ベンチにゆったり腰掛けているのは、一人の男だった。
座っていても分かる、すらりと長い手足。
眠っているのかまぶたは閉ざされているが、白い肌に筋の通った目鼻立ちはそれだけで造形の美しさが見てとれる。
少し癖のある茶髪は無造作に見えなくもないが、それがかえって彼の持つ不思議な魅力をおのずと伝えていた。
しかし、それだけではここまで往来の人々の視線を攫うには弱い。
問題は彼が抱えている「あるもの」にあった。
両腕では収まらないほどの、眩しい純白の生地だ。
夕陽に照らされるその生地の美しさは、スーツ姿で先を急ぐ人々の目を思わず惹き付ける。
春風にふわりとなびく白のチュールには、ビジューが満天の星のように瞬いていた。
細かな刺繍が施された生地の至る箇所に、大小様々なレースがふんだんにあしらわれている。
ウエディングドレスだ。
私服姿でベンチに座った顔立ち端正な男が、ウエディングドレスを両腕に抱えて眠っている。
その妙な構図に気づいた人々により、好奇の視線が徐々に増えつつあった。
そして、駅近くのオフィスビルから家路につこうとしていた小清水遥もまた、その男の姿を前に駅へ向かう足を止めている。
ただし、周囲の女性がまぶたを閉ざした美丈夫に視線を送る中、遥が視線を注ぐのは純白のドレスだ。
男が佇むベンチまで数メートル。
そんな微妙な距離から、不意に声を聞いた気がした。
きっとこれは女性の声だ。
儚く、か細く、寂しい声。自分に助けを求める声。
ああ、いけない。
また妙な想像力を巡らせ始めていることに気づき、遥は首を横に振った。
止めていた歩みを再開し、ベンチ前を静かに通り過ぎる。
無意識に息を止め、不自然にならない程度に素早く。
視界からベンチが消える。ほっと息をついた直後、夜風に何かがはためく音がした。
「ねえ君」
「えっ」
思いのほか至近距離から掛けられた声に、びくりと肩が跳ねる。
背後を振り返った遥の身体に、ふわりと空気を含んだ何かが当てられた。
瞬間、眩い光に包まれた心地がして、咄嗟に声が出てこない。
「やっぱり思った通りだ。よく似合ってる」
夕焼けが夜を連れてきた空を背景に、見目麗しい男がこちらを見下ろしていた。
先ほどまでベンチで双眼を閉ざしていたイケメンさんだ。
柔らかそうな茶髪がふわりと夜風に揺れ、星屑を集めたように光瞬く瞳が、真っすぐこちらに向けられる。
「突然ごめんね。君に、どうしても頼みたいことがあるんだ」
「え……え?」
「俺のために、このドレスを着てほしいんだ。どうかな」
「……」
はい?
心の中で辛うじて呟いた遥に、目の前の男はにっこり笑みを浮かべる。
会社帰りのスーツ姿の人々が行き交う駅前広場にて。
遥の身体に押し当てられていたものは、先ほどまで男に抱えられていた純白のウエディングドレスだった。
「遥先輩! 昨日駅前広場で超絶イケメンにプロポーズされたって本当ですか!?」
嬉々とした後輩の問いに、オフィスにいる人の視線が一挙に集まった。
「プ、プ、プロポーズ……違うよ違う! あれは何かの間違いでちょっと声をかけられただけで、大それた意味はないよ……!」
「でもでも私ちゃーんと同期の子から聞きましたよ! 遥先輩に突然迫ったイケメンが、俺のためにウエディングドレスを着てほしいって迫ってきたんですよね!?」
瞳をらんらんと輝かせながら詰め寄ってくる後輩の背後で、何人かの女性社員が「きゃー!」と黄色い歓声を上げる。
由々しき事態だ。
しかも内容はほぼ間違っていない。
「とにかくプロポーズではないの! ただちょっとだけ、頼まれごとをされただけだから!」
「えええー、本当ですかあ?」
「本当の本当! はい! このお話はこれでお終いね……!」
明確に甘い噂の種を否定したあと、遥は足早に自分のデスクに向かった。
周囲からはまだちらほら真意を窺う視線もあるが、じきに消えていくだろう。
遥が勤める会社オフィスは、環状線駅から徒歩数分の高層ビルに構えられている。
植物をあちこちに植えられたレンガ敷きの駅前広場はなかなかセンスが居心地よく、商業施設やレストラン街も整備された一帯は昼夜問わず人の気配が途切れることはない。
三十階建てのビル内には他にも多くの企業が入っているが、その数は勤続四年目の遥も正確に把握できていなかった。
「小清水さん、昨日頼んでたパワポ資料だけど」
「はい。昨日完成版を共有フォルダに保存しておきました」
「小清水さんっ、この一覧にある企業に打ち合わせのアポを入れておいてくれる?」
「はい。承知しました」
徐々に慌ただしくなっていく社内の波に身を委ねるようにして、遥の脳内も仕事モードに切り替わっていく。
遥は最初、無害そうな穏やかな雰囲気がかわれ営業課に配属された。
ところが現在は社内で事務仕事をさばく総務課に所属している。
パソコンと向き合う仕事は楽だ。
相手の些細な表情や心の変化に気づかなくて済むから。
人嫌いというわけでは決してないが、遥は元来考え込みすぎる性格らしい。
例えば相手の表情の微妙な変化、会話中に生まれた些細な間、人がまとう何となくの空気感。
それら全てを必要以上に受信しては一人慌て、困惑し、悩んでしまう。
直属の上司に直談判した結果、幸運にも人材を求めていた総務課への移動が叶った。
胃痛に負けてお手洗いに籠もる回数も格段に減ったのだ。
「ありがとう小清水ちゃん。今度コーヒーおごるね。それじゃあ、社外コンペ行ってきます!」
「はい、いってらっしゃい」
笑顔でオフィスを後にする先輩を見送り、再びパソコンに向き直る。
そのときふと目についた鞄に手を伸ばし、財布にしまっていた名刺を手に取った。
昨日、ウエディングドレスを遥に当てた男が残していった名刺だ。
──劇団拝ミ座 御護守雅──
シンプルなデザインのそれには、住所と電話番号が小さく記載されていた。
もしも気が向いたら連絡して。いつでも待ってるから。
「……どうしたらいいのかなあ……」
ため息交じりに独りごち、遥は額にそっと手を添える。
脳内にリフレインするのは男の声ではなく、か細くも助けを求める女性の声だった。
「俺はカフェラテにしようかな。君は? 何にする?」
「わ、私はカプチーノで」
「あ。それからこの桜のケーキも二つくださーい」
必要以上の言葉を告げない遥に、男はにこにことオーダーを済ませた。
悩み抜いた結果、遥は昼休憩の間に名刺の電話番号に連絡を入れた。
待ち合わせ場所として提案したのはオフィスビルから少し離れた小さなカフェレストランだ。
ここなら店員の人とも多少顔馴染みだし、万一危ない事態になれば大声で助けを求めることができる。
店員の女性は、男連れの私にいつも以上の笑みを浮かべ厨房へ戻っていく。
いやいや違います。
この人は昨日会ったばかりの赤の他人で、そんな祝福に満ちた目で見られる間柄ではありません……!
