私には四つ離れた姉がいる。姉は勉強もできたし、母の言いつけもよく守る優等生だった。一方、私は落ち着きのない、活発な子供だったので、よく母から怒られた。私は母に叱られる度に自分は駄目な子なんだと悲しくなった。そんな時、姉は、
「結麻《ゆま》の髪は綺麗だね~。結麻はこの髪みたいに真っ直ぐなんだよね。心に正直。私はそんな結麻、好きだよ」
と言いながらよく櫛で髪をといてくれた。姉の手つきはどこまでも優しく、私は毎回うっとりとしていた記憶がある。私はこの時間が大好きだった。姉に髪を触られている時は大人しくなった。
学校に行くようになってからも、私の髪は女子によく触ってもらえた。
「結麻ちゃんの髪、つやつやだね」
「サラサラでまっすぐ」
他に褒められたことは思いだせないが、髪だけはいつになっても褒められた。
姉と違って特に秀でたところのなかった私にとって、いつしか髪は特別なものになっていった。
シャンプー後は、お風呂場に置いてあった母のトリートメントを内緒で使用。しっかり乾かして、ブラッシングをする。眠る時は寝癖がつかないように気を使った。
日々のケアのおかげで私の髪は柔らかで指通りがよく、毛先まで髪が指に絡まずまっすぐでしなやかだ。何か不安なことがあると、そんな自分の髪を触るのが癖になった。
『私にはこの綺麗な髪があるから大丈夫』
お守りだったのがいつしか『この綺麗な髪がなくちゃ駄目だ』と思考が歪んでいったなんて自分でも気付かなかった。トラウマになる事件が起こった時も。
***
前回美容室へ行ってから二週間後。
私はまた美容室へと来ていた。そして、勇気を出して、
「あの、シャンプーは男性の方にお願いしてもいいですか?」
と言った。
「あー、はい。西崎結麻様ですね。聞いてます。いいですよ~。じゃあ僕がしますね」
受付にいた茶髪の男性がそう言った。背は他の二人より低めでかなりの痩せ型。
彼は神の手の人ではないのがシャンプー前から分かってしまった。男性の中では声が高めで人懐っこい喋り方。神の手の人の落ち着いた低い声とは明らかに違う。
彼には悪いけれど私はがっかりした。
「お湯は熱すぎませんか? 大丈夫ですか?」
やっぱり髪に触られる瞬間は肩がビクリとする。男性ということで構えてしまう。
また「彼」の顔が頭をよぎった。
(ごめん。ごめん。そんなに悲しまないで)
息が苦しくなってきた。
私の緊張をよそに、彼は話しかけてくる。
「髪綺麗ですよね~。いつもどんなお手入れしてますか? トリートメントとか使ってます?」
「シャンプー前に椿オイルで自肌を揉んでからシャンプーしてます。シャンプー後はトリートメントをして、よく濯いで、イオンの出るドライヤーを使って乾かしてます」
「わあ、本格的ですね。綺麗なわけだ」
茶髪の彼は習った通りに洗っているのが分かる洗い方。丁寧ではある。力も男性の方があるからか意外と丁度よい。技術的には何の問題もない。
でも、やっぱりこの人じゃない。私はシャンプーをされている間ずっと苦しみに苛まれていた。シャンプーの気持ち良さより、触られている間に思い出す「彼」が、私を許してくれないような不快感の方が勝るのだ。
神の人のシャンプーが気持ちよかったのは、もしかして技術的な理由からではないのだろうか?
