始業式が始まって、2週間程経った頃。
雨が降ることなく、無事に桜も一昨日満開を迎えたところ。
クラスに慣れてきた私は、隣の席の神田久美と仲良くなった。ボブの髪を内巻きにしていて、丸眼鏡をかけている。小柄で可愛らしい女の子だ。彼女とは読書好きという趣味が合い、意気投合したのだ。それに凄く明るいというわけではないから、一緒にいて落ち着くところが、彼女の良い所でもある。本人はもっと明るくなりたいと思っているようだが。
友達も出来、みんなからの信頼も持たれてきていて、去年と同じ立ち位置になるのは時間の問題だろう。
そして私はまたみんなのお願い役に周り、感謝される事でしか自分を保てない人間になる。
嫌なわけじゃないけれど、みんなから信頼されるのとは反比例に自分自身が嫌になるだけ。
それでも、楽しい日々を過ごしている。
――左隣の奴がいることを覗いては。
怖いという話は本当で、まるで自分の周りに騎士をおいているみたいだ。
しかも噂通り授業中は寝ていて、先生に当てられた時は授業を妨げている。私が1番嫌いなタイプの人間だ。自分が良ければ周りを考えないなんて、自己中にも程がある。みんながみんな、あなたみたいに教科書を見て理解できる人間じゃないのに。
私は小さなため息をこぼし、残りの板書を済ませた。
少し疲労感を感じた直後、6時間目の終わりの告げるチャイムが鳴り響いた。
今日の数学の授業が自分の苦手分野だったため、理解することが出来なかった。
今日は塾もないから図書館で勉強していこう。
そう決めた私に、クラスメイトとひとりが話しかけてきた。彼女は莉乃ちゃん。誰もが認める可愛い系の女の子だ。そんな彼女が、目を泳がせながら私の元へきた。
「あのね、美桜ちゃん。私今日掃除当番なんだけど、彼氏と放課後に遊ぶ約束しちゃってて、だからその…」
彼女はもじもじとしながら、私にそう言ってきた。
―ああ、変わってほしいってことね。
変わって欲しいなら変わってほしいと素直にお願いすればいいのに、どうしてこっちが察しなければならないのだろうか。
たしかにこのクラスで代わりにそういう雑用をやってくれそうとアンケートをとったら、私の名前が1番にあがるだろう。
だって私は、みんなにとっての完璧な存在である生徒だから。
それでも、あなたのデートと私の勉強、どっちが大切かなんて、誰に聞いても私の勉強の方が大事と答えるに決まってる。
溢れ出そうになったため息を胃に戻し、私は笑顔を作って答えた。
「もちろんいいよ、楽しんでおいで」
今の私の笑顔に違和感はないだろうか。引きつっていないか心配だったけど、彼女の明るい表情を見たら、大丈夫だったのだと安堵した。
私は無意識に、手をぐーにしていて、爪が手のひらにくい込んでしまっていた。痛いけれど、この苛立ちを落ち着かせるくらいの、丁度いい痛さだった。
教室を見渡すと、私の他に掃除当番の4人と、放課後の予定を立てているであろううるさい男女集団だけだった。うるさいから早く出ていってほしい。掃除当番のみんなも話してないでもっとテキパキと動いてよ、私の勉強時間を奪わないで。
私の心の中で、苛立ちや負の感情が渦巻き始めていた。これ以上積み重ねたら、心の器から溢れ出してしまいそう。私はまた手のひらに爪をくい込ませた。痛いけれど、深呼吸の仕方を教えてくれたみたいに、空気を吸う事が出来た。
ほとんどの床を私が掃除して、ようやく図書館に行くことが出来る。
私はリュックサックと教科書を持って、教室の扉を1歩踏み出した。
階段を登っていると、上の方から大きな荷物を持っている男子生徒が大変そうに登っている姿が視界に入った。
私は首を傾げて少し観察していると、運んでいたのは美術のキャンパス。左手には筆を入れているであろう茶色い箱を握っていた。