「いやー。昨日は急にあんな頼みごとをしちゃって悪かったね」
お冷やを喉に通したあと、男はさっそく話を切り出した。
本当に悪いと思っているか分からない、飄々とした笑顔を浮かべている。
それでも何となく警戒しきれないのは、男がまとう屈託のなさからだろうか。
「あの。最初に言っておきますが……妙なことされそうになったら私、すぐに叫びますから」
「へ?」
「あと私、搾取されるほどのお金も持っていません。よく騙されやすそうって言われますけれど、だからって何でも言いなりになるつもりもありません。結婚詐欺やらなんやらの類いでしたら、お、お、お断りですので……!」
ふーっと長く息を吐いた遥は言い切ると、ボイスレコーダーをONにした状態のスマホをすっとテーブルに置く。
臨戦態勢。
そんな遥に目を瞬かせた男は、短い間を置いて小さく吹き出した。
「ははっ、なるほど。俺がもし悪さをしでかしたしたら、君はこの証拠を持って警察に向かうわけだね」
「その通りです。自衛は、自分にしかできませんから」
「なるほど。正しい判断だ」
うんうん頷く男にほんのり毒気を抜かれてしまうが、警戒を緩めるつもりはない。
実を言うと、遥にとってこういう怪しい誘いかけを受ける経験は一度や二度ではなかった。
元来小柄で気弱な遥は、ごり押しが通用しやすいと判断されるらしい。
その被害未遂経歴は、取引先の執拗な接待や街中でのナンパ、悪徳商法まがいの勧誘まで様々だ。
「でも君は、俺に連絡をしてくれた」
口元に微笑を浮かべた男が、静かに続ける。
「それはつまり、俺の話は聞いてみようと思ってくれたってことかな」
「あなたの話が気になったわけではないんです。ただ」
「ただ?」
「昨日あなたが持っていたウエディングドレスが……少しだけ、気になって」
いつもの妄想だとわかっていつつ、どうしても捨て置くことができなかった。
遥が幼い頃から過敏に何かを感じ取ってしまうのは、何も人相手に限ったことではない。
例えば物や写真、風景などからも、時折不思議な感覚が頭の中に流れ込んでくる。
声のときもあれば映像のときも、果ては激しい感情のときもあった。
そのことを説明すると周囲の人は一様に困惑し、不気味がられた。
社会人になった今となっては、その奇妙な感覚についてわざわざ話すような『間違い』はしなくなった。
一日おいてもなお後ろ髪を引かれたのは、昨日遥の身体に当てられた純白のドレスだ。
あの瞬間、目が眩むほど眩しい光景が広がった。
幸せと感謝に溢れた、春の日差しのように温かい世界のなかに包みこまれた心地がした。
あのウエディングドレスが、はっきりと告げてきた気がしたのだ。
助けてほしい──と。
「ありがとう。さて。何はなくとも、まずは自己紹介からだよね」
「あ、それなら昨日いただいた名刺にありましたよね。ええっと」
慌てて財布から取り出した名刺を、改めて眺める。
「劇団拝ミ座、御護守、雅……さん?」
「そう。苗字で呼ばれるのは苦手だから、み・や・びって呼んでね」
雅。
名乗った男がにっこりと告げたのと同時に、オーダーされた飲み物とケーキが運ばれてきた。
ひとまず食べようと促され、遥もカップに口をつける。
ここのカプチーノはいつ飲んでも美味しい。
緊張する心がほっと解れていくのを感じる。
「劇団とありますが、それはつまり、どこかのステージの上で演劇をする方々ということですか?」
「いや。俺達が演出するのはステージよりも実生活上のほうが圧倒的に多いかな。所属する人もごく少数で、今常駐しているのは俺ともう一人だけ。必要な人数はその時々に縁のある人たちにお願いしてるんだよ」
実生活上で演出。
いまいちイメージがつかなかった遥だが、そういう職業もあるのだろう。
「今回の仕事で、あのドレスを着てくれる女性の演者が必要でね。街中をあちこち探してたなかで君が現れたんだよ。この子しかいないって、ぴんときたんだ」
「はあ、なるほど」
全てを信じるのは早計だろうが、おおよその事情は把握した。
つまり昨日ドレスを抱えた彼がベンチに座り込んでいたのも、そのキャスト候補を見定めるためだったわけだ。
「ですが」
「うん?」
「このドレスを本当に着るべき人は、他にいらっしゃるんじゃありませんか……?」
遥の言葉に、雅の目が僅かに見開かれた。
昨日ドレスから流れ込んできたイメージの中には、このドレスを纏って幸せそうに笑う人物の姿が確かにあった。
どうやらあの映像は、ただの遥の妄想ではなかったらしい。
「だとしたら、お話はお受けすることができません。それにそもそも私は他に仕事がありますし、演劇の経験もありませんから」
「いや。君以外いないな」
「はい?」
真っ直ぐに向けられた眼差しが、遥を静かに捕らえる。
色素の薄い瞳に自分が映り込み、思わず息を呑んだ。
「君の言ったとおり。実のところ、このドレスは本来別に着るべき者が居る。でも、それを実現するためには、やっぱり君に協力が必要なんだ」
「……? すみません。言っている意味がでよく分からないんですが」
「うん。つまりね」
雅はテーブル横の紙ナプキンをすっと抜き取ると、自前のボールペンをカチッとノックした。
そこにすらすらと描いていくのは、可愛らしい女の子の絵。横には「花嫁」と記された。
「この子が、本来ドレスを着るはずだった女性。でもこの女性はもうこのドレスを着ることができない」
「着ることができない、というのは」
「亡くなったんだ。交通事故でね」
静かに告げられた事実に、はっと口を手で覆う。
「それは……なんと言えばいいのか……、お辛かったでしょうね」
「うん。そして先日、その花嫁さんから拝ミ座に依頼を受けたんだ。空に逝く前に、ウエディングドレスを着てヴァージンロードを歩きたい。どうか力を貸してくれないかってね」
「……」
ごく自然に続いた雅の言葉に、遥は小さく首を傾げる。
あれ。なんだろう。
今、彼の話にとても大きな疑問点があったような。
「生前着るはずだったウエディングドレスは、火葬の折に一緒に棺に入れられたから、このドレスはそれを再現したものなんだ。そしてそれを着るには、花嫁に身体を貸してくれる協力者が必要なんだよ」
