翌朝、起きて早速問題発生。何を食べていいのかわからない。昨日スーパーで夕飯の惣菜を買ってきたまではよかった。だけど朝ごはんのことまで考えていなかった。さらには弁当に何を詰めいいのかも分からなかった。どちらも毎日目にして、食べているものなのに。とりあえず家にあるもので簡単に朝食と弁当を作った。朝ごはんはラップでくるんだサケフレークおにぎりだ。そして環奈の弁当は、そのサケフレークおにぎりとミニトマトだ。とりあえず解決した。
長女で小2の花恋を送り出したのも束の間、環奈と俺の出発時間になる。それなのに環奈はまだパジャマだった。俺は無理やり着替えさせて、おにぎりを手に握らせて車に乗せた。
会社に到着してようやく一息付けた。ただゆっくりもしてられない。仕事が溜まっている。昨日は結局会社には戻らなかった。上司に事情を話したら、今日はもうそのまま帰っていいと言われた。こういう時、理解のある上司はありがたい。
メールを確認してタスクを書き出すと、もうディスプレイ周りが付箋だらけになった。げんなりしながら、とりあえずコーヒーでも飲んで一息入れてから始めるかと立ち上がって財布を取り出した時だった。ポケットの中でスマホが騒ぎ出す。スマホ画面には、見覚えのある番号が映し出されている。嫌な予感に顔をしかめてから「…はい」と出た。
「お忙しいところすみません。環奈ちゃんの担任です」
聞き覚えのある声に少々辟易した。「お世話になっております」という社交辞令さえ挟む隙を与えず、先生は要件を話し始めた。
「インフルエンザによる欠席のお子さんがクラスの半数以上になりましたので、本日より学級閉鎖となります。今すぐお迎えをお願いします」
「…はい?」
家までの道中、今後のことを考えた。学級閉鎖は今日から3日間。この間、病床の美希と環奈を家に残して仕事に行くのはどうも気が引けた。現状、美希は到底動けそうにない。昨夜から高熱が続き、咳は止まらず、ずっと苦しそうに布団にくるまっている。昨日から口にしているものはスポーツドリンクとゼリーぐらいだ。そんな美希に、たとえ子供一人とはいえ一日中面倒を見るのは不可能だろう。一番の問題は食事だ。朝はいいとして、昼と夜。いちいち家に帰るのも面倒だ。残業で帰りも遅くなるだろうし、どうしたものか。
何の解決策も見つけられないまま家に着いた。とりあえず今は環奈の昼食だ。まあ朝作った幼稚園弁当があるからそれを食べさせればいい。よしっと気合を入れて玄関を開けた。「ただいまー」と環奈はどこか嬉しそうに家の中に入って行った。俺も靴を脱いで上がろうとして、ふと妙だと思った。玄関に並ぶ靴の数が、明らかに不自然だ。俺はスキップ気味にリビングに入っていく環奈を押しのけるように部屋に入った。そこで、「おかえりー」と、気のないの声に迎えられた。そこには、なぜか立ったままテレビゲームと対峙する花恋がいた。
「…花恋?学校は?」
「えっと、なんだっけ…あれ…」
花恋はレースカーと一体化したように体をくねくねさせながらまごまご答える。だけど最後の直線コースにさしかかると、「あっ、そうだそうだ」とぱっと顔を明るくして言った。
「今日から学級閉鎖」
こんな時、在宅勤務を認めている会社というのはありがたい。事情を話すと、上司にも在宅勤務を勧められた。
「君一人会社にいなくても、何とでもなるから」
その言葉に滲んだ複雑な心情を気のせいにして、甘んじて今日から在宅勤務を始めた。昨日いっぱいかかって環境を整えたダイニングテーブルの一角で、俺は早速仕事を始めた。そのそばで、花恋と環奈がテレビを見ながらまだもぐもぐと朝食を食べていた。その後も二人はテレビを見たりゲームをしたりして、おとなしく過ごしていた。その間に、俺は黙々とたまった仕事を片付けていった。驚くべきは、会社よりもよっぽど環境は劣悪なのに、思いのほか集中してできていることだ。テレビはつけっぱなしだし、周りを小さな足音がパタパタと行き交うけど、その生活音が逆に心地いい。会社だと無駄に話しかけられたり、予定外の仕事が入ったりして進まないというのもあったし、何より緊張感やどこか居心地の悪さをいつも感じていた。このまま順調に仕事を進めたい。
慌ただしく昼食を準備している間に、会議の時間になった。二人が昼食をとる隣で、俺は支給されたマイク付きヘッドホンを頭に乗せた。「パパかっこいい」と環奈は目を輝かせた。5歳児の些細な発言に、情けなく顔がにやける。
会社の方と滞りなく連絡がつながって、会議は順調に進んでいた。俺の発言順になって「はい、それでは…」と話し出そうとした時だった。けたたましい楽器音が、ヘッドホンごしでも大音量で耳に届いた。俺はその音に一瞬で血の気が引いて体が固まった。マイクがオンになっていたので、もちろん画面の向こうの人たちにもその音は聞こえていたのだろう。みんなこちらに唖然とした視線を向けている。少し間をおいてから「すみません、少々お待ちください」と言って席を外した。リビングの方を見ると、花恋が鍵盤ーモニカのホースの口に当てる部分を5分の4ほど口にくわえて、頬を膨らませて顔を真っ赤にして吹いている。俺は躊躇なく声をかけた。
「ちょいちょい、花恋。なに?急に何なの?」
驚いた俺に、花恋は驚いた顔で返してきた。
