「俺はカフェラテにしようかな。君は? 何にする?」
「わ、私はカプチーノで」
「あ。それからこの桜のケーキも二つくださーい」

 必要以上の言葉を告げない遥に、男はにこにことオーダーを済ませた。

 悩み抜いた結果、遥は昼休憩の間に名刺の電話番号に連絡を入れた。
 待ち合わせ場所として提案したのはオフィスビルから少し離れた小さなカフェレストランだ。

 ここなら店員の人とも多少顔馴染みだし、万一危ない事態になれば大声で助けを求めることができる。

 店員の女性は、男連れの私にいつも以上の笑みを浮かべ厨房へ戻っていく。

 いやいや違います。
 この人は昨日会ったばかりの赤の他人で、そんな祝福に満ちた目で見られる間柄ではありません……!

「いやー。昨日は急にあんな頼みごとをしちゃって悪かったね」

 お冷やを喉に通したあと、男はさっそく話を切り出した。

 本当に悪いと思っているか分からない、飄々とした笑顔を浮かべている。
 それでも何となく警戒しきれないのは、男がまとう屈託のなさからだろうか。

「あの。最初に言っておきますが……妙なことされそうになったら私、すぐに叫びますから」
「へ?」
「あと私、搾取されるほどのお金も持っていません。よく騙されやすそうって言われますけれど、だからって何でも言いなりになるつもりもありません。結婚詐欺やらなんやらの類いでしたら、お、お、お断りですので……!」

 ふーっと長く息を吐いた遥は言い切ると、ボイスレコーダーをONにした状態のスマホをすっとテーブルに置く。

 臨戦態勢。
 そんな遥に目を瞬かせた男は、短い間を置いて小さく吹き出した。

「ははっ、なるほど。俺がもし悪さをしでかしたしたら、君はこの証拠を持って警察に向かうわけだね」
「その通りです。自衛は、自分にしかできませんから」
「なるほど。正しい判断だ」

 うんうん頷く男にほんのり毒気を抜かれてしまうが、警戒を緩めるつもりはない。

 実を言うと、遥にとってこういう怪しい誘いかけを受ける経験は一度や二度ではなかった。

 元来小柄で気弱な遥は、ごり押しが通用しやすいと判断されるらしい。
 その被害未遂経歴は、取引先の執拗な接待や街中でのナンパ、悪徳商法まがいの勧誘まで様々だ。

「でも君は、俺に連絡をしてくれた」

 口元に微笑を浮かべた男が、静かに続ける。

「それはつまり、俺の話は聞いてみようと思ってくれたってことかな」
「あなたの話が気になったわけではないんです。ただ」
「ただ?」
「昨日あなたが持っていたウエディングドレスが……少しだけ、気になって」

 いつもの妄想だとわかっていつつ、どうしても捨て置くことができなかった。

 遥が幼い頃から過敏に何かを感じ取ってしまうのは、何も人相手に限ったことではない。

 例えば物や写真、風景などからも、時折不思議な感覚が頭の中に流れ込んでくる。
 声のときもあれば映像のときも、果ては激しい感情のときもあった。

 そのことを説明すると周囲の人は一様に困惑し、不気味がられた。
 社会人になった今となっては、その奇妙な感覚についてわざわざ話すような『間違い』はしなくなった。

 一日おいてもなお後ろ髪を引かれたのは、昨日遥の身体に当てられた純白のドレスだ。

 あの瞬間、目が眩むほど眩しい光景が広がった。
 幸せと感謝に溢れた、春の日差しのように温かい世界のなかに包みこまれた心地がした。

 あのウエディングドレスが、はっきりと告げてきた気がしたのだ。

 助けてほしい──と。

「ありがとう。さて。何はなくとも、まずは自己紹介からだよね」
「あ、それなら昨日いただいた名刺にありましたよね。ええっと」

 慌てて財布から取り出した名刺を、改めて眺める。

「劇団拝ミ座、御護守、雅……さん?」
「そう。苗字で呼ばれるのは苦手だから、み・や・びって呼んでね」

 雅。
 名乗った男がにっこりと告げたのと同時に、オーダーされた飲み物とケーキが運ばれてきた。

 ひとまず食べようと促され、遥もカップに口をつける。
 ここのカプチーノはいつ飲んでも美味しい。
 緊張する心がほっと解れていくのを感じる。

「劇団とありますが、それはつまり、どこかのステージの上で演劇をする方々ということですか?」
「いや。俺達が演出するのはステージよりも実生活上のほうが圧倒的に多いかな。所属する人もごく少数で、今常駐しているのは俺ともう一人だけ。必要な人数はその時々に縁のある人たちにお願いしてるんだよ」

 実生活上で演出。
 いまいちイメージがつかなかった遥だが、そういう職業もあるのだろう。

「今回の仕事で、あのドレスを着てくれる女性の演者が必要でね。街中をあちこち探してたなかで君が現れたんだよ。この子しかいないって、ぴんときたんだ」
「はあ、なるほど」

