どこにいても、何をしていても、いつもどこか息苦しい――こんな自分のことが大嫌いだ。


 「きりーつ。れえー」
 
 最早儀礼的とまで化した終礼の挨拶が響く。それと同時に鳴ったチャイムが、私達に放課後を伝えて役目を終える。

 「ねえねぇ、今日はカラオケ行かない?」
 
 浮き足だった教室の中で、一際甘ったるい声を発したのは、このクラスの中心の女の子。その子は私立の高校に通っているにも関わらず、スカートの丈は恐ろしい程短いし化粧だってばちばちにしている。加えるなら、不純異性交遊もしている。いわゆる恋人もちだ。もちろん先生にはこっぴどく叱られているが、それでも彼女はこの学校の校則に抗うことを止めない。
 
 「いいねぇ。何時までするの?」

 彼女の取り巻き達が賛同する。そこにはやはり、彼女と同系統の人間しかいなかった。放課後に堂々と羽目を外すのは、決まって彼等だけなのだ。

 「そりゃモチロン補導ギリギリのラインまで――」

 (くだらない……。帰ろう)

 頭の悪い会話を聞いていると、こちらまで気がおかしくなってしまいそうで敵わない。あんな人達は、きっと最後の最期まであのままなのだろう。実に悲しいことだ。彼等はああして同族だけで群れているから、外から見た評価なんて知らないのだろう。

 人というのは、自分を囲っている鳥籠の中から野生で自由に生きる生き物を見て、初めて自分の立ち位置に気が付くのだ。それまでは本当に何も知らないから、愚かしくも無知なままだから。だからきっと、あんなに自由でいられるのだ。私とは、何一つとして違う。一生、届かない。そんな諦め。

 やはり深く思考しながら歩いていると、如何にも片方にしか集中出来ない自分が恥ずかしい。

 ほら、今日もまただ。
 
 
 「薫ちゃん、薫ちゃんっ!!」


 「何か、用?」

 恥ずかしさを堪えて彼女に応える。出会うや否や、まるで懐いた犬のように胸に飛びついてきた自分より大柄な少女は、名を松竹貴音《しょうちくたかね》といった。彼女は私とは違うクラスだが、体育祭を機に仲が良くなった。と言うよりかは、彼女の少しばかり特殊な琴線に触れた私が、あちらに近付かれているだけだ。本当のところ、仲がよろしいのかは分からない。外の人間からすると、もしかしたら良い関係なのかもしれない。友達とか、思われていそう。

 別に嫌な訳ではないのだ。言い訳がましいとは思うが、何をするにしても後ろめたさを感じてしまう私だから。きっと彼女に悪い影響を与えてしまうのではないか。でも違った。そんなことは一切無かった。断じて。逆だったのだ。何もかもが。
私の方が、籠の中の鳥だったのだから。

 じめじめとした風が頬を撫ぜる。梅雨の時期など全国の女子高生の大敵だというのに、貴音は如何してここまで元気なのだろうか。はつらつとした笑みは、未だ崩れた姿をみせることはない。

 「薫ちゃん薫ちゃん」

 「ん?」

 「ぅわ、イケメンがいる……」

 (何言ってるの?)

 まず第一にそう思うが、それが決して音として出ることはなかった。理由は、これだった。彼女の、視線の先が答え。

 (あぁそうか。この目元だ)

 私の目元、というか鼻から上の顔の造形は、程よく男寄りに整っていた。中性的な、と言った方が正しいのだろうか。正直言って、鼻より下は自信がない。しかし何故、彼女が見下ろした眼を褒めそやしたのか。理由は至極簡単だった。

 さらりと顔を覆う布を触る。――マスクだ。

 本来なら、「菌が移るから触るんじゃない」と親に酷く叱られるのだが、皮肉にも今は感染症が流行っていない。御陰で怒られることが一つ減って良かった。あれと真正面で対峙しても、きっと怯えてしまうから。

 それでは何故、私がマスクをつけるのか。

 「わからない……」

 「え、何が?」

 無意識に出てしまった胸中に驚いて目を見開く。どうしたの? と優しい貴音は心配している素振りを見せてきて、安心させなきゃという意識が働く。

 「いや、何でもない」

 この笑顔さえ崩さなければ大丈夫。親から、散々学んだことを、この子の前で使うとは思わなかったが。

 へらりと笑って、何事もなかったかのようにやり過ごす――筈だった。

 「嘘だよ」

 やめて。

 「嘘だったら……」

 頼むから、それ以上先は……

 「そんな疲れた顔しないよ」

 (あぁ、やっぱり)

 私は嘘をつくのが、とことん下手なようです。

 本当でしょ? 図星でしょう? と語りかけてくる目に、仕方なく私は、お手上げの意を込めて言う。

 「分からないんだよ。私がマスクをつける理由が」

 へ……と拍子抜けした瞳に、思わず笑ってしまいそうになるが、ここは笑うべきではない。空気は、ちゃんと読まなければならない。

 「自分のことなのに、分からないの?」

 ごめんね貴音。私は、君が思っている以上に、自身のことを解っていないんだよ。自分の力の測り方も、身の丈に合った行動の仕方も。全部、ぜんぶ知らないんだ。だからさ、私を信じないで。世界を知ってしまった私には、いささか息苦しいけれど。きっと、これが『正解』だから。

 「残念ながら、これが分からないんだよなぁ」
 
 「そっかぁ。それじゃあ見つけないといけないね、二年生の終わりくらいには」

 ……「二年生の終わりくらい」? 何それ。やけに時期を指定してきたではないか。それに、何の意味があるのだろう。「その意味は?」と問うと、彼女は「だって……」と続ける。その顔には、不思議と思われる色が読み取れた。

 「だって、薫ちゃんは使うんでしょ? 『推薦』」

 何言ってるのと言いたげな貴音の真意は、今の私には汲み取れない。

 「推、薦……? それと私のマスクが如何関係あるの」

 「もうっ!! 大アリだよ。薫ちゃんは大学受験は推薦選抜なんだから、面接の時とかに自分のこと分かっていないと、困っちゃうよ?」

 貴音はそう言って、腰に手をあててぷりぷりと怒る。如何でも良いが、可愛らしくて羨ましい。

 瞬間、腹の底から湧き上がった何かに気づいて、蓋をした。

 「私、推薦使えないと思うけど」

 (如何してだろう)


 ここまで、過大評価されてしまうのは。
 

 別に特別なことは何一つとしてしていない。普通に生きることを目標として、勉強して、後生のために、成績を落とさないように静かにして。でも勉強の結果は、然程芳しくない。これのどこが「推薦を使う人間」に見えているのか。貴音の目には、私がどんな風に見えているのだろう。もし、優等生などと思われていたら、ちょっとばかり心外である。私は、そこまで器用でもないし、尊敬されるような才能も、努力の結晶も、持ち合わせていない。誰よりも卑屈な自信があるし、そんな自分を嫌っている節もある。いくら考えても理由は浮かんでこないのだが? 

