営業先で叱られるなんてことはよくあるから、その度に落ち込んでいては仕事にならない。それはわかってるけれど、頭痛などの体調が良くない時と重なるとやっぱりめげそうになる。
気晴らしに美容室に行こうと思ってふと思い出す。今日行ってももう今田さんはいないのだ。なんだか急に寂しく心細くなった。次の美容師さんが決まっていない不安もある。けれど。
私は自分の前髪を指で梳かしてみた。前回今田さんに切ってもらってからまだ12日。前髪は切るまでは伸びていない。後ろ髪の毛先に残ったパーマの部分は切れないこともない、かな。
気分転換は二の次でもいい。今は早く神の手の人を早く探したい。
会社帰り。私は意を決して美容室の方へ歩き出した。
「少々お待ち頂くことになりますから、先にシャンプーしますね。シャンプー台の方へどうぞ〜」
今回も私をシャンプー台に案内したのは茶髪の彼だった。がっかりだったが、他の男性にしてほしいとは言いにくい。仕方なく案内されるままにシャンプー台の方へ歩く。
「力抜いて大丈夫ですよ~」
店員さんが頭を持ち上げて後頭部から後ろ髪を洗うとき、私は頭の重みを店員さんの手に預けきれない。腹筋で上半身を浮かせなくてはならないのできついのだが、そこまで自分を委ねられないのだ。今日もそうして、体重をかけないでいると、茶髪の彼は何度もそう言った。今田さんのときさえできなかったのだ。そう言われても無理なものは無理。神の手の人の時に自然と委ねてしまえたのが本当に不思議だ。
茶髪の彼はその日も几帳面にシャンプーをすると私を席に案内した。
シャンプーの後、私は雑誌を読みながら美容師さんが来るのを待っていた。
もちろん雑誌の内容なんて頭に入ってこない。先程から同じところばかりを読んでいた。
「お待たせしました」
落ち着いた低い声が背後からして、私の心臓が跳ね上がった。
(この声だった気がする!)
挙動不審に思われないように、ゆっくりと雑誌から視線をあげると、鏡に映った男性が穏やかに微笑んでいた。
口髭が少し渋い感じだが、やっぱりまだ若い男性だ。背はやや高め。どちらかというと痩せてる。瞳にたたえる光が柔らかなのに、少年のような茶目っ気も感じる。会いたいと思っていたからか、初めて会った気がしなかった。
正直口髭は好みではないけれど、でも、その口髭さえ魅力的に見えた。
「今日はどうされますか?」
柔らかい低い声が彼から紡がれる。
やっぱりこの声だったと思う。
無口な黒髪の美容師さんでも、茶髪の店員さんでもない。最後の人。たぶん、彼が神の手の人なんだろう。なんだか胸が熱くなった。
鏡に映る彼の目と目が合った。一瞬既視感に襲われて、私は瞬きをした。
(あれ……?)
彼はなかなか答えない私を不思議そうな目で見ている。
「あ、すみません! えっと、カットをよろしくおねがいします。前髪は本当に毛先だけ切っていただいて、横と後ろはパーマが残っている部分を切ってください」
私の言葉に彼は私の前髪をそっと触った。
ドキリとして、背筋を伸ばす。
「真っ直ぐな髪ですね。でもまだ目にかかるまではないですね。じゃあほんの少しだけ切りましょうか。そしてパーマが残って傷んでいる部分を中心に切っていきますね。長さはあまり変えたくないのですよね?」
彼の言葉に私は現実に戻された。鏡に映る彼はどこか懐かしそうな目をしていた。
「どうかしましたか?」
またもやすぐに答えられなかった私に彼が優しく声をかけてくる。
「あ、すみません。はい。伸ばしているので短くは切って欲しくないです。それでお願いします」
「横は前と後ろに合わせてバランスをとるように切りますね」
彼はゆっくりとした手つきで髪を一房《ひとふさ》優しくとった。その動作に私は川端くんを思い出す。心臓が口から飛び出そうなくらい緊張していた。
ところが。
それは不思議な感覚だった。
私の中で、泣きそうな顔だった川端くんの顔が笑顔になるような錯覚がしたのだ。
(え?)
