川端さんに切ってもらってから5日が経った。
 5日間では髪はほとんど変わらない。
 それでももう、待てないと思った。

 あの日からずっと川端さんのことが気になって気になってよく眠れない。仕事にも身が入らず、失敗ばかり。
 川端さんから川端くんを思い描くと似ているぐらいだったけれど、川端くんに想像で口髭を生やすと、川端さんの顔にしか思えなくなった。気付かなかったのが不思議なくらいだ。
 
 私は会社帰り、駆け込むようにして美容室のドアを開けた。
 たまたま受付カウンターにいた川端さんが驚いたように私を見た。そして、

「いらっしゃいませ! どうかされましたか?!  誰かに追いかけられたとか?!」

 早口に言ってカウンターから出てきてくれた。心配そうに私を見ている。川端さん、優しい人だな。

「い、いえ、大丈夫です」

 私が息を整えながら答えると、川端さんは一度、「良かった」と息を吐いた後、戸惑うような表情になった。

「では、今日は……どうなさいましたか? 前回のカットの後、何か問題でもありましたか?」
「いいえ! 何も!」

 全力で否定した。

「では……?」

 怪訝そうな顔になった川端さんに、私はこくんと喉を鳴らしてから、川端さんの目を見つめた。

「あの! あまり伸びてないのですが、カットをしにきました! 今日はシャンプーもカットも川端さんにお願いしたいです! よろしくお願いします!」

 最後の方、声が裏返って、私は慌てて喉元を押さえた。川端さんはちょっと目を丸くして、次の瞬間嬉しそうに笑った。
 笑うと幼くなるその笑顔は、あの頃の川端くんの笑顔に酷似していた。

 ああ。この人はやっぱり……。

 なんだか胸のあたりが苦しくなった。

「了解しました。シャンプー台へどうぞ」

 感傷的になる心を振り払うように私は川端さんの後ろを歩いた。
 段々と心臓の鼓動が早まる。
 川端さんが神の手の人かどうか分かることにどきどきしているのか、それとも川端さんが川端くんであることにどきどきしているのか。
 どちらもだけど、後者の方が気になっている自分がいた。

 シャンプー台の椅子に座った時、緊張と期待は最高潮に達した。

「椅子倒しますね」

 川端さんはきっと神の手の人に違いない。
 そうじゃないと、カットの時に私、寝たりなんかしないはず。


 お湯の音がした。
 そして。

 ――きた!

 やっぱり、神の手の人は川端さんだった。
 この手の感触。
 私の中の川端くんが、泣きそうだった笑顔から、あの日髪に触れたときに見せた幸せそうな笑顔に変わっていく。
 優しく撫でるように髪を手でとかれ、私は力が抜けるのを感じた。
 川端くんに許してもらえているような、そんな感覚。
 私は懐かしいような、幸せなような気持ちで心がいっぱいになった。
 やはり二人は同一人物のような気がした。

「お疲れ様でした」

 川端さんの声がして、ふぅと息が自然と洩れた。緊張がほぐれた。やっぱり私は川端さんになら髪を触られても不快どころか、気持ちがいい。

「あの……シャンプー、お上手ですよね」

 心の底からの私の言葉に、

「そうですか? 嬉しいですね。ありがとうございます」

 川端さんが私の髪を優しく拭きながら笑っているのが分かった。

 神の手の人は特定できた。
 でも、さあ、ここからが本番だ。
 私の緊張が再び高まった。

「今日も切りそろえるくらいで大丈夫ですか? あまり伸びてませんので、本当に毛先だけにはなりますが……」

 川端さんの言葉に、私は、

「いいえ」

 と震える声で答えた。

「ショートボブにしてください」

 この数日間ずっと考えていたことだった。
 川端さんが川端くんであるなら、私は謝りたい。その誠意の証に、大事な髪をあの時のように短く切る。

 川端さんは、鏡越しに私を驚いた目で見た。

「あの……差し出がましいかもしれませんが、短く切られたらここまで伸ばされるには時間がかかりますよ?」

 それはもちろん分かっている。苦労して伸ばしてきた髪だもの。

「大丈夫です。お願いします」
「……分かりました。少し勿体ない気もしますが、心を込めて切ります」

 川端さんは自分のことのように神妙な顔をして言った。

 ショートボブ。あの時の髪型。もし川端さんが川端くんなら、そして彼が私を覚えているなら何か感じてくれるかもしれない。そんな淡い期待を抱いていた。


 シャキンシャキンと軽やかなハサミの音が響く。私は鏡に映る川端さんを盗み見た。真剣な顔をして、今日も川端さんは優しい手つきで髪を切っていた。
 彼が川端くんなのか確かめたい。でも、どう話を切り出していいのか私は困っていた。

