インフルエンザになりました

_夕飯…。
ぼんやりとした頭に一番に浮かんだのはそれだった。重いため息が出た。ずっと座っていたからか腰が痛い。腰をさすりながらゆっくりと立ち上がった。外も真っ暗なら、リビングも真っ暗だった。唯一光が漏れ出しているのは、寝室だった。その優しくて暖かい光に誘われるように、俺は寝室のドアにそっと手をかけた。少しだけ明るさを絞ったオレンジ色の光が、部屋の中をぽわんと照らしていた。部屋の隅で、美希が背中を少し丸めて揺れていた。その腕の中には生まれたての赤ちゃんのように横抱っこされている環奈がいた。美希がその背中をとんとんと優しくたたいている。太もものあたりには、ぴったりと寄り添うようにして花恋が眠っていた。俺がいることに気づくと、美希は顔を上げた。マスクをしていても、優しく微笑んでいるのがわかった。
「お疲れ様」
「起きてていいの?」
「うん、今日は調子いいから」
俺から目をそらしてそう言う美希に、「ウソ。まだ熱あるんじゃ…」と手を伸ばした。だけど美希は、おでこにそっと置こうとした俺の手を、笑顔で誤魔化すようによけた。そしてそばに散らばった何枚もの紙を拾い上げて、それを愛おしげに見てから、俺の方に手渡した。
_はやくげんきになってね ママだいすき
その言葉の真ん中には、笑顔の美希がいた。
「寂しい思いをさせてる分、甘えさせてあげたくて」
まだ熱を感じさせる潤んだ瞳が、優しく二人の娘に注がれた。
「そろそろ元気にならなきゃ」
そう言ってにっと笑ったものの、その笑顔はまだまだ弱々しかった。だけど妙にほっとさせられた。美希とこうしている時間は、穏やかで優しくて、どこか懐かしい感じがした。俺は思わず美希の肩に自分の頭を預けた。美希は何も言わなかった。だから、俺もしばらくそうしていた。
二人に怒鳴ってしまったっことを謝れないまま、次の日を迎えてしまった。俺も大人げなかったと反省している。気持ちを切り替えて二人を起こしに行った。今日から学校や幼稚園が再開するというのに、二人とも起きてこなかった。
いつも通り「花恋、環奈、起きるぞ」と声をかけた。しかし返事がなく動く気配もない。「おーい、起きろー」といつもよりひょうきんな感じで布団をめくった。現れた二人の姿を見て、体中にさっと寒気が走った。布団の中で二人は、顔を真っ赤にして苦しそうにしていた。おでこに手を添える前に、ものすごい熱が手のひらを伝ってきた。ぐったりと横たわる二人を前に、俺は声を失った。
_もしかして、インフル…
体が震えた。目の前に、この世のすべての恐怖を突き付けられた気分だった。
_どうしよう、どうしたらいい…
混乱する俺は咄嗟に「美希っ」と呼びそうになって、口をつぐんだ。
こんな時まで美希にすがろうなんて、俺はどんだけ頼りない夫なんだ。今動けるのは、俺しかいないのに。
昨日の美希の背中が目に浮かんだ。自分だってしんどいのに弱音を吐くどころか、子供をなだめて落ち着かせて、なんて立派な母親なんだろう。それなのに俺は、怒鳴ることしかできなかった。甘やかしてやれなかった。同じタイミングで親になったはずなのに、どうして俺と美希はこんなに違うんだろう。俺だって二人の父親なのに。勝手に涙が出てきた。
_だから、泣いてる場合じゃないんだって。
どうしようもない自分に呆れて、自分の太ももを思い切り殴った。その時、
「大丈夫だよ」
力強い声に、思わず顔を上げた。呆然とする俺に、美希はテキパキと指示を出し始めた。
「体温を測って、なるべく水分をとらせて。私は病院の予約とるから」
俺は美希に言われるがまま動いた。しばらくすると美希が戻ってきた。
「もう今日の分の診察受付は終わっちゃったって」
「え?なんで?まだ診察時間外だろ?」
「予約がいっぱいで受診可能人数が超えたんだよ。今はただでさえインフルエンザが流行っていて、病院はどこもいっぱいだから」
「そんな…じゃあ俺も他の病院調べてみるよ」
そう言ってスマホで検索しようとすると美希がそれを止めた。
「他の病院も同じだよ」
「そんなのやってみないとわからないだろ」
「落ち着いてよ」
「落ち着いていられるかよ。あんなに苦しそうにしてるじゃん。このままじゃ…」
「病院に行ったところですぐに治してもらえるわけじゃないんだよ」
頬を叩かれたようにぴしゃりとそう言われて、俺ははっとなった。美希は俺と視線を合わせて、俺を落ち着かせるように、ゆっくり言った。
「今は、今できることをして待つしかないの。明日になればちゃんと診てもらえるから。そしたら薬ももらえて、少しは楽になるから。今は水分をとることが一番」
その言葉はすべて俺の腹の中にすとんと落ちていく。俺はゆっくりうなずいて、苦しそうにしている二人を美希とじっと見つめた。
「大丈夫だよ。一緒に戦おう」
その言葉に、俺も力強くうなずいた。
水分をとらせる以外は家にあった解熱剤を飲ませるだけで、できることはもう他になかった。「ここは大丈夫だから」と美希は暗に俺の仕事のことを慮った。こんな時だというのに、俺にできることはあと仕事ぐらいなのだろうか。とりあえずパソコンの電源を入れた。いつも通りメールの確認をすると、「〇〇の確認」「〇〇のお願い」といった題名がずらりと連なっている。マウスでスクロールしながら、そんなに俺に「お願い」や「確認」をしてほしいのか、と鼻で笑った。気取った言葉を並べて隠しているけど、要はすべて、雑務処理だった。