話しながら雅は先ほどの花嫁の絵の隣にもう一人、女の子の絵を加えた。
「きみ」と記されたドレス姿のこちらが、どうやら遥らしい。
そして最後に、先ほどの花嫁の絵からドレス姿の遥の絵に大きな矢印が引かれた。
傍らに記されたのは「借りる」の文字だ。
いやいや。「借りる」って。
「はあ……花嫁に、身体を、貸す……」
「うん。見たところ、君は彼女の体つきに限りなく近い。ドレスは問題なく着ることができるし、顔立ちも彼女にほんのり似ている。ウチのメイクさんに任せればばっちりだよ。スケジュールの調整さえしてくれれば、あとはこちらで式場の確保と招待状の手配をして」
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってください!」
一人テキパキ話を進める雅に、流石に待ったをかける。
亡くなった花嫁からの依頼。
身体を貸す。
ウエディングドレスを着て、ヴァージンロードを歩く──って。
「少し整理させてください。まずあなたたちは劇団、なんですよね? それで亡くなった女性が、私の身体を……って、それも脚本の一部? でしょうか……?」
「あーごめん。一気に説明しちゃったから混乱させちゃったかな」
ボールペンのノック部分でこめかみをカリカリ掻いた雅が、困ったように眉を下げる。
「俺たちは『劇団拝ミ座』。今は亡き人の心残りの時間を演出することでこの世の未練を断ち、空へ送るんだ」
「心残りの時間を、演出……?」
「流れる時間は巻き戻せない。けれど、再現することで生前の気持ちに寄り添うことはできるでしょう」
凪のように告げられた言葉が、りんと遥の胸を揺らした。
「俺の家系は代々死者の魂を憑依させることができる変わった家系なんだけど、俺自身は自分の身体に魂を下ろすことができない半端者でね。霊を助けるには、どうしても誰かの協力が必要なんだ」
「それはつまり、亡くなった方により似た容姿の人を?」
「それだけじゃない。君には素質がある。ドレスに触れただけでこんな不審者の話を聞こうとしてくれたのがその証拠だよ」
「えっ」
驚き見返した遥に、雅がにこりと笑みを向ける。
ウエディングドレスに遥が何かを感じ取ったことを、この人は気づいたのだろうか。
「協力者には、他者に寄り添う共感力と深い優しさが必要だ。君にはそれがある。これでも人を見る目には自信があるんだ」
そこまで言うと、雅はすっとあるものを差し出した。
戸惑いながら手のひらを出した遥は、現れたものに目を剥く。
「協力するか否かの答えが出たら、これを持って名刺の事務所に来てくれるかな。面と向かって断りにくいなら、郵便受けにこの指輪を投函してくれるだけでいいから」
手のひらに置かれたそれは、シルバーに光るシンプルな指輪だった。
何を勘違いしたのか、カウンター奥に控えていた女性店員のひゃあっと浮かれた声が遠くに聞こえた。
◇◇◇
桜の花びらが舞っていた。
膨らむような柔い風を受ける度に、視界に薄桃色が巻き上がる。
信号が青になるのを待って、その人の足は軽やかに横断歩道を渡っていく。
薄く白んだ春の空。
人生の晴れの日に相応しい明るい空。明日もこんないい天気に恵まれればいい。
横断歩道の中央には川が流れ、水面に反射する陽の光がきらきらと眩しかった。
胸から溢れそうな幸福を抱えながら、横断歩道を渡り終えようとする。
瞬間、黒い影がもの凄いスピードでぶつかって──目の前は真っ暗になった。
◇◇◇
「ここが……」
冗談のような美丈夫から、これまた冗談のような頼みごとを受けた翌日。
休日の朝早くから身支度を済ませた遥は、ある建物の前に佇んでいた。
駅前を通り抜け閑静な住宅街の通りを曲がった細道。
徐々に枝分かれしていく道の先に、そこはあった。
灰色の石垣に囲まれた建物は、長い歴史を感じさせる木造平屋建ての建物だ。
濃紺の瓦屋根と濃茶色の木目に包まれ、どことなく重厚な空気が漂っている。
入り口は細やかな彫り細工が施された引き戸で、郵便受けの上にはL字フックに掛けられた木彫りの看板が吊されていた。
──劇団拝ミ座──
間違いない。
昨日出逢った、あの人のいる場所だ。
「ふう……、よし」
ぐっと両手に拳を握り、胸の中の勇気をかき集める。
どきどきと逸る心臓の音を聞きながら、遥はインターホンに指を添えた。
いやでも、と唐突に遥の胸に不安がよぎる。
本当にこのまま彼に再度接触していいのだろうか。
一度決めたこととはいえ、話を聞いたのは昨日の今日だ。
もう一日くらいゆっくり考え結論を出したほうがいいのかもしれない。
何より、特に秀でたところのない平々凡々な自分が、突然誰かに必要とされるなんて、そんなうまい話があるものなのだろうか。
悪い思考が頭の中を旋回しはじめ、怖じ気づいたようにくるりと後ろを振り返る。
しかしそこには、黒いスーツに派手な模様のシャツを着こんだ男が立ち塞がっていた。
上背があり、眩しい日差しを容易く遮断するほどだ。
「おいお前」
地を這うような低い声に、ひゅっと遥の喉が鳴った。
「何の用件だ。そこで何をしてやがる」
逆光になっているはずの男の顔だが、鋭い眼光だけははっきりと目にできた。
真っ赤なシャツの胸元はいくつかボタンが外され、大胆に開かれている。
黒い短髪は後方へ流され、耳には金色のピアスが列を成して揺れていた。
どう考えてもカタギの人ではない。
どうしよう。
どうしようどうしようどうしよう。
何でもありません、お邪魔してすみません、どうか無事に帰してくださいと言いたくても、恐ろしすぎて声が出てこない。
怪訝そうに顔をしかめた男が、遥に一歩近づく。
恐怖で小さく震えていると、男の背後から明るい声が届いた。
「おーい、和泉ぃ」
「あん?」
男の気が後ろに反れる。
今だ。逃げよう。
そう思った遥の視界に現れたのは、同じく黒スーツに派手な虎柄のシャツを着込んだ別の男だ。
その顔に遥は覚えがあった。
今のようにオールバックではなかったが、昨日にカフェレストランで話をしたあの人だ。
「どうしたの、そんなところで立ち止まっちゃってーって……あれ、君、もう来てくれたの?」
「……っ、あ」
あなたも、ヤクザさんですか……!!
