玲夜は鬼龍院お抱えの病院へと運び込まれ、そこで精密検査を受けることになった。
 人間とはまた違うあやかしという存在には、あやかしのための病院がある。
 そこを経営しているのも鬼龍院だ。
 まるでかくりよ学園の病院版のようなものだと柚子は認識する。
 実際は病院にやって来るあやかしは弱い下位のあやかしがほとんどだ。
 鬼のような強いあやかしが病院に運び込まれることは滅多にない。
 病院の医者も、あやかし界でも有名な玲夜が運び込まれてひどく驚いていた。
 意識のない玲夜の無事を祈りながら待合室で待っていると、沙良と桜子がやって来た。
「柚子ちゃん!」
「あ……お義母さま……。桜子さんも」
「玲夜君は?」
 沙良は切羽詰まった様子で柚子の肩を掴む。
「まだ検査中です」
 柚子の不安に彩られた表情が、暗く落ち込む。
「顔色が悪いわ」
 沙良とて玲夜が気になるだろうに、柚子の心配をしてくれる。
 その気遣いがありがたく、柚子を冷静にさせる。
 玲夜が心配なのは自分だけではないのだ。
「私は大丈夫です。それより玲夜が……」
「なにがあったの?」
 珍しく真剣な表情の沙良に、先程あった出来事を話す。
 穂香とは顔見知りである沙良と桜子はかなり驚いていた。
「穂香ちゃんがそんなことをするなんて」
 沙良は信じられないようだが、桜子はどこか納得げ。
「いえ、だからこそかもしれませんね。彼女は旦那様と折り合いが悪かったですから」
 悪いどころではない。
 憎んでいたといってもいい。
 それは柚子も知っていた。
 柚子は穂香が落とし、回収していた小刀を鞄から出す。
「柚子ちゃん、それは?」
「玲夜はこれで刺されたんです。でも、確かに刺されたのに傷がなくて、傷がないのに玲夜は倒れて……」
「玲夜君が素直に刺されたの? 抵抗もせず?」
「穂香様が持っていた時、最初は手のひらサイズの玉だったんです。それが玲夜に当たる前に小刀に変わって、玲夜もなんだが様子がおかしかったんです。それで、避けることもできずに刺されてしまった感じでした」
 柚子はなにもできなかった。
 それが悔しく、情けない。玲夜に守られてるだけの自分は、足を引っ張るばかり。
 なんの変哲もない小刀を柚子は苦々しい思いで握りしめる。
「穂香様が言っていました。これで刺されるとあやかしの興味をなくしてしまう、花嫁のための特別な道具だって」
 柚子の言葉を聞いて、沙良と桜子ははっとする。
「柚子ちゃんそれって!」
 柚子はゆっくりと頷く。
「もしかしたら、これが神様の探していた──」
『間違いなく神器のようだ』
 突然ぬっと現れた龍に柚子はびくりとする。
 当たり前のように現れた龍に柚子は目を丸くする。
「どうしてここに?」
『どうも柚子の心が不安を感じているようだったのでな。急いでやって来たというわけだ』
「不安を感じてるって……」
 確かに玲夜が刺されて不安でいっぱいだったが、龍はそんなことすら分かるのだろうか。
 だが、今追求すべきはそこではない。
「これが神器って、間違いないの?」
『うむうむ。我が教えずとも柚子とて分かっているのではないのか? これから発するあの方の力に』
 柚子は反論ができない。
 一見するとただの小刀でしかないのに、小刀から感じるこの感覚は間違いなく神のもの。
 神本人から感じるものと力の大小はあれど、柚子の中の神子の力が教えてくれる。
 これは神器だと。
「じゃあ、玲夜はどうなるの? 玲夜は刺されたのよ?」
 思わず涙声になってしまう。
『それは問題ない』
 不安でいっぱいの柚子に、龍は断言する。
『その神器はあやかしの本能を断つもの。肉体を傷つけるものではない』
「でも、玲夜は気を失って……」
『一時的なものだ。しばらくすれば目が覚めるであろうよ』
 一気に肩の力が抜ける柚子。
 沙良もほっとした様子だが、桜子だけは難しい顔をして口を開く。
「お待ちくださいな。玲夜様がその神器を使われたとなると、柚子様が花嫁でなくなるということではないのですか?」
 今になって気付く沙良が「あっ」と声をあげる。
『花嫁でなくなるわけではない。本来番えぬあやかしと人間が伴侶になれる、花嫁が持つ付加価値はあの方が人間に与えたものであるからして、なくなりはしない。ただ、花嫁と認識する本能がなくなるのだ』
