目が覚めると軽く体がだるい。多分エアコンをつけたままで寝たせいだ。時計を見るともう11時を過ぎている。

やってしまった。また2限目のフランス語を寝飛ばしてしまったらしい。昨日、バイト先のファミレスから家に帰るのが遅くなったせいだ。仕事の後に店長の悪口でついつい盛り上がってしまった。アパートに帰ったら夜中の3時を過ぎていた。

携帯のアラームは鳴らなかったのか。それとも鳴ったけどすぐに消してしまったのか。今となってはどうでもいいことだが、とりあえずテーブルの携帯を取ると、電話の着信履歴と、留守電のサインが目に入った。

相手は父親だ。
めったに話さない、話したくない相手からの留守電。聞く前から気分が滅入る。

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久しぶり。俺だ。

ちょっとした事務手続きをしてたら、アイツの今の住所が分かった。
多分、お前が住んでるところから近いはずだ。

俺は会うつもりはない。お前がどうするかは、お前の勝手だ。一応、住所を言っておく。

東京都八王子市xxxxxxxxxx

じゃあな。

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どうするかな。
ひとまず、顔を洗ってから考えるか。

俺は、携帯をテーブルに置いて、鈍く痛むこめかみを押さえながら、洗面所に向かった。

***

「谷口くん、谷口くん!」

俺の名前を呼ぶ大声が聞こえる。まだ起きてから1時間しか経ってない。大声は頭に響く。やめてほしい。

フランス語は寝飛ばしてしまったが、起きたら腹は減る。もう出席する授業はないけど、ただ腹が減ったので大学にやってきた。学食でいつものから揚げ定食を食べようとしていたところにこの大声だ。

大声の主は1年のときに同じクラスだった高橋さんだ。特に俺と仲がいいわけでもないのに、なんでこんな朝っぱらというか、昼っぱらから、血相変えて大声出しながらこっちに走ってくるのか、見当もつかない。

「ねぇ、見つかったよ、谷口くんのベターハーフが!すごいよ、おめでとう!」

ベターハーフ?何の話だよ、それ?微妙に巻き舌で言われるから、余計にぴんと来ない。高橋さんはアメリカで育った帰国子女だ。

「ごめん、何の話だっけ、ベターハーフって?」

「やってくれたじゃん、唾液の検査で、ベターハーフがわかるっていうプロジェクト」

思い出した。1年の秋くらいに、高橋さんが何かプロジェクトのようなものがアメリカで進んでるから協力してほしいというので、唾液を容器のようなものに入れて渡したことがあった。後で聞くと、同じクラスの他の連中は、自分のDNA情報がどこかに流れるのは気持ち悪い、ということで結構断っていたらしい。俺も、みんなが断ってるのを知ってたら断っていたのだが、知らないうちに頼まれたので、何の気なしに提供していた。あれから1年以上経っているので、そんなことはすっかり忘れてしまっていた。

「思い出した。でも何なの、そのベターハーフって?」

まさかその質問1つで、1時間近く話を聞く羽目になるとは思わなかった。言葉の由来から、プロジェクトの背景や歴史、どれだけ期待されてるかまで、高橋さんは延々と話し続ける。から揚げ定食を食べ終わったら、アイスクリームを買いに行こうと思っていたのに、高橋さんはそんな隙を与えてくれそうにない。

「つまり、こういうこと?ベターハーフって言うのは、天国か地獄か知らないけど、生まれてくる前には一つの体だったものが、生まれるときに2つに分かれてしまった片割れで、その片割れと結婚するのが、一番幸せになれる。その片割れを遺伝子情報から科学的に探し出すのが、前に唾液検査をしたプロジェクトだってこと?」

「そう、すごいでしょ?その谷口くんのベターハーフが遺伝子検査で見つかったんだよ!」

高橋さんはずっとハイテンションだが、俺のテンションは一向に上がらない。なんの遺伝子か知らないがそんな検査一つで、自分が夫婦になるべき人がわかるなんて話を簡単に信じられるわけがない。

「来週の土曜日にこのプロジェクトの代表をやってる教授がアメリカから会いに来るんだって。来てくれるよね」

行きたくないけど、行かないと言えばまた1時間、この子の話に付き合うことになるのは目に見えている。何よりも今はチョコ最中アイスが早く食べたい。無駄な抵抗はやめて、おとなしくその教授とやらに会うことにした。

***

「Congratulations!」

新宿のホテルの喫茶店に高橋さんと現れたアメリカ人の大学教授は、ほぼ想像していた通りの風体だった。金髪にひげ面、大柄な体に満面の笑顔、年は50歳手前くらいだろうか、頭髪はかなり後退している。

「あなたがつかんだ幸運を祝福します。それと同時に我々のプロジェクトにとってもとても大きな進歩になります。私は大変興奮しています」

高橋さんが通訳してくれるのかと思っていたら、この教授は日本語が喋れる。話す文章の感じや英語なまりの発音からすると、日本で育ったのではなく、大人になってから日本語を習得したらしい。

「我々がこのマッチング・プロジェクトを始めてから5年が経ちます。ご想像の通り、このプロジェクトで一番の困難は、DNAの提供者を探すことです。正直に言って、多くの人が気持ちよくDNAを提供してくれるわけではありません。その中で日本では谷口さんを始めとして極めて多くの協力者を得ることができています。ミホの献身的なサポートに感謝しています」

高橋さんの名前が美穂だということを思い出すのに3秒ほどかかった。

「世界規模の遺伝子検査と我々の優れた計算式によって、ベターハーフの可能性が高いという結果が出たカップルはこの5年間で14組ありました。しかし、残念ながらその14組全てが現実的に夫婦生活をスムーズに開始できるという状況にありませんでした。あるカップルはドイツの男子学生とパプアニューギニアの既婚女性でした。別のカップルはどちらも中国に暮らしていましたが、片方は10人以上の孫を持つ老人で、もう片方は14歳の中学生でした。神様のいたずらとしか言いようがありません」

