鈴井は壁画アートを描いていた青年からもらった名刺を持って、紹介されたカフェへと向かった。
道順を説明されただけで、迷わずに歩けるのは鈴井には土地勘があったからだった。
だけど以前そこにあったものがなくなり、知らないものが増え、古い建物が消えて新しいビルが現れ、スクラップビルドされた街並みになっている。
でも変わらないものもあり、それがとても懐かしく鈴井の目に映った。
鈴井がここに来たのは偶然ではなかった。
カフェを探していても、鈴井は入るつもりなどなかった。外から様子を見て、そのまま素通りするつもりでいた。
ビルの一角に店らしきものが目に入る。今の時代に沿った洗練されたデザインの店構えの前に来ると足を止めずには居られなかった。
中が気になり窓から覗けば「えっ?」と声がでた。そこはまだ改装工事の途中だったからだ。看板も掲げてなく、新装開店はまだ先の様子だ。なんの店かも判断しにくい。
「青年の言っていたカフェはここじゃないみたいだ」
でもこの辺りには他にカフェがなさそうだったから、鈴井は首を傾げる。
「コーヒー一杯無料で出してくれるって、あれはからかいだったのだろうか」
コーヒーが飲みたかったわけじゃない。でもカフェが見つからないから、鈴井はからかわれたと思ってしまう。
もう一度青年からもらった名刺を見ていた。
しっかりと名前が書かれ、電話番号とメールアドレスも記載されている。騙すのにこんな個人情報を人に渡すだろうか。
電話を掛けて直接本人に訊けばいいのだろうけど、鈴井はスマホをもってないし、公衆電話も近くに見当たらない。連絡を取る手段があったとしてもわざわざ確かめることはしないとわかっていた。
ため息が出たところでこれ以上詮索するのを諦めた。
「あの、どうかされましたか?」
きれいな女性に声を掛けられ、鈴井はびくっとしてしまう。
「いえ、その、あの、この辺にカフェがあると聞いて来たんですけど、店が見つからなくて」
「どんなカフェですか?」
「ええっと、ピンクのゾウがいるカフェだとか」
そこはピンクのゾウが好きな人が経営しているカフェというべきだった。
鈴井はごまかし笑いをするも女性はまじめに話を聞いていた。
「ああ、はい。ピンクのゾウですか」
「あの、別に、いいんです」
鈴井が去ろうとする。
「もしかして、ピンクのゾウが好きですか?」
「えっ!? その、は、はい」
鈴井はそう答えるしかなかった。
「じゃあ、ピンクのゾウが好きだと証明できるものはお持ちですか?」
「えっ?」
鈴井は面食らう。
「証明しなくちゃいけないんですか?」
「そうですね。証明してほしいですね」
「どうやって……」
見かけがホームレスで、ピンクのゾウと口走ったから薬でもやってる危ない奴と思われて、様子を探られているのだろうか。
女性は訝しげに鈴井をじろじろと見ている。居心地が悪く、逃げたくなるけど逃げてしまえば益々通報されるかもしれない。この街にはもう少しだけ滞在したい。今追い出されるのは嫌だった。
あの青年が描いたピンクのゾウの絵を見たせいでとんでもないことになってしまった。
ピンクのゾウ。まさかこの歳になって再び口にするとも思わなかった。
仕方なく懐に手を入れ、汚れてボロボロになった四つ折の画用紙を取り出した。
「証明になるかわかりませんが、私はピンクのゾウを持っています」
今にも破れてしまいそうなその紙をゆっくりと広げて女性に見せた。
女性は黙ってじっと見つめたあと、声を出すために息を吸った。
「はい、それはまさにピンクのゾウですね。私が待っていたピンクのゾウです」
今度はぽろぽろと涙をこぼしている。
鈴井は息を詰まらせた。
「まさか、そんな」
まだ何が起こっているのかはっきりわからない。
「おかえりなさい。お仕事、やっと終わりましたか? お父さん」
「モモ、モモちゃんなのか」
名前を呼んだとき、それが自分の娘だとはっきり面影が重なった。
「お父さん、お父さん」と何度も呼ばれる。
「ごめんな、今まで、本当にごめんな」
鈴井は娘を抱きしめた。
「苗字は変わったけど、お母さんも待ってるよ」
離婚したとき、母親が旧姓に戻しために鈴井を捨てて『中瀬桃香』になった。