「お疲れ様でした~。お席にどうぞ~」
シャンプー後に今田さんが席に案内してくれた。
「シャンプー大丈夫でしたか?」
「あ、ええと、はい」
私の顔色を見て今田さんは、
「彼ではなかったようですね」
と言った。私は困ったように笑って、「はい」と小声で言った。
「あの、西崎さん。個人的な話で申し訳ないのですが」
この日、今田さんはちょっと照れたように笑って切り出した。
「私、結婚するんです」
「そうなんですか!? おめでとうございます! いいな~!」
「ありがとうございます~」
今田さんが自分の話をするのは初めてでかなり驚いた。それだけ嬉しいんだろうなあ。ちょっと羨ましい。
ところが、事態はそれだけじゃすまなかった。
「それでですね、彼と暮らすことになるので、ここ、辞めるんですよ」
「え?」
今田さんが結婚することより、美容室を辞めるということの方が衝撃的だった。
今田さんは二年間私の髪を切ってくれて、私の髪のクセや、好み、不満を分かってくれている。
美容師が変わるとまた一から関係を築かなければならない。私は小さく溜息をついたのだけれど。
「西崎さん、次の担当美容師、どうしましょうか? やっぱり女性がいいですよね? 私が決めてもいいんですが……」
今田さんの言葉に、これはチャンスかもしれない、とも思った。
神の手の人でない男性に髪を触られることを思うと緊張するし苦しい。でも。
「例のシャンプーの男性が誰なのか分かっていればその方に頼んでみたかったんです。でもまだ探し当ててないので、とりあえずは空いている美容師さんに頼みます」
「なるほどです。……実は私、そのスタッフが誰か何となく分かりました」
「え? そうなんですか?」
「たぶんですが……」
今田さんが続きを言う前に私は、
「あ、待ってください! 言わないでください! 自分で探してみたいんです!」
と口に出していた。
シャンプーされる感覚は人によって違うと思う。上手いというのは技術的なものだけではない気がする。
それに、自分で探すことに意味がある気がした。
「そっか。そうですよね! 自分で探された方がいいですよね! 三択ですから、きっとすぐ見つかりますよ!」
今田さんは笑ってそう言ってくれた。
「そうですね。それにしても、残念です、今田さんが辞めちゃうの」
「すみません~。でもそんな風に言ってもらえると嬉しいです〜」
「お幸せにです!」
「はい!」
私は一つ気なって今田さんに訊くことにした。
「あの、ご結婚以外の理由でも、スタッフさんは異動ってあるんですか?」
「もちろんありますよ~。うちの店はチェーン店ですから。結構突然言われたりします」
私はこの言葉に焦った。神の手の人が異動になる可能性もあるのだ。
私にとって今も髪は特別。
だから、今田さんとの別れは友人を失うように寂しい。
でもその思いよりも、神の手の人を早く見つけないとという気持ちが勝ってしまった。
神の手の人。私の中で彼の存在が大きくなっている。気になって仕方ない。
それはトラウマを治せるかもしれないから?
ううん。それ以上のものを私は漠然と感じていた。
「結麻《ゆま》の髪は綺麗だね~。結麻はこの髪みたいに真っ直ぐなんだよね。心に正直。私はそんな結麻、好きだよ」
と言いながらよく櫛で髪をといてくれた。姉の手つきはどこまでも優しく、私は毎回うっとりとしていた記憶がある。私はこの時間が大好きだった。姉に髪を触られている時は大人しくなった。
学校に行くようになってからも、私の髪は女子によく触ってもらえた。
「結麻ちゃんの髪、つやつやだね」
「サラサラでまっすぐ」
他に褒められたことは思いだせないが、髪だけはいつになっても褒められた。
姉と違って特に秀でたところのなかった私にとって、いつしか髪は特別なものになっていった。
シャンプー後は、お風呂場に置いてあった母のトリートメントを内緒で使用。しっかり乾かして、ブラッシングをする。眠る時は寝癖がつかないように気を使った。
日々のケアのおかげで私の髪は柔らかで指通りがよく、毛先まで髪が指に絡まずまっすぐでしなやかだ。何か不安なことがあると、そんな自分の髪を触るのが癖になった。
『私にはこの綺麗な髪があるから大丈夫』
お守りだったのがいつしか『この綺麗な髪がなくちゃ駄目だ』と思考が歪んでいったなんて自分でも気付かなかった。トラウマになる事件が起こった時も。
***
前回美容室へ行ってから二週間後。
私はまた美容室へと来ていた。そして、勇気を出して、
「あの、シャンプーは男性の方にお願いしてもいいですか?」
と言った。
「あー、はい。西崎結麻様ですね。聞いてます。いいですよ~。じゃあ僕がしますね」
受付にいた茶髪の男性がそう言った。背は他の二人より低めでかなりの痩せ型。
彼は神の手の人ではないのがシャンプー前から分かってしまった。男性の中では声が高めで人懐っこい喋り方。神の手の人の落ち着いた低い声とは明らかに違う。
彼には悪いけれど私はがっかりした。
「お湯は熱すぎませんか? 大丈夫ですか?」
やっぱり髪に触られる瞬間は肩がビクリとする。男性ということで構えてしまう。
また「彼」の顔が頭をよぎった。
(ごめん。ごめん。そんなに悲しまないで)
息が苦しくなってきた。
私の緊張をよそに、彼は話しかけてくる。
「髪綺麗ですよね~。いつもどんなお手入れしてますか? トリートメントとか使ってます?」
「シャンプー前に椿オイルで自肌を揉んでからシャンプーしてます。シャンプー後はトリートメントをして、よく濯いで、イオンの出るドライヤーを使って乾かしてます」
「わあ、本格的ですね。綺麗なわけだ」
茶髪の彼は習った通りに洗っているのが分かる洗い方。丁寧ではある。力も男性の方があるからか意外と丁度よい。技術的には何の問題もない。
でも、やっぱりこの人じゃない。私はシャンプーをされている間ずっと苦しみに苛まれていた。シャンプーの気持ち良さより、触られている間に思い出す「彼」が、私を許してくれないような不快感の方が勝るのだ。
神の人のシャンプーが気持ちよかったのは、もしかして技術的な理由からではないのだろうか?