 それでもずっと勘違いに勘違いを重ねている彼女は、私を疑うことを知らない。

 「え〜? 嘘だよ。薫ちゃんが推薦使えなきゃ、誰が使うの」

 私の他にも、もっと優秀な方々は沢山いるだろう。それが何故馬鹿な私に矛先が向かうのだ。クラスが違うから? 佇まいの問題?

 ……困り切った腹の中が、彼女にも見えてしまったのだろうか。

 貴音は突如として「あっ!!」と思い出した風に声を上げた。

 「ねえねえ薫ちゃん。薫ちゃん達のクラスは何やるの? 文化祭!!」

 「ああ……文化祭、文化祭ね」

 文化祭、ね……。気分が、嫌に沈んだ。

 「嫌だなぁ……」

 貴音に知られないよう、ぼそりと愚痴を零す。幸運にも、彼女はこれから訪れる文化祭に夢中だ。

 「私のクラスは、風景画の展示になった」

 「何それ、美術の延長? 楽しくないねぇ」 

 まぁ、楽しくはない。絵を描くこと自体、私は好んでいない。しかし同時に大きな利点が生成される。それは休めることだ。画を描いて提出すれば、速攻で終わるという、実に画期的な出し物。これならクラスの人達とあまり話さないで済むし、何より文化祭当日に時間を拘束されない。この案を出したら、先生は

 『お前達夢がないなー。もう少し張り切っても良いんだぞ』

などと言っていたが、彼はクラスの人間質を、よく知ってから言うべきだった。私のクラスは人間的に駄目だろと思う人が多い。校則も平気で破るスタイルの方々だ。そのような彼らが、到底何かを最後まで何かを作業出来るとは思えない。むしろ歪で汚い物を出して、結果的に恥をかきそうだ。あの時案を出してくれた大人しいおさげの子、ナイスアイデア!!

 心の中で大袈裟にガッツポーズをすると、疑問を持ったらしい貴音が、

 「風景画って、どこの〜とか指定されてるの?」

 あれ、言っていなかったか。最近、考えに耽ると数分前を忘れてしまう。まだ認知症は早いぞ、私。

 「それは、校内でのね」

 一拍置きたくなって、うぉっほんと目を閉じて咳払いをする。わざとらしかったか。焦らされた表情の貴音が瞼の裏に浮かぶ。

 
 「『お気に入りの場所』」



 ――あれから数ヵ月。

 「み、見つからない……」

 未だ私は校内を歩き回っている。夏も終わりかけの時分だというのに、額には薄らと汗が滲んだ。

 「はああああああ」

 こんな自分に呆れて、また小休憩という名目で芝生も気にせず木陰に座り込む。如何してここまで無様に私はなっているのだろう。何故だ。もう夏休みも終わるというのに。私だけがずっと場所を探している。発案者のあの子は、もうだいぶ前に綺麗な校舎を提出し終わったらしいのに。

 「探すかぁ」

 急がなければ。また良さげな場所を奪われてしまう。誰だ、場所が被らないように提言した人間は。文化祭が終わるまでは恨み続けてやる。

 いや、人の所為にはしてはいけない。結局は、「『あそこ』以外の好きな場所? 思いつかねぇ」と突っぱねた私が、今まで優柔不断だったのがいけないのだ。……きっと、そうだ。母親から、そう言われたのだから。「お前は愚図だ」と。いつもいつも、やる事なす事、難癖つけられて。小さな頃から、散々。

 気持ちが仄暗くなって、駄目だ駄目だと首を振る。呑み込まれてしまう。あの存在に、囚われ続けてしまう。あれは普通じゃない。普通ではないのだと、そう、身体に教え込む。ぎゅっと握り締めた手を見て、ふと視界が歪んだことを悟る。不味い。早く室内に戻ろう。八月の終わりなんかに熱中症で倒れたら、いつ母親に溜息を吐かれるか。想像しただけでも病状が悪化する。私は高校生だ。もう大人なのだ。その手前、身内に迷惑などかけられない。空気を悪くしてしまう。

 (もう、本当に――)
 
「辛い」

 世界を、知ってしまったから。

 誰にともなく吐いた戯言が、


 「辛いの? 大丈夫?」
 

たった一つの台詞に掻き消された。

 その人は偶然にも、私と同じく、画材道具一式を持っていた。誰だろうか。制服からして男子であることに間違いはないが、私のクラスに、こんな男はいただろうか。

 「おぉい。生きてる?」

 動かなかった私に、彼は空いた片手を私の眼前でそれはもうぶんぶんと振った。それがいささか煩わしく感じた私は、

 「生きてますが」
と応える。反応が嬉しかったのか、それとも安堵したのか。心優しき青年はまた

 「で、辛いの?」
と話をぶり返す。面倒だ。非常に。早く私は校内に戻りたいというのに、如何にもこの人は、返事をしなければ解放しなさそうだ。気を強く持って、私は答える。
 
 「辛くないですよ」
  
 にっこりと愛想笑いをする。早く目の前から去ってくれー去ってくれーと願いながら。敢えて嘘を吐く。こういう時は本音を伝えるのが主流だろうが、それでも私は、嘘を吐く。極力クラスの人達とは、せめて夏休み中は関わりたくない。
 
 「へぇ、そう」

 ん? なんだ。案外淡白だな、この人。まあ今時人の事情にあれこれと首を突っ込む方が嫌われるから、この態度が賢明だろう。

 「お騒がせしました。ではこれでぇえええっ!?」

 「え、何か?」

 (な、何を言っているんだこの人!?)

 内心は驚きに満ち満ちてしまったが、悟られぬように必死に冷静な顔をつくる。と言っても、先の痴態で無駄になりそうだが。

 まずは状況把握から。ええと、何故、何故に私は、

 「手を、握られてるのかな?」

 なるべく引き攣らないように尽力しているが、無理であろう。何故男女二人が手を握り合っている構図が出来上がっているのか。

 きょとんとした変な青年は悪びれる様子もなく

 「だって、見るからに嘘バレバレだし」
言った。言ったなこの人。もう心優しいとか微塵も思ってやらない。ついさっきまでそう思っていた私が馬鹿みたいではないか。しかもそこら辺は嘘と理解しても察するべきではないか!