だめだろ、このプロジェクト。その優れた計算式とやらが絶対に間違えている。そもそもDNAで最適なカップルを探すというプロジェクトの目的そのものが間違えているに違いない。思わず吹き出しそうになったが、前に座っている2人は至極まじめに話しているので、笑うのを必死でこらえた。

「今回、我々が谷口さんのベターハーフだと考えている女性は、現在35歳で、東京に住んでいます。都内のコンサルティング会社に勤める優秀なコンサルタントです。結婚経験はありますが、現在は独身です。この5年間で我々が得られた結果の中で、もっとも現実的なマッチングだと考えています」

いきなり具体的な話が始まって驚いた。先月20歳になったばかりの俺に、見たことも聞いたこともないバツイチ35歳の女性と結婚することを勧めるのか。どんな女性とベターハーフとやらになっているのか若干の興味はあったのだが、一気に興味は冷めた。このハゲかけた教授から見たら現実的かもしれないが、俺からしたらとても現実的な話には思えない。これはやばいことになったぞと身構えると、教授もこちらの態度に気づいたようで、アメリカ人らしい大げさな笑顔で話を続けてきた。

「もちろん、我々は谷口さんがいきなりその女性と結婚できるなどと思っておりません。少なくともこれまで我々が得られた14組のマッチングに比べると、より多くのコミュニケーションが取れやすいマッチングだと考えているだけです。ちなみに我々の調査によると、20歳代の男性と30歳代の女性の組み合わせは他のあらゆる年代同士の組み合わせに比べて最も相性がよいという結果が出ています。ここまででなにかご質問はありますでしょうか?」

プロジェクトもうさんくさいが、その相性調査もうさんくさい。別に質問はないが、この後どんな依頼をされるか分かったものではない。体全体で無関心のオーラを発散させながら、特にないと答えた。

その後、30分でこのフィル・モルガンと名乗るアメリカ人大学教授との話は終わった。悪い予感は的中して、彼は俺のベターハーフだというその女性と1ヶ月同居することを求めてきた。もちろん即座に断るところだが、条件として1万ドル、日本円で100万円以上をくれると言うので、大きく心が動いた。1ヶ月で100万円はでかい。でかすぎる。

その他の条件は、1)プロジェクトが用意するマンションで一緒に住むこと、2)毎日、朝食・夕食を含めて最低2時間は一緒にいること、3)土曜・日曜のうち1日は6時間、一緒にいること、4) 週に1回、この教授のインタビューを受けること。要は擬似的な夫婦生活をやって、その実験結果をプロジェクトに教えろ、ということだ。

面倒な話だ。だが、1ヶ月で終わって、しかも100万くれるのなら、悪い話ではない。むしろいい話過ぎてあやしい。質問はあるかとまた聞かれたので、質問はないがうまい話過ぎて気味が悪い、と正直に伝えた。

「ご心配はごもっともです。プライバシーは誓約書を出して保証いたします。また、謝礼金については、共同生活を始める前に全額お支払いいたします。このプロジェクトには、名前は明かせませんがシリコンバレーのある著名な資本家のサポートがあります。この資本家は全ての面で成功した人生を送ってきましたが、唯一、幸せな夫婦生活だけは複数回の情熱的なチャレンジにもかかわらず得ることができませんでした。彼のこのプロジェクトにかける熱意は相当なものです。ご用意するマンションも新宿のタワーマンションで、寝室・風呂・トイレはすべて、その女性とは別々になります」

3日後に最終的な返事をすることになったが、100万円を鼻先にぶら下げられて断れるはずはない。少なくとも聞いている限りでは警察に捕まるようなやばい話ではなさそうだ。ただ、俺のほうはともかく、相手の女性は見ず知らずの男と一緒に住むのはたとえ寝室が別でも気持ち悪いに違いない。どうせ向こうが断るだろうと思って、俺はそれ以上詳しいことは聞かずに席を立った。

***

「ピッ」

寝ぼけなまこの俺がダイニングテーブルに座るとすぐに、俺の「ベターハーフ」、岡田さんはタイマーのスイッチを押した。今日のノルマの2時間を計るつもりらしい。

「別にこんなことしなくても、毎日2時間、一緒にいましたよって言えばいいのは分かってるんだけど、なんかいやなのよね、インチキしてお金もらうっていうのが」

こっちもインチキしようとは別に思っていない。でも、確かに昨日の夜に朝ごはんは6時から6時半、晩ごはんは8時から9時半と決めたが、こんなにきっちり一緒にいる時間を計られるとは思わなかった。

「どうせ、私が出て行ったらまた寝るんでしょ。だったら30分くらい、頑張ってそこで座ってなさいよ」

「いや、多分、もう寝れないっすよ」

「じゃあ、何か食べたら。今日だけは私の食パン、食べてもいいけど、明日からはちゃんと自分が食べるもの、買っといてね」

食事は一緒にするが、食べるものはお互いが調達する、というルールも昨晩決めた。あんたの奥さんでもなければ、お母さんでもないんだから、食事を作るつもりなんてないからね、と俺のベターハーフははっきりと宣言しやがった。もちろん作ってもらうつもりもないし、俺は料理が苦手ではないから作ってもらう必要もない。それにしても、ものには言い方があるだろう。

ひげ面のアメリカ人教授と初めて会ってから2週間後、俺は俺のベターハーフと言われた女性と新宿のタワーマンションで共同生活を始めた。俺の予測は見事に外れて、俺のベターハーフはプロジェクトへの参加を了承したわけだ。さすがベターハーフ同士、俺と同じく簡単に100万円に目がくらんだらしい。

教授が期待しているのは、この1ヶ月のうちに、俺とこの女性が夫婦になれそうな兆候が現れることだろう。幸か不幸か、そんな可能性は全くないことが、最初の朝ではっきりした。こんな堅苦しい女とは一秒たりとも一緒にいたくない。夫婦生活が甘いものではないのは、世の書物でも、自分の親を見ても知ってはいるが、こんなにとげとげしくはないだろう。

