中学生の時、私はソフトボール部だった。同じクラスには野球部の男子が何人かいて、その中に付き合っていると噂されるほど仲がいい男子がいた。彼の名前は川端くん。
川端くんと私は馬が合って、よく部活や野球の話で盛り上がった。私は当時川端くんのことを特別な友達だと思っていた。
その日、私は日直で、部活前に日誌を書いていた。教室に残っていたのは川端くんと私、二人だけ。川端くんは私の机に手を付き、寄りかかるようにしていた。
「日誌に書くこと困る~。何書こう」
「適当でいいって。給食が美味しかった〜とか」
「それじゃダメでしょ。うーん、なかなか思いつかない」
「西崎だけが日直じゃねーべ? 」
「中村くん、日誌は任せるって言って帰っちゃった」
「はは。ひでーやつ」
川端くんは童顔で笑うとますます幼くなる。その笑顔を見ると幸せな気分になるのだ。私もつられて笑った。
「私、要領悪いんだよね。昔から」
川端くんには思っていることが言える。私は悩んでいることを口にした。
「そうか? 西崎は要領が悪いんじゃなくて、真面目なんだと思うぜ」
私は目を瞬かせた。ちょっと照れくさいけど嬉しいと思った。
「褒めてくれてるの? ありがと」
私の言葉に川端くんはまたニカっと笑った。
「それより川端くんは部活は行かなくていいの?」
「いいわけないだろ。でも西崎も書き終わったら行くんだろ? それまで待つよ。今日は鬼の日野先生、休みなんだ。体調悪くて早退したらしい」
「そうなの? 珍しいね。日野先生、いつも大声で野球部員指導してるよね。野球部の男子、ちゃんとそれについてってるから凄いよ」
「だろ〜?」
「でも日野先生がいないからって遅刻はいかんぞ〜?」
「じゃあ、早く書いてくれよ、西崎!」
「人のせいにするなあ!」
二人で笑い合う。人付き合いがあまり得意ではない私にとって、川端くんとの時間は安心できて、かつ楽しいものだった。ずっとこうして一緒にいられたらいいな。そう思った。
五限目の授業が終わって間もない外はまだ明るかった。白いカーテンを通して柔らかな陽射しが入ってくる。そのカーテンをいたずらな風がふわりと揺らした。私のショートボブの髪も風になびいて、舞い上がった。
さらさらと涼やかな音をたてて私の髪がもとに戻った時、川端くんの手が動いた。
「西崎の髪って綺麗だよな」
「え?」
突然のことだった。
川端くんは私の横髪を一房とって、さらさらと落とした。宝物に触れるような手つきで。
ゾクリとした。
私は自分の心臓が止まるかと思うほど驚いていた。
何かが壊れるような。稲妻が身体を突き抜けるような。今まで感じたことのない、よく分からない衝撃。どこか気持ちいいとも思ったことに、かあっと自分の頬が熱を持つのが分かった。
「本当にさらさらだ」
言って、川端くんは頬をほんのり赤く染めて笑った。幸せそうな笑顔。私は初めての感覚に戸惑い、とっさに自分の髪に触れ、整え直した。心がざわざわした。
私の唯一の綺麗なものだった、髪。
その髪を川端くんに初めて触られて。
――汚された――
当時の私はそんな風に感じてしまった。操を守れなかった感覚に近かったかもしれない。
(たった一つのとりえだったのに……!)
そう思うと同時に、今更ながら、
(川端くんは男だった!)