昨夜とはまるで異なる格好の彼との再会に、遥は絶望で目の前が真っ暗になった。
◇◇◇
──わあ、素敵なウエディングドレスですね!
──あらあら、本当に?
──はい! スカート部分のふんわりした形がとっても素敵です。いいなあ、私もこんなウエディングドレスを着てみたいなあ。
──ふふ。実はこのドレスねえ、私が洋裁高専の卒業制作で作ったものなのよ。
──ええっ、本当ですか!? すごい!
アルバムを開き和気藹々と賑わう茶の間に、新郎が呆れたようにお茶を運んでくる。
──そんなに気に入ったならさ、母さんに作ってもらえばいいんじゃないの? ウエディングドレス。
◇◇◇
目尻に溜まった涙の熱さに気づき、意識がゆっくり引き上げられる。
まぶたを開くのと同時に、遥は今見た夢の光景を反芻していた。
素敵な団らんの時間だった。
温かい日差しに包まれたリビングに、若い男女と母さんと呼ばれた女性。
あの光景もまた、指輪の持ち主の大切なひと時だったのだろうか。
「おい。起きたぞ」
「……え」
男の低い声が届き、心臓が跳ねる。
どうやら敷き布団に寝かされていたことに気づき、遥は慌てて声の方向へ顔を向けた。
「ああ、よかったあ。目、覚めた?」
今居る和室のすぐ向こうには台所らしい空間が見え、ペットボトルを手にした男二人の姿があった。
双方とも髪は水気を含み、肩にタオルを掛けているものの僅かに雫が落ちている。
こちらを振り返る姿は台所の窓から差し込む陽の光を背負い、きらきらと輝いて見えた。
まるで、モデルみたいな美形二人だ。
それでもあいにく今の遥は、それに見惚れる余裕は持ち合わせていない。
「気分はどう? 顔色がまだ悪いから、無理に動かない方がいいよ」
「ふ」
「ふ?」
「服を! 今すぐ! 着てください……っ!!」
辛抱ならず、遥は叫んだ。
何せこちらを見やる男二人は、どちらも上半身裸だったのだ。
身なりを整えた二人の男と遥は、畳部屋の円卓を挟んで向き合った。
「それじゃあ、改めて自己紹介を。俺がこの劇団拝ミ座団長の御護守雅。こっちが衣装メイク担当の瑠璃川和泉」
「どうも」
目の前に腰を据えた雅はにっこりと嬉しそうに微笑み、和泉という黒髪の男は口数も少なく表情を変えない。
真逆のタイプのイケメンだな、と遥は思った。
「はじめまして。えっと、私の名前は」
「ああ、いいよ。君の名前の紹介は、ひとまず置いておこう」
「え?」
「君はまだ、俺からの申し出を了承したわけじゃあない。もしも断りの返事に来たのなら、これ以上俺たちと関わる必要はないからね」
さも当然という口ぶりだった。
申し出を受けないのならば、安易に名前を明かされる必要はないということだろう。
一見軽薄な空気も、もしかしたら遥が返答もしやすいようにという配慮なのかもしれない。
「ではその。お答えする前に一つ、確認させていただいてもいいでしょうか」
「もちろん。喜んで」
「お二人は、その、ヤクザさん? ではないんですよね……?」
勇気を振り絞って、遥は尋ねた。
今はシャワー後だからか、先ほどまでのオールバックヘアーは二人ともきれいに下ろされている。
しかし、先ほど建物前で目にした彼らの姿は、どう考えてもそっちの方々の風貌だった。
神妙に尋ねた遥に、目の前の二人は押し黙る。
次の瞬間、雅が大きく吹き出した。
「ぶっ、ははは! あーなるほど。確かに出会い頭であの格好じゃ、そう思われても仕方ないかあ」
「ヤクザじゃねえよ。あれは拝ミ座の活動の一環だ」
「か、活動の一環?」
続く話によると、先ほどの格好は別件での情報収集のためだったらしい。
劇団を名乗るだけあり、この建物には多種多様な衣装道具が揃っている。
劇団拝ミ座の活動に必要とあらば、別人に扮して情報を集めるのも大切な仕事の一つなのだという。
憂いごとがひとまず解消され、遥はこっそり息を吐いた。
赴いた場所が実はヤクザの事務所でした、なんて急転直下の展開はどうやら回避できたようだ。
「安心したかな」
先ほどまで笑っていた雅が、穏やかな微笑を称えこちらを見据える。その真っ直ぐに澄んだ瞳に、遥はまた一瞬怯みそうになった。
騙されているんじゃないか。
ていよく悪事に利用されるんじゃないか。
お金をむしり取られるんじゃないか。
ここに来るまでの間に何度も浮かんだ悪い予感は、もちろん全て消えたわけではない。
それでも意を決し、遥は鞄から取り出したあるものをそっと卓上に置いた。
「遅くなりました。まずは、こちらをあなたにお返しします」
「うん。ありがとう」
答えた雅が、静かにそれを受け取る。
小箱に入れられたそれは、先日渡されていた指輪だった。
返答と引き換えに持ってきてほしいと言われていた、大切な指輪だ。
どきどきと逸る心音を聞きながら、遥はすっと息を整える。
「この指輪は、亡くなった花嫁さんの持ち物なんですね。今年の春に亡くなった、藤野綾那さんの……」
「え?」
遥の言葉に、雅と和泉は揃って目を見開いた。
「君、どうして花嫁の名を?」
「信じてもらえるかはわかりませんが……実は私、物に籠められた想いや記憶を感じ取れることがあるんです」
