高嶺君と屋上で出会ってから、約1ヶ月が経った頃。
私は今日、いつも以上にたくさんのため息を零していた。
6時間目のホームルーム。体育着に着替え、私達は校庭に集合させられた。来週の体育祭に備えて練習するとか。
先生が朝にこの事を言ったから、6時間ずっと
緊張と不安、焦りと恐怖。
どうして、こんな危険なことをわざわざしなければならないのだろう。
縄が一定に地面に叩きつけられ、パンッ!という銃声のような音を響かせる。
本当に、嫌だ。
私はみんなからすると、なんでも出来る優等生。そう思われているだろう。
それでも唯一苦手なものが、運動。
良く先生は言う。“努力すれば”って。
でもそれは元々出来る人がさらに出来るようになるためのものでしょ。
私には到底こなせそうにないものばかり。
運動の中で1番嫌いなのが、縄を使う競技。
どうしてあんな1本の長い紐を飛んだりしなければいけないんだろう。あの行為になんの意味があるというのだ。足を引っ掛けて怪我をする事を考えないのか、先生は。
私も今日何回目かもわからないため息を零す。
「美桜ちゃん、大丈夫?」
私の耳が久美の心配している声を捉えた。
「うん、大丈夫」
みんなが見ていなくとも、誰にも弱音を吐いたりしちゃいけない。
だって私は――誰から見ても完璧な存在でいなければならないから。ひとつでも誰かに弱音を吐いてしまえば、それが人から人へ伝わって、完璧ではなくなってしまう。もしそうなったら、私は誰からも褒められない。
それでも競技が始まってしまえば出来ない事がばれてしまう。
恥をかくわけにはいかないのに。
私がどんなにやりたくないと願っても、時間が止まってくれるわけでも、大雨が降ってくれるというわけでもない。
神様は、助けてはくれない。
いろんな負の感情を感じていたからだろうか、視界が揺れている気がする。
足に力が、入らない。
体が、脳の言う事を聞いてくれない。まるで、誰かに体を乗っ取られている感覚だった。
もう立てない。そう思った刹那、誰かが私の体を支えてくれた。久美かな、誰だろう。
とにかく、後でお礼を伝えなきゃ。
その後、私は意識を失った。


重い瞼をゆっくりと開ける。
なにが起こったのか分からなくて、周りを見渡すと、そこには白い天井が広がっていた。
あれ、私、何を。
まだ意識が朦朧としている私に向けられたであろう、聞き馴染みのある声。
「あ、起きたか」
声のした方向へと頭と目線を移動させる。
「たか、みねくん」
どれくらい眠っていたか分からない私の声は掠れていて、彼の耳に届いたかすら危うかった。
「ん、水」
「…ありがと」
彼は読んでいた小説をぱたんと閉じて、私に水のペットボトルを渡してくれた。
眼鏡をして本を読んでいた姿は、まるでなにかの絵画のようだった。
絶対、口にはしないけれど。
「今何時?!」
私は勢い良く起き上がって、彼に尋ねた。
眠っていた私の脳が急に動いた事にびっくりして、頭痛を招いた。
ズキッとしたものの今はそれどころではない。ここ、保健室の明かりはいつも通りついているが、なんだが普段より暗く感じる。
もし門限である7時を過ぎてしまっていたら、お母さんに怒られてしまう。1度怒ったお母さんを元通りにするのは、長い付き合いの私でも難しい。
彼は自分の腕時計で確認し、
「6時31分だ」
と教えてくれた。
今から急いで走れば、余裕を持って帰ることができる。しかし、さっきまで寝ていた体に、もともと体力のない私が走れるだろうか。
「ごめん、高嶺君、私帰るね」
私は軽く身だしなみを整えて、その場を後にしようとした。
「無茶するな、お前貧血で倒れたんだぞ」
彼は眉をぐいっと中に寄せて、私の手首を掴んできた。もう少し休んでいけという言葉を続けて。
心配してくれるのはありがたい。今までの彼への偏見だったら、ありえない事だから。
時間がないのに。
彼の力は、やっぱり男の子なんだなと思うほど、強かった。
振り払いたいのに、私を心配してくれる彼にそんなこと出来ない。