という戸惑いもあった。
明らかに女子とは違う。
私の知らない川端くんがいることに衝撃を受けていた。
「あのさ」
川端くんの声が遠く聞こえた。
「俺、西崎のこと好き、だ。好きなんだ」
心が落ち着かず、川端くんに告白されたと理解するまでしばらく時間がかかった。私は呆けたようにただ、川端くんを見た。言葉が出なかった。さっきまであんなに楽しかったのに。今は心が騒めいて、どうにもならなかった。自分の髪に再び触れる。
「西崎? どうした? 髪ばっか触って……」
訳も分からず、涙が溢れそうになって、私は慌てて下を向いた。とにかく落ち着こうと何度も髪を触った。
私はこの時混乱していて、自分の気持ちにしっかり向き合わずに、返事をしてしまう。
「あー、えっと、ごめん。私、川端くんのことそういう感情で見たことなかった、かな。友達のままが、いいな」
この返事がどんな結果をもたらすかなんて考える余裕もなかったのだ。
「……そっか」
あっと思った時には、ぽたりと日誌に涙が落ちて、丸い染みを作った。
それに気付いたのだろう。川端くんは、
「ごめん、ごめんな! やばい。泣かしちゃった。どうしよう……。さっきから髪、触ってるけど、もしかして髪触られるのも嫌だった、とか? いきなり触ったもんな。ごめん! 本当、ごめん!」
と顔を真っ赤にして、坊主頭を掻きむしりながら謝った。
私は川端くんの問いに答えることが出来なかった。「嫌だった」というのとは違うのだ。もっと深い……。うまく説明ができない。
でも川端くんは、肯定だと受け取った。
川端くんは拳を握りしめ、一瞬下を向いて、ゆっくり顔を上げ、もう一度私の目を見た。私ははっとした。川端くんは泣くのを堪えるような笑みを浮かべていたのだ。
「今の告白、忘れていいから! 髪も二度と触ったりしない! ……だから、これからも友達ではいてくれよな! 本当にごめん。ごめんな!」
川端くんの悲しい笑顔に、私は息苦しさと胸の動悸を覚えた。
「じゃあ、またな」
川端くんは走って教室を出て行った。私は声をかけることが出来なかった。
一人残された私。
胸を占めるのは大きな喪失感。私は二度と戻らない大切なものを一気に失った気がした。
「うっ、うっ」
涙が後から後から溢れてくる。
日誌はもうめちゃくちゃだった。
その後どうやって家まで帰り着いたのかは覚えていない。私はその後二日学校を休んで泣き暮らした。
自分でもどうしてそこまで悲しく苦しいのかわからなかった。ただ一つ分かるのは、取り柄である綺麗な髪を失ったということ。実際はそんなことないのに、私は勝手にそう思い込んでしまい、大切なことに気付かなかった。
「結麻? 入るよ?」
部屋から一日出てこないでいた私に、姉が心配して部屋に入ってきた。
私はベッドの上に座り込み、泣きながら姉を見上げた。
「結麻……何かあったの?」
「私。私、もう綺麗な髪じゃなくなった」
「どうして? こんなに綺麗じゃない」
姉は私の髪を優しく触りながらそう言った。
私はその手つきが川端くんに似ているとぼんやり思って、ますます涙が溢れた。
「お姉ちゃん、私ね……」
私は姉に川端くんとのことを話した。
姉は私の言葉に静かに耳を傾けていた。
「大変だったね、結麻」
姉が言い、私はさらに涙を落とした。
「結麻は髪が汚されたと感じてしまったんだね。でも、結麻の髪はこんなに綺麗なままだし、それに、髪が結麻の全てなんかじゃないよ?」
「だって、私、お姉ちゃんみたいに美人じゃないし、成績も悪いし、髪以外、何のとりえもないんだもん」
「そんなことない。だから川端くんだって、結麻のこと好きになったんだよ」
私は姉の言葉で改めて川端くんに告白されたことを自覚した。
なんだか気恥ずかしく、奇妙な感覚だった。
ずっと仲のいい友達のまま一緒にいられると思っていたのに……。
「ねえ、結麻。結麻は川端くんに触られたから嫌だったの?」
それは確実に違うと思った。他の男子に髪を触られたらもっとショックだったと思った。
「結麻は素直で綺麗なままだよ? それなのにまだ何か不安があるの?」
何か?