手伝うべきだろうか。
でも必要なかったら恥をかくだけ。
人間というのは1度迷いを感じてしまったら判断力が低下するらしい。その言葉通り、私が決断する前に彼は4階へと辿り着いてしまっていた。
心の中ですぐに声をかけなかった事を謝る。
そう思っていた直後、彼はさらに上へと登ろうとしていた。あの先は屋上へ繋がる扉しかないはずなのに。そして屋上は立ち入り禁止。
私は、彼が許可なしに屋上に侵入しようとしていると思い込み、彼の後ろを着いていった。
先輩だろうと、後輩だろうと、叱ってやる。
みんなにとっての、完璧な存在でいるために。
こういう時だけは正義感を見せるのが私だ。叱る勇気があるなら、助ける勇気だってあっていいはずなんだけどな。
少し開いている扉の隙間から、彼の様子を伺う。もともと屋上にあるベンチに腰を下ろし、キャンパスを立てて絵の具をパレットに出している。
私は今だと思い、ゆっくりと彼の背後に進む。
「屋上は立ち入り禁止ですよ!」
私は怒りを込めた言葉を彼に告げる。
彼はビクッと少しだけ驚いて、私の方へと体を回転させた。
…は?え、ちょっと待って。
どうして、あんたが。
「…鈴岡か、驚かすなよ」
彼は初日と同じ目を私に向ける。
「た、高嶺君…だったのね」
「だったらなんだよ」
彼は色素の薄い綺麗な髪を、片手でくしゃくしゃとかいた。
やばい、怖い。怒られる。
そう思っていた私は、言葉を発することも出来ず、体を硬直させていた。
「あ、あの…」
邪魔してごめんなさい、そう続けて言おうとした時、彼の言葉が私の言葉を遮った。
「許可は取ってある」
「…え?」
「だから、先生から許可は取ってあるから、大丈夫だ」
許可、取ってたんだ。自分の正義感で勝手に勘違いしていた事がとても恥ずかしくなり、穴があったら入りたい。
「そう、だったんですね、ごめんなさい」
「なんで謝るんだ?」
彼は本当に訳が分からないとでもいうように、眉をひそめている。
「あ、勝手に屋上に行ってるって思っちゃってたから…」
私には言い訳など考える余地もなく、彼は彼自身の思いをぶつけてきた。
「勘違いなんて誰にだってあるんだから、すぐそうやって謝るのはやめろ、想いのこもっていない謝罪は、された側を不快にさせるだけだ」
別にそこまで言わなくてもいいじゃない。
なんであんたにそんなこと言われなきゃいけないの。
「うん、ごめ…あ、わかった」
やっぱり苦手だ。まるで喧嘩が得意な不良少年と話している感覚に陥る。いつもの私じゃ居られなくなるこの感じが、気持ち悪い。
帰るタイミングを失ってしまった私は、空気のような存在になって、彼の行動を観察していた。
彼は絵を描く準備をしながら、ちらちらと私の方を見てくる。
なにかまた不快な思いをさせてしまっているのかな、と思った私に彼はこう言った。
「そんな後ろから見られても気が散る」
気が散るなんて、初めて言われた。
まだ特に仲良くもない人間に、気が散るなんて言える神経を疑いたい。
さっきまで怖がっていたのが嘘のように、私の中のなにかが爆発した。
「なにが気が散るよ、別に私がしたいようにしてるだけなんだけど」
私はあからさまな態度で怒りを顕にしたセリフを彼に告げた。
「教室でもそうやって、自分の思いを伝えればいいじゃないか」
「え?」
「どうしていつも、自分を犠牲にする」
なんでそんな事を言うんだろう。
彼には、私の行動が見透かされているみたいで怖い。
本当の私は、醜くて、最低で、なんの取り柄のない人間だという事がばれそうで、怖い。
その綺麗な瞳は、なんでも見えてしまいそうだ。私とは違う。
「お前はどこか、母さんに似ている」
え、母さん?