父親が消えざるを得なかった全ての事情を知っている。父親を責めることなんでできるはずがなかった。
娘に受け入れられ、気持ちに言葉が埋まって鈴井は声にならない。
「あっ!」
その時鈴井ははっとする。
「モモちゃんの彼氏って、まさか」
「壁に絵を描いてたでしょ」
「やっぱり、あの青年だったのか」
鈴井は坂内耀と名前が書かれた名刺を見せた。
「彼の絵、すごかったでしょ」
「ピンクのゾウがとても目立っていた」
「ピンクのゾウをこの街に描けば、いつか知れ渡ってきっとお父さんが戻って来るって、彼が言ったの。興味を持った人がいたらそれがお父さんだって。それでピンときた彼がすぐに電話してきたから、急いで確かめに来たのよ」
「じゃあカフェの話は?」
「あれは私たちの夢の話。ちょうどここを見てそんなカフェを作れたらいいよねって話してたんだ。でも、彼の空想は現実になるから、彼には本当にカフェが見えていたんだと思う。話を聞いたらとてもリアルだったでしょ」
耀からもらった名刺を見て鈴井はふと笑ってしまった。
堂々とついた嘘でも、あの時本当にピンクのゾウが出てきて、コーヒーを飲んでいる様子が鈴井の目に浮かんでいた。あの話で興味を持ったからやっぱり確かめに来てしまった。
「これを見せれば、コーヒーが一杯無料だって聞いたんだけどね」
さらにここへ呼び込むための口実だったのだろう。それでもひっかかってしまった自分がおかしくなった。
「もちろん、コーヒー一杯、無料で出せますよ。行こう、お父さん」
「ど、どこへ?」
「もちろん、私たちの家に決まってるでしょ」
中瀬は父親の手を取り握った。それはあまりにも自然で鈴井の目頭が熱くなっていく。こんな姿になっても父親として受け入れてくれてる。
そしてぞうさんの歌が聞こえてきた。歌詞はもちろん「とうさん」に変えたものだった。
あのときから止まっていた鈴井の時間がもう一度動き出す。自分がやりたかった娘の手を繋ぐこと。それが今叶っていた。
その時ピンクのゾウが労って鼻でよしよしと自分の頭を撫でている様子が鈴井の目に映っていた。それが嬉しくて、ぐすっと鼻をすすっていた。
了
道順を説明されただけで、迷わずに歩けるのは鈴井には土地勘があったからだった。
だけど以前そこにあったものがなくなり、知らないものが増え、古い建物が消えて新しいビルが現れ、スクラップビルドされた街並みになっている。
でも変わらないものもあり、それがとても懐かしく鈴井の目に映った。
鈴井がここに来たのは偶然ではなかった。
カフェを探していても、鈴井は入るつもりなどなかった。外から様子を見て、そのまま素通りするつもりでいた。
ビルの一角に店らしきものが目に入る。今の時代に沿った洗練されたデザインの店構えの前に来ると足を止めずには居られなかった。
中が気になり窓から覗けば「えっ?」と声がでた。そこはまだ改装工事の途中だったからだ。看板も掲げてなく、新装開店はまだ先の様子だ。なんの店かも判断しにくい。
「青年の言っていたカフェはここじゃないみたいだ」
でもこの辺りには他にカフェがなさそうだったから、鈴井は首を傾げる。
「コーヒー一杯無料で出してくれるって、あれはからかいだったのだろうか」
コーヒーが飲みたかったわけじゃない。でもカフェが見つからないから、鈴井はからかわれたと思ってしまう。
もう一度青年からもらった名刺を見ていた。
しっかりと名前が書かれ、電話番号とメールアドレスも記載されている。騙すのにこんな個人情報を人に渡すだろうか。
電話を掛けて直接本人に訊けばいいのだろうけど、鈴井はスマホをもってないし、公衆電話も近くに見当たらない。連絡を取る手段があったとしてもわざわざ確かめることはしないとわかっていた。
ため息が出たところでこれ以上詮索するのを諦めた。
「あの、どうかされましたか?」
きれいな女性に声を掛けられ、鈴井はびくっとしてしまう。
「いえ、その、あの、この辺にカフェがあると聞いて来たんですけど、店が見つからなくて」
「どんなカフェですか?」
「ええっと、ピンクのゾウがいるカフェだとか」
そこはピンクのゾウが好きな人が経営しているカフェというべきだった。
