裸足なので足の裏を怪我しないよう慎重に歩きながら一龍斎の屋敷を出ると、タイミングよくタクシーを発見する。
 手を上げてタクシーを止めて乗り込めば、タクシーの運転手に驚いた顔をされた。
 パジャマに裸足という柚子の今の姿を見れば当然だろう。普通に事件性を感じてもおかしくない。
「お嬢さん、大丈夫かい? そんな姿でこんな時間にいったい……。警察へ行く方がいいかな?」
 ひどく心配して優しく語りかけてくれる運転手に申し訳なくなりながら、まろとみるくも一緒に乗れるか聞こうと二匹を振り返れば、忽然と姿を消していた。
 いったんタクシーから降りて周囲を見回すが、やはりまろとみるくの姿は見つけられなかった。
「お嬢さん、どうする? 乗るのかい?」
「はい。お願いします」
 まろとみるくが神出鬼没なのはいつものことなので、大丈夫だろうと探すのを早々にあきらめた。
「すみません、運転手さん。こんな状態なので今はお金を持ってないんです。でもちゃんとお金は払いますので乗せてもらえますか?」
 目的地に着いたら必ず払うからと再度念を押し、それでもいいか問うと「全然かまわないよ」と、快く了承してくれた。
 断られても無理もない状況なのによかったとほっとする柚子は、ありがたく思いながら屋敷の住所を伝えると、タクシーが動き出す。
 着くまでの間、タクシーの運転手は柚子を気遣うように話しかけてくれる。
 相当心配させてしまっているようだ。
 いい人に当たったことを感謝しながら、運転手と他愛もない話をしていれば、すぐに屋敷に到着した。
 すると、なにやら屋敷を慌ただしく人が出入りしているではないか。
 恐れていた事態を察した柚子は顔色が悪い。
 屋敷の門の前に横付けされたタクシーから柚子が出てくると、使用人たちが驚きと安堵が入り交じった様子で柚子をあっという間に取り囲む。
「奥様!」
「よかったです!」
「心配いたしましたよ!」
「ご無事ですか!? そんなお姿でどこにいってらしたのですか!」
 口々に心配する言葉をかけられ、柚子はなんと説明しようか迷う。
 しかし、その前にやることがある。
「あの、タクシーでここまで連れてきてもらったけどお金がなくて……。先に支払をお願いしていいですか?」
「承知しました。そちらは私が対応しておきますので、奥様は早く玲夜様の下へ」
 雪乃が誰より早く反応を返してくれる。
「玲夜、怒ってる?」
 ビクビクしながら反応をうかがう柚子に、雪乃は困った顔をする。
「お怒りというより心配されております。かなり取り乱しておられますので、ご無事な姿を見せて安心させてあげてくださいませ」
「はい……」
 タクシーを雪乃に任せ、柚子は急ぎ屋敷の中へ入る。
 そのまま走って玲夜のところへ向かいたいところだが、足の裏が汚れきっているので、用意してもらった濡れたタオルを使い玄関で足を拭っていると、ドタドタと慌ただしい足音が近付いてきた。
「柚子!」
 誰かが玲夜に柚子の帰還を知らせたのだろう。
 玲夜の顔には余裕がなく、狼狽した様子で駆けてくる。
「玲夜」
 足を拭くため玄関の段差に座っていた柚子が立ち上がると、勢いを殺さぬまま近付いてきた玲夜が柚子を抱きしめる。
「いったいどこに行っていたんだ!」
「玲夜……。ごめんね」
 困ったように眉を下げる柚子は、玲夜抱きしめ返す。
 すると、どこからともなく「アオーン」と鳴いて、まろが姿を見せた。
 その後ろからみるくも来ると、柚子の足に体を擦りつける。
 いったい、いつの間に帰っていたのか。本当に神出鬼没な猫たちである。
「目を覚ましたらいなくなっていたんだ。どれだけ心配したと思ってるんだ」
 やや柚子を責めるような声色になっているのは仕方がない。
 柚子が逆の立場でも玲夜のような言い方になっただろう。