そして訪れたのは髪が喜んでいるような、くすぐったいような気持ち良さ。
彼は慣れた手つきで切るのが速い。でも、丁寧に丁寧に切ってくれているのがわかった。彼はとても髪が好きなんだろうと思った。
そして、思った。神の手の人はやはりこの人に違いないと。
「……か?」
――遠くでずっと聞きたかった声がする。低くて穏やかな神の手の人の声。
私、ようやく会えたんだなあ。
「に……し…………き……ん」
声が聞こえる。近くで。
「西崎さん? 大丈夫ですか?」
はっとして私は目を開けた。
(私、寝てたの?!)
「お疲れの様ですね。このくらいの長さで大丈夫ですか?」
(恥ずかしい。私、よだれ出てないかな)
慌てて鏡を見る。
よだれは出ていないけれど、鏡に眠たそうな自分が映っていた。
髪は少し短くはなっていたけれど、許容範囲だった。
「あ。はい。大丈夫です」
「ブローしますね」
彼は言ってから髪を乾かし始める。
優しい優しい手つき。
ドライヤーの音がするのに、あまりの心地よさにまた船を漕ぎそうになる。
気持ちいい。昔から知っているような。姉の手を思い出すような。不思議と安心する。
何より川端くんの責めるような泣き笑い顔が、おさまっている。
(安心? 男性の手に?)
「こんな感じですが、どうですか?」
彼の声にぼんやりしていた意識を無理やり呼び戻す。
私は鏡の中の自分と対面して、この人は上手い人なんだと思った。髪の長さは少し短くはなったけれど、私の要望は叶えてくれていて、カット前よりしっくり私に馴染んだ髪型になっていた。
彼の持っている鏡で後ろも確認。
「とてもいいです。ありがとうございました」
「ありがとうございました。帰り道、気を付けてくださいね。またよろしくお願いします」
美容室を出る時、深々と彼に頭を下げられ、私もつられてペコリと頭を下げた。
――と、大事なことを忘れていた。
「あの、貴方の名前を教えて頂けますか? 次も頼みたいのです」
「……僕は……川端と言います」
彼は少し躊躇うように名前を名乗った。
(え?)
私はその名前に驚いて彼を見た。目が合う。
(あ、れ?)
何度目かの既視感。
「どうかされましたか?」
「いえ、すみません。帰ります」
「ありがとうございました」
私は美容室を出てから家までの道を走って帰った。
「どうかしたの?」
息をきらして帰ってきた私に驚いた母が台所から顔を出す。
「何でもない」
私は答えて自室に篭った。
動悸がする。なんだか呼吸も苦しい。
一度深呼吸をして、髪に触れる。手で髪をすいていると、少しずつ落ち着いてきた。
きっと神の手の人だろう川端さんの顔を思い出す。
髭が邪魔してイメージがなかなかあの川端くんと一致しない。でも似てるといえば……似てる!
私は涙腺が緩むのを感じた。
(もしかして、川端くん。貴方なの? 初めて会った気がしなかったのはそれでなの?)
カット中に眠るなんて初めての経験だった。よほど安心していたんだと思う。
それはなぜ? 昔感じていた心地よい空気を感じたからじゃないの?
川端くん。私のトラウマの原因になった人。
神の手の人。男性で初めて安心して髪を任せられた人。
同じ人なの? 川端くん。
その日私はなかなか寝付けなかった。眠りに落ちた後も、中学一年生だった川端くんと、神の手の川端さんの顔が交互に夢にでてきて、熟睡できなかった。
それから三日間。私はずっと落ち着かずに毎日を過ごした。
たぶん神の手の人は川端さんに違いない。それはシャンプーをしてもらえば分かること。
そんなことより。
もし川端さんがあの川端くんなら、私は言いたいことがある。言わなきゃならないことがある。
(行かなきゃ。美容室に行かなきゃ!)