どうやら自分は他の人とものの受け取り方が違うらしい。
そう気づいたのは高校生のころだっただろうか。
自分の妄想とばかり思っていたそれらは、相手から実際に流れ込んできた感情や記憶らしいと、ある日気づいた。
大人になるにつれて、その不思議な力ともうまく折り合いがつけられるようになってきたのは幸いだった。
それでも、時折遥の意志にかかわらず誰かの感情が流れ込んでくることもある。
久しぶりのそれが、昨日のウエディングドレスからの声だったのだ。
「昨日、夢を見ました。きっとこの指輪から伝わった夢だろうと思います。その夢の中で、持ち主の花嫁さんの記憶を少しだけ見ることができました」
突然こんな話をされたら、たいていの人は呆気にとられるか困惑するだろう。
しかし雅と和泉は表情を変えず、遥の話に耳を傾けてくれている。
その事実に、遥の胸の奥にじんと温かな熱が帯びた。
──協力者には、他者に寄り添う共感力と深い優しさが必要不可欠だ。君にはそれがある。
自覚して以降、ずっとひた隠しに指摘たこの不可思議な力。
もしかしたら、この力で誰かの役に立つことができるのかもしれない。
幸せな日々を突然絶たれた花嫁のために、ほんの少しでも力になれるのかもしれないのだ。
「花嫁さんの代理人役、お引き受けしたいです。是非、私にやらせてください……!」
頬に集まる熱を感じながら、遥ははっきりそう告げた。
逸る胸の鼓動を聞きながら、二人の返答をじっと待つ。
しかし向けられる言葉はなかなか届かず、遥は知らずに閉ざしていたまぶたを恐る恐る開けた。
「あ、あの……?」
「怖くないの?」
「え?」
雅から向けられていたのは、じっと真意を見定めるような眼差しだった。
「自分の身体の中に、他人の霊が入るんだよ。頼んでおいて可笑しな話だけど、一般的にかなり抵抗がある話だよね?」
言われてみれば確かにそうだ。
冷静な指摘を受け、ますます頬に熱が集まっていく。
「す、すみません。ええっと、その」
「うん」
「ちょっとそこまで、考えていませんでした……っ」
「…………ぷっ」
吹き出す気配に、遥はきょとんと目を丸くする。
とうとう我慢しきれなくなったとでもいうように、雅は口元に手を添え豪快に笑い出した。
「あ、あのう……雅さん?」
「あー、いや、ごめんね。想像以上に素敵な人を見つけることができたなあって、ついはしゃいじゃったよ」
「え……」
素敵な人。
それは自分のことだろうか。
いったいどこを取ってそう評してもらえたのかわからず、遥は首を傾げた。
「せっかくの申し出に、水を差すようなことを言ってごめんね。ただ、事前に話すべきことだから。俺らが君に頼もうとしているのは、被憑依者として身体を借りること。そのときにどこまで君自身の意識が保持できるのかは、実際に霊を下ろしてみないと分からないんだ」
丁寧に説明していく雅に、遥はなるほどと頷いた。
身体と霊との相性もあるかもしれないし、百発百中でうまくいくとは限らないことなのだろう。
「そして下ろす霊の中にも、性根の善し悪しがある。身体を乗っ取って悪さをしてやろう、なんて悪巧みをする霊もいる」
「そうですよね。生きている人間でも、いい人も悪い人もいますもんね」
「はは、まさにその通りだね」
遥の相槌に、雅が肩を揺らした。
「でも、心配いらないよ。そういう悪い霊はこちらで事前に振り分けているし、こう見えてお兄さん、霊力はなかなか強い方だから?」
「自分で言うな」
ずっと後ろで黙っていた和泉が、ため息とともに突っ込みを入れる。
「だから心配しないで。君のことは、俺が命を懸けて守るから」
「……!」
さらりと告げられた言葉に、遥の心臓がどきんと打ち震える。
単に美形の異性からの言葉にときめいただけではない。
今の言葉に、ただの励ましではない本気の響きを感じたのだ。
「私の名前は、小清水遥です。雅さん、和泉さん、どうぞよろしくお願いします」
それから数日後。
通常通り業務を終えた遥は、電車改札口に向かうことなく沿線の道を黙々と歩いていた。
夕焼けが身を潜めた空が、徐々に奥深い紺色に染まっていく。
街灯やビル群の照明が街並みに瞬き始める光景は、どこか新鮮で美しい。
電車に乗って帰っていたときは、最寄り駅までの到着を無心で待っていただけだった。
「たった二駅歩くだけでも、結構息が弾んでくるものだな」
周囲に人が居ないことを確認し、遥はぐぐっと大きくのびをする。
最近の遥は、退社後の道を可能な限り歩いて帰宅していた。
きっかけはやはり、先日引き受けることに決めた劇団拝ミ座の案件だ。
亡き花嫁に身体を貸す。
何とも特殊な内容ではあったが、引き受けたからには役割を全うするため、やる気は十分だった。
しかし、いざ自分は何をするべきか問うと、特に準備は必要ないのだという。
──詳しい前調べは俺たちが進めるから、本番が近づいたら改めて連絡するよ。
あっさり言われたことに、それでも何か自分にできることはと食い下がった結果。
──うーん。それじゃあ君のできる範囲で、本番までの間は花嫁さんらしい過ごしかたをしてみてくれるかな。
──花嫁さんらしい過ごしかた、ですか?