 「離して下さいっ」となけなしの力を込めて手を引っこ抜こうとするが、上手くいかない。と言うのは語弊で、彼が、私をがっつり掴んで離さない。

 一体その線の細い手から、如何様にすれば、こんな御大層な力が出せるというのか。全くもって、この世は不思議で満ちている。……そうだ、不思議で、奇妙なのはこの世界の方なのに。何故、何故、私だけが。こんなにも、苦しんでいるのだろうか。世界は、苦しく、辛くないのだろうか。もしかしたら、私だけ、なのかもしれない。目の前の青年も、貴音も、誰もが苦しそうには到底見えない。そう、思うと、

 「あっ」   

 ぐらりと。力を失ってしまった半身が傾いた。傾いた先は、想像した通り、やはり男がいて。音も立たずに、私の身が彼に預けられてしまう。これじゃあ、まるで少女漫画だ。そんなつもり、私にも、彼にも、はなから無いと言うのに。

 「……ごめん」

 口から零れ出た言葉は、思いの外そっけないもので。初対面の人間にするには、いささか無礼が過ぎた。だが、

 「別にいいよ。謝るような非が、君にはあったの?」
染み込んでいた世界の理は、音を立てて崩れ去ってしまう。この人の前では、私の中の常識は、永遠に通用しないのかもしれない。
 
 「私はあると思ったから謝ったのですが。可笑しかったですか?」

 失礼しましたと言って、その鍛えられたであろう体から離れる。離れたのに、二つの目と合って、一抹の、恐怖がよぎる。

 「可笑しくは、ないけど……ここ暑いし、中入ろっか」

 フラッシュバックしたあの日々に恐れを抱く暇もなく、未だ握られた手を連れていかれる。

 しまった。このままでは具合が悪いと認識されて、保健室に連れ込まれてしまう。それだけは避けなくては。また、無意味な記憶を無意識に引き出されてしまっては困るし、もっと言えば嫌だ。

 「私のことなんか気にせず作業して下さい。それ、文化祭用の物でしょう?」

 提出間近ですし、尚更。と付け加えて、視線の先の画材道具を指した。

 それにしても、一年生が使っているにしては、随分と薄汚れているものだ。もしかしたら、美術部員か何かなのかも分からない。でないと、こんなに使い古されてはいない筈なのだから。

 先の台詞に、何か引っ掛かるものでもあったのか。青年は眉をひそめてこちらを向いた。


 「『提出間近』って、何の話?」
 

 「…………はい?」

 その言葉の意味を理解するのに、結構な時間を要して。はめてあったパズルの一ピースが今、剥がれ落ちた気がした。

 「君、一年だよね?」

 ああそうか。そういう、ことか。

 「すみません、先輩」

 声に出してようやく、かちりとまた、新たなピースがはまった。 

 私が迂闊だったのだ。視野が狭いと言うのは、まさにこのことなのだろうと、初めて実感した。顔から火が出る程の熱が、やがて全身を巡り巡って私を羞恥に染める。ホント、マスクをしていて良かった。

 過去の私よ、よぉく見てみなさい。彼のネクタイの色を。私のそれと、違うではないか。この眼前の人は、私の一つ上の、二年の先輩だ。しかし、それでもどこの誰かなんて、知れたものではない。私は帰宅部なのだから。

 「あ、そっか」

 名も知れない先輩が、納得したように頷いた。

 「『君のクラス』が、提出間近なんだね」

 そっかそっかと、何とかの一つ覚えみたいに意味を咀嚼して飲み込んで。勝手に一人芝居を開催してしまう。

 「そっかぁ。大変だね。題材が見つからないんでしょ? うんうん分かるよ、僕も。描いてくれって言われても、題材はこっちに放るんだからね」

 彼にも思い当たる節があったらしく、昔の記憶に想いを馳せている。酷い話だよねぇと言って。そうなんだよそうなんだよと私は心中で同意する。だがしかし。

 「…………ん?」

 「え、何だい?」

 私の疑問にも、彼はやはり大袈裟な程に反応する。今にもその塞がれた両の手を、いっぱいに広げそうだ。

 「何で、テーマが決まっていないって、知ってるんですか」

 「そりゃあ――」

 彼は突然歩き出した。私を連れて。話を、逸らしたいのだろうか。……変な人。

 「君、最近うろちょろしてるでしょ? 『美術室の前』」

 覚えてないかい? 言いたげな、瞳をして。またすぐに前を向いて歩く。

 覚えているよ。そんなこと。今日も、そこには顔を出したのだから。いや、出したと言うよりかは、覗いたと言った方が相応しい。事実、私は帰宅部だ。美術部員でもない私が、夏休み中、ほぼ毎日覗いていたら、それこそ不審者だ。しかも、そいつは何も喋らないときた。その場に居合わせた部員全員の印象に、残っているに違いない。だからこの人は、話しかけてきたのかも知れない。口振りからするに美術部員ぽくて、「何か用か。言いたいことがあるなら言え」と。終いには、出禁を食らったりして。
そこで、何故美術室に行くのかといった、質問。恐らく私が有名人であればお便りとしてくるのだろう。理由は、ただ単にシンプルだ。何物にも、変え難い。

 「お気を悪くされたらすみません。如何しても、あそこから見える景色が、描きたかったものですから」

 下らない理由のくせ、私はそっぽを向く。かっこ悪い、こんな自分は、やっぱり嫌いだ。

 「でも現に君は、締め切りのために校内中を走り回っているじゃないか」

 まあそれもそうだ。あの部屋からの風景が描きたいのなら、お邪魔さえさせて貰えればいい話だ。それで肩がついて、この苦しみ悩みからはもうおさらばだ。だがしかし。

 「保険ですよ、他の場所は。ずっと前から、綺麗だと思っていたのが、あそこだったんです」

 人生、そう思い描いた通りには、上手く行かないものである。

 「ごめんなさい、話しかけられないんです」

 自分で口に出してしまうと、余計に惨めに思えてくる。私は人見知り。コミュ症。そして臆病者だ。

 真一文字に結んだ唇から、音が発せられることはない。前を歩く先輩には、見えないだろうけれど。見えなくて、いいのだ。こんな不格好な顔。元々の素材が、マスクで覆われようが、決してその性悪さが隠せることなど、皆無なのだから。

 ……無音。二人分の夏の息遣いと、地を踏みしめる音が、やけに大きく聞こえるのは、きっとこんな状況のせい。あまりの暑さに汗が首筋を流れ落ちるが、もう少しの辛抱だ。
 行きたかった目的地は、すぐそこなのだから。

 「……さっ、着いたよ」

 眉をハの字になる程胡散臭く目を細めた先輩は、

 「あ、はぁ……」


 私を美術室に手招いた。


 「ほら、早くしないと。締め切りになっちゃうよ」

 まだ後一週間強は残っているのだが、それについては黙っておこう。それよか、もっと訊きたいことがある。

 「部外者感が否めないのですが」

 見渡す限り、美術部員だらけだ。入室した瞬間の空気の気まずさと言ったら、家のそれと引けを取らない。

 (ここには、いちゃいけないでしょうに)

 何と言うべきか、場違い感が半端ない。いくら部員の一人らしき男が招いた年下の不良少女であろうと、所詮不良は不良なのである。私の顔の悪さは、単にその意味を助長させるに過ぎなくて。こう考えると、案の定虚しくなってくる。まあ元々と言えばそれまでである。以上でも、以下でも、未満でもない。無二の私という不良品。あんな人間から生まれた、世界を知らなかった、息苦しさだけを生み出す一級品。