気晴らしに美容室に行こうと思ってふと思い出す。今日行ってももう今田さんはいないのだ。なんだか急に寂しく心細くなった。次の美容師さんが決まっていない不安もある。けれど。
私は自分の前髪を指で梳かしてみた。前回今田さんに切ってもらってからまだ12日。前髪は切るまでは伸びていない。後ろ髪の毛先に残ったパーマの部分は切れないこともない、かな。
気分転換は二の次でもいい。今は早く神の手の人を早く探したい。
会社帰り。私は意を決して美容室の方へ歩き出した。
「少々お待ち頂くことになりますから、先にシャンプーしますね。シャンプー台の方へどうぞ〜」
今回も私をシャンプー台に案内したのは茶髪の彼だった。がっかりだったが、他の男性にしてほしいとは言いにくい。仕方なく案内されるままにシャンプー台の方へ歩く。
「力抜いて大丈夫ですよ~」
店員さんが頭を持ち上げて後頭部から後ろ髪を洗うとき、私は頭の重みを店員さんの手に預けきれない。腹筋で上半身を浮かせなくてはならないのできついのだが、そこまで自分を委ねられないのだ。今日もそうして、体重をかけないでいると、茶髪の彼は何度もそう言った。今田さんのときさえできなかったのだ。そう言われても無理なものは無理。神の手の人の時に自然と委ねてしまえたのが本当に不思議だ。
茶髪の彼はその日も几帳面にシャンプーをすると私を席に案内した。
シャンプーの後、私は雑誌を読みながら美容師さんが来るのを待っていた。
もちろん雑誌の内容なんて頭に入ってこない。先程から同じところばかりを読んでいた。
「お待たせしました」
落ち着いた低い声が背後からして、私の心臓が跳ね上がった。
(この声だった気がする!)
挙動不審に思われないように、ゆっくりと雑誌から視線をあげると、鏡に映った男性が穏やかに微笑んでいた。
口髭が少し渋い感じだが、やっぱりまだ若い男性だ。背はやや高め。どちらかというと痩せてる。瞳にたたえる光が柔らかなのに、少年のような茶目っ気も感じる。会いたいと思っていたからか、初めて会った気がしなかった。
正直口髭は好みではないけれど、でも、その口髭さえ魅力的に見えた。
「今日はどうされますか?」
柔らかい低い声が彼から紡がれる。
やっぱりこの声だったと思う。
無口な黒髪の美容師さんでも、茶髪の店員さんでもない。最後の人。たぶん、彼が神の手の人なんだろう。なんだか胸が熱くなった。
鏡に映る彼の目と目が合った。一瞬既視感に襲われて、私は瞬きをした。
(あれ……?)
彼はなかなか答えない私を不思議そうな目で見ている。
「あ、すみません! えっと、カットをよろしくおねがいします。前髪は本当に毛先だけ切っていただいて、横と後ろはパーマが残っている部分を切ってください」
私の言葉に彼は私の前髪をそっと触った。
ドキリとして、背筋を伸ばす。
「真っ直ぐな髪ですね。でもまだ目にかかるまではないですね。じゃあほんの少しだけ切りましょうか。そしてパーマが残って傷んでいる部分を中心に切っていきますね。長さはあまり変えたくないのですよね?」
彼の言葉に私は現実に戻された。鏡に映る彼はどこか懐かしそうな目をしていた。
「どうかしましたか?」
またもやすぐに答えられなかった私に彼が優しく声をかけてくる。
「あ、すみません。はい。伸ばしているので短くは切って欲しくないです。それでお願いします」
「横は前と後ろに合わせてバランスをとるように切りますね」
彼はゆっくりとした手つきで髪を一房《ひとふさ》優しくとった。その動作に私は川端くんを思い出す。心臓が口から飛び出そうなくらい緊張していた。
ところが。
それは不思議な感覚だった。
私の中で、泣きそうな顔だった川端くんの顔が笑顔になるような錯覚がしたのだ。
(え?)