「いや、朝はあまり食欲ないから、いいっす」

「ふーん。言いたいことはあるけど、まぁいいや。別にあんたの親じゃないし。コーヒーなら入ってるから飲めば」

ありがたくコーヒーを頂戴して、窓の外に広がる光景を見た。朝日に照らされた東京を一望していることも、つい1週間前まで会ったこともなかった女性とテーブルを挟んで座っていることも、全てが現実とは思えなくてため息が出そうになる。

「ねぇ、100万ももらってるんだから少しはプロジェクトの趣旨に協力したら?黙ってないで、何かしゃべりなさいよ」

元々、俺はそんな社交的な人間ではない。加えて慣れない6時起きだ。そんな状態で、見ず知らずの35歳の女性に何を話しかけろというんだ。

「えっと、いつもこんな時間に起きるんですか?」

「そうね。今日からの1ヶ月はここから品川のオフィスに行くだけだから、ほんとは6時に起きる必要はないんだけど、いつもは千葉から通っているから、6時起きだね。生活のペース変えたくないし、夜はあんたと食事するために8時に帰ってくるから、この1ヶ月は早めにオフィスに行こうと思ってね」

なるほど。まだ卒業まで2年以上あるが、社会人になるのがつくづくいやになる。

「あんたは授業は何時からよ」

「今日は2限目からだから、10時半ですね。別に行かなくてもいいんだけど」

「いいね、学生は気楽で。まぁ文系学生は大学で勉強したことなんか、社会ではほとんど役に立たないから、卒業できればいいんじゃない」

テレビはアメリカの株価がどうだとか言っている。

「いつも、朝はこんな番組見てるんですか?」

「うん、つまんないけどね。経済くらい知ってるふりしないと、会社でバカにされるから見てるだけ。株価なんか見てもなんの得にもならないんだけど」

何に対しても辛らつな物言いをする人だ。俺もたいがいネガティブだが、朝からこんなネガティブな人と話すのも疲れる。ただ、勉強が大事とか、経済が面白いとか、嘘みたいなことを真顔で言う人よりはマシだ。

「さぁ、そろそろ30分経つから、また寝てくれば。私は着替えて勝手に行くから。夜は8時に帰ってくるんだから、ちゃんとあんたも帰ってきてよ。あと、自分が食べるものは弁当でもなんでも自分で用意しといてよ」

こんな風に俺と俺のベターハーフの共同生活は始まった。

***

「夕焼け小焼けで日が暮れてー」。八王子駅で発車メロディーが耳に入る。駅の音楽なんて気にしたことなんかなかったのに、今日に限っては「もう夕方なんだよな、家に帰る時間なんだよな」と妙に感傷的な気持ちになったりする。

いつもならサボっている授業ばかりだったのに、結局今日は2時限目から4時限目まできっちり出てしまった。どうしてもあの新宿のタワーマンションに帰る気にならなかったからだ。確かに35階から見る景色は素晴らしいが、10分で見飽きてしまった。一人であんな生活感のない部屋にいても仕方がない。八王子のアパートの方が数段居心地がいい。夜中に猫や酔っ払いが発情している声があふれる町の方が俺には合っている。

中央線に乗って新宿に向かうときには、サラリーマンが出勤するときはこんな気持ちなのかと思ったりした。これからあの気難しい女と1時間半、夕食を共にするのかと思うとゾッとする。これをあと30回やれば100万円なのだからどう考えても割のいいバイトなのだが、それにしても目先の1時間半はつらい。

家路に急ぐ勤め人とすれ違いながら、新宿駅からマンションに向かった。家に帰る人たちが心底うらやましかった。マンションの向かいにあるコンビニでから揚げ弁当とお茶を調達する。100万円が銀行口座に入ったことは確認したので、もっといい弁当を買ってもいいのだが、急に生活レベルを上げると後が怖い。それにどうせ針のむしろで食べる弁当なんか何を食べてもまずいに決まっている。500円のから揚げで十分だ。

俺がマンションに帰ってきたのが7時半過ぎ。それから10分ほどでベターハーフが帰ってきた。黙っているのも気が引けるので、お帰りなさい、と言ってみる。小さな声でただいま、と返事をしながら岡田さんがテーブルに置いた買い物袋を見て、思わず二度見した。またビールだ。今朝、岡田さんが出勤した後、何気なく冷蔵庫を開けたら、缶ビールが20本以上並んでいた。実はそれを見たとき、少し安心した。ビールでも飲んでくれた方がピリピリした空気が少しでも緩んでくれるかもしれない。でもまさか、さらに買い足してくるとは思わなかった。一晩に何本飲むつもりなんだ?もしかして酒乱の気があるのか?

「あのさ、一つ言いたいことがあるんだけどさ」

部屋着に着替えてきた岡田さんが、ストップウォッチを押しながら話しかけてきた。部屋の使い方で怒られるのか、それともまた何かルールを作るつもりなのか。から揚げ弁当を開ける手を止めて身構える。

「わたし、夜はテレビで野球見ながら食事したいんだけど、いいかな?」

いいかな、と言いながら、俺の返事なんか待っていない。迷うことなくチャンネルを選ぶ。大画面のテレビに俺が見慣れた球場の様子が映し出された。

「神宮ですね」

「え、見ただけで分かるの?」

「俺、ヤクルトファンっす」

まじで?と岡田さんが俺のほうを向いた。それが出会ってから初めて、ベターハーフの笑顔を見た瞬間だった。

***

「Perfect!」

目の前でひげ面のアメリカ人教授が顔をくしゃくしゃにしながら俺の方を見る。喜色満面とはこういう表情のことなのだろう。今日は週に一度の面会日だ。

「野球観戦が共通の趣味なのはパーフェクトです。我々の調査によると、スポーツ観戦を共通の趣味とするカップルの中で、野球好きが最も離婚の確率が低いことが分かっています。ちなみに最悪なのがボクシングです。残念ながら日本のスモウは調査対象には入っていませんでした」

教授は自分の相撲ネタに自分で大笑いしている。この教授、時々「我々の調査」というのを話に入れてくるけど、本当に調査しているのか?