「私、門限があって、だからその、帰らなきゃ」
「体調を無視してまで守らなきゃいけないことなのか?」
「…そうだよ、お母さんとの決まりだから」
「そんなのおかしい、そんなのはただの縛りだ。」
分かってる、だからその先を言わないで。
「その約束に愛なんてない、ただ自分の思い通りに操作しやすくするための」
図星を言われた事と焦りで、私の情緒はおかしくなっていた。
「そんなの私が1番分かってる!でもどうしろって言うの?お母さんに反抗すればいいの?普通の高校生はもっと遅くまで遊んでるよって?普通って何、私が普通じゃないみたいじゃん…」
私自身が、1番わかっている。
私がおかしいだなんて、分かってる。
お母さんが考えた門限や約束事に、私への愛がないって事くらい。
それでも、守らなきゃ褒めて貰えないんだもん。偉いって言ってもらえないから。
だから、こうするしか方法はないのに。
それなのに私は、彼がずっと手を握ってくれればいいのにって、願っている。
彼が私をずっとこのまま行かせなければいいのにって、思っちゃってる。
今まで私は、門限破ったことなんてない。
それが私にとってもお母さんにとっても、“当たり前”のことだから。
高嶺君、ごめんね、私が起きるまで待っててくれたのに、八つ当たりなんかして。
いつも自由な君が羨ましい。
なんでも出来ちゃう君が羨ましい。
私の持っていないものを持ってて、羨ましい。
怖いって言われてるくせに、ばか正直になんでも言っちゃうくせに、みんなから眼差しを与えられてるのが羨ましい。
だからこそ、私は君に嫉妬してしまう。
正反対の君だから、なんでも出来ちゃう君だから、私の気持ちなんて分かるわけない。
「高嶺君なんて、お母さんからもお父さんからも、たくさんの愛情をもらってるんでしょ…?なに不自由なく、なんでも手に入れてるくせに、知ったような口聞かないで!」
私の言葉を聞いた彼は、今まで見た事もない、悲しい顔をしていた。
「高嶺君のこと、ずっとずっと嫌いだった」
なんでも持ってるあなたに、同情なんてされたくない。
過去形を使ったのは、彼を傷つけないためじゃない。自分で自分を許せるようにしたかったから。
「…ごめん」
私は彼の手を振り払って、勢いよく保健室を後にした。


私はだるく重い体を一生懸命動かし、門限の5分前に家の前に着くことが出来た。
制服が汗を染み込ませ、気持ちが悪い。
呼吸が上手く出来なくて、苦しい。
それでも、お母さんを心配させてはいけない。
「た、ただいまあ」
「ちょっと美桜!遅くなる時は連絡してっていつも言っているでしょう?!」
私に靴を脱ぐ瞬間も与えず血相を変えたお母さんは、この前と同じように、まったくと言ってため息をついた。
門限、過ぎてないんだからいいじゃん。そう思っていても、私の喉はそんな言葉を通すわけがなくて、無理やり飲み込むしかなかった。
「ごめんなさい」
「大体ね、お母さんが忙しいの分かってるでしょ?なにか手伝おうとか考えたりしないわけ?まったく、どこで育て方を間違えたのかしら」
お母さんはもう一度、さきほどよりも大きなため息を出した。
「…ごめんなさい」
私は、その言葉しか話せない人形のように、ただただ謝るしか出来なかった。
反抗したら、もっと駄目な子と思われるかもしれないから。
もういいわ、部屋行きなさいと呆れたとでも言わんばかりな感情がこもった言葉を吐き捨てられた。
もう一度私はごめんなさいと言ったけれど、お母さんのスリッパを引きずる音と、ため息で掻き消された。
私はなるべく音を立てないように靴を脱いで、部屋へ繋がっている階段を登った。
バタンと扉を閉めた音が、静寂な私の部屋に響き渡った。
体の力が抜けてしまい、私は扉の傍で蹲った。
心の隅で安心を感じていた自分に驚く。
全身が鳥肌になっていて、さっきお母さんに言われた言葉が頭の中をぐるぐると回っている。
“どこで育て方を間違えたのかしら”。
どうして私は頑張っても結果に繋がらないのだろう。