「同じじゃないの~!」
 沙良が龍を両手でぎゅうっと握りしめてからブンブン前後に振る。
『ぬおぉぉぉ! なにをするのだぁ!』
「どうにかならないの!?」
『そう言われても、我にはどうすることもできぬ。なにせ我はしがない霊獣でしかないのだ。神の作った道具をどうにかできるはずがないであろう』
「もう! 役に立たないわね!」
 沙良はプリプリ怒りながら龍をぽいっと捨てた。
『ひどいっ。我は柚子が心配でやって来ただけなのに』
 よよよっと泣く龍を子鬼がよしよしと撫でて慰める。
「柚子ちゃん、玲夜君ならきっと柚子ちゃんへの想いは変わらないわ」
「いえ、玲夜の身が無事だって知れただけで十分です」
 たとえ自分が玲夜の唯一でなくなったとしても、玲夜が無事であるならば本望だ。
 そう自分に言い聞かせるも、やはり悲しい。
 もう玲夜が笑いかけてくれることはないかもそれない。
 柚子はぎゅっと手を握りしめる。
 そうすることで、噴き出しそうな感情を必死で抑えつけた。
 今はただ、玲夜が目覚めるのを待つだけだ。
 玲夜にもう自分が必要なくなったと確信ができたなら、玲夜から切り出される前に自分から別れを告げよう。
 玲夜から言われてしまったらきっと立ち直れないから。
 しばらくすると、玲夜の検査が終わり、面会がかなった。
 そうは言ってもまだ意識はなく、病室で静かに眠る玲夜を見るしかできない。
 検査をしても傷ひとつ見つけられず、検査でも異常はなかったようだ。
 龍の言ったように肉体を害しはしないようで、それだけが救いだった。
 眠っている以外はいつもと変わらぬ玲夜の綺麗な顔。
 玲夜は本当に自分を花嫁だと分からなくなってしまったのだろうかと、柚子は信じられずにいる。
 玲夜の寝顔をじっと見つめる柚子の肩に手が乗せられた。
「柚子ちゃん」
「お義母様……」
 柚子に向けられる温かな眼差しは、玲夜を彷彿とさせて、涙が出そうになる。
 あまり似ていないと自他ともに認められているが、やはり親子なのだなと実感させられる。
「千夜君は玲夜君の穴埋めと後始末のために忙しいから、ここには来られないないみたい。珍しくぶち切れていたわ。高道君も」
「そうですか」
 きっと千夜も高道も、仕事など放り出して駆けつけたいだろうに。
 特に玲夜至上主義の高道はひどく狼狽しているはずだ。
 それでも、その立場ゆえに感情にまかせて行動できない。
「お義母様、穂香様はどうなりましたか?」
 護衛に拘束されたところまでは知っているが、その後柚子は玲夜に付き添って病院へ来たので、穂香がどうなったか分からない。
 玲夜が傷ついていないとはいえ、鬼龍院に刃を向けたのだから、簡単に許されやしないだろう。
「穂香ちゃんはとりあえず鬼龍院本家に連れていかれたわ。どうするかは玲夜君が起きてからの体調次第かしらね。玲夜君に何事もなければ罰は軽くなるでしょうけど、そうでなかったら……」
 わずかに沙良の眼差しが鋭くなる。
 穂香と面識があったとしても、大事な息子を襲われたとあったら怒りを抱くのは当然だろう。
 柚子も彼女を庇う気にはなれない。
「そうですか……」
 どうして穂香は玲夜を狙ったのだろうか。
 旦那を毛嫌いしていたようだが、穂香はすでに離婚している。
 これまではその不審さから神器と関わりがあるのではないかという程度だったのに、神器を穂香が持っていたのなら話は変わってくる。
 離婚するために神器を使ったのは確実だろう。
 そうして自由を手に入れたはずなのに、玲夜と接触してきた。
 鬼龍院に手を出せばどうなるか、鬼龍院の影響力をあやかしの花嫁だった穂香が知らぬはずないだろうに。
 沈む気持ちを堪えきれない柚子に、沙良が告げる。
「柚子ちゃん。あなたにもやらなければならないことがあるでしょう? 玲夜君は私と桜子ちゃんが見ているわ。あなたはあなたのすべきことをしなさい」
 柚子は手にある小刀に視線を落とす。
 これが神の探していた神器ならば、神に返さなくてはならない。
 なのに尻込みしてしまうのは、神器であってほしくないと思っているからだ。
 この小刀が神器なら、玲夜は本能を失うことを意味する。
 どうしても信じたくない。