分からない。なんでこんなに悲しいのか分からない。
「分からない」
「そう。結麻は丁度大人の階段を登っている途中なのかもしれないね。早く元気になって。結麻」
私には姉の言葉が理解できなかった。
姉が出て行った後も私は泣き続けた。
***
川端くんはその後も普通に接してくれたけれど、それがどんなに彼にとって辛いことなのか、当時の私には分からなかった。私は髪を触られたショックを引きずり、自分でもよく分からない恥ずかしさを持て余し、川端くんに普通の態度を取ることができなかった。そのうち二年生になって、川端くんとはクラスが離れてしまった。何かもの足りないような毎日が過ぎて、結局川端くんとまともに話すことがないまま卒業を迎えた。髪のことさえなければ、ずっと心地いい友人関係を維持できたのに。私はそんな的外れなことを思っていた。
ただ、あの川端くんの泣きそうな笑顔を忘れたことはなかった。川端くんのあの笑顔を思い出すと、時が戻ったように心が痛み、悲しくなるのだった。
その後、私と川端くんは別の高校に進学した。彼が今、どうしているかは分からない。
でも今ならあの日の川端くんの気持ちが分かる。
川端くんはただ、好きな人の髪に触れたかったのだ。
友達から先に関係を進めたかったのだ。
***
自分だけが傷ついたんじゃない。川端くんは私よりも傷ついたかもしれない。
高校生になって気になる男子ができた時、ようやく私はそのことに気が付いた。
好きな人に触れてみたい。
告白をして振られたら辛い。
当たり前と言えば当たり前のことだったのだ。
私は自分のしたことに罪悪感を覚えた。川端くんに謝りたい。そう思うようになった。
高校二年生の時、私にも彼氏がようやくできた。
ところが。
その彼が私の髪を触ろうとしたとき、私の頭を過ったのは川端くんのあの泣きそうな笑顔だった。私は混乱した。そして。
彼氏に髪を触られた私は、
「嫌!」
と思わず振り払ってしまったのだ。
(違う!)
とっさに思ったのはそれだった。
(この人は川端くんじゃない! 川端くんはこんな触り方、しなかった!)
結局その彼とはそれが原因で別れてしまった。
私は初めて気が付いた。
私が失くしたもの。
髪と大切な友達。
それだけじゃなかったのだ。
私はあの日、髪を触られて初めて川端くんを異性として意識した。
髪は穢れた。触られてショックだった。でもそれと同時に髪を触られて気持ちいい、嬉しいと思った自分に衝撃を受けてしまったのだ。そしてそれが初恋だと分からずにあんな返事をしてしまった。
私はようやく気が付いて、涙が止まらなかった。
私はなんてことをしてしまったのだろう。なんて多くのものを失くしてしまったのだろう。
私は呆れるほど幼かったのだ。
それからだ。
私は男性に髪を触られると川端くんを思い出すようになった。そしてその度に強く思うのだ。
(川端くん。傷付けてごめん。あんな顔させてごめん。傷ついたのは私だけじゃなかったんだよね。私は自分のことしか考えてなかった。貴方に謝りたい。貴方に、会いたい!)