 しかし、自分の意思とは関係なしに無理やり呼び出された柚子としては、理不尽さを感じてしまう。
「そう言われても、私も好きでいなくなったわけじゃないのよ?」
「どういう意味だ? いや、その前にどうやって抜け出した? 俺が気付かないはずがないのに」
 この屋敷には玲夜の霊力によって結界が張られている。
 玲夜のテリトリーであるこの屋敷内において、玲夜が分からないことなんてない。
 ましてや、同じ寝室、同じベッドで眠る柚子が部屋から出ていくのを気付かぬほど、鈍い玲夜ではないだろう。
 それにもかかわらず、柚子は玲夜の手から跡形もなく消え失せた。
 どうやっていなくなったか分からないからこそ、屋敷内は蜂の巣をつついたような騒ぎとなっている。
 柚子はどう説明しようかと考えを巡らせる。
「えっとね、神様が目を覚ましてね、神様が私を社まで移動させたの」
 頭に浮かんだ言葉を思い浮かんだままに口にしてから後悔する。
 こんな突拍子もない話をストレートに伝えすぎたと。
 現に玲夜は難しい顔をしており、まったく柚子の言葉を信じているようには見えない。
「柚子、冗談を言ってる場合じゃないんだ。柚子がいなくなって、本家も動いてる」
「えっ!?」
 本家ということは千夜たちも柚子を探しているのか。
 柚子ひとりのために、本家にまで迷惑がかかっているとは思わず、柚子は内心で大いに慌てた。
 突然呼び出した神に恨み言を言いたくなる。
 どうせなら玲夜も一緒に呼び出すとか、配慮をしてほしかった。
 そうすればここまでの騒ぎにはならなかっただろうに。
 しかし、神に人の都合を考えろというのは無理があるだろうか。
「本家には柚子が見つかったと報告はしたが、後日説明に向かわないとならないな……」
 やや面倒臭そうにする玲夜に、柚子は頭を抱える。
 自分のせいで玲夜が困っているのだから、知らぬ顔はできない。
 いや、自分のせいか?と、柚子は思い返していると、声が聞こえた。
「あーい」
「あいあーい」
 聞き慣れた声に視線を向ければ、子鬼たちがトテトテと走ってくるのが見えた。
 子鬼たちは、ぴょんと柚子の服に飛びつき、よじ登って肩に落ち着く。
「柚子、よかったー」
「よかった、よかったー」
 万歳をして喜ぶ子鬼たちに柚子は頬が緩んだが、玲夜に視線を戻して笑みも消える。
 玲夜は、どうしたものかと考えている顔をしていた。
 本家へどう言い訳しようか悩んでいるのだろうか。
「玲夜、本当なの。本当に神様に呼び出されたの」
「…………」
 嘘ではないと必死になって伝えるも、玲夜からすぐに反応は返ってこなかった。
 玲夜は柚子を信じたい気持ちと相反する気持ちとで葛藤しているように見えた。
「……話は後にしよう。先に服を着替えてきた方がいいな。……それに風呂も」
 そう言って玲夜は、柚子の頭についていた葉っぱを取る。
「あっ……」
 おそらく社へ続く道を歩いた時にでもついたのかもしれない。
 着ているパジャマも裾が汚れ、拭いたとは言え裸足で歩いた足の裏は薄汚れてしまっている。
 とりあえず、急いでシャワーを浴びてから服に着替えると、髪を乾かす時間も惜しいとばかりに半乾き状態で玲夜の部屋に向かう。
 その頃にはもうすっかり朝になっていた。
 部屋に入ると、玲夜はどこかに電話していたようで、スマホを耳に当てながら一度柚子に目を向けて会話を再開する。
 柚子は邪魔にならないように静かにソファーに座って待つことにした。
 時折玲夜から、「父さん」とか「これから聞く」とかいう言葉が聞こえるので、もしかしたら電話の向こうにいるのは千夜かもしれない。
 玲夜が電話をしている間、柚子は夢のような神との邂逅をどのように説明しようかと考えていた。
 しばらくして、電話を終えた玲夜が柚子の隣に座る。