 けれど、こんな危険なものは早く返してしまいたいとも思う。
「……社に行ってきます。もしその間に玲夜が目覚めたら──」
「すぐに連絡するわ」
「それと、神器の捜索を撫子様も手伝ってくださっています。撫子様にも見つかったとご報告をお願いできますか?」
「任せてちょうだい。撫子ちゃんにはすぐに連絡を入れるわ」
 後は柚子のやるべきことをするだけだ。
 沙良に一礼してから、柚子は子鬼と龍を伴い、後ろ髪を引かれる思いで玲夜の眠る病室を後にした。
 向こうのは一龍斎の元屋敷にある社だ。
 到着すると、待ってましたとばかりにまろとみるくがいた。
「アオーン」
「ニャウーン」
「ほんと、いつもいるのね」
 二匹をそれぞれひと撫でしてから、社へ続く道を歩く。
 柚子を迎え入れるように動く、草木の不可思議さにはさすがに慣れた。
 当たり前の事象のように受け入れて歩む先には、神がおわす社。
 どこからともなく風が吹くと、一瞬で桜が満開に咲き誇った。
 初めて目にする子鬼たちは驚いたように目を大きくしてきょろきょろしている。
「あいー」
「やー」
 思わず声が漏れたという様子で、子鬼たちの驚きがよく伝わってくる。
『私の神子』
 桜が神を形取り、ふわりと微笑みかける。
「神様……」
 今にも泣きそうな顔と声で神を呼ぶ。
『分かっている』
 神はすべてお見通しというように、社の階段を降りてくると、柚子を優しく抱きしめた。
『強く生きよ。私の神子』
「玲夜がいないと無理です」
 そう。柚子の世界は玲夜によって彩られている。
 玲夜のいない世界でどうして強くあれるだろうか。
「神様。これ……」
 柚子は鞄から小刀を取り出す。
 小刀は神の手に渡ると、神のうちに取り込まれるようにすうっと消えていった。
「これは本当に神器なんですか?」
 嘘だと言って欲しい。間違っている。これは神器ではないと。
 否定してくれることを祈りながら問いかけるが、現実は残酷だ。
『いや。間違いなくこれは、その昔烏羽家に与えた神器だ』
 心が悲鳴をあげるようだ。
 龍が話していたので分かってはいた。それでも望みを捨てきれなかった。
「玲夜は私を花嫁とは思わなくなったということでしょうか?」
 震える声で問いかける。
『神器が使われたならそうなる』
「っ……」
 柚子は一瞬言葉を失ったが、絞り出した。
「正確にはどう変わるんですか?」
『花嫁と判別できなくなる。花嫁に感じる乾きにも似た渇望が消えさり、ただ普通の想いに変わる。花嫁だからこその執着も欲望も興味もなくなる』
 改めて言われると、今の柚子にはえぐられるような痛みを伴う。
『けれど気にすることはない。花嫁は花嫁なのだ。花嫁の伴侶は力を増し、花嫁の子供は強い力を持ったあやかしが産まれる』
 気にしないわけがないだろうに。
 あやかしの本能こそが花嫁を花嫁たらしめていると言っても過言ではないのに。
「もうどうしようもなかった時、玲夜に必要とされたから私は救われたんです。なのに、必要なくなったら、私はどうしたらいいんでしょうか?」
 迷子の子供のように寂しそうな目をする柚子に神は告げる。
『そなたの思うままに。私は柚子の幸せこそを願っている。本能をなくした程度で消え失せる想いなど、柚子が許しても私が許しはしない』
『うむうむ、そのとおーり!』
 龍だけがうんうんと頷いている。
『もし柚子を悲しませる結果となるなら、一龍斎もろとも鬼龍院にも責任を取ってもらうとするか』
 無表情でそんなことをさらっと告げる神に、柚子は固まる。
『神罰がなんたるかを思い知らせると言うならば、我も手を貸します』
「アオーン」
「ニャーン」
 龍に続いてまろとみるくまで声をあげる。
 柚子を慰めてくれているのだろうが、素直に喜んでいいものか判断に困る。
 すると、柚子のスマホが鳴った。
『どうやら目を覚ましたらしいな』
 まだ誰からかかってきたかも分からないのに、神は確信を持って口にした。
 神はもう一度柚子を抱きしめると、ポンポンと優しく背中を叩き、ゆっくりと離れた。
『行っておいで、柚子。そなたが笑顔でいられるようにいつだって私は見守っている』
 そうして神は桜の花びらとなって消えていった。
 それとともに周囲の桜も姿を消す。