川端くんを思い出すので、私は男性に髪を触られることがトラウマになってしまった。
でも、神の手の人は大丈夫だった。
なぜなんだろう。
初めてだった。姉の手以外であんなに心を委ねてしまう感覚。それが男性の手であるという衝撃。川端くんのトラウマのことも癒してくれるようなそんな不思議な優しさ。
顔も知らない相手なのに、こんなにも心が騒めく。不思議だ。
私はトラウマを克服できるんだろうか。
ううん。きっとできる。そんな気がする。
でも、私のトラウマは治っても川端くんの心の傷はどうなるんだろう……。癒えているんだろうか……。
そう思うと胸が痛んだ。
私、川端くんに会いに行ってみよう。トラウマを治せたら、会いに行って、謝ろう。
私は決意した。
川端くんと私は馬が合って、よく部活や野球の話で盛り上がった。私は当時川端くんのことを特別な友達だと思っていた。
その日、私は日直で、部活前に日誌を書いていた。教室に残っていたのは川端くんと私、二人だけ。川端くんは私の机に手を付き、寄りかかるようにしていた。
「日誌に書くこと困る~。何書こう」
「適当でいいって。給食が美味しかった〜とか」
「それじゃダメでしょ。うーん、なかなか思いつかない」
「西崎だけが日直じゃねーべ? 」
「中村くん、日誌は任せるって言って帰っちゃった」
「はは。ひでーやつ」
川端くんは童顔で笑うとますます幼くなる。その笑顔を見ると幸せな気分になるのだ。私もつられて笑った。
「私、要領悪いんだよね。昔から」
川端くんには思っていることが言える。私は悩んでいることを口にした。
「そうか? 西崎は要領が悪いんじゃなくて、真面目なんだと思うぜ」
私は目を瞬かせた。ちょっと照れくさいけど嬉しいと思った。
「褒めてくれてるの? ありがと」
私の言葉に川端くんはまたニカっと笑った。
「それより川端くんは部活は行かなくていいの?」
「いいわけないだろ。でも西崎も書き終わったら行くんだろ? それまで待つよ。今日は鬼の日野先生、休みなんだ。体調悪くて早退したらしい」
「そうなの? 珍しいね。日野先生、いつも大声で野球部員指導してるよね。野球部の男子、ちゃんとそれについてってるから凄いよ」
「だろ〜?」
「でも日野先生がいないからって遅刻はいかんぞ〜?」
「じゃあ、早く書いてくれよ、西崎!」
「人のせいにするなあ!」
二人で笑い合う。人付き合いがあまり得意ではない私にとって、川端くんとの時間は安心できて、かつ楽しいものだった。ずっとこうして一緒にいられたらいいな。そう思った。
五限目の授業が終わって間もない外はまだ明るかった。白いカーテンを通して柔らかな陽射しが入ってくる。そのカーテンをいたずらな風がふわりと揺らした。私のショートボブの髪も風になびいて、舞い上がった。
さらさらと涼やかな音をたてて私の髪がもとに戻った時、川端くんの手が動いた。
「西崎の髪って綺麗だよな」
「え?」
突然のことだった。
川端くんは私の横髪を一房とって、さらさらと落とした。宝物に触れるような手つきで。
ゾクリとした。
私は自分の心臓が止まるかと思うほど驚いていた。
何かが壊れるような。稲妻が身体を突き抜けるような。今まで感じたことのない、よく分からない衝撃。どこか気持ちいいとも思ったことに、かあっと自分の頬が熱を持つのが分かった。
「本当にさらさらだ」
言って、川端くんは頬をほんのり赤く染めて笑った。幸せそうな笑顔。私は初めての感覚に戸惑い、とっさに自分の髪に触れ、整え直した。心がざわざわした。
私の唯一の綺麗なものだった、髪。
その髪を川端くんに初めて触られて。
――汚された――
当時の私はそんな風に感じてしまった。操を守れなかった感覚に近かったかもしれない。
(たった一つのとりえだったのに……!)
そう思うと同時に、今更ながら、
(川端くんは男だった!)