「それでは、岡田さんと毎晩、野球をご覧になっているんですね」

「まぁそうっすね。今週はずっと見てましたね」

「それは本当に良かった。私としても毎日1時間半、夕食をともにしていただくのは大変かなと思っていたのですが、野球を見ながらであれば、それほど苦にはならなかったことでしょう。しかも今週、ヤクルトは強かった」

「え、ヤクルトファン?」

「はっはっはっ。残念ながら私はジャイアンツファンです。アメリカでサンフランシスコ・ジャイアンツのファンなので、日本でも同じジャイアンツの巨人を応援することにしています。今週はヤクルトに3タテを食らいました」

そう、確かに火曜から木曜にかけて巨人に3連勝した。

「それでは、岡田さんと毎晩、祝杯を上げたんですね」

「祝杯、というか、はい、まぁそんなところっすかね」

実際のところ、岡田さんと野球観戦するのは基本的には楽しい。そもそも普通に生活していてヤクルトファンに出会えること自体がかなり稀だ。八王子のアパートでネット観戦しているときは一人でネットの掲示板を読んだりたまに書きこんだりしながら試合を見ていた。それが今のタワーマンションではテーブルの向かい側に座っている岡田さんとあーだこーだ話しながら、幅が2メートルもあるんじゃないかと思う大画面テレビで観戦している。そりゃ八王子のアパートよりは楽しい。岡田さんとはヤクルトに関する知識も同じくらいのレベルで(一軍の選手はキャラも含めてよく知ってるけど二軍の選手まで知ってるほどではない)、なかなか話が合う。しかもひいきの選手が同じだ。キザワというリリーフ投手で、負け試合でも勝ち試合でも登板する。3日に1回は出てきて、マウンド上で雄叫びをあげながら必殺シュートで相手打者のバットをへし折る。二人で「やばいな、キザワ」と感心しきりだ。

岡田さんは夕飯には決まっておでんと焼き鳥を買ってくる。俺は2日連続でコンビニ弁当を食べていたのだが、ちょっと飽きたし、せっかくきれいなキッチンがあって道具もそろっているのだから、3日目には自分で焼きそばを作ってみた。おでんと焼き鳥が異常に好きなら余計なお世話かなと思ったのだが、少し多めに作って岡田さんに出してみると、意外なことにおいしい、おいしいと素直に喜んで食べていた。まぁ我ながら俺の焼きそばはおいしい。それをほめられて悪い気はしない。

ただ、一つだけ岡田さんと野球観戦するのには問題がある。試合が終わると、からみ始めるのだ。負けた時ならまだ気持ちはわかる。でも、岡田さんは勝った時だけからんでくる。だから火曜から木曜にかけて巨人に三連勝したときは毎晩からまれた。からんでくる内容は「こんないいこと続かないから」の一本やりだ。「おかしいだろ、ウチが連勝するなんて」とオッサンみたいな自虐を始めるかと思えば、「心配なんだよー、こんなに勝ったら心配なんだよー」と妙にかわいい声を出したりするから居心地が悪い。金曜は阪神に逆転負けした。勝ってあの調子なら、負けたらどんなにからまれるのかと戦々恐々だったが、あぁ負けちゃったねー、明日、明日とあっさりしたものだった。確かについ2年前までの暗黒期を半ば意識不明で過ごしてきたヤクルトファンは、負けに過剰適応しているきらいはある。しかしそれにしても岡田さんの反応は行き過ぎだ。試合中もそこそこ飲んでいるが、試合が終わってからさらにビールを2本は空けて、さんざんからんだあげくふらふらになって自分の部屋に帰っていく。こんな人が俺のベターハーフなわけがない。ただの酒好きオヤジだ。

目の前で嬉しそうにコーヒーをすすっているアメリカ人教授に、勝ったら祝杯どころか泥酔してからんでくるんだけど、と言おうかと思ったがやめておいた。どうせまた「ひいきのチームが勝つと情緒不安定になる人は30代女性の30%です」などと、ホントかウソかわからない調査結果を持ち出されるだけだ。あと3週間の辛抱だし、ヤクルトもまた負け始めるだろう。ひいきチームの負けを望む自分が悲しいが仕方がない。全ては100万円のためだ。少し冷めたコーヒーに口をつけると、苦さが口中に広がった。

***

日曜は、当然のように岡田さんと二人で神宮球場に向かった。プロジェクトに課された土日の義務はどちらかの日に6時間一緒にいることだが、神宮にいたら最低4時間はつぶれる。新宿からの往復を入れたら5時間だ。とはいえ、マンションを出るときには若干気まずかった。共同生活を始めて1週間近くになるが、考えてみたら一緒に家を出るのは初めてだった。岡田さんも同じ気分だったらしく、「なんか変な感じだね」とつぶやいていた。

金曜から阪神との三連戦だが、すでに二連敗している。今日は何としても勝ちたいところだが、42歳のレジェンド、イシカワさんの調子はいまいちだ。それでもさすが通算180勝しているピッチャーだけあって、なんとか6回を4点で持ちこたえた。こちらも3点取っているので、1点差。今年のヤクルトの打線だったら、十分勝てる試合だ。7回からは俺たちの推し、キザワがリリーフ。キザワが投げたら逆転するのは、今年のヤクルトのお得意パターンだ。いつもならボルテージが上がりまくる場面だが、今日の俺のボルテージは上がりきらない。キザワの雄叫びがチームに勇気をもたらして本当に逆転したら、それはつまり岡田さんのからみの始まりだ。ただでさえ、岡田さんは俺の隣で生ビール3杯目に入っている。今日は東京音頭も3回歌ってるし今のところはご機嫌だが、本当に逆転勝ちしたらいつもにましてからみ始めるに違いない。