──うん。そうすれば、君の身体を借りる花嫁も喜んでくれると思うから。
その会話からまずぱっと浮かんだのがダイエットだったが、それについては衣装担当の和泉からすかさず鋭い忠告を受けた。
無茶なダイエットをして直前で体型が変えられては困る。
極端なダイエット法には決して手を出すな。
適度な運動と、食事内容を軽く見直す辺りに留めておけと。
そんなわけで、無茶なく適度な運動でもあるウォーキングを日常に取り入れ始めたのだ。
「きっと花嫁さんも、結婚式に向けて色々と準備を進めていたんだろうな」
鞄のポケットに入れたお守り袋に、そっと手を添える。
その中には、先日返そうとした花嫁の指輪が入っていた。
花嫁役をするにあたり、遥の手元に置いておいてほしいという雅の判断からだった。
その方が、亡き花嫁の心境をより近く感じられるだろうからと。
「他に何か、私にできることはないのかな……?」
何か明確に力になれないことがもどかしい。
信号待ちで歩みを止めた瞬間、指先に触れていたお守りがかすかに熱を帯びた気がした。
「え……?」
レンガ敷きの歩道の前方から、数名のスーツ姿の男女とすれ違う。
その中の一人に反応した遥は、逸る胸を感じながらゆっくりと後ろを振り返った。
「藤野さんも今日これからどうですか? 新人の女の子も結構集まるって言ってましたよ」
「はは、悪いけど遠慮しておくよ。俺みたいな年長者が行ったら、新人同士の息抜きの場が台無しになるだろ?」
「またまたー。藤野さんなら女の子達もきっと喜びますって!」
新人社員らしい数名から飲み会の誘いを受けている男性。
実際に会うのは初めての彼を、遥はすでに知っていた。
藤野慎介──亡くなった件の花嫁、藤野綾那の新郎だ。
あまりに唐突な出逢いに、遥は信号近くのビルの柱に身を潜めた。
「ど、どうしよう?」
いや、どうしようもこうしようもない。
新郎にとって遥は完全に赤の他人だ。
ここで突然話しかけたとして、困惑させるのは目に見えている。
それでもせめて新郎が見えなくなるまでと、細心の注意を払いながら様子を窺う。
視線を向けた先では、先ほどの新人たちがなおも新郎を誘い出そうと試みていた。
話しぶりからも、新郎は新人たちに好かれているらしいことがよくわかる。
「お願いしますってー。内緒にしておけって言われたんすけど、実は同じ部署の子から藤野さんと話がしたいって頼まれてるんすよねえ」
「え、俺と?」
「だって藤野さん、仕事はできるし優しいし。そりゃ新人女子は狙いに来ますって」
「指輪もしてませんしー、藤野さん、独身ですもんね?」
悪気のない質問だった。
それでも、「独身」の単語を聞いた彼に、さっと絶望の色が広がった。
「っ、あの」
「おーい! 慎介ー!」
考えなしに飛び出そうとした遥の耳に、無邪気に新郎を呼ぶ声が届く。
気づけばにこにこと笑顔を浮かべたイケメンが、新郎の肩を叩いて現れた。
「久しぶりだなあ、今ちょうど仕事上がり? そう言えば職場この辺って言ってたっけ」
「え、え?」
「折角だからご飯でも一緒に食べてかない? ちょうど他の奴らとも約束してるからさ!」
一瞬困惑した表情になった新郎だったが、まるで本物の知人のように語りかけるイケメンの空気に次第に呑み込まれていく。
それは周りにいた新人社員たちも同様だったようで、突如現れた陽キャ長身美形に飲みに誘う勢いも削がれたようだった。
今だ。
陽キャ長身美形の空気に身を任せ、遥もまた今度こそ柱から飛び出した。
「わ、わあ! もしかして藤野くん? すごい偶然だねえ!」
驚きと喜びを詰め込んだ笑顔を浮かべた遥は、イケメンに追随する形でその場に現れた。
「本当久しぶりー! もしかして、みや……宮森くんが呼んでくれたの?」
「いやいやー。今会ったのは全くの偶然だよ」
適当に呼びかけた「宮森くん」が、親しみを込めた笑みを遥に向ける。
まるで、本当の旧友のように。
「な、少しだけでいいから付き合ってよ。それか、今から何か予定あった?」
「あ、いや。決まった予定は」
「なら決定だ!」
「わーい! 皆にも連絡しちゃおーっと!」
宮森くん、もとい雅が新郎の肩を抱き、遥は嬉々としてスマホをいじりはじめる。
怒濤の勢いにぽかーんと呆気に取られる新人社員を尻目に、二人はまんまと新郎の救出に成功した。
「いやあ、でもまさか、あそこで遥ちゃんが加勢してくれるとは思わなかったよ」
あのあと新郎とも適当な場所で別れ、遥は雅とともに家までの道を歩いていた。
愉快げに告げられた雅の指摘に、遥はかあっと頬を熱くする。
「突然乱入してしまってすみません。周りの人たちにいろいろ突っ込まれる前に、あの場を離れた方がいいかと思いまして」
「うんうん。助かったよ。一人より二人のほうが怪しさも和らぐからね」
柔らかく微笑んだ雅に、そっと安堵の息を吐く。
咄嗟の判断だったが、どうやら迷惑にはなかったようだ。
「それにしても雅さん、すごい演技力でしたね。あんまり自然に話しかけてしまうものですから、一瞬本当にお知り合いだったのかと思いました」
「ふふん。まあ一応、小さくとも劇団の団長を名乗っていますからね」
茶目っ気たっぷりに肩をすくめた雅に、くすりと笑みがこぼれる。
今の雅は、動きやすそうなカジュアルな私服をまとっていた。
ダークグリーンのミリタリージャケットに白のカットソー、紺色の細身パンツ。
ひとつひとつはシンプルなアイテムのはずなのに、彼が着ると不思議と目を引く着こなしに映る。
こんな美形に親友の如く話しかけられ、新郎もさぞかし驚いたことだろう。
「それにしても新郎の慎介さん。会社の後輩にはかなり慕われているみたいだったねえ」
「はい。人柄も良さそうでしたし、急に話しかけてきた私たちにも丁寧にお礼をしてくれましたもんね」