どうしてこんなにも、お姉ちゃんと違うのだろう。容姿も、学問も、なにもかも。
私はお母さんにとって、“失敗作”なのかな。
自分でもなぜか納得してしまって、ふっと笑った。学校でも最近は上手くいかないし、家でもお母さんから褒められず、怒らせてばかり。
私の味方なんて、誰一人いないんだ。
目頭がじんと熱くなるのを感じた。
その時ふと、高嶺君の顔が浮かんできた。
どうしてここで彼の顔が浮かんでくるのだろう。最低な事を自分から言ってしまったのに。私は頭を左右に振って、彼の顔をかき消した。
きっともう、彼も私の事を嫌いになっただろう。ただ彼は私のことを心配していただけなのに、私が勝手に怒って、傷つけたから。
いつも、私の生活や物事を考える時にはお母さんがいる。
何をしたら褒めてくれるだろうかとか、自分を犠牲にしてでも、お母さんの顔色を窺って生きてきた。
友達と遊んだ時だって、他の子はまだ残ると決めた時に、私は門限があるからという理由でいつも途中退出している。
それが普通だと思っていたし、私の中で習慣になってしまっているから、これから変える事は出来ないだろう。
友達は門限を普通に破っている日はあるし、それを悪いことだとも思っていなさそうだった。
私はどうしてお母さんとの約束事を破る事が出来るのか理解出来なかった。
いくら高校生だからって、まだ大人じゃない。
大人の階段を登っている段階だと言うけれど、私は、私達は、何一つ変わっていないのだ。
だから心配をかけたらいけないし、不安にさせないようにするのが当たり前。
大切な家族なんだから。
でも私の家族とは少し違うと思う。
私の母は、世間の目にとても敏感だ。
子供の事を、私の事を、自分を見せる商品としか思っていないだろう。
私が良いことをすれば賞賛が、私が悪いことをすれば罰があるのと同じように。
いつからだろう、お母さんがこんな風になってしまったのは。
昔はちゃんと私自身を愛してくれていたと思う。絵を描いたら、自分の時間を割いて見てくれてたし、一緒に遊んでくれてた。
それでも、凄いね、上手だねって褒めてくれたのは、極わずかだった。
でもお姉ちゃんは違った。
私がテストで99点を取ったら、お姉ちゃんは100点を取る。
だから私は頑張った。お姉ちゃんを越して、お母さんが私を認めてくれるまで。
いくら頑張っても、私の望んた日は訪れなかった。お姉ちゃんより努力したと言い切れる、それでも勝てなかった。
それから私はずっとお母さんに囚われている。
自分で自分が嫌になる。
昔のことを考えていたせいで、私の心の中は暗く悲しい感情が、土砂崩れのように流れ、渦巻き、支配していた。
どうして私だけって、何度思っただろう。
私はただ、褒められたいだけなのに。
私の頬に、一筋の涙がつたった。
鼻を啜り、涙を拭いた。
私は立ち上がり、日記に書くために椅子に腰を下ろした。
練習が嫌で倒れたこと。
高嶺君が助けてくれたこと。
心配してくれた高嶺君に、八つ当たりしてしまったこと。
お母さんに怒られたこと。
手に力が入ってしまい、シャー芯が折れてしまった。こんなにも脆い芯は、私の心に似ている。それでも、誰かの役に立っていることだけは、違うかな。
私はベッドに倒れ込んで、そのまま寝落ちてしまった。


体育祭当日。
私の学校では、毎年近くの競技場を貸し切って行っている。
私が倒れた日、お母さんに怒られたけれど、次の日は何事もなかったかのように接してきたため、一安心だった。だからといって、またそんな日があるかもしれないと思うと怖い。だから私はあの日以上に顔色を窺って生活している。苦じゃないと言えば嘘になるけど、完璧な娘でいるためには、辛いことも乗り越えなければならないと自分に言い聞かせている。
競技場に到着すると、私のクラスの椅子がある場所へと移動し、久美と合流した。
「今日は、頑張ろうね」
久美は運動が得意だから、とても楽しみにしていた。失礼だが、見た目とは反対な得意分野に驚いた私だった。
高嶺君に合わせる顔がない。