「僕の顔に何かついていますか?」

 川端さんに尋ねられて私の心臓がどくんと鳴った。

「い、いえ、何も」
「切っているところをずっと見られるって結構恥ずかしいですね」

 川端さんは照れたようにそう言った。
 
「すみません」

 思わず謝った私に、

「自分の大切な髪がどんな風に切られるかはやっぱり気になりますよね」

 と川端さんは言ってくれた。そんな優しい彼に私は背中を押されて、

「あの、川端さんはどうして美容師さんになったんですか? 」

 と言葉を紡いだ。
 鏡の中の川端さんは驚いていた。

 いきなり「川端くんですか?」とは訊けず、口にした言葉だったけれど、かなり個人的な質問だったかもしれない。違うことを訊けば良かった。

「あ、あの。すみません。いきなりこんなこと……」

 焦って謝る私に、川端さんは可笑しそうに笑った。

「いえ、いいんですよ。……そうですね~」

 川端さんは言って少し黙った。私も黙って答えを待つ。

「年の離れた妹がいて、僕がよく髪を結んでいたんです。頼まれていたからやっていたんですけど、それを楽しんでる自分がいて……」
 
 妹。川端くんにも確か妹がいたはず。

「そうなんですね。 私にも姉がいて、よく髪をとかしてもらいました」

 私は高まる緊張を抑えるように、ゆっくり声にした。川端さんは一度微笑んだけれど、急に過去を想うような遠い目になった。
 私はそんな川端さんの顔を鏡越しに見つめて、言葉を待つ。

「でも、その後、僕にとっては今でも忘れられない出来事がありまして……」

 川端さんは少し辛そうな顔になって言った。

「僕はその出来事の後、髪にしばらく触れられなくなったんです。どうしてもそのことが忘れられなくて」

 川端さんの言葉に私は驚いた。

「髪に触れられなく、ですか?」
「はい……」

 私は鏡に映る、憂いを帯びた表情の川端さんに心が痛んだ。
 髪に触れなくなるなんて、よっぽどのことだったんだろう。

「……傷つけたんです」

 川端さんは言った。
 鏡の中の彼と目が合う。彼は私の目をじっと見つめていた。私は戸惑いながらもその目を見つめ返す。

「僕は好きな人を傷つけてしまったんです」

 彼は傷つけたと言いながら、誰よりも傷ついた顔をしていた。ああ、この表情をやっぱり私は知っている。

「好きな人の髪に触れたんです」

 私は心が騒めいて落ち着かなかった。
 先ほどまで私の髪を切っていた川端さんの手は止まっていて、震えていた。シャツを捲り上げた左手首に少し大きなほくろがあるのが目に入った。
 私は思えている。
 あの日、私の机に川端くんがついていた手。まだ夏服で、半袖から伸びた川端くんの左手首にも同じところにほくろがあった。

 ーーああ。やっぱり。
 私は確信した。
 川端さんは、川端くんだ。

 そうならこの話は、間違いなく、あの日のこと……。

「自分の欲望で、その人を傷つけてしまった。……今でも忘れられません」

 川端くんは鏡の中の私から目を逸らさないで言った。その顔には苦悩が宿っていた。
 川端くんのそんな顔はもう二度と見たくはなかった。

「……川端さんはあの川端くんだよね?」

 私の口から自然と言葉が漏れた。

 川端くんは一度驚いた顔をして、そしてあの日と同じ泣きそうな笑顔を浮かべてゆっくり頷いた。

「あの時は、本当にごめん」

 と川端くんは言った。

 私の目から一筋の涙が溢れ落ちた。

 彼は背が高くなっていて。声も低くなっていて。頭も坊主頭じゃなくて。口髭もはやしていて。
 でも、この泣きそうな笑顔は何度も何度も脳裏をよぎった川端くんのままだ。あの時も、私がこんな表情をさせてしまった。彼が悪いんじゃなかったのに。

「西崎こそ、男性スタッフに髪を触られるのが苦手だったみたいだけど、俺のせい、だよな?  本当にごめんな」

 川端くんはまた手を止めて、私の目を見ながらはっきりとそう言った。
 私は正直に話すことにした。

「川端くんのことが原因なのは否定出来ないかな。情けないけれど、トラウマになってた。
私、精神的に幼なかったんだ。私は髪だけが自分の取り柄で、綺麗なものだと思ってみたい。川端くんに触られた時、失礼にも思ってしまったの。私の大切なもの、失くなっちゃったって。川端くんがね、初めてだったんだ。男性で私の髪に触ったの。それで勝手に傷ついて……」

 自分でもうまく説明ができなくて、言葉を探しながら言った私に、川端くんは本当に申し訳なさそうな顔になった。

「そっか。西崎にとって髪は自分そのもの、というか、特別だったんだな。それなのに、ごめん」

 私は慌てて首を横に振る。

「謝らないで! 私こそごめんなさい。私、馬鹿だよね。髪にばかり気を取られて、当時、肝心なことに気が付いていなかったの。髪よりも川端くんを失くす方がずっと辛いってこと。後で気付いて……」

 再び涙が落ちた。
 私は本当に幼稚で馬鹿だった。
 川端くんと居ると居心地がいい。でもそれは友達としてだと思っていた。
 髪を触られて初めて川端くんを異性として意識してしまったことに戸惑い、髪に気を取られて、初恋にさえ気付かなかった私。
 私はあの日からずっと川端くんのことを考えていた。意識していた。その後好きになった誰よりも川端くんの印象が強かった。
 
