どこにいても、何をしていても、いつもどこか息苦しい――こんな自分のことが大嫌いだ。いつの頃からかわからないけど、ずっとずっとそう思い続けるようになっていた。でも、いくら原因を探したって分からなかった。この僕、開町 鎖織(ひらまち さおり)っていう名前も、ちょっと女子っぽいって思うけど、嫌いってわけではない。友達だっている。上辺だけじゃない、本当の友達。それに、母さんや父さんだって、僕が決めた進路を真摯に応援してくれている。けれど。なんだかそれから、ちょっとずつ息苦しくなっていった。プレッシャー?違う気がする。学力面で?ううん、毎日勉強はしているから、大丈夫...と、思う。多分。でも、そんな感じで、原因が分からなくなって、その得体のしれないに"何か"が、首の周りをゆるりと回っているような感じがする。首輪も、手枷も足枷も付いているようにさえ感じる。無視しようにも、鎖が音を立てて、そこにあることを知らせてくる...そんな感じ。自分でもよくわからない例えだけど。ともかく、そんな状態で毎日生活している。
 昼休みになった。僕はいつも通り屋上へ向かった。あの"何か"が出てから、僕は少しずつ友達と距離を置くようになった。あ、いや、別に仲が悪くなったとかじゃない。休み時間とかでも結構話すし、むしろそれだけで時間つぶすぐらいだし。でも、なんとなく、この"何か"を友だちに移したらいけない気がした。こんな苦しいの、移っちゃったら絶対辛いだろうし。それに、一人の方が物思いに耽けりやすいから。僕の高校が屋上を解放しているのは、高い丈夫な柵があるからだ。そのせいで景観とかは台無しだから、人なんてそうそう来ないけど、かえって好都合。人が居ないほうが、色々と楽。...移る心配もないし。
 屋上のやけに甲高い音を出す扉を開けた。当然、人は居ない。けれど、ど真ん中で弁当を広げるなんて贅沢な使い方はせずに、隅っこの方で黙々とモグモグご飯を食べている。ここに来るとたまに思う。こんな柵、なければいいのに。そしたら、景色ももっと澄んで、きれいなものになるはず。だけどそうしないのはきっと安全のためなんだろう。いや、当然のことだし、分かるけどさ。悩んでいるとこういう、予め決まっていることに文句をつけたくなる。それに。僕は立ち上がって柵の外を眺めた。この柵を超えて向こうに行けたら、飛べようが飛べまいが、この首周りにある"何かや足枷達は、緩くなってくれると思っている。勝手な妄想だけども。頭の中で、『じゃあ飛んでみようよ!』って声がする度に、『じゃあ責任取れんの?』って釘が刺さる。考える度にそれが続くから、なんにも考えないでいれるこの場所、この時に留まっている。けれど、そうできる時間も残り少ないことに気がついてる。 
  ふと、視界の隅に目をやると、なにか黒いものが見えた。黒猫だった。黒猫が、柵の少し向こうにちょこんと座っていた。その生まれ持った愛くるしさ故、なにか仕草をするだけで地球上の半分の人口ぐらいは軽く虜にする黒猫。かく言う僕もその半分の一人なわけで、自然と見つめていた。猫はどうやら人馴れしているようで、こちらを見ても別に気にもとめず、ただ大きなあくびを一つして手をペロペロと舐めると、また一眠りを始めた。その様子を見て思った。猫はいいな。何も考えずにあちこち歩き回って、あくびかなんかすればちやほやされて、何より、首輪がない。猫になってみたい。でも、猫にも猫なりの悩みとかあるのかな。ちやほやされるのがストレスだったり、追い返されたりするときもあるし、仲間とか敵とかも、勿論猫の世界にだってあるだろうし。...ああ、またか。一個なにか思いついたら、それを壊しに来る反対の意見が出てくる。だから何かを考えたりするのは嫌なんだ。
 僕が一人で悩んでいると、流石に僕の視線が鬱陶しかったのか、こちらをチラッと睨むと、角っ子の方へ行って、何処かにストンと降りた。そっちに建物か足場があるなんて心当たりがなかった僕は、急いで降りた方へ向かった。そして、下の方を向いた。そこに建物はあった。今まで縁がなかった別教室に備わっているベランダがあった。日陰になっている上に、昇降口からは完全に死角だから全然分からなかった。猫はそこにまたちょこんと座っていた。流石ねこだなあと、変な場面で感心してしまった。その横に、一人の女子がまたちょこんと座っていた。どうやら、絵を描いているようだった。その子がふと、描く手を止めて黒猫を撫で始めた。