「なに、私って、そんな老けてる?」
「そういう意味じゃない、自分の事を考えないで他人を優先するところが、そっくりだ」
違うよ、私はそんな綺麗な人間じゃない。
自分の事しか考えてないよ、自分の存在価値を見出すために、他人が必要だっただけ。
「素敵なお母さんなんだね」
「ああ、俺の憧れの人だ」
そう言っている彼の目はとても輝いていた。「邪魔しないなら、ここにいてもいい」
私は彼の言葉が理解出来なくて、首を傾げた。「屋上はとても心地よい、鈴岡がいたければ好きなだけいるといい」
彼の口から、そんな言葉が出てくるなんて、去年の私では知り得なかっただろう。
「あ、ありがと」
一匹狼と聞いていたから、もっとガードが固いのかと思っていたが、案外彼から優しくしてくれて、私の頭は混乱状態になっていた。多分だけど、私と同じように噂だけで彼が怖い人物と思っている人が、怖い彼を作り出してしまっているのかもしれない。


屋上に来て1時間くらい経った頃。
彼も話しかけてこないし、私も話しかけない。
この状況ではそれが暗黙のルールのようなものになっている気がする。
いつも誰かといる時、話さなければならないという義務があると思う。一緒にいるんだから、会話をしなければ相手だってつまらないと感じてしまうから。
でもそれは、私にとってはとても疲労な事。
話題を考える事も、相手の顔色を窺う事も、相手の話を聞く事も、全てがめんどくさい。
ただ、私が顔に出さないだけなんだ。
でも彼が、邪魔をしないならと言ってくれたおかげで、話さなくていい今がとても心地よい。
夕日が、私達をオレンジ色に照らす。
昔どこかで、夕日はオレンジ色だけではなく、他の色も混ざっていると聞いた事があるけれど、私にはオレンジ色にしか見えない。いつか、その人が言っていた色が見れたらいいな。
私は視線を、夕焼けから彼の方へと移す。
さっきまでは真っ白だったキャンパスに、色が塗られていく。
桜…を描いてるようだ。
彼も桜が好きなのかななんて、聞けば分かることを心の中で考えた。聞く勇気はないけれど。
今日、ここで彼に話しかけてよかった。
嫌いだけれど、この静けさが私を私でいさせてくれる。ずっと前に失ってしまった本当の私を、引っ張りだそうとしてくれる。
家でもクラスでもいい子ちゃんな私にとっての、安らぎの場。
もっと、ここにいたい。
この風を、この空を、嫌いな彼を、もっと眺めていたい。
絵を描いている彼は、どんな彼よりも美しい。
みんながそれを知らないなんて、優越感に浸ってしまいそうになる。
誰かの1番になりたい私は、そんな卑怯な考えをしてしまう私なんだ。こんな私が、大嫌い。
「同じ桜なのに、こんなにも違うなんてね」
ボソッと、小さな声でそう呟いた。私は自嘲し、唇を噛み締める。
「鈴岡だって頑張ってるだろ」
「え?」
「俺からしたら、あの桜みたいに綺麗に輝いているように見えるけど」
今、綺麗に輝いて見える、って言ったよね。
スマホの真っ黒なオフ画面で、自分の顔を確認する。頬と耳が少し赤くなっていた。
ううん、きっと、夕日のせい。
「俺はお前が、羨ましいよ」
「私からしたら、高嶺君の方が羨ましいよ」
「俺が?どこを見てそう言えるんだ」
「それは…」
自分の考えが言えることと、それと、誰もが認める綺麗な容姿だよって、私も正直に言えればいいのに。
私は自分の口から彼を褒めるのが嫌だったのか、恥ずかしかったのか分からなかった。
「言いたいことは言っていいんだ、明日言えばいい、なんてのは言い訳なんだ。その“明日”なんて絶対存在するわけでもないんだから」
高校生の口から聞くような言葉じゃないと、私は思った。まるで昔、そのような経験をしたかのように話した彼。
悲しそうで、それでも悔しそうで。
高嶺君が過去に何があったのか知らないけれど、もしそうならなんて辛いのだろう。
何も言えなくなった私は、門限を言い訳に帰る事を告げた。
「…ごめん、帰るね」
「ああ、気をつけろよ」
明日もここに来ていいかな、でも迷惑かもしれない。
門限があるはずなのに突っ立っている私に気付いて、悟った彼が髪をかきながら言った。
「来たいなら、明日も来ればいい」
「来たい、です」
「邪魔はするなよ」
さっきと同様、彼の口からは同じ言葉。
邪魔だとか、気が散ると言われた時は少し腹がたったけど、なぜか今は何も感じない。
私はくすりと笑って、その場を後にした。
やっぱり、彼のことがわからない。
睨むくせに、優しくなるし。
邪魔するなって言ってきても、私の気持ちを悟って明日から来てもいいなんて言うし。
それでも、まだ青空が広がっていた頃にこの扉を通った時と彼の印象が少しだけ変わった気がする。不思議な事はまだたくさんあるけど。
問題が解けるのは、まだまだ先になりそうだ。