 おそるおそる目を向ける柚子を、玲夜は横から抱きしめる。
 されるがままになっている柚子は、玲夜が怒っていないかと不安だった。
 しばらくその状態でいると、深いため息が玲夜から漏れる。
 顔を上げた玲夜は、いつものような優しい笑みを浮かべていた。
「玲夜、怒ってる?」
「怒ってはいない。ただ、心配しただけだ。目を覚ましたら腕に抱いていたはずの柚子がいないんだからな。屋敷のどこにもいなくて、誰もその姿を見ていない。忽然と姿が消えて、それはもう焦ったさ」
「ごめんね……」
 どう考えても勝手に呼び出した神が悪いとしか思えないが、柚子は自分が悪いような気になってきた。
「柚子が無事ならそれでいい。怪我はないんだな?」
「うん。私は大丈夫。心配させてごめんなさい」
「もう気にするな」
 そう言って玲夜は柚子野頭を優しく撫でる。
「けれど、どうやって屋敷を抜け出して、どこに行っていたかは教えてくれ」
「うん。信じてくれないかもしれないけど……」
 柚子は自分の身に起こった夢のような出来事を話した。
 目が覚めると一龍斎の元屋敷にいたこと。
 そこでの神との邂逅。
 神からの頼み事。
 柚子が覚えている限りできるだけ詳細に説明した。
 玲夜はずっと静かに耳をかたむけてくれ、茶化すこともありえないと否定することもなく、最後まで話を聞いていた。
 順序立ててなんとか話し終えた柚子は、ふうっと息をつく。
 一気に話して少し疲れてしまった。
 話せることは話したが、玲夜の反応は半信半疑というところだろうか。
 玲夜も判断に困って眉間にしわが寄っている。
「神……。霊獣のような存在がいるんだからおかしなことではないと思うが、やはり信じがたいな。神と実際に会って話をしたなんて」
「だよね……」
 当然の反応だと、柚子も困ったように眉を下げる。
 肩を落とす柚子をどう思ったか知らないが、玲夜がすぐさまフォローを入れる。
「柚子が信じられないというわけじゃない」
 玲夜は優しく柚子の頬を撫でた。
「うん。分かってる」
 信じられないのは仕方がない。
 今思い返してみても、あの幻想的な光景は頭から離れず、夢うつつのことのように感じるのだから。
「まろとみるくが話せたら証言してくれるんだけどなぁ」
 まろとみるくの姿はこの場にはない。
 今頃雪乃からご飯をもらってる時間である。
 腹時計が正確なあの二匹は、毎日ちゃんと同じ時間にご飯を催促に来るのだ。
 子鬼もまろとみるくについていったので、ここにはいなかった。
「父さんが納得してくれればいいんだが」
「難しい?」
「正直俺も半信半疑だからな」
『柚子の話だけでは不足なら、我と妖狐の当主がお墨付きを与えれば納得するのではないか?』
 横から話に入ってきたのは、ずっと姿が見えなかった龍である。
 すうっと窓から部屋に入ってきた龍は、柚子と玲夜の前にあるテーブルの上で止まる。
「どこに行ってたの?」
『あの方の気配が強まったから、様子を見に行っていたのだ』
「あの方って神様のこと?」
『そうだ。柚子とは入れ違いになってしまったようだがな。しかし、確かにあの方の力を感じたよ。ようやくお目覚めになったようだ』
 うにょうにょと体を動かす龍は、どこか嬉しそう。
 すると、玲夜が少し前のめりになる。
「柚子の前に現れたというのは本当に神なのか? 柚子が騙されているということはないのか?」
 なるほど、と柚子はその可能性があったことを失念していた。
 神を知らない柚子が、神と名乗る者に騙されているのではないかと玲夜は心配していたのだ。
 まろとみるくがいたために、深くは疑わなかった。
 もちろん最初は疑惑の目で見ていたが、すんなりと受け入れていた。
 騙されるなんて思いもしていない。
 けれど、玲夜の心配をはねのけるように、龍は肯定する。
