「ただいま」

「お帰り。麦茶飲む?」

 リビングに入ると父はお風呂なのか、母が一人ソファーで寛いでいた。あらかじめ夕飯はいらないとメールをしておいたから心配はないのだけれど、テーブルの上には白い皿に盛られた櫛形の林檎が置いてある。もはや、何度目のデジャブだろうか。

「うん。ありがとう」

 ソファーに腰を下ろすと、目の前のテーブルに飴色の液体が入ったコップを置いてくれる。

「真由ちゃんも貴司くんも元気だったでしょ?」

「うん。あと、ぶーちゃんにも会ったよ」

「イケメンになってたでしょ?」と、即答した母に違和感を覚える。

「ぶーちゃんにも会ったの?」

「小林君も毎年林檎を頼みに来てくれるのよ」

「そんなこと、一言も言ってなかったよ?」

 すると、母がクスクスと笑う。

「みんな、林檎を通して付き合いが切れないようにしてくれてるのよ」

「……そうなんだ」

 今なら、みんなの優しさがわかる。
 メールや手紙での直接的なやり取りではなくても、林檎の注文という形で繋がっていればいつでもまたお互いの近況を知ることはできる。

「実は北村さんも毎年注文に来てくれるのよ 」

 思わず手にしたコップを落としそうになる私に、母が申し訳なさそうな顔で笑う。

「北村さんの名前はタブーかと思って言わなかったの。でも、みんな林檎によって繋がってたのよ」

 __タブー。
 やはり母にはお見通しだった。

「でも、もう大丈夫ね」と、どこまでわかっているのかは別として優しく微笑んでいる顔を見たら結婚を迷っていることは言えなかった。

 お風呂から上がった父と挨拶を交わすと私も今日一日の汗を流す。いつもなら入らない湯船にも浸かって自転車を漕いだ足を労う。東京では、電車やバスを使っているからあまり身体を動かすこともない。こんなにも、お風呂が気持ち良いと感じたのは実に久しぶりだった。
 着心地重視の寝巻きに着替え部屋に戻ると金魚の秋雄に餌をやる。小さな口でパクパク食べている姿にホッとした。

「……はぁ」

 ベッドに倒れ込み深呼吸をしながら目を閉じる。
 久しぶりに沢山泣いた。沢山笑った。沢山心が動いた。
 “__それなりの幸せも、幸せに代わりはない。ただ、それなりの幸せが林檎娘にとって「結婚」なのかは考えた方がいいな”
 ぶーちゃんの言葉の意味を考えようとしたけれど、疲労感から意識が微睡んでいく。やっぱり考えるのは明日にしよう。と、意識を手放した瞬間脳裏には秋の色が微かに揺れていた。