遥たちが、無事新人社員から新郎を引き離したあと。
「ごめんなさい、人違いでした」と驚きの手のひら返しをした二人に、新郎はすぐに笑みを浮かべた。
こちらこそありがとうございました。今はまだ飲み会に参加する気持ちにはなれなかったので、助かりました、と。
花嫁が亡くなったのが二ヶ月前の三月。
四月入社の新人たちは、恐らくその事実を知らなかったのだろう。
「雅さん、今夜はもしかして、新郎さんの様子を見にいらしてたんですか?」
「うん。実はそうなんだ」
偶然居合わせた遥とは違い、雅はあらかじめ新郎の身辺調査していたらしい。
「今回の花嫁の心残りの日の再現には、彼の出席が必要不可欠だからね。彼の現状を前もって把握する。劇団拝ミ座のお仕事のひとつだよ」
「でも」
「うん?」
「あんなふうに新郎さんを助けることは、拝ミ座のお仕事には入っていませんよね」
ためらいがちに尋ねた遥かに、雅はほんの僅かに見張った。
劇団拝ミ座は亡き人の未練の時を再現する、いわば裏方の仕事だ。
本来ならば、式当日までこちらの顔は割れないほうが都合が良いのだろう。
しかしこの人は、新郎の返答に苦心する現場に、咄嗟に旧知の友人役を買って出たのだ。
「やっぱり。私の思ったとおりでしたね」
「遥ちゃん?」
「あなたからの頼まれごとを引き受けることに決めて、本当によかった」
立ち止まった雅に合わせ、遥も隣で歩みを止めた。
「雅さんたちには、いろいろと考えがあるんだと思います。私を今回のような身辺調査に連れ出さないことも、こちらの負担を配慮してくれているのかもしれません」
色素の薄い瞳が、遥を淡く映し出す。
出会った当初は戸惑うほどだった美しさに、今は勇気を奮い向き合った。
「でも私も、可能な限り今回のご依頼のお役に立ちたいと思っています。例え一瞬のことだって、その人と一心同体になるんです。私も、亡くなった花嫁さんの心と誠実に向き合いたい」
星が小さく瞬きだした夜空の下に、春の名残を乗せた風が吹き付けた。
本来なら桜の咲く季節になるはずだった彼等の結婚式を想い、ぎゅっと胸元で手を握る。
「ですから、お願いします雅さん。どうか私にも、もっと劇団拝ミ座の活動に協力をさせてくれませんか……!」
思い切って願い出た遥は、瞼をぎゅっとつむり向けられる回答を待つ。
なんと告げられるだろう。
仕方がないと我が儘を汲んでくれる?
それとも、自分たちのやり方に口は出さないでほしいと窘められるだろうか。
様々な返答の可能性にじとりと嫌な汗がこめかみに浮かぶ。
すると頭上から届いた反応は小さな笑い声だった。
「はは、なるほどね。そういうことかあ」
「雅さん?」
「……懐かしいなあ、今の言葉」
「え?」
遠い日々を懐古するような眼差しに、遥は小さく首を傾げる。
雅と自分は、かつてどこかで逢ったことがあるのだろうか。
思っていたことが透けていたのか、雅は違う違うと首を振った。
「誤解させちゃったね。遥ちゃんとは正真正銘初対面だと思うよ。ただね、遥ちゃんの今の言葉、前にも誰かさんが言っていたなあってね」
「そ、そうなんですか……?」
どんな反応するべきかわからず困惑する。
そんな遥に、雅はふわりと柔らかく微笑んだ。
今まで見た中で一番美しい面差しに、遥は思わず見惚れてしまった。
◇◇◇
墓石に刻まれた彼女の旧姓。
生前母が好きだった白百合の花と父が好きだった和菓子を供え、線香を立てる。
──お父さん、お母さん。私、新しい家族ができたよ。
──世界一素敵で優しい旦那さんと、私を本当の娘のように想ってくれるお義母さんが。
◇◇◇
新郎との思わぬやりとりをした日から数日。
本業の休日に、遥はとある場所へと呼び出されていた。
劇団拝ミ座の建物から少し歩いた隣町に広がる、閑静な住宅地だ。
戸建ての多く立ち並ぶ道には所々に花壇が置かれ、少し遠くからは公園から子どもの嬉しそうな声が届く。
そんな心地の良い町並みの一角、北欧風の可愛らしい外観の一軒家の前で、三人は身を潜めていた。
「……で? 臨時演者の懇願に根負けした結果、こうなってるわけか」
「はいはい和泉、そんな怖い顔しないしない」
二人の長身イケメンのうち、一方は朗らかな笑顔で、もう一方は迷惑そうなしかめ顔で遥を見下ろしている。
「憑依させる相手のことをもっと知りたい遥ちゃんの考えも尤もでしょう。それだけ自分ごととして考えてくれている証拠だし、無碍にするわけにはいかないよ。というわけで、今日の仕事には遥ちゃんも参加させてもらいまーす」
「それはそうだろうがな、よりによって今日かよ」
「も、も、申し訳ありません、和泉さん……!」
想像以上の邪険具合に、遥は瞬時に深々と頭を下げる。
しばらく固まっていると、頭上からため息の気配が届いた。
「まあいい。元はこの馬鹿が了承したのが始まりだからな。別にあんたに謝ってもらうことでもない」
「さすが和泉。ツンケンしてても本当は優しいんだよねー」
「つまり全ての原因はお前にあるってことだわかってんのかてめえは」
「あ、あの、私が言うことではないんでしょうが、どうぞ落ち着いて……!」
ヘラヘラ笑う雅とその胸元を掴み凄む和泉の姿に、遥は慌てて言葉を重ねた。
しばらくの間を置き、二人の間に距離が生まれる。
こんなやりとりもどうやら二人には日常茶飯事なのかもしれない、と遥は思った。
「言っておくがこっちの調査は今日が本丸なんだからな。余計なことだけはしてくれるなよ」
「はい! それはもちろんです」
素早く返答をしたあと、遥は改めて目前に立つ和泉の身なりに目をやった。
以前目にした彼は、黒い短髪にやや鋭い目つきが印象的なイケメンさんだった。
服装も黒シャツにジーンズ姿で、何となく人を寄せ付けない空気をまとっていた印象がある。
