「……あれ、留守かな……おかしいな、メッセージは既読付いてるし、来ることはわかってると思ったんだけど……」
響くインターホンの音と、薄いドア越しに聞こえる愛しくも懐かしい彼女の声。けれど、僕は彼女を出迎えることは出来なかった。
「やっぱり、会いたくない、のかな……」
悲しげな彼女の呟きに、胸が締め付けられる。思わず室内で小さく音を立てると、彼女にもそれが伝わったようで、ドアの向こうの声が明るいものに変わった。
「……! 中に居るの? ごめんね……そのまま聞いて。あれから、あなたが大学にも来なくなったって同じ学部の人から聞いて……わたしと別れたのが原因、だよね?」
「……」
「見かけなかったのは、避けられてるのかなって思ってたから……今まで連絡も出来なくて……気付くのに遅れてごめんなさい」
僕の返事がないことに、ドア越しに彼女の声が僅かに震える。
成る程。僕が一年引きこもっていたのを、最近知ったのか。だから今更、とうに忘れていたであろう忘れ物なんて持ち出して、会いに来た。
「あのね、本当は……あなたが無理していたの、何となく気付いてたの……」
「……!」
「無理させてると思った時点で止めれば良かったのに……わたしをこんなにも好いていてくれているんだって、嬉しくて……ごめんなさい」
「……」
僕の好意はきちんと、伝わっていたのだ。それだけでも、無理をした甲斐はあった。そう思えるくらいには、やはり意地などではなく、彼女が好きだったのだ。
僕は返事をしない。それでも、彼女は健気に言葉を続けた。謝罪と、後悔と、片付けの間に清算した懐かしい思い出。
付き合っていた頃には自らを取り繕うのに必死で気付けなかった彼女の本心を、こんな形で知ることになるとは思わなかった。
「今日もね、本当は……忘れ物なんてどうでもよくて。あなたに、会いに来たの。ねえ、此処を開けて……もう一度ちゃんと、話がしたいの」
本当は、今すぐ出て行って謝りたい。情けなくてみすぼらしいありのままの姿を晒して、かつて仮初の姿で隣に並ぼうとした許しを乞いたい。
けれど、それは叶わなかった。
だって、僕はあのごみの山の下で、見付けてしまったのだ。彼女の忘れ物である、赤く愛らしい小さなビニール製のポーチ。
そして、そのポーチに手を伸ばした格好でごみの下に埋もれた、『僕の死体』を。
片付けは紛れもなく走馬灯で、過去の清算だったのだ。僕は死んだことにも気付かずに、変わらない後悔の闇の中でずっと暮らしていた。
ポスト付近に溜まっていた不在票の日付けからして、先月頭頃だ。彼女からのメッセージを見て、生きていた頃の僕はすぐに同じように片付けて、ポーチを見付けようとしたのだろう。
そして、きっと生きた身では片付けるのに埃っぽくてかなわずに、まずは窓を開けようとして、崩れた物の下敷きになった。
当たりどころが悪かったのかもしれない。もしくは、埋もれて這い上がれなかったのかもしれない。
それでもその中で、探し物を見付けて引き寄せようとした。きっと、これを返せなかったのが僕の最期の後悔だったのだ。
「……いきなり押し掛けて、ごめんね」
いつまでも返事の無い僕に、彼女はややあって、諦めたようにドアから離れる。
これが本当に最後だ。僕は僅かにドアを開けて、その隙間からポーチを床に落とす。部屋の外には出られる気がしなかった。
その音に気付いて足を止めた彼女が、振り返る。彼女の方からは、開いたドアに遮られて僕の姿は見えないはずだ。
僕の声は届くのだろうか。姿は視認出来るのだろうか。わからなかったが、僕はそのまますっかり衰退した声帯を震わせる。
「……千里」
「!」
「僕はもう、君に会えないんだ。……でも、ほら。忘れ物。返すよ……少し汚しちゃって、ごめん」
会いに来てくれて嬉しかった。やはり彼女が好きだと再認識出来た。だからこそ、顔も見せず手渡しすらしない。もしこれが彼女を傷付けたとしても、それでいいのだ。
このままもう二度と会いたくないと思わせられれば、ごみ屋敷にある死体なんて、見せずに済む。
「そっか……うん、ごめんね。さようなら」
「……さようなら」
やけに重たく閉まったドアの音が響き、彼女の駆け出す足音を遠くに聞きながら、部屋の中は静寂に満たされる。
すっかり片付いたごみ屋敷の中で、彼女でない誰かによって僕の遺体が見付かるのは、もうしばらく先になるだろう。