俺はあきらめたようにメールを一通ずつ開封して、中身を確認すると同時に処理を始めた。
_こんな仕事、俺じゃなくてもできるのに。
キーボードをたたく指先に、悔しさや情けなさが滲む。
こんな誰でもできるような仕事をしている時間があったら、まだ体調が万全じゃない美希の代わりに、娘たちの看病をしてやりたい。美希をゆっくり寝かせてあげたい。ちゃんとしたご飯を作って食べさせたい。少しでもみんなの症状を楽にしてあげたい。
これらはすべて、今の俺にしかできないことなのに。他の誰にもできない、俺にしかできない仕事なのに。
_「今は、今できることをして待つしかないの」
美希の言葉が不意に浮かんだ。俺は目に浮かんでは零れ落ちようとする涙と必死に戦いながら、今自分にできることをしようと思った。たとえそれが、俺じゃない誰にでもできる仕事であっても。そうすることで、みんなが健康な日常を取り戻せると、信じて。
翌日、まだ思うように動けない美希に代わって、俺が二人を病院に連れて行った。やはりインフルエンザだった。帰ってすぐにゼリーを一口だけ食べさせて、早速薬を飲ませた。その後二人はすぐに眠ってしまった。美希はほっとしたのか、無理して動いたのが祟ったか、その後再び微熱と激しい咳に襲われた。今日が休みでよかった。ご飯もちゃんと準備できるし、汗でぐっしょりになったパジャマや下着も洗濯できた。その合間に仕事も進めた。俺は今、自分ができることを精一杯やりたかった。それが俺の戦い方だと思った。インフルエンザなんかに、負けたくなかった。
子どもの回復力とはすごいもので、日曜日には熱が下がった。多少の風邪症状は残るものの、食欲も取り戻した。美希の体調も安定している。三人で並んでテレビを見ている姿は以前からよく見る光景なのに、何とも微笑ましかった。我が家に、日常が戻りつつあった。
「仕事、大丈夫?」
夕方、俺が翌日の出社準備をしていると美希が尋ねてきた。
「ごめんね。私がインフルエンザになんかなったから」
「美希だって、かかりたくてかかったわけじゃないんだから。それよりまだ病み上がりなんだし気をつけろよ」
「ま、何とか乗り越えたね」
美希は俺の心配を跳ねのけるように「うーん」と伸びをした。
「パパのおかげだね」
「俺は別に何も…」
「カッコよかったよ、ヒーローみたいで」
「大袈裟だよ」
「大袈裟じゃないよ。我が家の危機を救ったんだから」
にっと笑った美希の笑顔は、金メダルみたいにまぶしかった。その笑顔に、俺はずっと聞きたかったことを尋ねた。
「なあ、みんなが元気になったら、何がしたい?」
「うーん、そうだな…」
美希がつらつらと語り始めたのは、他愛もない日常生活だった。そんなことでいいのかと、呆れるほどに。楽しそうに、嬉しそうに語る美希を見て俺は思った。
_この笑顔を守りたい、これからも。
それは、他の誰にもできない、任せられない、俺にしかできない仕事だ。
休みが明けた月曜日。どうも調子がおかしいと思ったのは、昨日の夜中だった。まさかと思って午前休をとって病院に行った。
「え?君もインフルエンザになったの?」
スマホの受話器から聞こえる上司の素っ頓狂な声が、ただでさえ頭痛で締め付けられる頭にガツンと響いた。
「君も災難だねえ。しかし困ったな。そろそろ出社してもらわないと。君が抱えている仕事が進まないことにはこちらの仕事が進まないと、各方面からクレームが出始めている」
「在宅勤務中に受け持ったタスクはすべてやり切ってありますけど」
昨日の日曜日だって、実は何となく体に悪寒を感じながらも、それは気のせいだと体に鞭を入れてやり切った。それなのに、
「君は考えが甘いよ。君が仕事をしている間に他の人は君の二倍も三倍も働いているんだよ。まあ家族に足を引っ張られて在宅では存分な成果が発揮できなかったのかもしれないが」
その言葉に、むっとならないわけがない。
「家族は関係ありません」
「なんだ、言い返す元気があるんじゃないか。だったら出社したらどうだ。ただのインフルエンザだろ?風邪と大して変わらないじゃないか。そんなんで休まれたら、会社だっていい迷惑だよ」
「インフルエンザと風邪は全然違いますよ。他の人にうつりでもしたら…」
「インフルエンザにうつるヤツなんて弱い人間だ」
この電話は、いつまで続くのだろう。頭がぼうっとしてきた。目がかすむ。この男とこんなやりとりをしているのが空しい。この不毛な会話こそ時間の無駄だ。早く寝たい。病院に行きたい。
俺が割れそうな頭を抱えてそんなことを考えている間も、上司はダラダラと話し続ける。もう、限界だ。
「あの、もういいです」
「は?」
受話口から、上司のしたり顔が伝わるようだった。
「何がもういいんだね?」
「もう休みは結構です。休みはもういいので…」
その続きの言葉を、俺は意識が朦朧とする中で、覚束ない口調で、だけどはっきり告げた。そこで、意識がなくなった。
インフルエンザになりました。俺は、仕事を辞めました。

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