 「平気だって!! 責任は部長の僕が取るから」

 自信満々に逸らされた胸の具合が、先の台詞の信憑性を物語るには、如何にも不安が拭えない。
と言うか、

 「部長でしたか」

 「そっ。僕は部長だよ」   

 幼い残り香を漂わせた先輩は、部員の顔を見渡した。

 「だから、大丈夫だよ。君はここで好きな場所に座って、好きに君の景色を描けばいい」

 ねっ? 軽くウインクでもしてきそうな彼は、友好的に私の背を押した。ぐいっと、前に出される。これで戸惑うなと命令される方が可笑しいのだが、連れて来た先輩は、はなっから私を気にかける、私以上に奇異な御方だ。もう何も可笑しく思えない。

 「では、お言葉に甘えて」

 なるべく邪魔にならない場所を選んで、早速取り掛かろうとする。その背後で先輩は、他部員達に私の存在の意味についてべらべらと話しているのが、湿った空気越しに伝わってきた。

 この部屋から見える風景は、私には好ましく思えた。捻くれた言い方をするが、学校の中では、良い思い出を、作れた場所。で
はないかと、思うのだ。

 「君はさ!」

 「わっ」

 突如として肩を掴まれて、じとりと横目に見やる。先輩は、無邪気な幼な子のようであった。

 「あはは、ごめんごめん。君に聞きたいことがあって」

 何処からか椅子を持ってきて、図々しく座ってきた彼は言う。

 「何ですか」

 心なしか、自分の眉間が寄ってしまている感覚がするが、「外の」人間なので良しとする。

 「いやあ? 一つは、君の名前」

 知って如何するのかと考えたが、ああそうだったと思い出す。彼は『責任を取る』と仰っていた。故に名前を知っておいて、何かあったら、私の名を持ち出すのだ。そうすれば、状況説明はしやすくなるだろう。合理的で適切な考えだ。

 (……あ、まただ)

 また、染み付いた洗脳が脳を動かしていたことに気付く。嫌な話だ。忘れよう。

 「申し遅れました。私は一ノ瀬薫《いちのせかおる》です。以後お見知りおきを」

 「わぁ、綺麗な名前だね。僕は二年のトウマっていうんだ。よろしくね、薫」

 『綺麗な名前だね』って、褒めてるのか? 顔に似合わねぇという名の嫌味なのか? そして易々と名前で呼び捨てにしたことは、このトウマ先輩のポリシーだろうから置いておいて。私だけ両の名を差し出したのに、彼は下の名前しか言っていないではないか。いくら先輩の主義とて、狡い狡い。

 不満感が、表情に滲み出ていたのか。

 「あ、もう一つはね」

 彼は、唇の二つの端を上げて、にんまりと笑った。

 「薫が、如何して此処を選んだのかなぁって」

 上げられたそれからは、正直胡散臭ささは取り除けない。信用していいのか否か。だが答えなければ、提出期限に構わず、彼に質問攻めされそうである。仕方ないと諦めて、私は答える。

 「学校見学の時に、ある女子生徒が、この場所で絵を描いていたんです」

 今では、懐かしい記憶。既に、彼女は卒業してしまっただろうか。それ程に、彼女は場違いに、大人びていたから。

 「綺麗だったんですよ。その人と、その時描いていた絵が」

 私の薄暗い記憶の中で、唯一つとは言えないかも知れないが、美しい情景が、そのままに脳へと保管してある。恋しくなって、要らない言葉が、次々と溢れ出る。
 
 「彼女が描いていたのが、丁度、此処から見えるような景色だったので」

 追い掛けてるみたいですよね、と付け加える。本当に、追い掛けているのだ。あの日見た、光景を、未だ鮮明に憶えているのだから。


 「その子のこと、知ってるよ」


 (え、)

 トウマ先輩は、今、衝撃的な発言をした。

 「し、知っているんですかっ!?」

 喰い気味に反応した私は、思わずとして身を乗り出す。

 「知ってるも何も、僕等はずっと一緒にいたから」

 当たり前だよ、と言うみたいに。それが、世の理とでも仰るかのように。彼は言う。

 「先に言っておくけど、もう、その子に会おうとしても、無駄だから」

 先輩が、急に俯いた。これは、もしかして。

 「いないからね、その子」

 先輩は、どこか遠い目をした。上げられた視線は、教室の奥壁に向く。目を凝らすと、思い出の中の彼女の絵と、一致した作品があった。

 ご病気か、何かだったのだろうか。詮索するのも、良くないだろうから、尋ねるのは止めておこう。期待してしまった私を、心の奥に仕舞い込む。

 「じゃあ、描き始めますね」

 返答は希求せず、持参した画材道具を使って、彼女の影を追い求める。
返さなかった彼は、立ち上がる。次に、こんな奇妙な台詞を残していった。

 「あの子を求めるのは、止めた方がいい」

 それが賢明だよと助言して、私の元を去る。先輩の背は、酷く、傷ついて見えた。



 「っぁあ〜あっ。描き終わったぁ!」

 伸びをして、体をほぐして、筆を置く。ようやくとして画が描き終わったのだ。上手く出来たかと問われれば、別の話になるが……。

 「あ、終わったの?」

 背後から数刻前とは別人の如き先輩が、私の元へ駆け寄る。「見して見して」と言った彼は、乾燥途中の絵に手を伸ばした。

 「ちょっ、あんまり手荒に掴まないで下さい。描き直しになったら如何してくれるんですか」

 怒って、紙を取り返そうとするが。

 「その時は僕が責任を取るさぁ〜」と軽快な先輩は、何とも無責任過ぎる。

 時刻は十六時半を回ったところだ。陽が傾くか心配だったが、案外早く終わらせられて、自分でもびっくりだ。

 そんなこんなで、提出物を出せるということで晴れて文化祭を迎えられるのだが。平穏は、ずっと私に、手を差し伸べてくれないようで。

 「薫は、さ」

 トウマ先輩が、ふとその軽い足取りを止めた。手には、私の作品。

 「何か問題でもありましたか?」

 問題があったら、描き直し云々の以前に悲しくなるのだが。でも、私の的外れな杞憂は違ったみたいで。先輩は、「いや、問題と云う程のでもなぁ」と顎に手を添えて悩むポーズ。やがて伝える決心がついたらしく、口を開けた。


 「何か、悩みでもあるの?」


 (……………………は?)