『その通り。柚子が社で会ったのは、間違いなく人とあやかしをつなぐ神である。その昔一龍斎が崇め、サクが神子として仕えていた方だ』
「なにか証明できるものはないのか?」
『神に神であることを証明しろとは無礼千万! あの方を知る我がちゃんと確認した。それこそがなににも代えがたい証明ではないか』
 くわっと目を見開いて怒る龍の尻尾が、不機嫌そうにテーブルを叩く。
『だが、それでも足りないというなら妖狐の当主を連れてきてやろう。長らく分霊された社を守ってきた孤雪家の当主ならば、あの方の力の片鱗を感じ取れるであろうからな』
 玲夜はしばらく考え込んでから、首を横に振った。
「いや、霊獣であるお前がそこまで言うなら事実なのだろう。信じがたいがな」
『今の世にあの方の姿を知る者は少ない。信じられないのも仕方がなかろうて』
 先程は信じられない玲夜に無礼千万などと怒っていたのに、いったいどっちなのか。
 なんにせよ、玲夜がようやく事態を受け入れてくれたのでなによりだ。
 けれど、信じたら信じたで問題が発生する。
「神器、か……」
 玲夜は顎に手を置いて考え込んでいる。
「その神が言っていることが本当なら、探さないわけにはいかないな」
 あやかしの本能を奪ってしまうという道具。
『本当だと何度言わせるのだ。まったくしつこい奴め』
 グチグチ言っている龍を無視して、玲夜は険しい顔をする。
「あやかしにとって……特に、花嫁を得ているあやかしにとっては大問題だ。なんでそんなものを作ったんだ」
『あの方はサクを大事にしておられたからなぁ。正直、サクと鬼の当主が惹かれあっておったのもちょっと面白くないと感じておられたから、ただ鬼の当主へ嫌がらせをしたかっただけであろう』
 龍はうんうんと頷いている。
『あの方が神器を烏羽の当主に渡している時の鬼の当主は、なんとも言えぬ顔をしておった』
 さらに龍は、『正直言うと我もちょっとスカッとした』などと昔を思い出しながらカッカッカッと笑う。
 なんだかサクを花嫁にした鬼の当主が不憫に感じてきた。
「場所も分からない代物をどうやって探すかが問題だな」
 それに関しては柚子も申し訳なくなる。
「安請け合いしちゃったとは思うんだけど、大事なものみたいだから引き受けちゃったの。よくよく考えてみると、それを管理していた烏羽家の人に責任持って探してもらうべきなんじゃないかって」
「その通りだな」
 やれやれというように玲夜がため息をつく。
『たとえ柚子であろうと、神との約束を破るのは許されぬぞ』
「破るとどうなるの?」
『それなりの神罰が与えられてもおかしくない』
「神罰ってなに!?」
 なにやら恐ろしい言葉に柚子の顔が青ざめる。
『それはまあ、いろいろと』
「いろいろ!?」
 引き受けるんじゃなかったと柚子は後悔したが、今さらもう遅い。
 神との約束という名の契約はなされてしまった。
 柚子にできるのは神器を探すことのみ。
 柚子は頭を抱えた。
『我も手伝うからそう気を落とすでない』
 龍が慰めてくれるが、その程度では落ち込んだ気持ちが浮上するはずがなかった。
 すると、急に横から体を持ち上げられ、玲夜の膝の上に座る形になる。
「とても柚子だけで対処できる問題ではなさそうだ。父さんにも協力を仰ごう」
「う~。ごめんね、玲夜。ほんとに私って迷惑ばかりかけてる……」
「これぐらいなんてことはない」
 そう言うと、玲夜は柚子の首元に顔を寄せ、抱きしめる。
 目の前にある玲夜の頭に腕を回せば、玲夜の腕にさらに力が入る。
「もし今度神に会うことがあればひと言連絡しろと伝えておくべきだな。急に連れていかれたら心臓が保ちそうにない」
 柚子が消えるようにいなくなって相当こたえたらしい。
 玲夜は仕事に行く時間をとっくに過ぎても、しばらく柚子を離そうとしなかった。