「今日もお前はのんびりしているねえ、メーメ。」
「メーメ?」
思わず声に出してしまった。下にいる女子と目が合った。やっば..!思わず固まってしまった。だって、女子とロクに会話なんてしたことがない。小学生の頃は何も思わずに接していたけど、おとなになっていくにつれて、なんだか、同じだと思っていたものがちょっとずつずれ始めた感じがして、前と同じように接することができなくなっていた。話すときも、委員会とか、クラブの事務的会話ぐらいだし。だから、こういう時はどう接すれば良いのか分からない。話そうとすると、頭の中の言葉が溶けるように崩れ始めるから。
「貴方、誰?」
固まっていると、下から声が聞こえた。急いで頭の中で溶けかけている言葉を組み立てた。
「えっと、猫がいて、かわいいなって思ったから、その、目で覆っていたら、急にそっちに降りちゃって、えと、そのあたりに建物があったなんて知らなかったから、心配になって、その...」
友達の誰かがこんな会話をしていたら軽く小突いているところだけど、自分の番になると、笑っている場合ではない。
「ねえ、とりあえず、そこにいるとあんま良く聞こえないからー、ここに来てよ。」
「え!?」
突然のことにびっくりしたけど、まさか断るなんてそんな事できやしないし、急いでお弁当を持ってそっちに向かうことにした。...あっ!僕は急いで戻ると聞いた。
「そっちの方、どうやって行くの?」
道を聞くと、僕は駆け足でそこにむかった。
 行ってみると、さっきの黒猫と一人の女子が、割と本格的な絵画セットを揃えて、そこで待っていた。
「予想より早かったね。」
「え?あ、う、うん。待たせると悪いと思って。」
「あはは、ありがと。」
そう言って彼女は、猫の方を見た。
「メーメ。この子の名前。ちょっと目が特徴的だから、目に関する名前にしたかったんだ。」
「へえだから...」
だからメーメってつけるのはちょっと納得行かないが、それなりに愛着はあるみたいだ。
 ふと、彼女が描いていた絵が目に止まった。どうやら、ここから見える景色を描いていたようだ。本格的なセットを持ち歩いているだけあって、絵は描き途中でも、すごい上手だってことは十分分かる。あれ、でも...
「絵、上手だね。でも、なんでこの風景?」
ここは日陰だし、木々で覆われていて、決して見晴らしのいいきれいな景色とは言えない。それに、これだけ絵が上手なら、もっと良い景色を描いたほうが良さそうに思える。
「あー...えっと、ここの風景が好きだからかな。」
彼女はその景色の方を見て言った。
「ここ、陽がそんなに当たらないから鬱陶しくないし、それほど寒いわけでは無いし、それに、人も来ないから、絵を周りからとやかく言われる心配もないから。だから、こんな景色でも、私にとっては大切な場所なの。」
そして座り直すと、また絵を描き始めながら言った。
「私さ、画家を目指してるんだよねー。だから美術部入っているんだけど、そこで風景画の課題出されてさ。嫌いって言うわけじゃないんだけど、そういう気分じゃなかったから、楽だし、思い入れのあるここにしたんだ。私、風景画とか人物画よりも、抽象画のほうが好きなんだ。」
そう言って彼女はにっこり笑った。その笑顔を見たら、ちょっと顔が熱くなった。...なんでだろ。
 というか、抽象画か。中高とかで絵を描くことが好きな子は何人かいたけど、皆風景とか、人物とか、イラストとかだったから、ちょっと変わった子だなって思った。
「そうだ!貴方...名前は?」
またしても突然の質問に驚いてしまったが、なんとか答えることができた。
「えっと、開町鎖織。鎖織って言います。」
「そっか。えと、私は夜湖 蕾(よるこ つぼみ)っていうの。それで、鎖織君は何をしていたの?」
「えっ....あっ、えっと...ちょっと、考え事。大したことないやつ。」
「ふーん...じゃあ、何考えてたの?」
「え!?」
いや、なんで!?そこ聞いてくるの!?聞かないところでしょ、そこは...