順調にキザワがツーアウトを取ったところで、岡田さんの携帯が鳴った。口調からしてあまり楽しそうな電話ではない。ちょっとごめんね、と言って席を立って10分くらいで戻ってきたときには明らかに元気がなくなっていた。ランナーを2人出しながらなんとかキザワが後続を断った後に、大丈夫ですか、と聞いてみた。

「うん、まぁ、いいんだけどね」

残っていたビールを飲みほしたが、酔いも覚めた感じだ。

「あのさ、ホントにすっごく悪いんだけどさ、お願いがあるんだけど」

変に殊勝な感じで聞いてくるので不気味だ。

「あと30分くらいで一緒にマンションに帰ってくれる?」

「え、いや、まぁいいっすけど」

あと30分じゃ試合は終わらないだろうけど、そんなことを言える雰囲気じゃない。

「何かあったんすか?」

うーん、といった後、岡田さんが俺の方を向いた。思いつめたような顔で俺を見る。

「ごめん。ほんとに悪いんだけど、私の父親に会ってほしいんだ、あのマンションで」

***

「初めまして、岡田と申します」

黒縁メガネで白髪頭を七三に分けた男性が俺に向かって深々とお辞儀をする。自分の息子よりも下かもしれないような男、しかも自分の娘と同居していると聞かされた男にここまで頭を下げるのだから、何かの魂胆があるのかと不安になる。

この何週間で思いもよらないことが次々と起こる。タワーマンションの35階で女性と同居するだけでもありえないことなのに、今はその女性の父親とマンションの部屋で向かい合っている。神宮球場を早々に切り上げて、新宿に帰ってきた。日頃は強気な態度の岡田さんがしきりに小さい声でごめんね、というから、帰り道では何となく状況を聞きそびれていたが、新宿駅に着いたという父親からの電話があった後に意を決して聞いてみた。

「あの、別に野球はいいんすけど、なんか俺が一緒にいた方がいい理由があるんですか?」

「うん、いてくれた方がいいんだ。でもなんか変に気を回さなくていいからね。ここで一緒に住んでるって言ってくれたらそれでいいから。それはほんとのことじゃん、この一週間は」

じゃあちょっと迎えに行ってくるから、と言い残して、岡田さんはそれ以上の話をしてくれなかった。妙なプロジェクトのために同居してる、なんてことを言うつもりはない。とにかく余計なことは言わないでおこうとだけ思っているうちに岡田さんが父親を連れて部屋に入ってきた。

「真紀の父親です。明日から東京に出張の用事ができたので、新潟から前泊で上京しました。急なことで申し訳ないです」

そう言って改めてお辞儀をする。慌てていえいえ、とだけ返事をした。ということは岡田さんも新潟出身なのか。ちなみに俺は岡山出身だ。ヤクルトファンには地方から東京に出てきた人が意外に多い。

「あの、真紀と仲良くしてもらっているそうで、ありがとうございます」

思いもよらないことを言われて、はぁとしか答えられなかった。「仲良くしてもらってありがとう」なんて、小学校の時に友達の誕生会に行ったときくらいしか言われた覚えがない。35歳の女性の父親にこんなことを言われたら、俺じゃなくてもはぁとしか言いようがないだろう。そしてまた深々とお辞儀をするので恐縮する。お茶でも入れようか、と岡田さんが声をかけると、いやいやすぐに帰るから大丈夫、と全力で手を振る。娘にも腰が低い。どうも根っから低姿勢の人らしい。

「すごいところに住んでるんだね」

父親が窓から外の景色を見ながら感想を漏らす。この部屋に入ったら100人中、100人はそう思うだろう。

「うん、でも、もちろん自分の部屋じゃないんだよ。会社が外国人役員用に借りてる部屋に急遽誰かが住まなくちゃいけなくなって、それで住んでるだけ」

なるほど、そういう話にするのか。さすが社会人、ありそうな嘘をつくのがうまい。

「じゃあ、ここで住むのはそんなに長くないの?」

「そうだね、ここではそんなに長くはない」

父親も岡田さんも「ここで」の時にちらっと俺の顔を見た気がする。「ここ」は長くないけど、どこかでは二人で住み続ける、みたいに聞こえるが、今日は余計なことは言わないと決めていたから、黙って無表情を貫く。

「まぁ、でもよかった」

何がよかったのかわからないが、心の底からよかったと思っているように聞こえた。急にお邪魔してすいませんでしたと何度目かの深いお辞儀をした後、父親は岡田さんにじゃあ帰るよ、と言ってドアの方に歩いて行った。送ってくるね、と俺に言って、岡田さんも一緒に部屋を出て行った。

***

「プシュ」

岡田さんが3本目のビールを開ける。本当によく飲む人だ。でも今日はヤクルトは負けたし(キザワが投げたけど、結局逆転できなかった)、今のところはからんでくる雰囲気はない。

父親を送ってからマンションに帰ってきた岡田さんは、リビングに座っていた俺にごめんね、と一声かけただけで、自分の部屋に入っていった。今日のノルマの6時間は達成しているはずなので、俺も自分の部屋に帰っていいのだが、同居人が元気がなさそうだと他人とは言え少しは気になる。

ふと思いついて、焼きそばを作ることにした。一昨日食べたばかりだが、材料はまるまる残っているし、球場でも今日は定番のカツサンドを食べたので、麺類を食べてもかぶらない。盛大に音を立てて作ってたら、岡田さんも部屋から出てくるかもしれない。炒めた野菜や肉をフライパンの横によけて、軽く焼いておいた麺を戻し入れる。ソースと絡めていたところで案の定、岡田さんが部屋から顔を出してきた。

「いい匂い、だね」

「あと、具材と麺を混ぜるだけっす。食べますよね」

もともと焼きそばが好きなのか、俺の焼きそばが好きなのか、おいしい、おいしいと言いながら、岡田さんは少し元気になってきた。あんたも飲みなよ、と言いながら冷蔵庫からビールを取り出す。飲めないわけでもないので、お付き合いすることにするが、岡田さんは3本目だ。

