情を浮かべる。
「何を言っているの、綾ちゃん。武彦なら、そこに」
指さしたカネの目の前で、綾子は人形の首を胴から引き剥がした。
「武彦……。武彦が……」
カネは人形の頭を右手で、胴を左手で、そっと包み込んで目を伏せた。ふるりと首を振り、ため息をこぼした。久々に生き返った人のような深いため息だった。
「ああ、そうね。これは武彦じゃない。武彦はいなくなったんだったね」
綾子はカネの肩をそっと撫でた。
「大丈夫、伯母さん。私がずっと一緒にいるから。武ちゃんの代わりに、ずっといるからね」
カネが眠るまで付き添い、病室を出た綾子に、ずっと待っていた藤田記者が尋ねた。
「重森安喜良のことを伝えなくてもいいのかい?」
「いいんです。伯母さんはもう、誰も恨んだり、ゆるしたりしなくていいんです。もう、辛いことは全部終わりにするんです。私が、伯母さんを守るから」
静かに語った綾子の瞳は、とても強く、けれど優しく、きらめいていた。