という戸惑いもあった。
明らかに女子とは違う。
私の知らない川端くんがいることに衝撃を受けていた。
「あのさ」
川端くんの声が遠く聞こえた。
「俺、西崎のこと好き、だ。好きなんだ」
心が落ち着かず、川端くんに告白されたと理解するまでしばらく時間がかかった。私は呆けたようにただ、川端くんを見た。言葉が出なかった。さっきまであんなに楽しかったのに。今は心が騒めいて、どうにもならなかった。自分の髪に再び触れる。
「西崎? どうした? 髪ばっか触って……」
訳も分からず、涙が溢れそうになって、私は慌てて下を向いた。とにかく落ち着こうと何度も髪を触った。
私はこの時混乱していて、自分の気持ちにしっかり向き合わずに、返事をしてしまう。
「あー、えっと、ごめん。私、川端くんのことそういう感情で見たことなかった、かな。友達のままが、いいな」
この返事がどんな結果をもたらすかなんて考える余裕もなかったのだ。
「……そっか」
あっと思った時には、ぽたりと日誌に涙が落ちて、丸い染みを作った。
それに気付いたのだろう。川端くんは、
「ごめん、ごめんな! やばい。泣かしちゃった。どうしよう……。さっきから髪、触ってるけど、もしかして髪触られるのも嫌だった、とか? いきなり触ったもんな。ごめん! 本当、ごめん!」
と顔を真っ赤にして、坊主頭を掻きむしりながら謝った。
私は川端くんの問いに答えることが出来なかった。「嫌だった」というのとは違うのだ。もっと深い……。うまく説明ができない。
でも川端くんは、肯定だと受け取った。
川端くんは拳を握りしめ、一瞬下を向いて、ゆっくり顔を上げ、もう一度私の目を見た。私ははっとした。川端くんは泣くのを堪えるような笑みを浮かべていたのだ。
「今の告白、忘れていいから! 髪も二度と触ったりしない! ……だから、これからも友達ではいてくれよな! 本当にごめん。ごめんな!」
川端くんの悲しい笑顔に、私は息苦しさと胸の動悸を覚えた。
「じゃあ、またな」
川端くんは走って教室を出て行った。私は声をかけることが出来なかった。
一人残された私。
胸を占めるのは大きな喪失感。私は二度と戻らない大切なものを一気に失った気がした。
「うっ、うっ」
涙が後から後から溢れてくる。
日誌はもうめちゃくちゃだった。
その後どうやって家まで帰り着いたのかは覚えていない。私はその後二日学校を休んで泣き暮らした。
自分でもどうしてそこまで悲しく苦しいのかわからなかった。ただ一つ分かるのは、取り柄である綺麗な髪を失ったということ。実際はそんなことないのに、私は勝手にそう思い込んでしまい、大切なことに気付かなかった。
「結麻? 入るよ?」
部屋から一日出てこないでいた私に、姉が心配して部屋に入ってきた。
私はベッドの上に座り込み、泣きながら姉を見上げた。
「結麻……何かあったの?」
「私。私、もう綺麗な髪じゃなくなった」
「どうして? こんなに綺麗じゃない」
姉は私の髪を優しく触りながらそう言った。
私はその手つきが川端くんに似ているとぼんやり思って、ますます涙が溢れた。
「お姉ちゃん、私ね……」
私は姉に川端くんとのことを話した。
姉は私の言葉に静かに耳を傾けていた。
「大変だったね、結麻」
姉が言い、私はさらに涙を落とした。
「結麻は髪が汚されたと感じてしまったんだね。でも、結麻の髪はこんなに綺麗なままだし、それに、髪が結麻の全てなんかじゃないよ?」
「だって、私、お姉ちゃんみたいに美人じゃないし、成績も悪いし、髪以外、何のとりえもないんだもん」
「そんなことない。だから川端くんだって、結麻のこと好きになったんだよ」
私は姉の言葉で改めて川端くんに告白されたことを自覚した。
なんだか気恥ずかしく、奇妙な感覚だった。
ずっと仲のいい友達のまま一緒にいられると思っていたのに……。
「ねえ、結麻。結麻は川端くんに触られたから嫌だったの?」
それは確実に違うと思った。他の男子に髪を触られたらもっとショックだったと思った。
「結麻は素直で綺麗なままだよ? それなのにまだ何か不安があるの?」
何か?
