そうなると当然のことながら、勇者の人気も徐々に落ちていくことになる。かつての栄光は過去のものとなり、今はただの一般人として扱われるようになっていた。それは陛下にとって耐え難い屈辱だったに違いない。
だからこそ、陛下は躍起になっていたのだ。自らの存在意義を証明するために。そして、再び人々に勇気を与えるために。
「……そろそろ行こうか」
陛下は小さく息をつくと、真剣な眼差しをこちらに向けてきた。「この日のために私はずっと準備を進めてきたんだ。絶対に失敗する訳にはいかない」
「はい」
僕は力強く返事をした。陛下の力になりたい―――。それは紛れもない本心だ。だから、たとえどんな危険が待ち受けていようとも、決して怯むつもりはない。
「では、早速だが……」
陛下がそこまで言いかけた時のことだった。突然、部屋の扉が勢いよく開け放たれたかと思うと、一人の兵士が飛び込んできた。兵士の顔からは血の気が引いており、呼吸も乱れている。明らかに普通ではない様子である。
「陛下! 大変です!」
「どうした? 何があった?」
陛下が尋ねると、兵士は震える声で言った。「国境付近で待機させていた魔術師部隊が壊滅しました。敵の中に強力な個体がいるとのことで、そちらの対応に追われた結果、隙を突かれて全滅させられたようです」
「馬鹿な!」
陛下は驚愕の声を上げると、慌てて部屋を出ていこうとした。しかし、そんな陛下の腕を掴み、引き止める人物がいた。
「待て、陛下!」
それは僕の師匠にあたる人だった。かつては宮廷魔術師を務めていたこともある凄腕の魔法使いで、名をアルフォンス・ミュルザックと言う。年齢は五十代半ばといったところだろうか。白髪交じりの長い銀髪を後ろで束ねており、顔には深いシワが何重にも刻まれていた。一見するとかなり高齢に見えるものの、実際にはまだ四十代前半だという話だ。
「何をするんだ!」
「落ち着いてください。まずは冷静に状況を把握する必要があります」
「そんな暇があるものか! こうしている間にも敵が迫ってきているんだぞ!」
「それは分かっています。しかし、焦っても何も解決しないでしょう」
「……」
陛下は納得がいっていないといった表情を浮かべたものの、渋々と言った感じで腰を落とした。それを見届けてから、師匠は兵士の方に向き直る。
「報告を続けて」
「はっ、はい」
兵士はそこで一度言葉を区切ると、改めて口を開いた。「国境付近に現れたのは、ゴブリンやオークといった低級の魔物ばかりです。しかし、それらの中に一匹だけ、他の魔物とは一線を画す強さを誇る個体が現れました」
「ふむ、それで?」
「はい、それが非常に厄介でして……。通常の武器による攻撃はほとんど通用せず、逆に敵の攻撃を受けてしまうと致命傷を負う恐れがあります」
「なるほどね。つまり、あなたはその敵を倒せるだけの手段を持っていないということかしら?」
「……申し訳ありません」
「別に謝る必要はないわよ。私だって同じ立場なら似たような対応をするはずだからね」
「ありがとうございます」
兵士は明らかにホッとした様子を見せた。すると、その様子を見ていた陛下が再び声を荒げる。
「いい加減にしてくれ。そんな悠長なことをしている時間などないんだぞ」
「陛下」
「なんだ?」
「確かにあなたの仰る通りかもしれません。しかし、敵の狙いが分からない以上、軽率に動くべきではないと思います」
「何が狙っているというのだ? まさかさっきの報告にあった敵の強者が我々を狙っているとでも言うのか?」
「可能性としては否定できないかと」
「馬鹿馬鹿しい。仮にそうだとしても、わざわざ国境付近まで出向いて攻撃を仕掛けてくるものかね?それこそ意味がないだろう」
「えぇ、陛下のおっしゃることも理解できます。ですが、用心に越したことはないかと」
「ふん、まあいいさ。君がそう言うのであれば好きにしたまえ」
陛下は投げやりな態度で言うと、そのまま踵を返した。そして、部屋の外に出ていくと、真っ直ぐ前を見据えながら歩き始める。僕達もそれに続き、その後を追いかけていった。
謁見の間に向かう途中、僕達は多くの兵士達の姿を見掛けた。皆、一様に緊張した面持ちを浮かべており、ピリピリとした空気が伝わってくる。無理もない。なんせ、つい先程まで優勢だった戦況が一変したばかりなのだ。不安に思うなという方が無茶な相談だろう。
「状況は最悪だな」
陛下は苦々しい口調で呟いた。「まさか、こんなことになるなんて……」
「陛下、ここは私にお任せいただけませんか」
師匠は真剣な表情を浮かべると、陛下にそう提案した。
「どういうことだ?」
「私が単身で敵を倒しに行ってまいります。幸い、奴らは足が遅い。うまくいけば追いつくことも可能かと」
「しかし……」
「ご心配なく。これでも若い頃はかなりの実力者として知られていましたから。今ではすっかり老いぼれてしまいましたが、その辺の魔物には遅れを取ることはございません」
「分かった。では、よろしく頼む」
「畏まりました」
師匠は深々と頭を下げると、すぐに駆け出した。そして、みるみるとその姿が小さくなっていく。僕はその背中を見つめながら、「頑張ってください」と心の中で応援を送った。
それから程なくして、僕達は目的地へと辿り着いた。そこには既に大勢の兵士達が集まっており、誰もが不安げな顔をして佇んでいる。その視線の先には巨大な門があり、そこが今まさに開かれようとしていた。
ゆっくりと開いていく門の隙間から、外の景色が露わになる。すると、そこに現れた光景を目の当たりにした瞬間、僕は思わず絶句してしまった。なぜなら、そこには数え切れない程の魔物達がひしめいていたからだ。
「おいおい、嘘だろ」
「こりゃあ、ちょっとヤバいんじゃないの」
兵士達の間にも動揺が広がっている。中には諦めの色を滲ませる者もいた。
「みんな、よく聞いてくれ」
そんな中にあっても、陛下は冷静に語り始めた。「敵はすぐそこまで迫ってきている。もはや一刻の猶予も残されていない。だから、このまま戦いに挑むしかないんだ」
「ですが、陛下」
一人の兵士が陛下の言葉を遮った。「いくらなんでも数が多すぎます。とてもではありませんが……」
「君の気持ちはよく分かる。だが、今はやるしか道がないんだ」
「しかし……」
「大丈夫だよ」
その時だった。僕の耳に聞き覚えのある声が届いた。振り返ってみると、そこには師匠の姿があった。「ししょ――ぐぁ!」
突然の出来事だった。僕の身体は何者かによって強く突き飛ばされ、地面に倒れ込む。直後、激しい痛みが全身を襲った。
「……な、何が起きたんです?」
僕は恐る恐る顔を上げた。そして、そこで目にしたものを見て言葉を失う。何故なら、そこにいたのは僕の師匠だったからだ。
「えっ……?」
一瞬、何が起こったのか理解できなかった。いや、理解したくなかったのかもしれない。だってそうだろう?目の前で自分の師が殺されようとしているのだから。しかも、よりにもよって相手は人間ではなく魔族だったのだ。
「ししょう?」

「アルスさん!」