「お疲れ様でした~。お席にどうぞ~」
シャンプー後に今田さんが席に案内してくれた。
「シャンプー大丈夫でしたか?」
「あ、ええと、はい」
私の顔色を見て今田さんは、
「彼ではなかったようですね」
と言った。私は困ったように笑って、「はい」と小声で言った。
「あの、西崎さん。個人的な話で申し訳ないのですが」
この日、今田さんはちょっと照れたように笑って切り出した。
「私、結婚するんです」
「そうなんですか!? おめでとうございます! いいな~!」
「ありがとうございます~」
今田さんが自分の話をするのは初めてでかなり驚いた。それだけ嬉しいんだろうなあ。ちょっと羨ましい。
ところが、事態はそれだけじゃすまなかった。
「それでですね、彼と暮らすことになるので、ここ、辞めるんですよ」
「え?」
今田さんが結婚することより、美容室を辞めるということの方が衝撃的だった。
今田さんは二年間私の髪を切ってくれて、私の髪のクセや、好み、不満を分かってくれている。
美容師が変わるとまた一から関係を築かなければならない。私は小さく溜息をついたのだけれど。
「西崎さん、次の担当美容師、どうしましょうか? やっぱり女性がいいですよね? 私が決めてもいいんですが……」
今田さんの言葉に、これはチャンスかもしれない、とも思った。
神の手の人でない男性に髪を触られることを思うと緊張するし苦しい。でも。
「例のシャンプーの男性が誰なのか分かっていればその方に頼んでみたかったんです。でもまだ探し当ててないので、とりあえずは空いている美容師さんに頼みます」
「なるほどです。……実は私、そのスタッフが誰か何となく分かりました」
「え? そうなんですか?」
「たぶんですが……」
今田さんが続きを言う前に私は、
「あ、待ってください! 言わないでください! 自分で探してみたいんです!」
と口に出していた。
シャンプーされる感覚は人によって違うと思う。上手いというのは技術的なものだけではない気がする。
それに、自分で探すことに意味がある気がした。
「そっか。そうですよね! 自分で探された方がいいですよね! 三択ですから、きっとすぐ見つかりますよ!」
今田さんは笑ってそう言ってくれた。
「そうですね。それにしても、残念です、今田さんが辞めちゃうの」
「すみません~。でもそんな風に言ってもらえると嬉しいです〜」
「お幸せにです!」
「はい!」
私は一つ気なって今田さんに訊くことにした。
「あの、ご結婚以外の理由でも、スタッフさんは異動ってあるんですか?」
「もちろんありますよ~。うちの店はチェーン店ですから。結構突然言われたりします」
私はこの言葉に焦った。神の手の人が異動になる可能性もあるのだ。
私にとって今も髪は特別。
だから、今田さんとの別れは友人を失うように寂しい。
でもその思いよりも、神の手の人を早く見つけないとという気持ちが勝ってしまった。
神の手の人。私の中で彼の存在が大きくなっている。気になって仕方ない。
それはトラウマを治せるかもしれないから?
ううん。それ以上のものを私は漠然と感じていた。