鈴井はごまかし笑いをするも女性はまじめに話を聞いていた。
「ああ、はい。ピンクのゾウですか」
「あの、別に、いいんです」
鈴井が去ろうとする。
「もしかして、ピンクのゾウが好きですか?」
「えっ!? その、は、はい」
鈴井はそう答えるしかなかった。
「じゃあ、ピンクのゾウが好きだと証明できるものはお持ちですか?」
「えっ?」
鈴井は面食らう。
「証明しなくちゃいけないんですか?」
「そうですね。証明してほしいですね」
「どうやって……」
見かけがホームレスで、ピンクのゾウと口走ったから薬でもやってる危ない奴と思われて、様子を探られているのだろうか。
女性は訝しげに鈴井をじろじろと見ている。居心地が悪く、逃げたくなるけど逃げてしまえば益々通報されるかもしれない。この街にはもう少しだけ滞在したい。今追い出されるのは嫌だった。
あの青年が描いたピンクのゾウの絵を見たせいでとんでもないことになってしまった。
ピンクのゾウ。まさかこの歳になって再び口にするとも思わなかった。
仕方なく懐に手を入れ、汚れてボロボロになった四つ折の画用紙を取り出した。
「証明になるかわかりませんが、私はピンクのゾウを持っています」
今にも破れてしまいそうなその紙をゆっくりと広げて女性に見せた。
女性は黙ってじっと見つめたあと、声を出すために息を吸った。
「はい、それはまさにピンクのゾウですね。私が待っていたピンクのゾウです」
今度はぽろぽろと涙をこぼしている。
鈴井は息を詰まらせた。
「まさか、そんな」
まだ何が起こっているのかはっきりわからない。
「おかえりなさい。お仕事、やっと終わりましたか? お父さん」
「モモ、モモちゃんなのか」
名前を呼んだとき、それが自分の娘だとはっきり面影が重なった。
「お父さん、お父さん」と何度も呼ばれる。
「ごめんな、今まで、本当にごめんな」
鈴井は娘を抱きしめた。
「苗字は変わったけど、お母さんも待ってるよ」
離婚したとき、母親が旧姓に戻しために鈴井を捨てて『中瀬桃香』になった。
父親が消えざるを得なかった全ての事情を知っている。父親を責めることなんでできるはずがなかった。
娘に受け入れられ、気持ちに言葉が埋まって鈴井は声にならない。
「あっ!」
その時鈴井ははっとする。
「モモちゃんの彼氏って、まさか」
「壁に絵を描いてたでしょ」
「やっぱり、あの青年だったのか」
鈴井は坂内耀と名前が書かれた名刺を見せた。
「彼の絵、すごかったでしょ」
「ピンクのゾウがとても目立っていた」
「ピンクのゾウをこの街に描けば、いつか知れ渡ってきっとお父さんが戻って来るって、彼が言ったの。興味を持った人がいたらそれがお父さんだって。それでピンときた彼がすぐに電話してきたから、急いで確かめに来たのよ」
「じゃあカフェの話は?」
「あれは私たちの夢の話。ちょうどここを見てそんなカフェを作れたらいいよねって話してたんだ。でも、彼の空想は現実になるから、彼には本当にカフェが見えていたんだと思う。話を聞いたらとてもリアルだったでしょ」
耀からもらった名刺を見て鈴井はふと笑ってしまった。
堂々とついた嘘でも、あの時本当にピンクのゾウが出てきて、コーヒーを飲んでいる様子が鈴井の目に浮かんでいた。あの話で興味を持ったからやっぱり確かめに来てしまった。
「これを見せれば、コーヒーが一杯無料だって聞いたんだけどね」
さらにここへ呼び込むための口実だったのだろう。それでもひっかかってしまった自分がおかしくなった。
「もちろん、コーヒー一杯、無料で出せますよ。行こう、お父さん」
「ど、どこへ?」
「もちろん、私たちの家に決まってるでしょ」
中瀬は父親の手を取り握った。それはあまりにも自然で鈴井の目頭が熱くなっていく。こんな姿になっても父親として受け入れてくれてる。
そしてぞうさんの歌が聞こえてきた。歌詞はもちろん「とうさん」に変えたものだった。
あのときから止まっていた鈴井の時間がもう一度動き出す。自分がやりたかった娘の手を繋ぐこと。それが今叶っていた。
その時ピンクのゾウが労って鼻でよしよしと自分の頭を撫でている様子が鈴井の目に映っていた。それが嬉しくて、ぐすっと鼻をすすっていた。
了