今日の天気はどうだろうか。
 空を見上げれば青空に綿菓子のような雲が流れている。気持ちのいい天気だ。でも鈴井達矢(すずいたつや)はため息をひとつ吐いた。
 河川敷の橋の下に青いビニールシートと段ボール箱をガムテープで張り合わせて簡易に作ったテントで寝泊りをしている彼にとって、晴天で気持ちがよくなることはない。
 その日その日をしのぐことで精一杯。ただ雨が降らなかったことはまだありがたいと思えた。
 壁式の橋脚(きょうきゃく)にはへたくそな落書きがされ、それをバックに鈴井の作ったテントがあるととても荒廃した場所に見えた。転々と住まいを変えながらここに辿り着いたのだが、ここもいつまで住めるかわからない。
 自分のような立場の人間はごみ扱いも同然で、いつ迫害されるかもしれない恐怖に鈴井は不安に暮らしていた。
 自分でもこんな生活をして満足な訳がない。でもホームレスになってしまった以上、こういう生活をするしかなかった。死にたくても死ぬ勇気もなく、家族に何もしてやれなかった報いをただ受け止めてこの苦しみを味わっている。
 少しでもまともに見られるように、髪に手ぐしを入れる。身なりは小汚いが、着ている物はたまに洗濯している。袖を嗅いで確認し、この日もその日暮らしのための何かを手に入れようと、人が集まる街へと繰り出した。
 自分は汚く見られているようで透明な存在だ。たまに小さな子供がじっと見ていくが、親に手を引っ張られてすぐにどこかへと早足で連れて行かれる。見ちゃだめよと露骨に避けられ、その存在を否定される。そこにどんな意味があるのか、同情されているのか、嫌われているのか、または恐れられているのか――どれも嫌な理由だ。
 自分も小さな女の子を見てしまったのが悪いのだが、無垢な可愛らしさに心惹かれるものがあるから仕方がなかった。昔は自分も親だったから、娘を思い出して重ねて見てしまうのだ。あの頃は幸せだったのに、あまり構ってやらなかったことが今では後悔だ。あの時もっと手を繋いでやればよかった。鈴井の時はそれ以来止まっていた。
 あれから二十年も経ち、鈴井はすっかり年を取った。鏡を普段見ないから、時々街角で何かに映る自分の姿を見るとはっとしてしまう。知っているつもりの自分の姿から程遠い。避けられる理由に納得してしまった。
 雑居ビルの路地裏や、レストランの裏口など何かが捨ててありそうなところを鈴井は歩いていた。人通りがない路地に入ったとき、シューっという音が聞こえ、壁に向かって青年が何かの作業をしていた。近くに寄ったとき、スプレーで落書きをしているのに気がついた。人様の建物の壁に落書きすることは違法なのはわかっていても、鈴井にはどうすることもできなかった。
 見て見ぬふりをして通り過ぎようとしたが、落書きがふと視界に入ってつい立ち止まってしまった。壁いっぱいに彩りよくきれいに描かれていた壁画。よく見れば辺りにはペンキや画材道具も散らばっている。それは本格的に描かれていた。
 青年は鈴井に振り返り、にこっと笑った。顔や腕、そして服のあちこちにカラフルな色が付着していた。
「おじさん、見る目がありますね」
 自分の絵を気に入ってくれていると思って、嬉しそうに笑っていた。
 その笑顔は素直そうで無断で落書きをするような擦れた感じではなかったから、鈴井はギャップを感じて戸惑っていた。
 青年は自分の描いた絵と鈴井を交互に見て、もっと感想を聞きたそうにしているから鈴井も何か言わなければならない気持ちにさせられた。
「えっと、丸い大きなケーキがあるからこれは誕生日パーティの絵かな? 人や動物たちがいて全体的にファンタジーっぽくて、特にこの大きなピンクのゾウがユーモラスでかわいい。とても楽しそうで魅力溢れる絵だと思う」
 お世辞ではなかった。何かの広告みたいで、確かにただの落書きじゃない洗練さがあり、線がしっかりとして構成もよく、絵を描き慣れた上手さが伝わる。それは芸術と呼ぶにふさわしい。
「へへ、照れるな」
「だけど、こんな壮大に描いて迷惑行為にならないのかい?」
「もし、これがバンクシーだったら、みんな嬉しいと思うでしょ。僕もいつかはそうなるくらい有名になってみせるよ。迷惑行為だなんて思わせないくらいにね」
「バンクシー?」
 鈴井にはなんのことかわからなかった。
「世界的有名なストリートアーティストだよ。それだけ価値がでれば落書きしても怒られないでしょ」
「まあ、そうなのかもな」
「でも安心して、このビルのオーナーに頼まれて描いてるんだ。一応仕事です」
 はにかんだ笑顔。先入観抜きで鈴井と向き合い話をする。
 久しくそんな会話を鈴井はしていなかったから、話しかけてくれるのが心地よかった。
「そっか、仕事だったのか。いつかこの街が君の絵で賑やかになるといいね」
「うん、そのつもり。特に、このピンクのゾウはこの街のマスコットキャラにしたいんだ」
 鈴井もそのピンクのゾウがとても気になっていた。
「なんでピンクのゾウなんだい?」
「これは、僕の彼女と一緒に考えたんだ。彼女、ゾウが小さい頃から好きなんだって」
 彼女と紹介するとき、青年はとても恥ずかしそうに顔を赤らめた。
「そっか、彼女がいるのか。その彼女がゾウを桃色にしたんだね」
 鈴井はピンクを敢えて『桃色』と言い換えた。
「そう、その通り。彼女はその桃色が大好きなんだ」
「女の子が好きな色だ」
「男の僕も大好きな色だよ。でも彼女の場合、特に思い入れのある色だからこだわってるけどね」
 この青年と話していると、鈴井は楽しくなっていく。
 絵を見れば、ピンクのゾウによりかかる女の子が自分の娘に見えてくる。それは娘と別れる前に最後の思い出を作ろうと動物園に行ったときのことを思い出させた。
 娘はゾウが一番印象に残って、絵を描いて後に送ってくれた。あの絵は今でも大切に持っていた。
 あの時、会社が倒産して借金を抱えてしまい、妻と娘には迷惑をかけないためにやむを得ず離婚してしまった。それからは借金を返すため必死に働き無理をしてきた。過酷な生活に疲れ果てお金もなく、気がつけばホームレスとなってしまった。
 娘は今頃、どうしているのだろうか。離れた年月を足せばとっくに大人になって結婚していてもおかしくない年頃だ。ピンクのゾウを見ていると娘のことを思い出し目が潤んできてしまう。
「おじさん、そんなにこの絵が気に入ってくれたんだったら、彼女のカフェにいくといいよ。ピンクのゾウに興味を持った人は誰でも大歓迎だから。そこに行くとピンクのゾウが待っていて誰もが幸せになれるんだよ。それでね、その店には……」
 色んな特徴があって、こと細やかに自信をもってその店をアピールする。生き生きとした青年の目を見ていると、なぜかそこにピンクのゾウが腰を下ろしてコーヒーを飲む姿が見えてくる。そこに行けば本当にいるように感じてしまった。
「どう? 興味を持ったでしょ。ここから少し歩くけど、この道を真っ直ぐ行ってね、そこから……」
 青年はその店の行き方を教えてくれた。
「でも私は……」
 自分の身なりが気になり、お金もそんなに持っていないことを鈴井は気にして渋ってしまう。
「大丈夫。これをもっていけば、僕が紹介したってわかるから。コーヒー一杯、無料で出してくれるよ」
 青年から名刺を手渡され鈴井はそれを受け取った。