「え、何で?」
「大したことない悩みだったら、絵の題材にできるかなって。私、抽象画を描くのが好きって言ったでしょ?軽めの悩みだったら、絵にしてきれいにしたほうが、気持ちも楽になるかなって。」
いやいや、そんな事言われても。それに、僕が抱えている悩みは、そんな物では下ろせないと思う。けど...知らない、あんまり面識がない人になら、逆に話せる気がしてきた。多分、今後関わることないと思うし、この"何か"が移る心配をしなくて済む。そう思うと、別に変に警戒しなくても良い気がしてきた。
「うん、分かった。言うよ。ただ、あんまし面白くないと思う。」
僕は悩みを断片的に話した。抽象画が好きって言ったから、よりポエムチックに話した。そりゃ、恥ずかしかったけど、話せば話すほどそういう表現が出てきたから、どうしようもなかった。
「なるほど、そういう感じなんだね。えーと、構図は...」
そう呟いたところで、チャイムが鳴った。
「あ、もう戻んなくちゃ。」
「んじゃ、完成したら見せるね。」
彼女はそういうと、セットを片付け始めた。
 あれから、定期的にあのベランダに通っている。...正直、気になっていたから。悩みを抽象画化するって、僕にとっては惹かれ内容だったから。けど、彼女は合う度に
「また来たんだ。」
とか、
「まだまだ〜。内緒。」
とか、そういう返事を返すばかりだった。こちらは新刊発売日まで毎日その漫画の予告をチェックするほどだから、正直じれったい。でも、絵は予想以上に完成に時間がかかるってのを知っているから。それも仕方がないかとなんとか納得させている。けど、それが一ヶ月あたりも続いたら、流石にじれったい気持ちはたまりに貯まる。それに、気がついたら気楽な呼び方になっていた。最初は名前なんて呼ばずに『ねえ』とか『あのさ』とか、なんとか逃げ腰の呼び方で呼んでたけど、『蕾さん』なんて迂闊に呼んじゃった時は、顔から火が出るかと思った。蕾も、驚いてたけどさ。それがもう一週間経てば、今みたいに蕾呼びに変わっていた。嫌な気分では、お互い無いと思ってる。一応、確認、取ったから。めちゃくちゃに、恥ずかしかったけどさ。とにかく、割と長い間通った。風景画が、メーメの絵に変わるくらいは。
 けど、メーメの絵が完成して数日経った時、突然様子が変わった。いつもどおりに遊びに行った時、蕾は元気がなかった。いつもなら、僕が来るたびに笑っているはずなのに、今日はぎこちなく笑っていた。メーメのちょっかいにも、全然応じない。それで、どうしたのかって聞いてみた。でも、蕾は
「ううん、何でも無いの。」
って、苦しそうな笑いでごまかしてくるようになった。
「話してみてよ。俺が話した時みたいにさ。抽象画にもできるんじゃないの。ほら、ナントカの苦悩、みたいな感じで。」
「ありがと。でも、ごめんね。比べるつもりはないけど、結構悩んでいるから。」
俺だって、結構_と言いかけたけど、止めた。そんなの、後出しジャンケンみたいなもんじゃんか。それから、日を追うごとに暗くなっていった。
 ある日、部活帰りに、美術室に寄ることにした。もしかしたら、部活関係の悩みかもしれないし。それに、よく話すのに見てみぬふりはなんか違う気がする。寄るって行ってもチラ見ぐらいだし、そこまで迷惑かけるわけでもない。...待て、は流石に待たされ過ぎだしさ。だから、バスケのユニフォームの入ったバッグを肩にかけて、偶然通りかかった風を装って、部室の前を通った。時間はもう夕方遅くで、辺りは暗くなっていた。部室にはまだ明かりが点いていた。だから、その明かりが、泣いている蕾の姿を際立たせるスポットライトみたいに思えた。
 居ても立っても居られず、僕は美術室の扉を開けた。蕾が、泣き顔でこちらを見た。
「鎖織、くん...?」
震える声で僕の名を呼んだ。まるで、せき止めていたものが溢れてしまったような顔だった。僕はただただ目を見開いて、無言で見ることしかできなかった。けど、こうしちゃいられないと思って、急いで声をかけた。
「ね、ねえ、ど、どうしたの。何があったの?」
「...ううん、何でも無いよ...」
こんな時でも蕾はまた隠そうとしてくる。何にも考えずに僕は怒鳴った。
「何でもないわけ無いだろ!そんな顔して、まだ隠すのかよ!」
「...っ!」
怒鳴ってしまった後、急に冷静になった。やっ、やっば...!やらかした!泣いている子に急に怒鳴るのは、よくよく考えれば結構酷なことをしている。