そして訪れたのは髪が喜んでいるような、くすぐったいような気持ち良さ。
彼は慣れた手つきで切るのが速い。でも、丁寧に丁寧に切ってくれているのがわかった。彼はとても髪が好きなんだろうと思った。
そして、思った。神の手の人はやはりこの人に違いないと。
「……か?」
――遠くでずっと聞きたかった声がする。低くて穏やかな神の手の人の声。
私、ようやく会えたんだなあ。
「に……し…………き……ん」
声が聞こえる。近くで。
「西崎さん? 大丈夫ですか?」
はっとして私は目を開けた。
(私、寝てたの?!)
「お疲れの様ですね。このくらいの長さで大丈夫ですか?」
(恥ずかしい。私、よだれ出てないかな)
慌てて鏡を見る。
よだれは出ていないけれど、鏡に眠たそうな自分が映っていた。
髪は少し短くはなっていたけれど、許容範囲だった。
「あ。はい。大丈夫です」
「ブローしますね」
彼は言ってから髪を乾かし始める。
優しい優しい手つき。
ドライヤーの音がするのに、あまりの心地よさにまた船を漕ぎそうになる。
気持ちいい。昔から知っているような。姉の手を思い出すような。不思議と安心する。
何より川端くんの責めるような泣き笑い顔が、おさまっている。
(安心? 男性の手に?)
「こんな感じですが、どうですか?」
彼の声にぼんやりしていた意識を無理やり呼び戻す。
私は鏡の中の自分と対面して、この人は上手い人なんだと思った。髪の長さは少し短くはなったけれど、私の要望は叶えてくれていて、カット前よりしっくり私に馴染んだ髪型になっていた。
彼の持っている鏡で後ろも確認。
「とてもいいです。ありがとうございました」
「ありがとうございました。帰り道、気を付けてくださいね。またよろしくお願いします」
美容室を出る時、深々と彼に頭を下げられ、私もつられてペコリと頭を下げた。
――と、大事なことを忘れていた。
「あの、貴方の名前を教えて頂けますか? 次も頼みたいのです」
「……僕は……川端と言います」
彼は少し躊躇うように名前を名乗った。
(え?)
私はその名前に驚いて彼を見た。目が合う。
(あ、れ?)
何度目かの既視感。
「どうかされましたか?」
「いえ、すみません。帰ります」
「ありがとうございました」
私は美容室を出てから家までの道を走って帰った。
「どうかしたの?」
息をきらして帰ってきた私に驚いた母が台所から顔を出す。
「何でもない」
私は答えて自室に篭った。
動悸がする。なんだか呼吸も苦しい。
一度深呼吸をして、髪に触れる。手で髪をすいていると、少しずつ落ち着いてきた。
きっと神の手の人だろう川端さんの顔を思い出す。
髭が邪魔してイメージがなかなかあの川端くんと一致しない。でも似てるといえば……似てる!
私は涙腺が緩むのを感じた。
(もしかして、川端くん。貴方なの? 初めて会った気がしなかったのはそれでなの?)
カット中に眠るなんて初めての経験だった。よほど安心していたんだと思う。
それはなぜ? 昔感じていた心地よい空気を感じたからじゃないの?
川端くん。私のトラウマの原因になった人。
神の手の人。男性で初めて安心して髪を任せられた人。
同じ人なの? 川端くん。
その日私はなかなか寝付けなかった。眠りに落ちた後も、中学一年生だった川端くんと、神の手の川端さんの顔が交互に夢にでてきて、熟睡できなかった。
それから三日間。私はずっと落ち着かずに毎日を過ごした。
たぶん神の手の人は川端さんに違いない。それはシャンプーをしてもらえば分かること。
そんなことより。
もし川端さんがあの川端くんなら、私は言いたいことがある。言わなきゃならないことがある。
(行かなきゃ。美容室に行かなきゃ!)