あの日以降、彼は学校を休んでいた。
すぐに謝りたかったが、風邪をひいたらしい。
先生によると、彼は今日の体育祭に参加するんだとか。
ちゃんと決意したはずでも、やっぱり怖い。拒絶されるのではないかと。
席に座っていると、後ろがざわざわし始めた。振り返ると、案の定高嶺君が到着したようだ。
一瞬、目が合った、と思う。
それでも彼にすぐ逸らされてしまった。
やっぱり、怒ってるよね。
私は肩を落とし、元の体勢に戻した。
あと少しで始まる、地獄の時間。
みんなの楽しそうな空気とは裏腹に、私の空気はどんどん暗くなっていく。
みんなが楽しんでいるということは、その空気を私のせいで壊すわけにはいかない。
緊張で吐きそうだ。
「生徒の皆さんは競技広場に集まって下さい」
競技場に響く、始まりの声。
生徒達がどんどん広場へと集まっていく。
私も向かおうとした時に、ちょうど高嶺君とタイミングが合ってしまった。
やっぱり、謝るべきだよね。
私は、横を歩いている彼に話しかけた。
「あの、高嶺君」
「…なんだ」
久しぶりに聞いた、彼の声。
「私が倒れた日、酷い事言ってごめんなさい」
私は取り繕うなく、頭を下げて謝った。
幸いほとんどの生徒がもう先に行っていて、今の私達の現状に驚く生徒はいなかった。
「頭をあげてくれ」
彼は綺麗な茶髪の髪の毛は掻き乱した。
私は素直に頭を上げて彼の言葉に耳を傾けた。
「なんとも思ってないって言えば嘘になるけれど、謝るのは俺のほうだ、あの後、反省してた」
「ううん」
そんな私の震えた言葉は、彼の耳に届いていなかったらしい。
「家族の形はそれぞれなのに、俺の考えを押し付けていた」
私は小さく相槌を打つ。
「俺は鈴岡が羨ましいよ」
初めて屋上で出会った日と、同じ言葉を口にした。私は見上げ、彼の表情を眺める。保健室で私が言い放った後と同じ顔をしていた。
「俺の母親は…いや、なんでもない」
「…そっか」
続きを聞くのは、また今度でいい。
なんでも言葉にしてしまう彼が思いとどまった事だから、私には待つことしか出来ないんだと悟ったから。
だからいつか、続きを聞かせてね。
私達は広場に向かい、開会式が始まった。

私は結局、久美に大縄が苦手な事を告げた。彼女はコツを教えてくれて、それでも出来なかった私を後ろからタイミング良く体を押してくれたので、大縄を無事終わらせる事が出来た。
どんなイベントにもハプニングが起こるというのは本当らしい。
「おい!拓海が足挫いたらしい!」
1番後ろの方から、クラスのうるさい男子の声が聞こえてきた。
拓海というのは、私のクラスの男女混合リレーのアンカーを務める予定だった、足の速い男子のことだ。みんなが不安からざわつき始める。
誰が代役やんのとか、もう負け確じゃんとか、ネガティブな感情が、みんなの口から溢れている。
男子の代役は男子しかできない、私がどうにかできる状況じゃないのは、目に見えていた。
そんな時、みんなの耳が私が聞き馴染みのある声を捕らえた。
「俺が出る」
さっきよりもざわめきが増すのが伝わった。
「いやでも…」
ひとりの男子がそう言うと、
「じゃあお前が出るのか?」
と、高嶺君のいつもより少し低い声が、みんなの緊張感を高まらせた気がした。
「そういうわけじゃないけど」
「誰もいないでうじうじ悩んでいる暇があるなら、もっと動こうとしろよ。自分がやる勇気がないなら、口出しをするな。勇気ある人間こそ、初めて参加する権利がある」
異論はないな、と高嶺君がみんなに問う。
言い返せなくなった男子が、悔しそうにしながらも頷いた。
その様子を確認した高嶺君は、アナウンスのリレーの選手の呼び掛けに応じ、この場を後にした。
みんなの混乱の思いを置き去りにして。
あいつって走れるのかと呆気にとられている男子や、高嶺君が走ってるの見てみたいと目をハートにしている女子がいた。
私はこの場から飛び出して、去っていった彼の元へと走った。
「たか、みねくん…!」
人が少しいた通路で彼を見つけた私は、振り返った彼と目を合わせた。