 「は?」

 「『は?』じゃなくてね。本当に君には、悩みは無いの?」

 一体何を提言してくるのかと身構えたが、彼の本音を見通すことは不可能に近い。

 「ありませんが、それが如何その絵と関係がおありで?」

 わざわざデタラメを嘘ぶいて誤魔化す。これが、私には最善の策に思えたから。

 「違ってたら、良いんだけどさ。この画、八月だっていうのに、季節感が無いんだよねぇ」

 「『季節感』と、言いますと?」

 「君の絵、暗いよ」

 失礼だけどね。間違っていたらごめんねという風なこの先輩は、鋭い感の持ち主らしい。一瞬、ひやっとした。

 「何ていうかねぇ、色遣いが暗いっ。あのね、絵ってね、描き手の心情が表れるんだよ。だから心理テストにも使われてる。薫のこの画は、全体的にある筈の八月の輝かしさが欠如していて、色が暗めに設定されている。もし無意識にそれらの行為をしていたとしたら、君は、何か後ろめたくて仄暗い何かを抱えているんじゃないかって。……如何? 僕の推測は合ってない?」

 「あ、……」

 「『あ』?」

 合っていますなどと、誰が云えるのだろうか。無理だ。この先輩は、いつか私の全てを知ってしまうような気がして。怖い。

 「これは僕の持論だけど」

 彼は、私に構わず喋り続けた。

 「思いを消化するのってさ、自分一人じゃ案外難しいんだよ」

 頼れる人がいたら、苦労しない。そんな事、とっくに知っている。

 「辛い時は、僕を頼ってよ」

 無理だ。きっとあなたにはわからない。

 「人の気持ちって、他人でも自分でも知らないものなんだよ?」

 この人はもしかすると、私の中を見抜いている。だから私に、こんなことを囁いている。

 きっと大それた悩みなんかではないのだ。けれど、もし、この苦しさが変わると言うならば、

 「先輩、私――」

 時間が止まる。呼吸も止まる。私の鼓動は、早くなる。

 上手く言葉が紡げないのは、きっと緊張だけではない。

 ……バイバイ、私の語彙力。

 「んー?」

 か細い光は、確実に、輝いていて。私が迷わないように、道を示す。


 「私、『普通』に見えますか?」

 声は震えた。でも、言えた事に後悔はしていない。

 眼前の彼は、一度、ゆっくりと瞬いて、こう述べた。

 「じゃあ返すけど、君の思う『普通』って、何?」

 「っあ…………」

 拙い音が漏れ出た。恥ずかしい。

 でも、

 (私の『普通』って)

 何、なのだろう。

 此処で私は、ようやっと気付いてしまったのだ。事実に。恐ろしい程の、事実に。

 「私の、憧れ」

 先輩は無感情だった。しかしこれが真実なのだ。変えがたい、事実なのだ。

 (私の、憧れ――)

 それは――


 「愛されたい」


 静寂が支配する美術室。時間に取り残されたのは、私と彼の、二人だけ。

 これは、私の単なる欲求であって、我儘である。愛される人間になれたら、それこそ家族だって私のことを愛してくれるし、私の周りには、もっと多くの人間が着いて回る。世界が私の中心であるかのように、錯覚、出来るのではないか。そんな一生を掛けても叶わない夢と憧れの自分を、私は今、吐露してしまった。

 でも、現実は残酷で残忍で、容赦など持ち合わせていない。いつだって私は物語の世界では描かれない存在であり、私は読者の誰にも認知されない。誰にも、知られず。誰にも、愛してもらえず、私は死ぬ。

 家族にだって、嫌な目をされる。

 それが当たり前だと信じて疑わなかった鳥籠の中での日々は、ある日突如壊れる。神様はいつだって、世界を憎たらしく見せてきて、嘲笑ってくるのだ。「この世にはあなたより苦しんでいる人が大勢いるのよ」と言われたって、そんなの知ることか。こちらは今日が苦しくても必死に生きて、いつか終わると夢見た未来を、ずっとずっと待ち侘びている。それこそが、私の中の『普通』である。

 「じゃあもう一つ訊くけど、君は、ちゃんと誰かを愛した?」
愛したかなんて、分からない。愛を知っているかさえ、解らない。

 「まあ、学内で手っ取り早いのは『友愛』とか『恋愛』じゃないかなぁ……」

 んん〜と空を見上げて、先輩は思考する。何とは無しに、その姿を、ぼぉっと見つめる。傾いた斜陽に照らされて、煌めく、彼の黒髪。……似ている。
 
 こういう変な時に限ってふと、思い出すんだ。あの頃の記憶を。彼女とトウマ先輩が、重なって見える。そこではっと我に返って、違う違うと頭を振る。彼女は彼女であって、トウマ先輩とは全くの別人。『一緒にいた』とは聞いたものの、物理的に一心同体な訳がない。憶測通り、彼女は既にココには存在しない、筈だ。でなければ、彼女はそもそも、何処にいるというのか。

 「ああそうだっ!!」

 いきなり、先輩は声を荒げた。驚いた。寿命が、縮まるのかと思った。胸に手を当てて本当に大丈夫かと安否確認をした最中、また彼は言葉を発した。


 「僕が君に、『愛』を教えてあげるよ」


 「…………………………え?」

 「え?」

 (何を、言ったんだ? この人は今)

 おうむ返しをしないでくれ。

 「もしかしてもしなくとも、気、狂いましたか?」

 「嫌だなぁ。僕は至って正常だよ」

 失礼なっと頬を膨らませて先輩は怒るが、威厳的なものが感じ取れない。これでは後輩達に舐められていそうだ。

 にしても、だ。私は先輩から、『愛』を教えてもらうという訳なのだろうか。意味がさっぱり理解出来ない。


 「えぇと、つまり、私はトウマ先輩のお友達か恋人になるということ、でしょうか?」

 「イエスっ!! 御察しがよろしいようで」

 悪いことなど一つとして云っていないかのようににかりと笑った先輩の歯は、私の心と反して、白い。健康そうである。同じように汚れ知らずのワイシャツから覗く手首は、男にしては華奢な程に、薄いけれど。

 「それで? 薫は僕のどちらになりたい?」

 すうっと、鋭く彼は目を細める。何もかも見透かされる、その前に。

 「その……」

 「うん」

 急かされている気がする。だけど、噛まないように。裏返らないように。目元が引き攣らないように。笑えるように。愛されるように。

 「お友達で、お願いします」

 口が引き攣った。だが大丈夫だ。マスクで顔は見えないから。

 「少年漫画又はアニメによると、友情は口約束で得るものではないらしい」

 「はい?」

 「それでも君は、友達になりたい?」

 急に何を言ったかと思えば、今度は童心に返ったか。けれど所詮はビジネスライク。これはあくまで、彼の心と私の心の、利害
の一致。でも彼は、その先に何を欲しているのかは、知らないが。

 「先輩は、如何したいのですか?」

 小さい頃に、みんなが教わる事。「相手を尊重する」事。

 「ううぅ〜ん」

 先輩が首を捻って熟考する。あまりにも大袈裟なものだから、


少々可愛く見えてくる。


 「……ん?」

 不意に思い浮かんだ口舌に、疑問が浮かぶ。そして驚く。何だ、可愛いって。会って一日も経っていない歳上の人間のことが、可愛い…………? 

