「そろそろ、戻ろうか。お義母さんがお茶を淹れてくたから。あと東京駅で夏実の好きな和菓子も買ってきたよ」

「ありがとう。でも、ごめん。農園の仕事を思い出しちゃって」

 作り笑いを浮かべながら、私はこの手で啓太の手をそっと放す。

 この瞬間、私が大事にしないといけないのは目の前にいる啓太との時間だ。もっと、本音を語り合って。本心をぶつけ合って。そう頭ではわかっているはずなのに、今の私は少しでも秋雄のいる優しい夢の中にいたいと願っている。 

「秋雄っ!」

 玄関を飛び出すと走りながらその名前を叫ぶ。
 私は秋雄に伝えなければならないことがある。この現実を隠すことは逃げていることと同じだと気づいたから。

「秋雄っ!」

 なのにいくら名前を呼んでも秋雄が再び現れることはなかった。
 一人家の中に戻ると、リビングで談笑している三人の声が聞こえる。

「夏実のどこがいいの? あの子は気が強いし、なかなか本心は見せないし。相手にするのは大変でしょ?」

 娘の短所を暴露しながら、相手の気持ちを探ろうとしている母はやはり策士だと思う。でも、それも親心だとわかっているから私は廊下の壁に背を預けたまま三人の会話に耳を傾ける。

「夏実さんのキツさは自分を守る為に身につけた鎧のようなものだと思うんです。その中は本当は傷つきやすくて繊細で……。そんな夏実さんを守りたいなって」

 __啓太は啓太なりに私を理解しようとしてくれていた。なのに私は?
 踏み込んで欲しくない場所を守る為に自分から距離を置き、中学時代の元カレを引き摺り……。だからといって一人で生きていく選択もできずに「それなりの幸せ」を手に入れようとしている。
 表向きは現実を選んだふりをして、心では秋雄のいる優しい世界を望む自分は酷く狡い。わかりながも、両親と啓太の姿を横目に廊下を通りすぎるとそっと自室の扉を開ける。
 しかし、秋雄の姿はどこにもなかった。