「あんた、いいお嫁さんになれそうじゃん」

「いえ、嫁にも旦那にもなるつもりはないっすから」

「ダメじゃん、このプロジェクト、初めから失格じゃん」

岡田さんが笑いながら、ビールをのどに流し入れる。上機嫌になってきたのは何よりだ。

「ねぇ、あんたはこのベターハーフってどう思ってるのよ?」

「だめでしょ、こんなプロジェクト。100万円もらわなかったら絶対、協力しないっすよ、こんなこと」

「わかんないよ、同じチーム好きになるくらいだから、運命の相手かもかもしんないじゃん」

俺のビールを飲む手が止まった。ヤクルトのおかげで少しは話せるようになったが、それだけだ。変に色気出してきたら、すぐに部屋に逃げるからな。今日はもう6時間のノルマは終わってるんだし。

「大丈夫だよ、私もベターハーフなんて信じてないから。あんたのことなんか、なんとも思ってないわよ、始めっから」

俺の警戒心が伝わったらしい。

「でも、ヤクルトファンでよかったわ。1ヶ月気を遣いながらナイター観るのはいやだったからね」

「こっちもよかったっす。正直、コンサルタントの人とかって、すっごい固い人だと思ってたんで」

岡田さんはビールを飲みながら、ずっと窓の外の夜景を見ている。

「固いっていうか、つまんない人間が多いよ、コンサルタントって。給料がいいし、納期どおり成果物を出したら干渉もされないから今の会社にいるけど、周りの人間と付き合いたいとは思わないね」

岡田さんはショートヘアですらっとしていて身長も高い。いかにもコンサルタントという感じの人だ。だから、共同生活初日の朝に、仕事に対してすごくネガティブなのを聞いて、意外な印象を受けた。

「よく入ろうと思いましたね、そんな会社に」

何の気なしに言った俺の言葉に、岡田さんはちらっとこちらを見てきた。やばっ、なんか言っちゃいけないことを言ったかと思ったが、すぐに岡田さんは窓の外にに目を移した。

「ある時、気づいたんだよ、自分も含めてコンサルタントなんてつまんない人間だなって。それまではやりがいも目標もあったけどね。そんなの全部どうでもいいんだって、冷めちゃったんだよね」

「なんか、あったんすか?」

また、岡田さんがちらっとこちらをこちらを見る。

「聞いてないっぽいね」

「え、何をですか?」

「あのアメリカ人に私のだんなの話、聞いてないでしょ?」

結婚経験がある、としか聞いてないと答えると、まぁ言う必要もないか、と岡田さんは言ってビールをぐいっと飲んだ。

「あたしのだんなって自殺したんだよ。3年前になるけど。同じ会社でコンサルタントやってたんだけどね」

勝手にバツイチだと思ってたが、確かにあの教授は結婚経験がある、としか言ってなかった。離婚と死別じゃだいぶ違う。3年前に夫に自殺されて、見ず知らずのハタチの男がベターハーフですって出てきて、そんなの信じられるわけがない。あの教授も現実的なマッチングとかよく言ったもんだ。俺が怒ることじゃないが、なんか腹が立ってきた。

「よく、こんなプロジェクトに参加しましたね」

「お金くれるから。バカな研究やってるなって思うけどね」

岡田さんは冷蔵庫に向かって4本目のビールを取り出した。球場でも飲んでるんだから、明らかに飲み過ぎだと思うが、俺がどうこういうことじゃない。

「私もバカだったと思うけど、死んだだんなって、それこそベターハーフじゃないけど、運命の人くらいに思ってたよ。仕事でもプライベートでも一番の同志だって思ってた。それが突然、会社のトイレで首つっちゃったんだよ。私あての遺書とかも何もなく。あとで彼の職場の人に聞いたら、仕事で成果を出せずに悩んでたって。全然知らなかったの、私。言ってほしかったって思ったけど、考えてみたら、私も目を三角にして成果、成果って言ってたから、言えるはずないよね。それでもう一気に冷めたの。成果なんてどうでもいいやって。で、それからヤクルト一筋。ヤクルトは全然成果、出ないからね。おととしとか100敗してたじゃん。気楽でいいよ」

あー、飲み過ぎだ、眠くなったから、部屋に帰るわと言い残して、岡田さんは部屋に帰っていった。ヤクルトが勝った時だけからんでくる理由が少し分かった気がした。

***

次の1週間はヤクルトにとって苦しい週になった。今シーズン、救援失敗がほとんどなかったキザワも金曜の試合ではランナーをためたところでホームランを食らって、敗戦投手になった。もちろん、俺も岡田さんも、そして多分ほとんどのヤクルトファンもそんなことでキザワを責めたりしない。ルーキーイヤーの去年はずっと二軍で今年いきなりブルペンの星になった男がたった1回失敗しただけで誰が怒ったりするものか。もう一つの東京を本拠地とする球団ならひどい言われようかもしれないが、こちらは負けることは大得意だ。加えて俺の場合、今は勝つとベターハーフがからんでくるという事情もある。負けてくれた方がむしろ平和だ。

土曜の面会日、フィル先生が相変わらずの大げさな笑顔で喫茶店の奥から俺に手を振ってきた。本人はフィルと呼んでくれとしつこいが、純ドメスティックな俺には中年男性をファーストネームで呼び捨てる習慣はない。今週のヤクルトは、とノリノリで話し始めようとする教授の先手を取って、俺から話し始めた。

「あの、悪いんだけど、100万円は返すので、このプロジェクトに協力するのをやめさせてくれませんか」

教授は落ち着き払った表情で、何がありましたか、と聞いてくる。

「岡田さんって、3年前にご主人を亡くしたんでしょ。そんなことがあって、見ず知らずの男をいきなりベターハーフだなんて思えるわけないっしょ。そんな人を、現実的なマッチングだとか言って、こういう夫婦まがいの実験に協力させるのはなんか違うんじゃないって思うんだけど」