 「う、嘘だぁ」

 「え、何が?」

 私よりも大きな瞼をさらに開けて、「どしたの?」ときょとんとする。嗚呼、そんな顔をしないで下さい。また可愛いなどと、酔ったようにでまかせをつらつらと並べてしまいそうだから。

 「っいや、その……。先輩が、」

 ここで、止めてしまう。恥ずかしさと、引かれてしまうのではないかという恐怖感。しかれども先輩は、

 「僕が?」
と続きを早く早くと促してくる。ほんと、彼の瞳は、私には痛過ぎる。

 「先輩が、可愛いと、ぉもって、しまったのが、その……」

 根負けしたのは良いものの、これでは公開処刑も同然ではないか。恥ずかしい。恥ずかし過ぎて、いっそのこと楽になりたい。穴を掘って埋まりたい。

 「あははっ。薫の顔真っ赤!」

 先輩は何がウケたのか、大声で笑っている。

 (誰のせいだと心得ているのか……)

 「はあ……」

 あ、自然と泣けてきた。次いでに胃がキリキリと痛みだす。

 落ち着かせるように一度腹を撫でた後、いまだに笑い続ける彼に呆れて問う。

 「それで、どっちにするかは決まりましたか?」

 「あ、うん。決まったよ!!」

 意外にも苦もなさそうに頷いたものだから、切り替えの早さも相まって、口角がやや上がる。

 まあどうせ、友人一択であろうが、一応尋ねておこう。

 「その心とは?」

 悪ふざけをしたつもりだったのに、トウマ先輩は真剣な瞳をしていた。知らぬ間に、気後れする。


 「僕、君と恋人になりたい」


 「……………………………………は?」

 本日、何度目の無様な声なのだろうか。数えても、虚しくなるだけであろうが。

 そこまで間抜けな面をしていたらしい自分に、トウマ先輩は慈しみを込めた微笑みを向けた。

 むしろ彼には、恋人さんがいらっしゃらないのだろうか。後から浮気をされたとして引っ叩かれるのは御免である。好きで叩かれる人間など、特殊な人ばかりだろう。叩かれる時のものなんて、碌な覚えしかない。

 「恋人は、マズいんじゃあないですか?」

 「え? 別に平気だよ。僕未だ誰とも付き合った事ないし」

 さも当然の如く述べた先輩から、虚偽の匂いは嗅ぎ取れない。わなわなと私は震える。それは何故か。
 
 「理由を!!」

 「へ?」

 「理由を教えて下さいっ!!」

 ばんっ! と机に手を置いて荒ぶる。いわゆる台パンという代物らしい。これも最近になって、貴音から教わった。

 「大した理由ではないけどね。君、友人はいそうで、恋人がいなさそうだから」

 「うっっ!!!」

 ここにきてまさかの特大ダメージを喰らう。胃の痛みが、加速したような気がした。

 ところがどっこい。先輩は一つ、重大な勘違いをしていらっしゃる。

 「先輩、私に友人はいませんよ」

 不毛な話だが、これが現実。ああこの世は無常なり。

 「えっ!! 嘘だぁ。じゃあ君と一緒にいたあの大きな子は何なのさ!」

 有り得ないとでも言いたいのだろうか。

 と言うより先輩は、貴音の話をしているのだろうか。それならば何故、

 「先輩、いつから私のことを知っていたんですか?」

 当然浮かんでくるであろう疑念。だって貴音と最後に話したのは、彼女の部活と私の課題遂行の日が、丁度被った時。つまりは八月の初旬。よもや、その時から既に私を認知していたとでも仰るのだろうか。

 「ええと、確か八月の初めじゃなかいなぁ」

 悪い予感と呼ばれるものは、如何やら簡単に当たってくれるらしい。皮肉な話だ。

 「その貴音は、薫のお友達ではないのかい?」

 (『お友達』だなんて……)

 そんな御大層な間柄に、私達はなっていない。否、私がなろうとしていない。仮になったとしたら、いずれ私は、

 「引かれちゃいますよ。そんなことをしてしまったら」

 彼女がいつかの日には気付いてしまうだろう。私の教育の無さに。世間知らずさに。気質の悪さに。器量の酷さに。私の心の、
薄暗さに。勘付いてしまうだろう。だから私は友人は『極力』つくらないと決めている。余程のことが無い限り。

 これは逃げである。私の保身のための逃げである。そんなことは前から重々承知しているのだ。それでも、

 「私は、友人はつくらない主義なんです」

 また、法螺吹きになる。私は、とんでもないピエロだ。一日に、こんなに何重にも嘘を重ねていくのだから。取り返しのつかない、見放された狂人だ。

 「嘘吐き」

 「っえ……」

 何を、言った…………?

 「君は、嘘吐きだよ。でも、ひどい顔だ」

 そう言って、彼は私に手を伸ばす。瞬間的に、私の脳内にはある汚い記憶がよぎる。母親の手と、重なって見えて、反射的に目を閉じる。

 「っつ……!!」

 恐い恐い恐い恐い。また、失言してしまったの? 私は、また怒られるの?


 「誰なんだろうね」


 痛く、ない……?

 恐る恐ると瞼を開ける。

 「先、輩」

 何を、されているのだろう。

 開けた視界の中で、彼は私の頭を撫でている。目と鼻の先で、彼は私に柔らかい視線を送っている。

 温かい、と思った。

 心の臓から、頭のてっぺんから爪先まで、温水に浸っているような、そんな感覚。あったかい。こんな温もりは初めてだ。

 「本当の道化師は、君みたいに人間らしく泣きはしないんだよ」

 目元を伝って、何かが流れ落ちる。

 「僕は、そういう人間を、嫌いにはなれない」

 気付いた。これは、涙なのだ。

 ――望まれていないのかと思った。

 昔から事あるごとに舌打ちをされて、蹴られ叩かれ暴言の数々。けれどもそれらは、決して明るみにはされなくて。当の母親も、外面だけは良かったものだから、余計に。

 かつて、私はこう言われたことがある。   

 『役立たずが』

 痛かった。面と向かって言われた言葉ではなかったけれど、それは確実に私のことを指しているのだと理解した途端、泣きたくなった。でも泣けなかった。一度だけでも、母に褒められたい一心だったから。必死だった。必然だった。子が親のために尽くすのは当然だと思っていたから。そこで褒められるのか否かは家庭によるのだと、思っていたから。

 だけど違った。

 『この前ねぇ、試験で良い成績とったから、お母さんに褒めてもらったんだぁ』

 えへへと、屈託のない感情の笑みで、貴音が告げたのだ。私はいくら試験で良い成績を収めても、褒めてもらったことなど、微塵もない。毎回、流し見すらされない。興味がないのだ。事務的な、親子関係ですらない。彼女の台詞は、遠回しに私の世界と彼女の世界観は違うのだと、そう、はっきりと宣告された気がして。

 叫びたくなった。私の信じていた世界は、とっくに、消えていたのだと。狂いたくなった。いや、最初から存在などしていなか
ったのだ。私には、希望の光など、差し込んでいなかったのだと。