サラサラの髪や、綺麗な瞳、筋の通った綺麗な鼻、スタイルの良い体、全てを兼ね備えた容姿は、私には眩しすぎる。
「ほんとに、大丈夫なの?」
「昔から、走るのは得意だからな」
運動も出来る事を、誰よりも先に知れたような気がして、なんだか嬉しい。
「そうなんだ、ありがとね」
「なにが?」
彼は不思議そうに眉間に皺を寄せた。
「私じゃ、あの状況変えられなかった」
みんなの不安をかき消せる言葉を、私は知らなかった。
「鈴岡は全部自分の仕事だと思っているのか?」
どういうことだろう。
「別に誰も、お前に変えてもらいたいなんて思っていない。鈴岡は色々背負いすぎなんだよ」
それは、私を必要としていないと言っているようだった。
「それって、私は必要ないってこと?」
今までの努力を、ばかにされたようだった。
「違う、もっと俺を頼れと言っているんだ」
そう言った彼は、サラサラの髪をくしゃっとかき乱した。
「もう、行かなきゃ」
彼はくいっと体を反対側に回し、すたすたと歩いていってしまった。
少しだけ、彼の耳が赤かった気がした。

「いちについて、よーい、ドン!」
アナウンスの声が、みんなの閑静とした空気を壊した。
その瞬間、各クラスが応援歌を歌い、リズムに乗って手やクリアメガホンを叩いている。
私のクラスの1番手は、野球部の長島君。
いつも明るくて、みんなの気合いを引っ張ってくれる、どんな事にも全力な男の子。
彼は惜しくも2位で2番手の女子、春夏ちゃんにバトンを繋いだ。
彼女はクラスの人気者でいつも笑っている、見ていて癒される女の子。
順位を変える事は出来なかったが、3位との間を広げ、3番手の男の子、高井君にバトンを渡す。
彼が半周の所に到着した頃、足が絡まって転けてしまった。徐々に他の選手が彼を抜かしていく。
体の細胞が、どくどくと脈打っている。
クラスの雰囲気が、明らかに下がったのが伝わってきたから。
高井君は急いで立ち上がり、5位に下がったまま、女子陸上部のエース、美波ちゃんにバトンを渡した。
彼女はぐんぐんとスピードを上げる、それと比例して、クラスのみんなの明るさを増していった。
美波ちゃんが3位へと順位を上げ、アンカーの高嶺君にバトンを繋いだ。
私はごくりと唾を飲み込む。緊張のあまり手に汗を握っていた。
高峯君なら、大丈夫。
みんなの空気が変わったのが、肌で感じた。
不安を抱いている人、期待の眼差しをむけている人、たくさんの感情が混じりあったこの空間は、全て高嶺君が支配している。
彼がバトンを受け取り、長くしなやかな足が前へ前へと進んでいく。
2位の人を抜かすと、私達のクラスだけではなく、他クラスまでもが喝采に包まれた。
彼の綺麗なフォームが、髪が、瞳が、みんなの視線の先にいる。
胸がチクリと痛い。どうしてなのかは分からなかった。
1位の人と高嶺君が横に並び、お互いが譲らずといった接戦が始まり、残り少しでゴールという場所で、私は無意識の内に叫んでいた。
「頑張れー!」
少しだけ、彼がこっちを見た気がした。
彼の綺麗な瞳が、私を捉えた。
次の瞬間、高嶺君はさらにスピードを上げ、追い抜いて、フィニッシュテープを舞らせた。
その刹那、一瞬だけ会場は無音に包まれ、誰かの叫びに連なるように、この場は歓声に包まれた。
私の後ろの女子達がかっこいいだのイケメンだの叫び、あいつ速すぎたろと豆鉄砲を食らった鳩のようになっている男子がいた。
私はこの胸の高鳴りを必死に抑え込む。
ああ、よかった。
凄い、凄いよ高嶺君。
目の前でテープを切り抜いた彼は、休憩所へと移動していた。
私は1番最初にお祝いしたくて、休憩所へと向かった。
向かっている途中、少しだけ開いた女子トイレの扉から、聞き慣れた声が聞こえてきた。
里音と百合。
私は久しぶりに話をしたくて、扉を開けようとした時だった。
「てかさ、さっきの聞いた?」
いつもより少しだけ低い里音の声が、静かな空間を暗闇に変える。
「何が?」
「美桜が叫んでたじゃん」