俺は用意してきた言葉を一気に吐き出した。日頃は他人に反論めいたことなど言ったりしないのだが、これだけはどうしても言おうと思ってこの1週間を過ごしてきた。

「岡田さんが経験されたことの辛さは理解しています。ただ、我々は岡田さんにこのプロジェクトへの協力を強制したわけではありません。谷口さんにお願いしたときと同様に、条件を提示した上で了承を頂きました。もちろん、知らない男性と1ヶ月生活するということがストレスになりうることは承知していますが、できる限りの好条件でお願いしているつもりです」

「そりゃ、100万円もらえると思ったら誰でも嫌とは言えないでしょ」

「そうでしょうか」

教授が柔和な顔つきでゆっくりと話し続ける。

「お金はもちろんあるに越したことはないですが、岡田さんの今の職業生活からすると、100万円はそれほど大きな理由にはならないと思います。むしろ、私は岡田さんにはこのプロジェクトに参加してくださった別の理由があるのではと思っています。私は今の共同生活の中での岡田さんの心情変化などはしっかりとヒアリングをさせていただきます。それ以外の個人的なことをお聞きするつもりはないので、岡田さんがプロジェクトに参加してくださった理由については想像するにすぎませんが、多分お金ではない何かがあるのだと考えています」

言われてみると、岡田さんのような気の強い人がお金だけで流されるわけはないという気もする。改めて考えを巡らしていたところに、目の前でフィル先生が、すばらしい!と手をたたき始めた。

「私は、谷口さんが岡田さんにとても同情的になっていることに感銘を受けました。この2週間の共同生活で心理的な距離が著しく近づいている証拠だと思います」

「いや、そんなんじゃないから。別に距離なんか近づいてないし」

「我々の調査によると、離婚する夫婦の70%以上は、一緒に暮らし始めてから2週間以内に、何らかの違和感を感じ、心理的な距離が広がっていたという結果が出ています。谷口さんと岡田さんの場合は、2週間でむしろ距離が近づいている。非常に喜ばしい兆候だと思います」

「そりゃ見ず知らずから始まったんだから、その後2週間一緒にいたら、最初よりは距離は縮まるでしょ」

「そんなことはないです。我々の調査では、見ず知らずの異性と一日、一緒に行動させると、80%のペアが最初会ったときよりも相手により多くの拒否反応を感じることが分かっています。谷口さんの場合は明らかに多くのケースと逆の結果になっています」

この調子だと何を言っても、怪しげな「我々の調査」を持ち出しては、一人で喜び続けるに違いない。柄にもなく他人のことを考えても仕方ないかと思いながらコーヒーに口をつけた。相変わらずこの喫茶店のコーヒーは俺にはちょっと苦すぎる。

***

見ず知らず同士の共同生活でも3週間目に入るとそれなりのリズムが生まれてくる。フィル先生に言わせると、それこそがベターハーフの証拠だ、ということになるかもしれないが、そんなことはないだろう。よほど気が合わない人じゃなければ、どんな他人同士でも知らず知らずのうちにお互いがお互いの生活に適応しようとするものだと思う。

あんたの朝ごはんなんか知らないからね、と言っていた岡田さんだが、今ではご本人が好んで食べているフランスパンを俺にも分けてくれるようになった。その代わりというわけでもないが、朝は俺が簡単な卵料理を出すようにしている。オムレツでもスクランブルエッグでも目玉焼きでも、岡田さんはおいしそうに食べる。ちなみに岡田さんは目玉焼きはソース派だ。目玉焼きに限らず、岡田さんがソース系がお好きらしい。夜は相変わらずおでんと焼き鳥だが、俺の焼きそばは大好物だ。この前は、兵庫出身の友達に教えてもらった、ご飯にビーフカツとキャベツを載せてデミグラスソースをかけたかつめしという料理を出してみたら、これおいしいねーと喜んで食べていた。岡田さんは料理を作るのは多分苦手なんだろうけど、食べることは大得意だ。

金曜からは2位のDeNAとの首位攻防戦だったのだが、残念ながら雨で中止になった。仕方がないから東京ドームの巨人ー阪神戦をつけてみたが、二人ともヤクルト戦じゃなければ観戦に身が入らない。

「あんた、八王子のアパートには時々行ってるの?」

岡田さんがあくびをしながら聞いてくる。ヤクルト戦ではないがビールは同じペースで飲んでいる。

「先週、大学の帰りにちょっと寄りましたけど」

「なんとなくだけど、部屋、きれいそうだね」

「ていうか、物が少ないっすから」

テレビからワーッと歓声が聞こえる。オカモトがホームランを打ったらしい。どっちが勝ってもいいのだが、強いて言うと5位の巨人が3位の阪神に勝ってくれた方が首位ヤクルトにとっては好都合かもしれない。

「ねぇ、八王子近辺ってどんな感じ?」

「まぁ、悪くないっすよ。程よく柄が悪くて。学生みたいなのが多いから気楽だし」

ふーん、とだけ言うから、引っ越しですかと聞いてみた。

「まぁね。今のところも長いし」

「どれくらいっすか?」

「5年かな」

声を出さずに驚いた。それはつまり、夫を亡くした後も同じ家に住んでいたということだ。

「持ち家っすか?」

「ううん、賃貸だよ、普通の」

ビールをぐいっと飲んだ後、なんでって思ってるんでしょ、と岡田さんが言う。

「そう。だんなが死んだ後も引っ越さなかったんだよ。会社の人もだけど、何より親がね、引っ越せって何度も言ってたんだけどね。まぁ意地張ってるだけなのかな。だから、この前お父さん、私を説得するつもりで来たみたい。いい加減に引っ越せって。そしたら違う家に住んでるし、同居してる男もいるしで、おかげで安心して帰っていったわ。あんたのこと、同い年くらいの人かって聞いてきたよ。助かったわ、あんたが老けてて」