 でも耐えた。耐えなければならなかった。せっかく声を掛けてくれた優しいこの子の、幸せに満ちた表情を、崩したくなかったから。

 「誰なんだろうね」

 再び、先輩は言った。

 「君を、ここまで壊してしまった人は」

 未だ彼は、頭部を撫でている。先輩は、酷く、傷付いた顔をしていた。泣きたくなる程に、痛い。心が、きゅうっと握られているような気持ちになる。如何して、あなたが傷付いているの? またしても、心があったかくなる。
嫌だ。こんな感情は、捨てなければ。人間は一度でも甘美を知ってしまうと、後戻りが出来なくなる。終わらせなければ。そう、思っているのに、

 「っつ……」
声が出ない。

 代わりに、嗚咽が漏れる。駄目だ。人の前では、泣いてはいけない。弱いと、思われてしまう。

 「弱さを持つことは、人間である証だよ」

 だから泣いて良いのだと、そんな風にあなたの声が聞こえて。
 
 もう、戻れないかもしれないのに。

 「戻らなくても良いんだよ。人間は、前に進むし、後退は出来ない生き物だから」

 だからどうか、私に優しくしないで。

 「僕はね、人間である薫がね、だぁい好きになったんだよ」

 大好きって、愛されてるのだろうか。
 
 「だから僕は、薫と恋人になりたいよ。……あ、これがスピード交際ってやつ?」

 確かに、出会って間もない男女が付き合うなんて、スピード交際以外の何者でもない。

 ひょいと、先輩は私を抱きしめた。

 「せっ、先輩!?」

 「ふふ。僕はね、薫のことが、あの時からずぅ〜っと、大好きだったんだよ」

 『あの時』とは、つい数時間か前のことだろうか。にしては表現が変だが、今はそれどころではない。

 「先輩、恥ずかしいから離してっ」

 顔が熱い。さっきまでの泪が、蒸発する程度には熱い。ドクンドクンと脈打つ心臓は、どちらのものかも分からない程になっていて。

 (期待して、良いんですか?)

 「あ〜あ。目元が真っ赤だ」

 ぐいっと、顔を持ち上げられる。近い。更に、体温が上がる。

 「折角の綺麗な顔が、これじゃ台無しだ」

 「へ……。きれ、い? わ、私が?」

 こんなにも顔とマスクをぐじゃぐじゃにした女が、綺麗?

 「勿論、外面も大事かもだけど、君は心も真っ直ぐで素晴らしいよ。だから、恥じることはないし、そのマスクで自分を隠す必要もない」

 彼の手が伸びてきて、私の仮面に触れた。

 「ほら、君はとびきり素敵なんだから」

 息が、しやすい…………? 苦しく、ない…………?

 「自分で自分の首を絞めること、ないんだよ」

 ああまた、目頭が熱くなる。

 「先輩って、魔法使いなんですか?」

 「え、如何したのさ」

 「だって……」

 (先輩は、私を泣かすのが上手いから)

 本音が別種の恥じらいで、外に出ることはない。ぐっと顔をその肩に埋めると、不思議と心地が良かった。

 「僕はどっちかって言うと、道化師の方だなぁ」

 トウマ先輩が、道化師?

 何故と伝えるために首を傾げると、

 「もうっ。薫は可愛いなぁ」

 「よぉしよしっ」と撫で方が犬のそれとなる。

 可愛いと言われて不貞腐れるような女では、決して可愛いとは思えないのだが?

 「可愛いって、初めて言われました」

 「今までは何て言われてたの?」

 そんな時は、貴音の台詞が浮かぶのだ。

 「『かっこいい』って、貴音に言われました。いつも凛としてるって」

 おおと呟いて、彼は激しく頷いた。

 「んんー、貴音とは気が合いそうな気がする。……今度話してみたい」

 「じゃあ文化祭の時にでも話しましょうよ」

 提案した私に、彼はいいねぇと悪代官のように笑って親指を立てる。それを可笑しく思った私は、自然と笑みが零れる。

 「文化祭、楽しみだねぇ」

 「本当に、今回は楽しめそうです」



 「薫ちゃん、マスク取ってもかっこいいね!!」

 「あ、有り難う……?」

 文化祭当日。

 無事提出。何なら描き直した物を提出出来た私は今、こうして貴音と遊び回っていた。

 九月の中旬に差し掛かっているこんな日だ。冷たくなった風が、頬を撫ぜる。それは、あの時みたいに、気持ち悪くなかった。

 「でも驚いたなぁ。薫ちゃんがマスク外したのって、彼氏さんの御陰だったなんて」

 「世の中何が起こるか分かんないねぇ」と、彼女はのんびり話した。ああ。本当にそうだと、同意するよ。

 「しかも会って一日で付き合うだなんて。薫ちゃん、真逆騙されてなんかないよね?」

 「あー…………。騙されてるかもね」

 彼、『僕は道化師の方だ』とか言っていたし。もしかしたら、どこかで欺かれてるのかも。

 「え!? 今から会うのに、そんな調子で大丈夫なの!?」

 如何やら貴音には、真実味に欠けてしまったらしい。加えてこの心配していそうな面持ちだ。

 「大丈夫だよ」

 「本当に?」 

 「うん」

 (大丈夫な、筈……)

 大丈夫で、ない訳ないのだ。

 先輩はあの時、『責任は取る』と。例えあのような状況下でも、はっきりと述べたのだから。それこそ取ってくれなかったら、
 「大丈夫。その時は地獄の果てまで追い詰めるよ」
 ふふふ。ふふふふ……。私の今の表情は、さながら童話に出てくる悪い魔女さん達みたいだと思う。鏡がないから、確証はないが。
 「薫ちゃん。最近良い顔するようになったね」

 貴音が、私に微笑ましそうな目線を寄越した。例えるならば、子犬が目の前で戯れているような。総称するなら、愛おしい何かが、愛おしい行動をしている時のような。そのような意味が、瞳に込められているような。大人からしてみると、むず痒いような、そんな感じ。

 「貴音の中の『良い顔』って、何なのさ」

 「うーんとね。何だろうなぁ。こう……、生き生きしてるって顔」

 い、生きているって面かぁ。つまり今までの私は、死んでいたのか?

 「いやいやっ。死んでた訳じゃないよ! ただ敢えて言うなら、目にハイライトが入ってない感じ」

 ハイライトってことは、光なしだったと言う訳なのか。要はもうすぐで見えるであろう彼が、私の光だったと……。

 「あれ? 薫ちゃん、顔しかめちゃって、如何したの? あ、顔赤いね」

 呑気な彼女は「青春だねー」と。まるで他人事のように。そんなにニマニマと湿っぽく笑うなら、原因が何だかは知っているのだろう?