しかし今の和泉は、目つきこそ変わらないものの髪型や服装は比較的柔らかだった。
毛先は大人しく下ろされ、柔らかなフランネルシャツに薄い色合いのチノパンをまとっている。
印象的な鋭い瞳も、かけられた眼鏡で印象が和らげられていた。
「今回の依頼以降、和泉にはここの洋裁教室に生徒『川水颯太』として潜ってるんだ。今日の格好も、生徒としての念のための変装だね」
「なるほど」
ごく自然に告げられた雅の説明に納得する。
確かに潜入調査のためならば、服装や第一印象は変えておいた方がいいのだろう。
殊に彼は、他者に与える印象が人一倍強い方だろうから。
「ということは、この洋裁教室が亡くなった花嫁さんと何が繋がりがあると?」
「そういうこと。この教室は元々先生がふたり居るんだけどね」
「おい雅。沿道でがやがや騒いで誰かに聞かれたら」
「あら? もしかして颯太くんかしら?」
曲がり角の向こうから聞こえた女性の声に、遥はびくっと肩を揺らす。
次の瞬間、凄まじい速さで遥の口は覆われ、身体ごと電柱の影に収められた。
「やっぱり颯太くん! 早かったのね。もしかして待たせちゃったかしら?」
「こんにちは先生。すみません。完成が待ち遠しくて、つい早く着きすぎてしまいました」
「颯太くんの作ってるジャケットもいよいよ完成間近だものね。さあ、どうぞ入って入って」
「ありがとうございます。お邪魔します」
慣れ親しんだ様子で家に招かれ、「颯太」と呼ばれた青年が洋裁教室へ入っていく。
愛想がよく爽やかな表情を浮かべたその姿を電柱の影から見送りながら、遥は目を丸くしていた。
「え……今の……和泉さん……颯太くん……ええ?」
「はは、わかるわかる。落差が激しいんだよねえ、和泉の演じる好青年は」
くくっと肩を揺らした雅は、電柱の影に収めていた遥の身体をそっと離した。
雅の機転のお陰で、先ほどの女性に遥の姿は見られなかったようだ。
「今の女性がこの洋裁教室の先生の一人で、この家の持ち主だね。世話好きで人当たりのいい人だって『颯太』くんが言ってたよ」
「和泉さんもさすが劇団の一員ですね。演技の瞬発力が凄いです……」
というか、人格が変わりすぎてなかなか空恐ろしい。
「和泉自身は、演者は本職じゃないって言ってるけどね。もともと和泉は、一日中服作りをしてても苦にならない洋裁馬鹿だから」
和泉は、劇団の活動に必要な衣装の制作を一手に担っているらしい。
亡き人が未練を残したときの姿形を、極限まで再現させる。
そのことに、彼は深いこだわりを持っているのだという。
その信念の強さは、彼の瞳の強さにそのまま表れているような気がした。
「さっき、この洋裁教室には元々ふたりの先生がいるって話したでしょう。そのもう一人の先生が、実は今回の花嫁の義理のお母さんなんだ」
「えっ」
思わぬ報に、自然と身体が前のめりになる。
義理の母ということは、先日の花婿さんの母親ということだ。
「そういえば私、夢の中で見ました。花嫁さんと花婿さん、そのお母さんの三人で仲良くお話ししている姿を。その中で花嫁さんが、お義母さんにウエディングドレスを作ってもらう約束をしていました……!」
「へえ、すごい。遥ちゃんの夢見の力は思った以上だね」
目を見張る雅が、さらに話を続ける。
「その通り。お義母さんは今回、花嫁のウエディングドレスを制作したんだ。そのドレスのデザイン画はここに保管されていてね、ここに潜り込んだ和泉が、早い段階で確認することができたんだよ」
「だから、ウエディングドレスはすでに制作が済んでいたんですね」
それにしてもウエディングドレスまで手がけることができるなんて、花嫁の義理母も和泉も想像以上の腕前だ。
「本来ならドレスが完成することでここへの潜入調査は終わるはずだったんだけどね。実はお義母さんは花嫁に内緒でもうひとつ、プレゼントを作っていたらしいんだ」
「プレゼント、ですか?」
「うん。そしてそれをサプライズで渡すため、お義母さんは式の前日に花嫁さんに連絡した。花嫁さんは幸せな予感を抱えながら急いで家を飛び出したらしい」
「……! まさか、それを受け取りに出た先で、花嫁さんは……」
静かに頷いた雅に、遥の胸が潰されるような心地に襲われる。
花嫁の喜ぶ姿を楽しみに何かを制作した義理母と、幸せいっぱいに受け取りに出た花嫁。
その直後に、もう二度と会えなくなる未来が待っているなんて、一体誰が想像できただろう。
じわりと滲みそうになる涙に気づき、そっと目頭に力を込めた。
ここでぐずっていても、誰の役に立つわけではないのだ。
「その事故以来、お義母さんは新郎以上に塞ぎ込んでしまったらしい。家から滅多に出なくなって、洋裁教室にも顔を出さなくなったんだ。作ったプレゼントも、心配で家を訪ねたもう一人の先生に預けたままだと」
「そんなことがあったんですね……」
「でも先日、お義母さんから洋裁教室に連絡があったらしい。今日もしかしたら、ここに立ち寄るかもしれないってね」
「え!」
ぱっと表情を明るくした遥が、即座に雅を見上げる。
そんな遥を待っていたかのように、雅が柔らかな笑みを浮かべた。
「和泉はね、花嫁を、本来まとうはずだったはずの花嫁姿にしてあげたいんだ」
ふわり、と青い初夏の薫りが、風に乗って届けられる。
「プレゼントが仕舞われた場所までは知っているけれど、その紙袋は頑丈にテープで閉ざされていて中身を確認できていない。お義母さんが丹精込めて作ってくれたプレゼントまで揃えば、花嫁さんもきっと喜んでくれるはずだよね」
「そうですね。でも、いったいどうやって中身を確認すれば……、あっ」
言葉が終わるよりも早く、遥は通りを飛び出した。
向かう先には小さな川が流れ、朱色に塗られた短い橋が架かっている。
その袂には、一人の女性が苦しそうに呼吸を乱してうずくまっていた。