 全てを信じるのは早計だろうが、おおよその事情は把握した。

 つまり昨日ドレスを抱えた彼がベンチに座り込んでいたのも、そのキャスト候補を見定めるためだったわけだ。

「ですが」
「うん?」
「このドレスを本当に着るべき人は、他にいらっしゃるんじゃありませんか……?」

 遥の言葉に、雅の目が僅かに見開かれた。

 昨日ドレスから流れ込んできたイメージの中には、このドレスを纏って幸せそうに笑う人物の姿が確かにあった。
 どうやらあの映像は、ただの遥の妄想ではなかったらしい。

「だとしたら、お話はお受けすることができません。それにそもそも私は他に仕事がありますし、演劇の経験もありませんから」
「いや。君以外いないな」
「はい?」

 真っ直ぐに向けられた眼差しが、遥を静かに捕らえる。
 色素の薄い瞳に自分が映り込み、思わず息を呑んだ。

「君の言ったとおり。実のところ、このドレスは本来別に着るべき者が居る。でも、それを実現するためには、やっぱり君に協力が必要なんだ」
「……? すみません。言っている意味がでよく分からないんですが」
「うん。つまりね」

 雅はテーブル横の紙ナプキンをすっと抜き取ると、自前のボールペンをカチッとノックした。
 そこにすらすらと描いていくのは、可愛らしい女の子の絵。横には「花嫁」と記された。

「この子が、本来ドレスを着るはずだった女性。でもこの女性はもうこのドレスを着ることができない」
「着ることができない、というのは」
「亡くなったんだ。交通事故でね」

 静かに告げられた事実に、はっと口を手で覆う。

「それは……なんと言えばいいのか……、お辛かったでしょうね」
「うん。そして先日、その花嫁さんから拝ミ座に依頼を受けたんだ。空に逝く前に、ウエディングドレスを着てヴァージンロードを歩きたい。どうか力を貸してくれないかってね」
「……」

 ごく自然に続いた雅の言葉に、遥は小さく首を傾げる。

 あれ。なんだろう。
 今、彼の話にとても大きな疑問点があったような。

「生前着るはずだったウエディングドレスは、火葬の折に一緒に棺に入れられたから、このドレスはそれを再現したものなんだ。そしてそれを着るには、花嫁に身体を貸してくれる協力者が必要なんだよ」

 話しながら雅は先ほどの花嫁の絵の隣にもう一人、女の子の絵を加えた。
「きみ」と記されたドレス姿のこちらが、どうやら遥らしい。

 そして最後に、先ほどの花嫁の絵からドレス姿の遥の絵に大きな矢印が引かれた。
 傍らに記されたのは「借りる」の文字だ。

 いやいや。「借りる」って。

「はあ……花嫁に、身体を、貸す……」
「うん。見たところ、君は彼女の体つきに限りなく近い。ドレスは問題なく着ることができるし、顔立ちも彼女にほんのり似ている。ウチのメイクさんに任せればばっちりだよ。スケジュールの調整さえしてくれれば、あとはこちらで式場の確保と招待状の手配をして」
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってください!」

 一人テキパキ話を進める雅に、流石に待ったをかける。

 亡くなった花嫁からの依頼。
 身体を貸す。
 ウエディングドレスを着て、ヴァージンロードを歩く──って。

「少し整理させてください。まずあなたたちは劇団、なんですよね? それで亡くなった女性が、私の身体を……って、それも脚本の一部? でしょうか……?」
「あーごめん。一気に説明しちゃったから混乱させちゃったかな」

 ボールペンのノック部分でこめかみをカリカリ掻いた雅が、困ったように眉を下げる。

「俺たちは『劇団拝ミ座』。今は亡き人の心残りの時間を演出することでこの世の未練を断ち、空へ送るんだ」
「心残りの時間を、演出……?」
「流れる時間は巻き戻せない。けれど、再現することで生前の気持ちに寄り添うことはできるでしょう」

 凪のように告げられた言葉が、りんと遥の胸を揺らした。

「俺の家系は代々死者の魂を憑依させることができる変わった家系なんだけど、俺自身は自分の身体に魂を下ろすことができない半端者でね。霊を助けるには、どうしても誰かの協力が必要なんだ」
「それはつまり、亡くなった方により似た容姿の人を?」
「それだけじゃない。君には素質がある。ドレスに触れただけでこんな不審者の話を聞こうとしてくれたのがその証拠だよ」
「えっ」

 驚き見返した遥に、雅がにこりと笑みを向ける。

 ウエディングドレスに遥が何かを感じ取ったことを、この人は気づいたのだろうか。

「協力者には、他者に寄り添う共感力と深い優しさが必要だ。君にはそれがある。これでも人を見る目には自信があるんだ」

 そこまで言うと、雅はすっとあるものを差し出した。

 戸惑いながら手のひらを出した遥は、現れたものに目を剥く。

「協力するか否かの答えが出たら、これを持って名刺の事務所に来てくれるかな。面と向かって断りにくいなら、郵便受けにこの指輪を投函してくれるだけでいいから」

 手のひらに置かれたそれは、シルバーに光るシンプルな指輪だった。

 何を勘違いしたのか、カウンター奥に控えていた女性店員のひゃあっと浮かれた声が遠くに聞こえた。