 念を送るつもりでじとりと彼女と目を合わせると、「凄まないでよぉ」と。まぁ焦るわ焦る。ちょっとした優越感を胸に、先へと進む。

 「それにしてもすごい人混みだね」

 前見えづらいねと彼女は苦笑するが、それは本当に私に向けて言って良いのかい? 私だぞ? あなたよりも背が低いんだぞ。

 「私の方が、見えませんが?」

 「はっ!! ごめんね薫ちゃん」

 そんな子犬の様相で見つめないでくれ。許してしまいそうだ。

 「ゆ、許す……」

 「薫ちゃん……!!」

 言わんこっちゃない。次からは確固たる意志を持って接せねば。この先幾度同じ現象が起こるか、知れたものではない。

 (――あぁ、そう言えば)

 「貴音と私って、何だと思う」

 別に群衆の中だから、聞こえていなくても良かった。単なる気まぐれ。


 「え? 親友でしょ」


 迷いもせずに即答する。

 「そうか」

 私達は、とっくに尊いものを分かち合った仲だったんだ。

 ぽろりと、一滴。流れ落ちた。

 「薫ちゃん!?」

 如何したの如何したのと、慌てて貴音はティッシュを差し出す。優しさが、心に沁みる。気付いたら、止めどなく溢れてきた涙が視界を歪ませる。再び彼女は動揺したので、素早くそれらを拭き取った。

 「薫ちゃん、大丈夫?」

 「大丈夫だよ」

 また彼女の優しさに触れて、心が温まる。私の周りには、こんなにも素敵な人がいたんだと思うと。貴音とトウマ先輩が、私の閉じ切って冷たくなった心奥を溶かしてくれたのだと思うと。

 「幸せだなぁ」

 かつての私と同じ人に伝えたい。この想いを。私は今、すごく幸せだということを。

 誰にも拾えなかった程の呟きは、地に消えた。代わりに貴音が一声上げる。

 「あ、美術室が見えたよ!!」

 彼女の視線の先には、やはり彼がいた。

 「あれだよ。トウマ先輩」

 本当はいけないことだけど、指で先輩を彼女に示した。しかし彼に夢中な彼女が認識する筈もなく。

 「あ、あの人だね。……………薫ちゃん」

 「何?」

 人の流れの中でもはっきりと通る声は、少しだけ羨ましい。でも自分の声を嫌いになんてなれない。だって。

 「もう一度訊くけど。薫ちゃんは、騙されてない?」

 だって、私はあの人のことが――

 「騙されていても、別に良いよ? だって私は、先輩が好きだから」

 この気持ちと、彼に言葉に、嘘はないから。

 貴音は、悩んでいるのだろうか。私のために。

 「……そっか。薫ちゃんが決めたことだもんね」

 (良かった、納得してくれて)

 少しだけ、ほっとする。

 「でも危ないと思ったら、私が無理矢理引き剥がすからね!?」

 「心配性だなぁ」

 もうっと。彼女は頬を膨れさせた。……怒ってるな、これ。

 「心配に決まってるよ。私達親友なんだから」

 嬉しいなぁ。そんなこと言われるの、初めてだよ。

 「……じゃあ行こっか」

 「うん!!」

 快く返事をした貴音に、応えるように、私も上げよう。声を、思いっ切り。

 「トウマせんぱあーい!!」

 ああ。明日の世界も、きっと今みたいに、息苦しくなんてない――。




 ――一人ぼっちの美術室で、君を見かけた。一目惚れだった。凍てついた瞳に、誰も寄せ付けないような、その態度。流れ行く
人の列で、ほんの一瞬、見ただけだったけれど。もう二度と、会えないかもしれなかったけれど。君を好きになった。

 だから再びあの日、君に出会えたことに、密かに僕は歓喜したんだ。宿した冷たい心は、前と何ら変わっていなくて。いくらか強引だったけど、君と付き合えることになって。嬉しくて嬉しくて。思わず君の絵を描いてしまったんだ。翌日に、勢いのままに描いた。あの子の中の『ある女子生徒』のイメージとは、今の僕はかけ離れていると思う。

 「喜んでくれるかなぁ」

 目に映るのは、自分が描いた作品。


 「ママ見て! あの絵の人綺麗だよ!!」


 小さな子供が、無邪気に指を指したのは、僕の絵。

 「そうだねぇ」

 母親も我が子に同意して、「でも指さしちゃ駄目よ」。めっと釘を差して、子の手を取って歩いて行く。
僕はそれに倣わずに、居然として彼女の前に立ち続けた。彼女の下には、自分の名札。別に来場者には、誰が描いたかなんて至極如何でもいい話だろうに。古い大人は古い慣習に囚われ続けている。

 「『藤間美月《とうまみづき》』」

 我知らずとして声に出す。弱々しく零した音は、騒ぎの中で溶けていく。

 下の名前は、彼女に情報を与えなかった。『女の子』のイメージがあるから。ひょっとすると、こんな苗字だから名前と勘違いしているかも。それはそれで嬉しい反面、いつか教えなければいけない日が来ると思うと、恐怖する。

 計らずに、君がこれを知ってしまう日に辿り着くだろう。その時君は、どんな顔をするのだろうか。その時僕は、笑えているだろか。その時君は、僕は、逃げていないだろうか。

 ちらりと何も理由無く横目を流すと、先の親子が隣の教室に入っていく様子を捉えた。瞬間、悍ましい程の感情が胸中を支配していることに気付き、狼狽えて封を閉じる。

 「羨ましい」

 そんな気持ちは、捨てなければ。僕達は、付き合えても、彼女が本当の意味での母親になることは、家族になることは、この上なく難しいのだと。そう遠くない未来で、伝えなければならない。だから不要な憧憬は捨てるのだ。期待はしないのだ。絶望してしまった自分と、彼女を一緒にしないために。

 (本当に、言えるだろうか)

 それでも、言わなければならない。祝福すべき日に僕は、『責任は取る』と言った。有言実行である。例え君が、哀しみで美しい顔を歪めてしまおうと。
けれど、歪めないでくれると良い。いつぞやの君が言ったように。

 『先輩って、魔法使いなんですか?』

 あの時は誤魔化したけど、その言葉を、僕は本物にしてみせるから。待っていて欲しいんだ。長くなりそうだけど。ずっと、隣で見ていて欲しいんだ。笑ってくれても良い。馬鹿にしてくれたって構わない。道化師の僕は、君だけの魔法使いになりたいから。この息苦しさで満ちた世界を、僕は、幸福にしてみせるから。

 僕が将来、魔法使いになれた暁には、きっと君に告白する。僕のことも、胸の内も、包み隠さず話すよ。

 
 「トウマせんぱあーい!!」


 遠くから、大好きな声がする。

 話した一瞬を、君には幸せでいて欲しいなぁ。

 やがて訪れる未来で、君は道化師だった僕を赦してくれる証明など無い。だけど聞こえるんだ。君の声が。安心出来るような、君の声が。

 『気にしませんよ。だって、好きなんですから』

 呆れた君を想像したら、少しだけ息がしやすくなった気がした。