美容室は私の好きな場所だ。

 髪を綺麗にしてもらえるし、私は他人に髪を触ってもらうのが大好きだからだ。シャンプーされてる時はうっとり。櫛でとかしながら切られる時も心地よい。

 ただ、ある危険も伴うため、入るときはドキドキしてしまう。

 一呼吸して、ガラスのドアを開くと、

「いらっしゃいませ」
 
 と女性スタッフが元気よく声をかけてきた。

「西崎結麻《にしざきゆま》様ですね。今日はどうなさいますか?」
「カットとパーマをお願いします」
「カットとパーマですね。担当者のご希望はございますか?」
「今田さんでお願いします」
「かしこまりました!」

 今日もいつものように今田さんを指名した。 
 二年前に就職してここに美容室を変えて以来、今田さんにずっと髪を切ってもらっている。

「今日はどんな髪型にしますか? 西崎さんがパーマをかけるのって珍しいですよね! 何か心境の変化ですか?」
「具体的には決めていないんです。でも、イメチェンしたいなと思って」
「そうなんですね~。じゃあ、雑誌持ってきます」

 今田さんとどんな髪型にするか雑誌を見ながら考えるのは楽しい。

「この髪型どうですか? パーマかける分今より長さは少し短くなりますが、きっと似合いますよ! 雰囲気、ガラリと変わると思います」
「あ、可愛いですね! じゃあこれでお願いします!」

 ある程度カットされてから、パーマをかけられた。冷たい感触のパーマ液は苦手だけど耐える。私は美容室を出る時の新しい自分を想像して、わくわくしていた。

 ところが。

 パーマ液を流すために今田さんにシャンプー台まで案内された。
 お湯で髪を洗われている途中で、アラームのような音がして、誰かが今田さんに耳打ちしているのが聞こえた。

「すみません! ちょっとだけ変わってもらいます」

 今田さんの声がしたかと思うと、続けて、

「失礼します」

 という声がした。

 どくん。

 私の心に緊張が走る。

 シャンプーされている時、顔には布がかけられているため、定員の姿は見えない。でも、間違いなく男性の声だった。低く落ち着いた声。

 私は髪を触られるのが好きだけれど、女性からに限る。男性に髪を触られるのは逆にものすごく苦手なのだ。

 だからいつも女性の今田さんを指名していた。美容室が危険なのはたまにこんなことが起こるからだ。

 そのたまにが今日だなんて。

 気分は一気に奈落の底。


 声の主がそっと髪に触れてきた。緊張でぴくりと肩が震える。

 私の脳裏に「彼」の顔が浮かんできた。

 また「彼」だ。男性に髪を触られるといつもこう。悲しい笑顔の「彼」がチラつく。

(そんな顔、しないで。傷つけてごめんね。ごめんなさい)

 罪悪感でいっぱいになる。苦しい。
 キュッと目を瞑ってとにかく堪えようとしたその時。

(あ、れ?)

 自分の力が自然に抜けていくのを感じた。
 いつの間にか「彼」の悲しい顔が笑顔になっていく錯覚。

「お湯加減はいかがですか?」
「……大丈夫です」

 なんだろう。この感覚は……。
 なんて優しい手つき。
 穏やかな風に髪を優しくなでられているような。
 後ろ髪を流す時に首を支える力加減が絶妙で、自然と頭を委ねてしまった。今田さんの時でさえ、体重をあずけることはなかったのに。
 気持ち良さにぞくぞくと鳥肌が立ちそうになって驚く。こんなこと今までなかった。
 髪をすすがれる時のこの感じ。丁寧でそれでいて弱すぎない。なんて上手なんだろう。
 思わずうとうとしそうになるほど気持ち良い。まるで大好きな人に髪を洗ってもらっているようだ。

 こんなに心地よいシャンプーは初めてだった。髪を男性に触られているのにこんなにリラックスするのも初めてだ。癒される。心の疲れも流れていくような。シャンプーでこんな心地になれるなんて。

「どこかかゆいところはございませんか?」
「あ、はい。大丈夫です」

 終わった時はとても残念に感じて、そんな自分に驚いた。

「起こしますね」

 先程と同じ低くて優しい声音が後ろから聞こえた。
 夢心地のまま、髪を拭いてもらう。拭き方も優しく、ともすると男性に触られているというのを忘れそうになる。

 ぼんやりと余韻を楽しんでいると、今田さんがシャンプー台の前に来て、私をカットをしていた元の席へ案内した。

 こんなに素晴らしいシャンプーをしてくれた男性は一体どんな人なのだろう。見てみたい。でも、なんだかそのために振り返るのも恥ずかしい。
 私は席に戻るときに顔を見たい衝動にかられたけれど、結局できなかった。

 その後、今田さんが髪をドライヤーで乾かし、カットで仕上げてくれて、私は要望通りの髪型になって店を出た。パーマで髪がふわふわになって、可愛らしい感じに雰囲気が変わったと思う。イメチェン大成功だ。

「あら、いいじゃない。その髪」

 帰宅すると珍しく母からそう声をかけられた。でも私はうわの空だった。髪の仕上がりよりも、シャンプーをしてくれた男性のことが私は気になっていた。


 私は髪を男性に触られることにトラウマがある。

 それなのになぜあの男性は大丈夫だったのだろう? 
 シャンプーがあまりにも上手だから? 
 それとも他に理由があるのだろうか?
 分からない。でも。
 私はトラウマを克服できる日が来るかもしれない。
 そんな希望が湧き上がった。

 私は声とシャンプーの手つきを頼りに探したいと思った。神のような手を持つこの男性を。