分からない。なんでこんなに悲しいのか分からない。
「分からない」
「そう。結麻は丁度大人の階段を登っている途中なのかもしれないね。早く元気になって。結麻」
私には姉の言葉が理解できなかった。
姉が出て行った後も私は泣き続けた。
***
川端くんはその後も普通に接してくれたけれど、それがどんなに彼にとって辛いことなのか、当時の私には分からなかった。私は髪を触られたショックを引きずり、自分でもよく分からない恥ずかしさを持て余し、川端くんに普通の態度を取ることができなかった。そのうち二年生になって、川端くんとはクラスが離れてしまった。何かもの足りないような毎日が過ぎて、結局川端くんとまともに話すことがないまま卒業を迎えた。髪のことさえなければ、ずっと心地いい友人関係を維持できたのに。私はそんな的外れなことを思っていた。
ただ、あの川端くんの泣きそうな笑顔を忘れたことはなかった。川端くんのあの笑顔を思い出すと、時が戻ったように心が痛み、悲しくなるのだった。
その後、私と川端くんは別の高校に進学した。彼が今、どうしているかは分からない。
でも今ならあの日の川端くんの気持ちが分かる。
川端くんはただ、好きな人の髪に触れたかったのだ。
友達から先に関係を進めたかったのだ。
***
自分だけが傷ついたんじゃない。川端くんは私よりも傷ついたかもしれない。
高校生になって気になる男子ができた時、ようやく私はそのことに気が付いた。
好きな人に触れてみたい。
告白をして振られたら辛い。
当たり前と言えば当たり前のことだったのだ。
私は自分のしたことに罪悪感を覚えた。川端くんに謝りたい。そう思うようになった。
高校二年生の時、私にも彼氏がようやくできた。
ところが。
その彼が私の髪を触ろうとしたとき、私の頭を過ったのは川端くんのあの泣きそうな笑顔だった。私は混乱した。そして。
彼氏に髪を触られた私は、
「嫌!」
と思わず振り払ってしまったのだ。
(違う!)
とっさに思ったのはそれだった。
(この人は川端くんじゃない! 川端くんはこんな触り方、しなかった!)
結局その彼とはそれが原因で別れてしまった。
私は初めて気が付いた。
私が失くしたもの。
髪と大切な友達。
それだけじゃなかったのだ。
私はあの日、髪を触られて初めて川端くんを異性として意識した。
髪は穢れた。触られてショックだった。でもそれと同時に髪を触られて気持ちいい、嬉しいと思った自分に衝撃を受けてしまったのだ。そしてそれが初恋だと分からずにあんな返事をしてしまった。
私はようやく気が付いて、涙が止まらなかった。
私はなんてことをしてしまったのだろう。なんて多くのものを失くしてしまったのだろう。
私は呆れるほど幼かったのだ。
それからだ。
私は男性に髪を触られると川端くんを思い出すようになった。そしてその度に強く思うのだ。
(川端くん。傷付けてごめん。あんな顔させてごめん。傷ついたのは私だけじゃなかったんだよね。私は自分のことしか考えてなかった。貴方に謝りたい。貴方に、会いたい!)
川端くんを思い出すので、私は男性に髪を触られることがトラウマになってしまった。
でも、神の手の人は大丈夫だった。
なぜなんだろう。
初めてだった。姉の手以外であんなに心を委ねてしまう感覚。それが男性の手であるという衝撃。川端くんのトラウマのことも癒してくれるようなそんな不思議な優しさ。
顔も知らない相手なのに、こんなにも心が騒めく。不思議だ。
私はトラウマを克服できるんだろうか。
ううん。きっとできる。そんな気がする。
でも、私のトラウマは治っても川端くんの心の傷はどうなるんだろう……。癒えているんだろうか……。
そう思うと胸が痛んだ。
私、川端くんに会いに行ってみよう。トラウマを治せたら、会いに行って、謝ろう。
私は決意した。