「やだ、パパ、来ないでよ。授業中なんだから」
「授業中?」
俺は花恋の目の前に立てかけられたタブレットに目がいった。そこには大画面に先生らしき女性と、その下の方に何人かの子どもがワイプでずらりと映し出されている。
「学級閉鎖中はオンライン授業なんだよ」
「そ、そうなのか」
オンライン授業ということであれば俺も何も言えなかった。
「早くあっち行ってよ。みんなに見られたら恥ずかしいでしょ」
「あ、うん。でも、パパも今オンライン会議中だからもう少し音小さくしてくんない?」
「鍵盤ハーモニカだから、音量の調節なんて無理だよ」
「目いっぱい吹くから大音量になるんだろ。もっとそっと吹いてみ。顔が真っ赤になるまで頑張って吹かなくていい」
「頑張って吹かなくていいって、それってサボってるみたいじゃん」
「花恋は十分真面目だよ。ほら、そっと吹いてみ」
花恋は今度はそっと息を吹き込んだ。すると、柔らかな音が出た。
「あ、ほんとだ。ありがと、パパ」
その満たされたような笑顔に、俺の肩の力が抜けていった。そのおかげか、いつもは緊張気味に臨んでいた会議にも心なしかリラックスして参加できた。
「いやあ、大変だねえ」
会社との接続を切ろうとした時、画面越しに上司が俺に声をかけた。
「全然仕事にならんだろ、家で子どもの面倒見ながらなんて。しかも奥さんの看病まで」
無意識に首を縦に振りかけたが、ピクリと止めた。一瞬胸の内で、上司の言葉にどこかモヤッとするものを感じずにはいられなかったからだ。
「まあせいぜい君もうつされないように気を付けるんだな」
労いの言葉だと思いたかった。上司からの激励の言葉と捉えたかった。だけどその言葉には、妙な違和感しかなかった。
今日は午前からリモート会議の続きだった。いよいよ溜まってきた洗濯物を干しながら、俺は仕事の準備にとりかかっていた。二人は基本おとなしく遊んでいたけれど、環奈の方はすぐに俺のところにやってきて遊んで欲しがった。「あとで」と言えば言うほどかまってほしがった。仕方なく少し本を読んだり、人形ごっこに付き合ったり、ままごとで作ったものを食べるふりをする。それで少しは気が済むらしい。だけどその時間は、確実に俺の仕事時間を削っていった。
_「仕事にならんでしょ、子どもを見ながらなんて」
昨日の上司の言葉が、あざ笑うような上司の表情と共に浮かんだ。俺はその言葉をかき消すようにキーボードをたたいた。
会議は時間通りに始まった。今二人はテレビに夢中だ。このままなら大丈夫だ。だけどそれもほんの束の間だった。しばらくすると環奈が机の周りをうろうろし始めた。そして「あれがない」「これがない」「お茶が欲しい」などと言い始めた。だけど俺はそれを完全に無視した。聞こえないふりをした。昨日のように一度対応すると、何度でもやって来る。気迫で寄せ付けないようにした。すると環奈はあきらめてどこかへ行ってしまった。ほっとするのと同時に、小さな罪悪感が生まれた。
しばらくは静かだった。俺も会議に集中できた。だけど事件は、勃発する。
「ぱぁぱぁ、花恋ちゃんがおもちゃ貸してあげないって言ったあ」
大きな泣き声と共に、環奈が俺の腿に泣きついてきた。画面の向こう側にも声は聞こえているのだろう。同僚たちが「おや?」という表情を作るのがわかった。それでも俺は何事もないような顔を画面に向け続けた。そこに「違うでしょ、環奈が悪いんじゃん」と花恋がやって来る。そして俺のそばで言いあいを始める。それでも俺はヘッドホンで覆われた耳に全集中を傾けて、関わらないようにした。だけど、
「痛っ」
その声に、思わず顔をそちらに向けると同時に、無意識に「花恋っ」と怒鳴った。「うわあーん」と環奈の泣き声がじわじわと家中に響き渡っていく。その横で「環奈が先に手出したんだもん」と花恋が不貞腐れた顔で訴える。「違うもーん」と環奈が泣きながら応戦する。そんな堂々巡りがしばらく続いて、とうとう俺は、ヘッドホンを机にたたきつけた。
「うるさいっ。静かにしろ。今仕事中なんだぞ。わかるだろ」
一瞬ぴたりと泣き声が止んだ。だけど、まるで津波のようにどどどどっと二人分の泣き声が、俺の耳や頭に押し寄せてきた。思わず頭を抱えてぐっと目を閉じた。
_もうダメだ。手が付けられない。
その時だった。二人の泣き声が急に小さくなった。そっと目を開けると、そこには二人を抱き寄せる、パジャマ姿の美希がいた。その光景に、胸にすうっと心地よい風が流れていく感じがした。美希は環奈を抱っこし、花恋の手をつないで寝室に入っていった。ぱたんと扉が閉まる音を聞いたと同時に、「はああああ…」と大きなため息とともに、椅子に倒れ掛かった。
俺がこちらで一悶着やっている間にも、会議は何事もなかったかのように進んでいた。俺が戻ったことに触れる人はいなかった。まるで、俺の存在なんてはじめからなかったように。ヘッドホンに耳を傾けても、会議の内容はほとんどわからなかった。誰かに聞ける雰囲気でもない。まるで画面からはじき出されたようだった。いっそのこと会社との接続を断ち切ってしまいたかった。もちろんそんなことする勇気はない。そんなことしてしまったら、もうこの画面の向こうに戻れないことはわかっていた。だから俺はこの時間を、ただ無意味に、徒に過ごした。