「あの日以来、男性に髪を触られると川端くんの悲しそうな顔が頭をよぎるようになって、苦しかった。ずっと後悔していた。本当にごめんなさい。川端くん。傷つけてごめんなさい」

 苦しかった。
 川端くんでない男性に触られると、私は罪悪感と共に川端くんを思い出した。そして、触られていることを不快に感じた。それは川端くんじゃないからだったのだ。
 あの日、川端くんは本当に愛おしげに私の髪を触ってくれた。私を心から好きだったからだと思う。私はどこか深いところでそれを感じとっていたのだ。

「……今日、川端くんに謝ることができて本当によかった」
「そうだったのか……。西崎も俺もずっとあの日のこと忘れられなくて、謝りたかったんだな」

 川端くんは感慨深げに言った。
 私は出てこようとする涙を拭って笑う。

「実は、川端くんに初めてシャンプーしてもらった時、私、癒されたの。あの日みたいに優しく私の髪を触ってくれたね。まるで神様の手みたいだと思った」

 私はどこかで思っていたんだと思う。川端くんにもう一度髪を触って欲しいと。時を戻して、あの日自分がした返事をなかったことにしたいと。

 川端くんは笑顔になった。

「シャンプー? 神様の手だなんて、大袈裟だな」
「シャンプーもだけど、カットにも、ブローにも癒された。……川端くんは本当に素敵な美容師さんになったんだね」

 川端くんは一瞬目を見張った。そして中学生の時のような屈託のない笑顔になって、

「ありがとう」

 と言った。

 私はこの笑顔が好きだったことを思い出す。
 中学一年生の川端くんと過ごした日々は私にとってかけがえのない、楽しい時間だった。
 髪を触られて、友人関係が壊れて、初恋も自分で駄目にして。一気に色んなものを失った私は、ずっとあの日から進めていなかったのだ。でも、川端くんに謝ることができて、やっと一歩前に踏み出せた気がする。

「俺が美容師になった理由の続きな。逃げてたら駄目だと思ったんだ。誰よりも好きな人を傷つけたことに向き合わなければって。まさかこんな風に本人に謝れる日が来るなんて思ってもなかった。本当によかった」

 私はその川端くんの言葉に頷きながらまた涙を零した。それは温かい涙だった。川端くんの目を見ると、彼の目も潤んでいた。

「なんか、美容室で何やってるんだろうな、俺たち」

 川端くんは苦笑して、恥ずかしそうに周りを見回す。
 聞こえていただろうに、フロアにいた人たちは聞こえなかったふりをしてくれていた。けれど、彼らの口元は笑っていた。

 川端くんは再びはさみを動かしだした。シャキンシャキンと涼やかに響くはさみの音を私は幸せな気分で聞いていた。 

「あの時も西崎はショートボブだったよな。良く似合っていた」
「ありがとう。覚えていてくれて嬉しい」

 川端くんは今日も最高のカットをしてくれ、そして優しくブローをしてくれた。
 川端くんは二面の鏡を持ってきて、私の髪を全方向見えるように動かす。

「いかがですか?」

 あの日の私に近い髪型の私。鏡の中の大人になった私は幸せそうな顔をしていた。髪を切った分以上に心が軽くなった。川端くんと話が出来て本当に良かった。

「素敵に切っていただき、ありがとうございました」
「こちらこそありがとうございました」
 
 私は。
 この時、一番あの日の川端くんの気持ちが分かったかもしれない。
 私はまだ川端くんが好きだ。
 中学生の時から今までの時間を埋めたい。美容師と客の関係で終わらせたくない。もっと関係を進ませたいと思った。



「ありがとうございました」

 美容師の顔に戻って深々と頭を下げた川端くんに、私は勇気を振り絞ることにした。

「川端くん、もしよければ、これからも私の髪をカットしてくれますか? 」

 私の言葉に川端くんは曇りのない笑顔を見せた。

「シャンプーも、ですよね?」
「あ、言う前に言われちゃった」
「いいですよ、勿論」

 川端くんは笑って答えてくれたけれど、これはきっと美容師としての笑顔だ。
 それじゃあ、寂しいから。物足りないから。

「ありがとう。……それから、美容室以外でもまだまだ話してみたいです。あの。あの……! お、お付き合いして頂けないでしょうか?」

 頭を下げて震える声で言った。
 心臓がうるさい。緊張で手が汗でベタベタした。
 恐る恐る顔を上げると、神の手の人は頬を赤らめて、川端くんの顔になっていた。そして照れた笑顔で、

「俺でよければ、こちらこそよろしくお願いします」

 と言った。

 この日以来、私のトラウマは治った。
 私の中の悲しい笑顔の川端くんは消えて、私の隣で彼は幸せそうに微笑んでいる。
 私の拗れた初恋は十一年の歳月を経てやっと成就したのだった。


            了