突然私の名前が出てきて、体をぴくりと強ばらせる。
叫んでいたというのは、高嶺君への応援のやつだろう。
「頑張れーだって、自分の事漫画のヒロインって思ってんのかな」
鼻で小馬鹿にするように笑った里音の声は、今まど聞いた事がなかった。
「里音が高嶺の事好きって知ってて、あれはないよね」
「それなー、まじ有り得ない、仲良くなったなら連絡先教えろって言ったのに」
里音はため息をついた後、続けて言った。
「美桜はただの駒でしかないのにね、私がしたくないことしてくれるし。宿題写させてくれるし。そういうとこは良かったんだけどなあ」
なに、それ。それってまるで。
「奴隷的な?」
彼女の最後の言葉を聞いた途端、力が入らなくなった。
胸が、体が、痛い。呼吸が出来ない。
いつも私に優しかった、あの時の彼女は全部、偽りだったというのか。
私をただの、奴隷としか思っていない彼女が、本当の里音なのだろうか。
嫌だ、嫌だ、嫌だ、信じたくない。
私はみんなから好かれて、頼られて、先生からも信頼があって、そんな完璧な生徒なのに。
奴隷になりたいんじゃない、私だってあんなことやりたくない。
それでも、褒められたいから、すごいねって言われたいから。
誰の1番になりたい、から。
私は結局、ひとりぼっち。
悲しむ気力すらなく、その場を後にしようとした時。
「鈴岡?」
休憩所から戻ってきた、みんなのヒーロー。
今の話、聞かれたかもしれない。失望されたかもしれない。どうしよう。
私は扉の奥から音が消えた空気が、とてつもなく怖かった。
「…美桜?」
俯いていた私の前の扉がゆっくり開き、私の名前を呼んだ。
「今の話、聞いてたの?」
声は明るいけれど、顔が笑っていなかった。
「いや、あの…え、と」
私は体育着のズボンの横をぎゅっと握る。
手汗で気持ち悪かった手のひらが、少しだけマシになった。
私が口を開く前に、里音は態度を一変して高嶺君の前に立った。
「高嶺君!リレー、凄かった!」
さっきの低い声は、どこにいったのだろうか。
「…ああ」
彼の表情は、初めて席が隣になったと分かった時と同じ顔をしていた。
まるで、相手を拒絶するような。
そういえば、私の時は普通に話してくれてたな。どうしてなのだろうか。
ふと、初めて屋上に行った時の会話を思い出した。私が、高嶺君のお母さんに似ていると言っていたから、私と話す時は普通なのかな。
高嶺君のお母さんに会ってみたいなと、私は思った。
「それでね、高嶺君、連絡先でも」
里音が頑張ってアプローチしている横で、百合は私をきつく睨んでいる。
「俺は自分が交換したいと思った相手としか、交換しない」
相変わらず表情は変えていないけれど、いつもの辛口発言はそのまんまだ。
「それに、俺は鈴岡に話があるんだ」
「は…美桜に?」
「ああ、早くどこか行ってくれないか」
可愛い里音の顔が、漫画ならりんごのように真っ赤になっていただろう。
彼女は百合を連れてズカズカと行ってしまった。
「鈴岡」
「…なに?」
「お前の応援、聞こえたぞ」
「あっそ…」
彼が素直な言葉を言う時、私は逆に素直になれなくなる。
最近の私はおかしい。彼の前ではいつも素直でいられたのに、今はきつく返す事しか出来ない。おめでとうって、言えればいいのに。
「誰かから応援されたのは、久しぶりだった」
彼は遠くを眺め、目をほんの少しだけ泳がせた。
「だから、ありがとう」
彼が、少しだけ笑った。
この日、私は初めて彼の笑顔を見た。
ああ、彼が好きだと思った。思ってしまった。
私の持ってないものを持っている彼。
完璧な容姿、なんでもこなせる才能、誰もが憧れるスタイル、綺麗な瞳、筋が通っている高い鼻、太陽当たればいつも以上に茶髪が輝き、風に吹かれればさらさらと揺れる髪。
そしてなにより、私だけが知っている絵を描く時の横顔と、照れる時に髪の毛をくしゃくしゃとかき乱す行動。
全てが愛おしいと、心の底から思った。
嫌いだったのに。苦手だったのに。
いつの間にか、こんなにも君を好きになっていた。