北村(きたむら)さんに会ったの」

 久しぶりに聞いたその苗字が鼓膜の中をグルグルと渦巻き、大きくなる心臓の鼓動が喉元にドクドクと響く。

「……婚約のこと」

「言ってないわよ」

 真っ先に、その二文字が浮かんだ自分が情けない。
 時は流れているのに。立ち止まっているわけにはいかないのに。

「夏実の口から話した方がいいかと思って」

 私は目の前にあるテーブルの木目を数えるように、ゆっくりと「あの日」から今日までの歳月を数える。
 本当は数えなくたってわかっていたけれど、即答してはまだ引き摺っているのではないかと母が心配すると思ったから。私は思い出すには充分すぎる時間を置いてから重い口を開いた。

「……九年経つんだね」

 母は目を伏せたままそっと頷く。
 あの日から私の体感速度計は壊れてしまった。だから九年が速いのか遅いのかはわからない。
 だけどあの日、十二歳だった私が二十二歳になった。そして婚約した。
 自分の体感速度がどうであれ、時が進んでいることだけは真実だ。

「……報告してこようかな」

「え?」

「そのうち結婚したらすぐに広まるでしょ? その前に自分の口から報告した方がいいかなって」

 私は過去に捕らわれずに日々を過ごしていると信じたい。だから自分を試したかった。
 乗り越えられた。もう大丈夫。その証拠が、ずっと欲しかった。