「ごっ、ごめん怒鳴って...!」
「...ううん、大丈夫。...そっか...そうだね、うん、私も、話さなきゃだよね。」
そういって蕾は鼻をすすりながら絵の方を見た。もしかして、絵のスランプ?そう思ったけど、絵は完成していた。画家がよく被っている帽子を被った、絵の具の飛び散るエプロンを付けて、微笑んでいる女性が居た。よく見ると、その絵の女性は蕾に雰囲気が似ていた。出来も、素人目線だけど良いものに見える。
「この絵、さ...私をモチーフにして描いたの。テーマが、『将来の自分』っていうもので、課題として出されたの。」
「そうなんだ。良く描けてると思うけど。」
「ありがと。...でも、でもさ...完成する度に、なんだか、胸騒ぎっていうか、違和感って言うのかな。そんな感じのが、ぶわって来てさ...。」
蕾の声が段々と震えてきた。
「絵を、完成した絵を見る度に、絵の自分が、自分のはずなのに、別人に見えるの...!絵の中の誰かが、『これはお前じゃないだろ』って、言ってるように思えてさ...そしたら、怖くなっちゃってっ...。」
蕾の声は完全に泣き声になった。
「自分の将来の姿が、全く浮かんでこないの!夢も、やりたいことも決まっているのに...!ずっと、ずっと、はっきりしないままで...正直、辛いよ...!」
蕾の目からまた、涙がポロポロと溢れてきた。と同時に、蕾の首にも何かが見えた。
"何か"だった。僕の首の周りに蔓延っている"何か"。それが、ゆっくりと蕾の首周りに漂い始めているのが見えた。
 思わず息を呑んだ。と、同時にとんでもないことをしてしまったことを痛感した。始めは、知らない人だから、初めて会った人だからって、この悩みを、首の周りに巣くう"何か"に触れさせてしまっていいと思ってしまった。でも...でもっ、これは、このとんでもないものは、誰かに移しては行けないものだった!だって言うのに、何も考えずに、僕は...!とにかくなにか言葉をかけようと、僕は軽すぎる言葉を並べた。
「その絵はとりあえず提出して、とかは...?」
「手を抜けって言うの...?」
「あっ、いや、そうじゃなくて...駄目か、じゃあ、見送る、とか...先生に話せば、何とか...。」
「今回の課題は、コンクールにもつながるんだよ?」
どうにもこうにも。八方塞がり。そんな言葉しか出てこなくなった。でも、そんな言葉じゃ、何の助けにもならない。
 僕が黙ってしまっていると、蕾は首を振ると
「ごめん、めんどくさくなっちゃって。ありがとね、相談、乗ってくれて。」
そう言って蕾は道具を片付け始めた。道具の片付けを手伝う事もできず、かといってその場にいるのも気不味く
「...何かあったら、言ってね。俺も、頑張ってみる...。」
そういって去ることしかできなかった。
 昇降口には、メーメがまたのんびりと、あくびをしていた。僕はメーメに近づいて、そっと撫でた。メーメは嫌というわけでもないし、かと言って気に入っているわけでもない。そんな様子だった。ふと、さっきの様子が思い出された。さっきの僕は、とてもカッコ悪かった。いけしゃあしゃあと踏み込んで、自分の持っているものに触れさせて、大きな壁を作っちゃって、、それが壊せないと分かったら、次こそはって、何とか頑張っているような振る舞いを見せて。本当に、ダサい。でも、今の僕ではどうしようもなかった。何も、思いつかない。僕はメーメを撫でながら、ふと呟いた。
「お前も、蕾と仲が良いならどうにかしてやってくれよ。」
メーメはまた大きな欠伸をした。
『知らないよ。あっちにはあっちなりの考えがあるでしょ。それをとやかく言う必要はあるのかな。それに、首を突っ込んだのはそっちでしょ。自分でどうにかしなよ。』
状況が状況だから被害妄想も混じっているけど、なんだかそんな感じのことを言っているような気がした。僕は撫でる手を止めて、おとなしく家に帰った。
 寝る前になっても今日の事が頭に浮かぶ。何とか助けたい。でも、どうしたら?移してしまったのは、僕だ。だからこそ、他人事なんかじゃない。じゃあ、どうしたら?でも...心に、なんとなく引っかかった事があった。未来の自分の姿はわからないのに、形はしっかりと描けている。じゃあ、何かが、欠けているのかな。蕾は、僕とは違って土台ができている。だから、その何かを埋める決定的なピースがあれば...救えるかもしれない。