 一気に現実へ戻された感覚になり、急いで鳴り続けるスマホを鞄から取り出した。
 電話をかけてきた相手は桜子だった。
「もしもし。柚子です」
『柚子様、神器は無事にお返しできましたか?』
「はい。無事に」
『それはよかったです。こちらも、玲夜様が目覚められました』
 玲夜が目覚めた。
 嬉しい気持ちとともに、恐怖心が柚子を襲う。
「すぐに戻ります」
 言葉通り寄り道せずに限界速度ギリギリで車を飛ばしてもらい、病院へと戻った。
 玲夜の病室の前で、柚子はなかなか扉を開けられずに立ち尽くしていた。
 本能を失ってしまった玲夜。
 花嫁とは思わなくなった柚子と会って、どんな反応が返ってくるのだろうか。
 冷たい、まるで他人のような目で見られたらどうしたらいいのか。
 あと一歩が踏み出せない柚子に、子鬼が柚子の頭を撫でる。
 小さな手で一生懸命よしよしと撫でる子鬼たち。
「柚子、大丈夫」
「うん。大丈夫」
 子鬼なりに状況を理解して柚子を慰めてくれている。
 子鬼たちの優しさに後押しされ、柚子は意を決して病室に足を踏み入れた。
 病室には沙良と桜子がいる。
 そして、ふたりの視線の先には、ベッドの上で上半身だけ身を起こした玲夜の姿が。
 ドクドクと嫌な緊張感で鼓動が鳴る。
 すぐに柚子に気がついた沙良と桜子だが、特になにか声をかけることもなく、柚子ではなく玲夜の反応をうかがっている。
 沙良と桜子のふたりも、玲夜の反応の予想がつかず、緊張した面持ちだ。
 手前にいた桜子が場所を空けてくれ、柚子はゆっくりと玲夜のそばへ。
「玲夜……」
 せめて他人を見るような視線は向けないでくれと願いながら名前を呼ぶと、玲夜は柚子を見てふわりと笑った。
 柚子の知る、柚子だけに向けられてきた笑顔だ。
 玲夜は手を伸ばし柚子の腕を掴むと、引き寄せられた。
 腕を掴むのとは反対の手で、柚子の頬に触れる。
「柚子、大丈夫か?」
 優しく、労り、そしてどこか甘さを含んだ声が柚子の名前を呼ぶ。
 変わらぬ玲夜に、柚子はくしゃりと顔を歪ませた。
「玲夜。玲夜……」
「どうしたんだ、柚子。社に行っていたそうだな。そこでなにかあったのか?」
「ふ……うぅ……」
 変わっていない。過保護で甘いいつもの玲夜だ。
 柚子は思わず泣き出してしまい、玲夜にしがみつく。
「う~。玲夜ぁ」
「神になにかされたのか? やっぱり苦情を言った方がいいな」
 沙良と桜子がいるのも忘れて玲夜にしがみつく柚子は、玲夜のおだやかな声に涙が止まるどころか次から次にあふれ出てくる。
 その様子を微笑ましく見ていた沙良は、どこかほっとした様子で問いかける。
「玲夜君。柚子ちゃんを見て、いつもと違って感じない?」
「違うとは?」
「興味なくなったなとか、かわいくなくなったとか」
「は? なぜ? 柚子はいつでもかわいいでしょう」
 問いかけの意味が分かっていなさそうな玲夜に、沙良と桜子だけでなく、柚子も不思議に思う。
 少し落ち着いた柚子が顔をあげると、ぐしゃぐしゃになった顔を玲夜が優しくタオルで拭ってくれる。
「玲夜。もし私が離婚したいって言ったらしてくれる?」
 これだけ玲夜に引っつきながら説得力に欠けるが、興味のあるなしを判断するにはちょうどいいはずだ。
 すると、言ったことを後悔するほど玲夜の顔が怖くなった。
「そんな話、許すわけがないだろう。どういうつもりだ。離婚したくなったのか?」
 これはどういうことだろうか。
 神器が使われ、あやかしの本能は消えたはずなのに、めちゃくちゃ柚子に執着しているではないか。
「あれ?」
 先程までの涙も引っ込んだ。
 疑問に感じているのは沙良も同じよう。
「柚子ちゃん。本当に神器が使われたのよね?」
「はい。神様もそうおっしゃってましたし」
 ならばなぜ玲夜は変わらぬのか。
 柚子たちの困惑を察したのか、玲夜が不機嫌そうに問う。
「どういうことだ? そもそも俺はどうしてこんなところで寝ている?」
「玲夜、なにも覚えてないの? お義母様も桜子さんも、玲夜になにも話していないんですか?」
「ええ、柚子ちゃんが着いてから話そうと思っていたから」
「えーっと……」
 玲夜から問いただすような視線を感じ、とりあえず穂香が現れたところから、これまでの経緯を話す。