「ちぃーす」

老け顔がお役に立てて何よりだ。

結局岡田さんはヤクルト戦でもないのにビールを5本飲んで、いい気分になって部屋に帰っていった。俺はリビングのテーブルに残って一人で巨人ー阪神戦を眺めていた。

意地っ張りにもほどがある。八王子でいいんだったら早く言ってくれ。来週にでも学校の帰りに駅近くの不動産屋に寄ってチラシを集めてくる。
一人で取り残された家になんて住み続ける意味はない。そんなところで一人で寂しさと向かい合う必要なんかない。

***

あの日、高校2年の夏休み明け。9月の、死ぬほど暑かった日。

自転車を漕いで汗だくになっていた俺は、家の玄関を開けた瞬間、そこの空気がいつもと違うことがすぐに分かった。

母親が家を空けていることは珍しくなかった。もちろん買い物に行ってることもあるし、他にもいろいろ用事があって、俺が学校から帰ってくる夕方の時間に母親が家にいないことはよくあることだった。
でも、あの日、玄関を開けたとき、明らかにその家から人の気配が消えていた。

これは1時間、2時間のことではない。永遠のことなんだ。

俺は霊感があるわけでもなんでもない。でも、あの時はそのことを自然に感じ取ってしまった。
だから、その後、父親から、コンビニかどこかで弁当を買って食べておいてくれ、と電話が入ったときも、その夜、いつもよりも少しだけ早く父親が帰ってきて、俺に話がある、と切り出されたときも、驚かなかった。

母親はあの日、自分の夫と息子を残して、家を出た。

俺の最初の感情は父親に対する怒りだった。
彼は、メール1本残して、家を出た母親に、「なんで突然出て行くんだ」と怒っていた。
でも、俺は、それが突然の行動ではないことを知っていた。

平日は、仕事なのか飲んでるのか知らないが、いつも日付をまたいで帰ってくる。休日はソファに転がってテレビを見るだけで、家族を買い物や外食に連れて行く素振りもない。そもそも、まともに母親に話しかけるところを見たことがない。
俺は、そんな父親に対する母親の不満をいつも聞いていた。

彼女が家を出たのは突発的な行動じゃない。積もり積もった我慢が爆発したんだ。俺には簡単に分かるそんなことが、あんたには分からないのか。だから自分の妻に黙って出て行かれるんだ。

面と向かって、そんなことは言わない。その代わり、一刻も早く家を出て、この父親とは関わらないようにしよう。だから俺は東京の大学を選んだ。そして八王子に住み始めて以来、実家には盆も正月も帰っていない。

父親に対する気持ちはそれで済んだ。会わなければ、腹が立つことはない。でも、母親に対しては、複雑な気持ちがずっと残った。

家を出たかった気持ちは分かる。
俺はあの時、高2だった。もう母親の愛情を日常的に必要とする年齢ではない。
だから、もし一言、「私は出て行くけど、連れてはいけない」と言ってくれたら。
実際にはそんなことは言えないかもしれないけど、でももしそう言ってくれたら、理解できたと思う。

なぜ、俺にも何も言わず、黙って出て行ってしまったんだろう。

時の流れが止まった静けさが充満して、息苦しいほどだった玄関。
何の生活音も、何のにおいもなく、ただギラギラした西日が差し込んでいただけの台所。
本当は俺も今朝使ったばかりなのに、まるで10年以上、誰にも使われなかったかのようにカラカラに乾燥していた洗面所。

俺は置いていかれたんだ。

そんなあの日の風景の記憶が、俺の心の底にたまっている寂しさを日に日に増幅させていった。

***

3回目のフィル先生との面談ではクリームソーダを選んだ。この喫茶店のコーヒーはどうも俺には苦すぎる。子供っぽいかなと思って大学生になってからはあまり飲んでいなかったが、実はクリームソーダは俺の好物だ。

30分ほどこの1週間の報告をした後、教授から今後の話があった。今のような形であと1週間、共同生活をした段階で、プロジェクトからの依頼はいったん終了する。ただし、双方からの希望があれば、共同生活は続けてもらっていい。協力金は払わないが、マンションは引き続き提供する。

「正直に申し上げると、私としては共同生活を続けていただきたいと思っております。お二人からのお話を伺っていても、とてもよいケミストリーが生まれていると感じています。もし生活する上での不都合があるならば何なりとお申し付けください。できる限りのサポートをさせていただきます」

グラスの中からサクランボをつまんだ。サクランボは飾りだと思っている人もいるらしいが、俺は断然食べる派だ。

「もしどちらかが希望しないと言えば、この共同生活は終わるんですよね」

「はい、それはもちろん。もし谷口さんに継続の意思がないのであれば、私の方から岡田さんにその旨をお伝えします。谷口さんが岡田さんに何かをおっしゃっていただく必要はないです。1週間後そのままマンションを出ていただいて結構です」

グラスの中でアイスクリームがちょうどいいくらいに溶けてきた。ソーダとアイスのバランスがクリームソーダの肝だ。アイスをすくって口に入れるとすばやくソーダをストローで吸い込む。

「俺は今の生活、続けたいっす」

喫茶店が入っているホテルを出ると、乱立している高層ビルのせいもあってか風が強い。この風だと、デーゲームをやっている神宮でも影響が出ているかもしれない。

岡田さんが俺との共同生活を続けたいかどうかはわからない。でも、岡田さんがこのプロジェクトに参加した理由はなんとなくわかる気がしていた。この奇妙な共同生活が何かのきっかけになっているのであれば、多分岡田さんはそれをもう少し続けたいと思うはずだ。岡田さんはあの部屋に一人で残るべきじゃないし、俺だって一人で残るべきじゃない。

ふと思い出して、携帯を取り出した。ずっと入ったままだった父親からの留守電を探して、削除ボタンを押した。八王子のアパートの近くに母親が住んでいるらしいが、連絡を取る必要はない。俺の今はこのビル風が吹き荒れる町にある。

マンションでは岡田さんがテレビで観戦中だろう。俺もこの後合流するが、その前にこの前見つけた輸入雑貨の店に立ち寄るつもりだ。先週、店頭に並んでいたアジアンテイストのソースが意外と焼きそばに合うような気がする。俺のベターハーフは食べることが大得意だ。